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本読みの憂鬱

 集中講義が始まった。今年は40名弱の受講生と一緒に「カリキュラム論」をつくっていくことになる。

 学習指導要領も新しくなって来年度から本格実施が始まるし,指導要録に関しても評価観点が再整理されたので,そうした話も踏まえて,教育をわ〜っと考える4日間である。

 そのための文献資料を読むついでに,あれこれ気になる本に現実逃避のために手を出しているが,なぜか日頃じっくり読む余裕をつくっていないことを深く反省する気持ちが湧いてくる。本を読まないと思考の筋力が衰える。そのことが分かるからだろう。

 でも,「研究者は本じゃなくて,論文を読まないとダメ。本は古い沈殿物が固まったものでしかないし,所詮随筆でしかない」とかなんとか言う声を聞いたことがある。

 それを聞いたときの私は,コテコテの人文系で本ばっかり読んでいた頃だったので驚いたものだったが,なるほど理系はそんな世界かと納得したりもした。

 いまは,どっちも読めればいいなと思う。

 けれど,人文系の本を読み漁るという行為には,混沌を練り歩くようなところがあり,それが思考の筋力を鍛えるように思われる。それはとても大事な作業じゃないかと改めて考えている。そうした鍛練みたいなものがないと,読めるものしか読まないという悪い癖がつく。

 理系の人たちが理路整然と形式に沿った論文を好むのは,書かれた内容を余計な負荷なく読み取ることを可能にし,学術成果の連鎖を繋いでいくのに必要だからである。それも大事なのだけれど,そんなのに慣れすぎると,読む方は何も苦労を強いられないから,読めるものしか読めなくなる懸念が大きい。

 いざ論文ではない本や文章を読む際に,字面から読み取れる情報だけで解釈を試みようとして,本人としては精緻にやっているつもりでも,えらく外してしまっている事例も見受けられる。申し訳ないが,少し滑稽に見えたりする。

 「書かれたものが全て。だから,書かれた文面でのみ理解をするべき」

 というような考えもあるとは思う。けれど,本読みはそういう合理的な読みだけでテキストを解釈しない。

 本読みは,テキストと対面する際に,その向こう側の書き手の思考を覗こうとする。作者の在不在を論じるような文学理論は,私にはよくわからないのでさて置くとして,簡単に言えば,行間から透けて見える書き手の思考の筋道を追いかけようとする,そういう素朴な読書心理のことである。

 ところが,行間が何だかわからない人がいる。

 書き手の心理を追いかけるような思索の負荷を愉しまない人もいる。

 書き手が言外に言いたいことを受け取らない読み手がいる。

 困ったことに,影響力のある人たちに,その傾向が目立つようになっている。

 読めるものしか読まないし,書き手の思考もお構いなしだ。

 なんてことだろうと思う。

 要するに,そういう人たちは,私と同じく本を「じっくり読む余裕」を確保できていないのだろうと思う。だから,思考の筋力がどこか凝り固まっているかも知れない。

 人には,脳が重要だと思っていない情報に関してフィルタリングしてしまい一種の盲点を作り出す「スコトーマの原理」というものが働いているという。

 私自身にも同様に何かしらの盲点が存在し,あるいは重大な見落としをしているのかも知れない。だから他者とのコミュニケーションが噛み合っていないのは,そうしたスコトーマの原理の働き方が他者と異なっていたりするせいかもしれない。

 仕方のない部分も残るとは思うが,私自身はそうした盲点を少しでも小さくできるよう努力はしたいし,そのためには,もっと本を読むことが大事かなと思う。

里帰り&集中講義

 夏になると担当している集中講義がやって来る。いつもは8月初めに予定が組まれるのだが,今年は8月末から9月にまたがる4日間だ。どこの大学も予定組みがどんどん困難になっているようだ。

 集中講義先は,実家近くなので,この機会は里帰りも伴う。

 こうして今でも実家の家族と過ごす時間を持てるのは幸せなことではある。買い物の手伝いや実家の草むしりなどして数日を過ごし,さて,そろそろ集中講義の態勢に切り替えなくてはならない。

 普通に実家生活を送ると,一応ネット接続はしているが,普段のようなネットコミュニケーションの連鎖と距離が生まれるので,メールもブログもTwitterも放ったらかしである。こうしてようやくブログなんかは書いてみたりする。

 先日は「教育の情報化ビジョン(骨子)」が出たり,ハーバードのサンデル教授が来日してあちこち講演を開いていたり,「光の道」構想の書名をソフトバンクが集め始めたり,民主党代表選が近かったりと賑やかではあるが,どれもピンとこない状態で,モヤッと感は否めない。

 どうしてピンとこないのか,集中講義をやりながら自分に問うてみたいと思う。

めぐり合わせ

 試験期間と採点作業も終わり、大学は夏季休暇モードに入った。細々とした校務や技術ノウハウ蓄積のためのプログラム解析作業をしながら過ごす日々が続いている。

 徳島は12日から阿波踊りが始まり、夕方になると街のあちこちに設営された会場で同時多発的に演舞が繰り広げられる。特に徳島駅前から阿波踊り会館を結ぶ道路は、交差する川沿いも含めて人でごった返す。この期間ばかりは、日頃閑散としている通りも、渋谷並の交通量である。

 そんな阿波踊りの賑わいを目前にしていた頃、一通のメール。予期せぬ依頼事に目をぱちくりしていた。

 ご縁があるなら、お役に立てるよう身を捧げるだけ。出来る事は限られているが、私なりに関わっていこうと思う。

 それにしても、めぐり合わせの妙を感じないわけにはいかない。人生の旅は、どこまでも興味深いものである。感謝。

「生活」とは何なのか

 先日,賞与をいただいた。

 その名前に値することをしているのかどうかは,いまいちピンとはこないが,毎日職場に通う継続性に対して与えられているのだと素直に納得しておきたい。

 もっとも,iPadやら何やらの先行投資が多すぎて,大半はその支払いに消えていく。そして,学会費やら家賃やら税金やら借金やらを払うと,ほぼ消滅する。

 それでもわずかに余裕が出来るから,久し振りに夏用スラックスを買ったり,生活雑貨を買い込んだりした。相変わらず本や雑誌も買った。

 けれども最近,本をじっくり読む余裕が失われた。

 調べものの文献資料を「漁る」ことや「掘る」ことはする。ネット検索も組み合わせて,情報を集めては記録していく。ネタ帳に書き込まれて使われる機会を待つものや,授業のレジュメ資料として紹介されていくものもある。

 けれども,じっくり対峙することが確実に少なくなっている。

 特定の理由があるわけではない。強いてあげれば,自己管理能力の無さに他ならない。とはいえ,新しい環境への適応作業がまだ続いているという事実も否定できない。

 新しい職場の2年目。初年に比べれば授業は楽なはずと思いきや,細かな変数が変わってしまって,調整の必要な授業が多かった。教職科目と情報科目を5種類も同時並行するのは,私みたいな人間には骨の折れる仕事である。

 その上,自分の関心テーマを追いかけようというのだから,時間的にはかなりきつくなる。「生活」部分はかなり放ったらかしである。

 そして,あらためて「生活」とは何なのか疑問が立ち上る。

 選挙の投票日が間近に迫り,すでに期日前投票も始まって,選挙戦は白熱している。「国民の皆さんの生活のために」と叫ばれるときの「生活」とは何なのかと思うことも多い。

 円やドルが強い時代は終わり,元が強くなりつつある新しい世界が始まっている。いわゆるグローバル社会に突入した今,日本で生活するということにどんな変化を強いられるのか私たちはまだ自覚的(事態の理解を踏まえて対処しようとする)ではない。

 医療も教育も優先できない生活とは何なのかと思う。家賃と食費と光熱費を払えれば御の字,むしろ税金を支払うために,そうした生活費に回すことさえ出来ない人たちもいる。税金すら払えない人もいる。

 同じ「生活」という言葉でも,まったく異なる世界が広がっている。

 以前の私は,働き口もないまま本当の意味で底辺に落ちる可能性があった。どちらかといえば,そちらの可能性の方が大きかった。

 だというのに,今こうして職に就いてお給料をいただける状況に置いてもらっている。そのことをやはり感謝せずにはいられない。

 ただ,また慌ただしい日々を過ごす中で,なかなか形にできない様々なアイデアや意気込みが宙ぶらりんになっていることを,苦々しくも思う。

 恩返しは,賞与がいくらあっても足りないものである。

頼まれ出演

 土曜日にコミュニティFMに出演することになった。頼まれたというか,誘われたので,こちらも二つ返事で参加表明した。

 徳島にあるFM眉山(B-FM)が14周年記念の34時間生放送をするのだという(→番組表)。その中の土曜日10:00から1時間の「ハイテクAWA」という枠に出演する。

 同じ職場の先生と共演。別に何をしゃべってもよいみたいだけど,番組名からすればメディア系の話をして欲しいような淡い空気が漂ってくるので,メディアとかITとかのことを話すことになりそう。共演の先生は「地域メディア」についてお話するらしい。

 まあ,iPadとかiPhoneがらみのことをお話することになりそうだ。その流れでソーシャルメディアについて触れて,共演の先生にお渡しすればよいかなと思う。

 ハイテク…といいながら諸事情でTwitterもUSTREAMも実使用は遠慮してくれということなので,話だけで終わりそうだが,私は気にせず勝手につぶやくからいいや。

頼まれ原稿

 しばらく精神的には缶詰めになって原稿を書いていた。いくつか書いた文章を読んで依頼をしてくれた様子。何事もご縁だし,素性の分かりやすい相手だったので気楽に引き受けた。

 依頼内容は昨今の教育の情報化に関して書いて欲しいというもの。ちょうど関心もあったし,ここらで一度見返しておきたい事柄でもあったので,あれこれ情報のウラを取り直していたというわけなのである。

 字数制限もあるので,大した内容は盛り込めないから,調べた範囲は日本の教育の情報化と,韓国のデジタル教科書,そして英国のインタラクティブホワイトボードの周辺に限定した。

 そうやって,筋だけでも裏付けできる資料を特定しながら,大まかな流れがわかるように原稿を書いたのだが,ものの見事にボツ。

 「専門家向きではなく初心者にも分かるようにお願いします…」

 むむむ,初心者にも分かるように書いたつもりだが,これは一体どういうことか。いままでもたびたび自分の文章が堅いと思われていることは承知しているが,またなのか…。

 いろいろ考えて,駄文を書けばよいことに気がついた。要するに相手は物語を欲しているのである。正しい知識は余計なお世話なのだ。

 まあ,そうなると私にとっては仕事ではない。原稿料は後ほど断ることにして,いつもの駄文を寄附するつもりで書き直した。

 そうしたら,すんなりOK。

 ただ,あんまりプライド無く書いたものだから,最後の部分「教育研究者としての先生の忌憚の無いご主張を」と注文をもらった。ひとくさり懸念を書いて再提出したところである。

 読者層の限られたインナーコミュニティ向けメディアに載る記事なので,その人たちに伝わる形にしなければならないのは仕方ない。主義主張を曲げろと言われれば依頼を断るところだけれど,もし問題に関心を持ってくれる人が増えてくれるなら,小さな貢献仕事としては引き受けてよかったと思う。

水無月五日

 毎年,学習ソフトウェアコンクールというものが行なわれている。

 ソフトウェアと名がついているが,応募対象作品はWebサイトや素材集,DVDといったコンテンツものであってもよいので,いろんな取組みの成果が送られてくる。

 御縁あって審査員の末席に名を連ねており,今年も様々な応募作品を見る機会を得た。今年ももちろん審査の中身に関わることを書くことは出来ないが,ここ数年は電子黒板などのICT環境の変化やFlash技術にまつわる論争などもあり,そんなこととの関係を思い浮かべながら作品を見ていた。

 AndroidやiPhone,iPad対応のWebサイトやアプリの応募がこないかなと期待している。個人的には審査の準備万端なのだが,アプリとなるとApp Storeとの絡みもあって応募のハードルが高いのかも知れない。ソースコード送ってくれれば,コンパイルして審査するんだけど…ははは。

 これからはWebサービスを活用した作品もあり得るだろう。GoogleのAPIを使ったりApp Engineで開発するものも面白い。学習ソフトウェアは,まだまだ現存技術を活かし切ってはいないから,逆にいろいろ夢みたいな試みがあってもよいと思う。

 議論として技術決定論を論難することには意味があるが,技術的チャレンジから生まれるものに楽しさや夢を見ないのも寂しいものだ。大事なことは,技術的チャレンジの道筋の中に技術決定論の問題を学ぶ過程が折り込まれるようにすることであって,その対話に参加することなのだ。

 だから,本当は,個人的には作品応募者と交流するような機会も持ちたいのだが,まだその縁には恵まれていない。また審査の結果などがオープンになったら,ここで思いを綴ることにしよう。

振り回された政治家

 こんな風にすべきだっただろうか。日本の首相がまた変わることになった。

 鳩山総理は積もり積もった政治世界の古い慣行を見直す作業をスタートさせるべく8ヶ月前の暑い夏に選ばれたのではなかったか。それは今でも必要とされることだし,その苦しい作業を担うリーダーとして,鳩山氏は悪くない人だったと思うのである。

 けれど,本人が掲げた理由にもあるように,普天間基地移転に関する言動問題が大きな割合を持って降りかかってきてしまった。そして,鳩山家の資産の扱いに関わって明るみに出た政治と金の問題というスネの傷。従来の政治文法でいけば総理辞任もやむなしかも知れない。

 これらは責任を持って対応しなければならない問題とは思う。

 けれども,こんな風に総理をやめさせるべきだったとは思わない。

 政治家に届くフィードバックの妥当性がまるで検証されなかったことにこの問題の深刻さがあるように思える。

 本来的には選挙によって問われなければならなかったことを,あくまでも指標でしかない世論調査のようなものとマスコミの論調を「国民」の意見がの如く扱ってこの状況を作り出したのは,無意図的だとしても深刻な問題だと思う。

 ネットで情報が届きやすくなったことで,私たちの情報に対するリテラシーの在り方が善い意味でも悪い意味でも露になってきているように思う。残念ながら,それについて私たちの民度が高まっているという状況にはないことを真摯に受け止めなければならない。

 透明なフィルターのように振る舞っていたマスコミ・報道機関の乱暴なフィルタリングの実態が,ネットによる記者会見のノーカット伝達によって明るみになったことは大きな変化ではあった。事業仕分けの現場がストリーミング放送されたこともそのようなフィルタリングの実態をあぶり出すのに一役買った。

 まして,記者会見におけるマスコミ・報道機関記者たちの悪しき伝統芸的な取材・質問手法を見るにつけ,それによって「世論」なるものがつくられている残念な現実に「戦慄」するのは必至である。

 一体,この8ヶ月。マスコミ・報道,あるいはジャーナリズムは,乱立する問題を解決するに役立つ知見を国民に提示してきたのだろうか。期待を踏みにじったとか踏みにじらないとか,五月までと言ったぞ辞めるのかどうなのかといった,感情ベースの伝言ゲームを繰り返してばかりだったのではないか。

 そして一方で,私たち個人はどうだろう。

 多くの人々は今日聞いたこと,昨日聞いたことと,一週間前に聞いたこと,数カ月前に聞いたこと,数年前に聞いたことなどの差分を追いかけられるようになり,それを標本の如く陳列することに,何の躊躇いもない。

 Twitter上でリツイートの連鎖が起こると,元がいつツイートされたかも分からぬまま,長いことメッセージが流れ続けてしまう。情報訂正が必要な場合,人々の関心が高ければ訂正もリツイートされるが,そうでなければ放置されてお終いである。こういった情報環境に慣れてしまうことは,明らかに情報に対する丁寧さを欠く。

 そんなフロー情報に対する安易な態度が新たな問題として浮上していることだ。

 おかげで,世論調査の支持率低下のグラフが右肩下がりであることだけが確認されたら,それでハイお終い。踏みとどまって,データを子細に検討する態度何ぞはまるで育まれてはいない。

 そして,たぶん一国の首相が変わっても,誰もあんまり深刻じゃないってことが起こっている。

 鳩山総理は,欠点も多い人だけれど,支えていくに値する人だったとも思う。辞意表明演説を見ると,その印象はますます強くなる。

 何十年と積みあがってきた悪しき伝統のもとで何かを正そうとしていたのである。結果が期待外れになる可能性があることは初めから想像できたことだし,政権交代選挙でそれを計算に入れなかった人がいたらお坊ちゃん以上に能天気である。

 次の人たちがお金についてよりクリーンであることが,状況の難しさを打開する決め手になるとも思えない。いい加減に,この調子で政治家を振り回していたら,結局は,私たち自身に跳ね返って損をするだけである。

 もう少し辛抱強く,前に向かって日本の国の歩みを進めていくべきだと思う。ちゃんとした仕事をさせなかったことも,最後まで仕事をさせなかったことも,結局,私たちの責任であると思う。

 

黒ペンと赤ペン

 先日,ニコ生(ネット放送の「ニコニコ生放送」)を見ながら残業をしていた。民主主義2.1というテーマで,東浩紀さんを司会に,鈴木寛文科副大臣も出席して,熟議カケアイが,どのような考えのもとで設けられたのかを解説していた。

 従来まで文科省の官僚が政策を(黒ペンで)作文し,有識者による審議会が(赤ペンで)審議答申するという形であった政策産出プロセスに代えて,国民の有志に黒ペンを一部預ける試みなのだと説明していた。

 熟議カケアイに関わる人間の数はせいぜい数千人。そして書き込まれた無数の意見を整理し政策へとまとめ上げる難しさ。そうした考え得る問題点や不十分さはあるけれども,これまで閉鎖空間で特定の人間によって行なわれていた政策構築を条件付きでオープンにしたことは,その場の出演者全員が評価していた。

 黒ペンを国民の有志に…という表現もあり得るし,赤ペン的な位置づけにあるパプリックコメントに対する黒ペンとしての熟議カケアイという捉え方もできる。また,多くの当事者たちによる政策アイデアのオープンウェアといった考え方もあった。

 いずれにしてもインターネットがベースとなってもたらした民主主義のバージョンアップ(もしくはリビジョンアップ)というのが,その議論のモチーフであった。

 こういうことが議論として可能になったのも,おそらくインターネットがの普及度が高まり,携帯電話によってWebアクセスも可能になり,プログやポッドキャストを経て,ツイッターやストリーミング放送が提供され,利用の敷居が低くなったからだろうと思う。

 実は,こうした何気に浸透してしまったツール達は,事前議論をスルーして日本に持ち込まれて,アーリーアダプタから一般へと運良く広まったもの(あるいは広まりつつあるもの)ばかりである。

 たとえば,もしもツイッターを日本に普及させるべきかを持ち込む前に議論することができたとしよう。果たして私たちは,140文字を制限とした自分のつぶやきメディアに可能性を見出したり,学習や教育に役立つと考えたりして,「導入しよう」と決断をくだしただろうか。

 私は,そういう思考実験をするたび,その結果を,長らく続いている学校教育の情報化議論の滑稽さにつなげて考えてしまうのである。
 

 誤解を恐れずに言えば,事前の議論や審議による教育の情報化政策の形成プロセスが,教育の情報化の道具や機器を生業にしているコミュニティを甘やかす状況の温存に繋がってしまっている。

 たとえばGoogle EarthやYahoo!きっずは,純粋に企業の営為によって生み出され,現場に使いたいと思わせることに成功したサービスである。ニーズに率直に向き合いフィードバックに真摯に応える緊張関係のもとで改良改善されれば,それは事前の議論を必要とはしない。良いものが残り,使えないものは淘汰されるだけである。

 しかし,下手に事前に議論や審議されたものは,いろいろな理屈がヒモづけられる。

 理屈にヒモづけられてしまうと,現場のニーズやフィードバックに素直に向き合えなくなる。

 緊張関係のないところに,道具や機器の進歩や活用技術の向上はあり得ない。

 そうなれば,とりあえず権威的な売り文句をつけたり,売り逃げするような考えが生まれる。

 結果的には,誰も責任を持たない教育の情報化が常態化してしまう。
 

 私は,学校教育と営利企業とのやり取りをもっと自由化すべきと考える。不正が行なわれないような仕掛けを作っておく必要はあるとは思うが,もっと市場のエネルギーを教師のフリーハンド創造に変換できるような回路を設計すべきだと思っている。

 教育市場にかかわる企業人も,教育を担う主要なプレイヤーとして教育コミュニティメンバーのアイデンティティを育むべき時代である。それは国民が政策の黒ペンを持つのと同じで,企業人も教育者としての黒ペンを持ち,同じ教育コミュニティのメンバーとして関わる覚悟を醸成することである。

 だからこそ生まれる緊張感と責任に基づくことで,新しい教育の可能性も開かれるはずだと思うし,すでにそのような取組みをしている人々がいるということを,国民も知らなければならない。出来の悪い業者もたくさん残ってはいるが,新しい教育学習の世界を構築しようとがんばっている業者も生まれている。

 さて,黒ペンを持つその手は,何を生み出すのだろうか。

資料収集開始

 将来的には現場教師が活用できるWebサービスを構築することを前提に,システム周りの構築ノウハウを蓄積することを先行して取り組んできた。いまのところクラウドプログラミングの習得中。これとiPhone/iPadとを組み合わせれば,なかなか面白いことが可能ではないかと考えている。

 学校教育の情報化に関する懇談会やデジタル教科書教材協議会など,それなりの発言パワーを持っている人々による正統な取組みが展開しているし,ネットを活用した公の声を拾う試みもようやく活用され始めているが,どうも私には縁もなければ反りも合わないようなので,むしろ面白い具体例をもって問いかけることしかないと思う。

 Google方式のようにベータ版でも面白いものを出していきながら研究し育てていくのも,片方の手に持つべきアプローチとしてしっかり援用していかなくてはならない。

 そうしたシステム開発に正当性を与えるための根拠を固める研究が必要であり,その研究をどう焦点化すべきなのか考え続けてきたが,ようやく自分で納得できる筋書きも見えてきたので,資料や文献を集めることを始めた。

 納得のいく調査課題を目標に据えるのは,簡単なことではない。まして,特別な仲間と組んでいない人間にとっては,他人が承認しない分だけ,明確さに欠ける自己承認の基準に照らさなくてはならない難しさがある。少なくとも私の場合,他者への論評を積み重ねることによって自分なりの納得解を探索しているので,そうした自分の見解との整合性を合わせる手間がかかる。

 地道な調査の始まりである。ベタな対象に落ち着いたなと思うが,これまで書いてきた学位論文や自分の興味関心に任せて関わってきた様々な取組みやご縁をすべてまるっと絡めて考えることができる。というのはちょっと言い過ぎだが,結局,やりたかったことはそういうことなのだと思う。

 ゆくゆくは全国調査につなげたいが,とりあえず今住んでいる四国や中国地方など西の方から進めたい。

 先日,教員採用試験についての相談をしに学生がやってきた。いろんな地域を受験するのだが,関東の方に出す願書の内容について,どうすれば良いのか悩んでいるらしい。自己PRの書き方をどうするのかといったこと。

 まあ,採用試験は知識技能を評価する側面は当然としても,つまりは恋愛と同じなのだから,相手を自分に惚れさせるにはどうするかを考えれば良いんじゃないかと勝手なことを話していた。それが本当かどうかは置いとくとして,それがどんなものとしても本人が自己PRとは何かを感得しないままでは,宙に浮いたような文章しか書けないだろう。

 女子学生だったから,人が人間のどこを見るのかについて,自分の場合に置き換えた話をすれば,すぐにも十を知る。女の子は,男の子よりも人を見る目が厳しいから,それをそのまま試験官の目だと思えば,すべきことは分かってくる。
 

 関東を受験するというので,自分の東京暮らしのことなど話した。ぜひ若いときに住んでみて,他にもいろんな土地を体験しておくのがいいと話した。

 若いとき,僕が欲しかった言葉をかける。僕にはそれを言う義務がある。

 来週からは1年生達の面談が始まったり,委員会活動を始めたり,そういえば,某コンクールのお仕事もそろそろ始まる。来月は東京出張。ぼちぼちiPadの集いも関西でやりたいなぁとも思う。