これから書く駄文は,多少内省的であることと,結論は最初から決まっているということもあるので,こちらのブログに書くことにした。
あらかじめ明確にしておきたいが,これから書くテーマに関して結論は決まっている。「他人に頼らず自分で物事を進めていく必要がある」ということ。その結論に私は納得して物事に取り組んでいくつもりである。
しかしながら,この結論に至る手前に,いくつも「言いたいこと」が発生する余地がある。そのことに無頓着でいたいとは,これっぽっちも思わないのである。本来であれば,それら苦言をどこかに収めるための説明や納得解がなくてはならない。その説明がたとえ理屈に見合わないとしても,人心とは何かしらの言及を求めるものだから。
そして,もう一つハッキリさせておきたいのは,この文章は,特定の人達を非難・批判するがために書こうとしているものではない。そう読み取ることの方が簡単なのかも知れないが,私が書こうとしているのは個々人の資質の問題ではなく,個人が置かれてしまっている状況や立ち位置のことであり,それが孕む問題性の方である。
残念ながら,結論は決まっている。私はその上で,いずれ行動を起こすつもりではあるけれど,その前に事態が動くことも期待している。しかし,現時点においては,内部的というよりも,むしろ外部的な理由によって現状を納得して前進するしかない。
「物事は理想通りに事を運ぶのが難しい」
少なくとも状況は,言外にそうしたメッセージを強く発している。
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「フューチャースクール推進事業」に私自身が関わり始めていることは,りんラボブログにも書いている通りである。
周りのお役に立てるならば,大小は関係ないと考えているが,それでも国の事業に関与できることを誇りに思うし,私に出来る範囲で尽力したいと思う。
しかも今回の事業は「フューチャースクール」という名称にもあるように,将来に繋がる学校教育の在り方を模索していこうという創造的な取組みである。教育の情報化の歴史の積み重ねを踏まえて,全学校に展開する契機となるよう,関わる私たち自身の在り方も含めてモデルのデザインを描いていかなくてはならないと思う。
全国に散らばる10校の小学校が実証校となり,モデルを作り出す役目を託されたわけで,この10校は重要な使命を負った,いわば運命共同体。それは単に学校関係者だけではなく,教育委員会,事業者,行政,そして研究者も含めて,事業に関わる者全員が使命を共有・理解していなければならない。
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そのために何が必要だろうか。
私は「声掛け」だと思っている。
これから一緒にやっていこう,という声掛けが必要なのだと思う。私たちはそこから,人の想いや本気を読み取ろうとする。そして,同じくそこから,私たちの対話が始まるのではないか。
誰がどんな風にどういうタイミングでどれだけの声掛けをするのか。
そうした文脈から私たちは大いに相手の心理を読み取ろうとする。
「あ〜,この人は,私たちのこと気にしてくれてるんだ」
「おっ,結構気合い入って,意志が固そうだ」
「この人の描く夢に,自分の運命を託してもいいかも」
言葉がもっともでも,タイミングを逃せば,説教を聞かされているのと同じになってしまう。気持ちが伝わらなければ,声にはならず,単なる空しい言葉になる。
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フューチャースクール推進事業は,総務省(国)と,そこで行なわれる研究会があって,中間に請負事業者があって,選定された都道府県の地方公共団体・教育委員会,学校・家庭(地域),そして研究者がある。
つまり,実証現場を直接統括するのは請け負った事業者であり,総務省や研究会は事業者を介して間接的に動向を確認するという形になっている。
私の場合,実証校となった学校の先生との繋がりがきっかけで,事業者からの依頼を受け,この事業に関わることになった。総務省や研究会とは直接接触はない。必要な情報は総務省Webサイトで確認するか,事業者から説明を得ることになる。
当然といえば当然であり,制度的に考えて理不尽な点は何もない。
総務省や研究会が考えていることは,事業者がメッセンジャーとなって,学校の先生や研究者に伝えてくれるのだろう。だから,現場の私たちは,事業者としっかり打ち合わせながら事業を進めていけばいい。そう納得していた。
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ところが,私は地区の最初の協議会で行なわれた総務省の研究会報告を聞いて驚いた。研究会から学校や研究者へのメッセージが何もなかったからである。
事業者は,資料を作成してくれた上で,研究会を傍聴した内容を3点にまとめて報告してくれた。報告内容としては十分なものだった。
「それだけですか?」と私が聞くと,さらに西日本地域の実証計画に対して研究会メンバーが指摘した事柄を紹介してくれた。
少し間が空く。
「あの,関わる研究者に対して,何か伝達事項とか,議論とかありませんでしたか?」と聞いてみた。
「それはありませんでした」
「…」
そんなものかなと思った。各校の独自性を発揮した実証事業の展開を尊重しているのかなとも思えた。任されたのだと思えば,それはそれで嬉しい。けれども,一緒にやっていこうという最初のタイミングで「声掛け」がないのは寂しくもあった。
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後日,驚いたのはこの記事だった。
「ICT活用の成果をすべての学校に」(教育とICT Online)
総務省の研究会の座長がインタビューに応えていた。しかも私たちがかかわる事業に関して,いろいろ語っている。
広く国民に理解を得る機会としては,良い記事だ。この世界の第一人者である先生が語っている内容も,私は共鳴できるし,そのために尽力したいと思わせるものだった。
けれども,何か欠けてやしないだろうか。
我々は運命共同体として,協働してこの事業にあたる関係ではないのだろうか。どうしてこのタイミングで,この方法で,事業の目指すビジョンを知ることになるのか。
情報を共有し,お互いの存在を認め合い,共に学んでいこうという協働教育の理念実現のために力を合わせる者同士だというのに…。私たち自身の情報共有が乏しく,お互いの存在が見えなくて,どうして共に事業推進していこうとできるのだろう。
こうした状況は,回避できるはずのものだと思う。
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繰り返すが,結論は決まっている。
「物事は理想通りに事を運ぶのが難しい」
「他人に頼らず自分で物事を進めていく必要がある」
そんな屁理屈みたいな非難・批判をするなら,改善する策を自ら提案して解決していくのが筋だ,というのはよく分かっている。そのための行動を起こすつもりではあるけれど,それもモデルづくりに役立つ形で行なえるようにアレンジが必要だと考えている。その上で,動くつもりだ。
そもそも,こういう不必要な感情的もつれ合いの要素は,各人が配慮の念を持って仕事に取り組めば回避可能なことであった。
私も事業者に対して,研究会の場でメッセージをもらえるように予めお願いをしなかったことは責められるべきだし,事業者も総務省・研究会と各都道府県の現場を繋ぐパイプ役として深い部分での情報の取得と提供を試みるべきだった,総務省やその研究会にしても,全国10校の実証校関係者に対して,まずは協力してくれたことを深く感謝し,どういう理念のもとで一緒に取り組んでいくのかを声掛けすべきだった。
もちろん,その必要を感じない人達もいるかも知れない。
そんな些細なことをことさら問題にする神経がどうかしているのかもしれない。
けれどもフューチャースクールは,いろんな人々が関わり,将来的には全国展開する目標のもと動いているのであるから,幾重もの配慮が必要なのだと思う。
仮に政治情勢的な理由で頓挫することが危ぶまれようとも,細かい配慮を諦める理由にはならないと思う。
教育は人なり
もしこの言葉を本当に踏まえるつもりがあるなら,私たちはもう少し謙虚に丁寧に深い配慮を持ってことに当たるべきである。