今週末と来週末は近くで祭りがあるので,今日は本屋に行くついでにあちこちウインドウショッピングして回った。そしてようやく新しいiPodシリーズを店頭で触ることができた。
熱烈なAppleファンを自称する私も,年季が入ると慣れたもので,すぐにお店に行って実物を買いに行くということもない。基本的に初期ロットは避けるというのが普通だし,実物展示を見るのも出かけた先でたまたま遭遇したというタイミングでチェックするぐらいである。大好きなものには,それくらいの距離感で触れたほうが,いつまでも大好きでいられるというものである。その分,心は熱いです。^_^;
先日出荷開始したiPod Touchも在庫はなかったが,展示はあったので,実機に触ってみた。すでにiPhoneをじっくり触られていただいた経験があるので,今回のチェックはWebアクセスだけ。
軽くYahoo!やGoogleを利用したり,日本語入力(やその隠し機能とやら)を試してみたり,もちろん教育フォルダも表示させてみた。ありゃりゃ,iPod Touchで見ると教育フォルダのリンク集って文字が枠からオーバーフローしちゃっている。これはレイアウトか何かを見直さないといけないなぁ。
自分のサイトの表示に問題があった以外は,基本的にWeb表示はパソコンを縮小したイメージで使える。2度タップして拡大する操作や画面をスクロールする操作も慣れてしまえばスムーズにこなせる。あとはWebページによって複雑なら表示に少し時間がかかるとか,無線LANの電波の強さも反応速度に関係したりするが,それは理由が理解でき納得できる現象である。
新しいiPod nanoの小ささにビックリした。そしてビデオ再生のデモが行なわれていることに改めてビックリした。いやはやこれは実際に見ると衝撃的だ。すでにビデオ対応のプレーヤーを利用している方々には「何を今さら」な感じなのだろうが,あらためて,笑ってしまうような驚きである。ははは,ビデオ再生してるよ,このおチビちゃんは…。
ひょいっと一つ買って帰りたくなってしまう衝動がピークに達するが,いやいやいやいやいやいや…,ここは我慢である。もちろんiPodに関しては今すぐ買っても良い判定が出てはいるのだけれど,こちらとしては今月下旬に発売の新しいMac OS Xの準備をしたいし,そこで新しいハードウェアの登場も期待されるから,その辺が出そろって落ち着いてからの方がよい。長らくAppleファンを続けていると,そういう経験的な勘が働くのである。とにかくAppleにとってはOSXが生命線。もはやMacだけでなく,iPodやIPhoneのOSにもなった今,OSX 10.5が無事市場に出て一山越えた辺りが,いろんな意味でApple製品の買い時である。といっても資金あるわけじゃないから手出せないけどね。
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わお,ポッドキャストリスナーが1200人台へ。わかりました,わかりました。
「雑記」カテゴリーアーカイブ
アイドル×テクノ×80年代×…
ACと聞いて思い浮かぶものは何だろう。電源アダプタか,学術ドメインか,アダルト・チルドレン?もう一つよく知られているのは,公共広告機構だろう。たまに集中してACの広告を見る機会がある。
ACの広告は毎年テーマが決まっていて,いろんなクリエータが作品を応募してつくっているわけだけども,今年のテレビCMがどんなものかご存知だろうか。テレビを見ている方は見たことがあるかも知れない。あの,印象的な曲と女性グループ,異様な着ぐるみが登場する,環境問題の広告である。なんと「NHK共同キャンペーン」なのである。ある意味ビックリだが,ある意味納得である。
そして,非常に印象的な曲なので,ずっと歌い手を気にしていた。ようやくこの頃,「Perfume」という女の子3人組であることがわかってきた。そしていよいよCDが発売されたので,どうやらそのプロモーションでマスコミ露出が多くなってきたようなのである。曲名は「ポリリズム」。
Yahoo!動画で「Perfumeスペシャル」というのをやっていて,彼女たちの過去の曲などを無料で鑑賞することができる。いやはやガールズ・テクノ?いくつかの曲は80年代的懐かしさもあって頭にこびりついてしまった。
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古くはキャンディーズやピンク・レディーに始まり,おニャン子クラブやCoCoとか,ribbonとかなどを経て,女性アイドルも時代と共に入れ替わり立ち替わり。一方で,フォークがニューミュージックになり,グループサウンズとか,テクノとか,ポップミュージックなんかも流行り,いまじゃヒップホップとかハウスとかラップとか…,まあ時代を象徴する曲調も様変わりし続けてきた。
見るもの聞くもの,何かしら過去の何かと重ね合わせちゃえるところまでくると,とにかく眩暈できる何かがありゃいいのかなと思えてきたりもする。そういう意味で,ちょっとPerfumeというグループが唄っている曲は,現実逃避にはもってこいだなと思えたりした。
というか,ただいま現実逃避中。仕事,一向に減らない…。
平成の…
いろんな行事や学習課題があって,なかなか更新まで手が回っていなかったら,いきなり安倍首相が辞任表明。そしたら,方々から「無責任野郎」とか「空気読めない奴」との声が上がり,ご本人はいよいよ体調不良で入院してしまった。
健康状態がよくないことには同情するが,それも含めて管理できてこそ政治家,そして一国の首相でしょ,という真っ当な意見を否定できるわけもなく,その辞退には美しさの欠片もない。
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そもそも教育再生会議は,『官邸崩壊』というルポ本の中で10頁に及んで描かれているように,ひどい迷走を繰り広げていたわけだが,今回の首相辞任で継続の後ろ盾がほとんどなくなった。すでに教育基本法も教育関連3法案も可決されたのであるし,そもそも教育再生会議の設置意義さえ疑わしかった。残り火を焚くには風が強い。
その事を察知して政治家になった某室長もいたが,彼もまた傘を失って強い風に晒されるだろう。もっとも彼の流儀によれば,目立たぬように大勢に従い,任期を全うしたら,その経歴で再び教育タレントとして活躍できればよいことになる。忘れられない程度にマスコミ(特に目立たないラジオ)で露出しながら,細々と過ごすのだろう。
もしも彼が本当にそんな風に過ごしたなら,いつの日か必ず,タックス・ペイヤーとして,彼を糾弾してやりたい。講演や著作で稼ぐのは勝手だが,税金から給与もらう公人になった以上,それを覚悟すべきである。
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合宿で京都へ行き,名古屋の実家を経由して,東京に戻る。「この頃,どうして自己否定的な駄文を書くのか?」という家族の問いに,いやあれは家族が読むことを想定した文章じゃないと解説。メタ的なずらしや煙に巻くための自演など,あれこれ混ぜ合わせて成り立っているというこのブログの性質は,身近な人ほど眉をひそめるようだ。ごめんなさい。
しばらく実時間がとられてしまう仕事や課題が続く。がんばろっと。
夏風邪?クーラー頭痛?
学会からの帰り道,列車の中でクーラーにあたりすぎたのか少しばかり頭痛があった,そのうえさらにクーラーの効いた場所に居たために,いよいよ本格的に頭痛がやってきた。一仕事終わって体調悪化は辛いなぁ。
翌日,打ち合せの約束があったが,そんな状態だったので,相手の配慮もあって延期。今日は頭痛と暑さに苦しみながら過ごしていた。熱中症かなぁと疑ってみるが,とにかく水分をとって安静にするしかない。夜にはなんとか頭痛が和らいだ。
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学会での発表は,淡々と進めたつもりだったが,最後のベルの意味を勘違いして,慌ただしく終えてしまった。基本的にスライドにいろいろ盛り込みすぎたこともある。こればっかりは精進精進。
非常勤先の大学の先生と発表が隣り合わせたのでご挨拶をした。今年から名古屋近郊に住まわれたとのことで,いいところだと褒めていらした。自分がいた馴染みの街を褒められるのは嬉しい気分である。
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このところヴィゴツキーに触れているのだが,思っていたよりもグサッときている。まだまだ勉強不足だけれど,もしかしたら今後の研究の重要な援用理論になるかも知れない。その先にはエンゲストロームの活動理論などが控えていることになるが,それも興味があったから,上手い具合に吸収できるといいんだけど…。
ううむ
そうだったのか…
http://www.gyoukaku.go.jp/siryou/tokusyu/h190810/index_rationalization.html
FMトランスミッタ
なかなか新しいPodcastをお届けできずにいるが,そろそろ機会を見つけて新録したいと思っている。気になっている皆様は,しばしお待ちいただければと思う。
さて,インターネットでラジオ番組やビデオ番組をお届けできるようになった今日,個人が電波でラジオ放送をするのを楽しみたい人は少なくっていると思う。
けれども,イベントなどで電波を使って放送したいときもあるだろうし,それにリアルタイムで不特定多数の人々に番組を届けることにはある種の喜びがある。やってみたいと思っている人もいるだろう。
電波でラジオ番組を放送したい場合には,「トランスミッタ」という機器が必要だ。今日,手に入るトランスミッタは,iPod等の音をカーラジオに飛ばして音楽を聴くためのものがある。けれども,この場合のトランスミッタは,せいぜい数メートル範囲のラジオに届くようにしかつくられていない。これではラジオ放送と言うには物足りない。
そこでもう少し遠くまで電波が届くトランスミッタが欲しい。そんなトランスミッタを探し求めようとすると,個人が購入できる手頃なものがほとんど無い。昔は,FMトランスミッタにもいろいろあったのだが,いまは需要がほとんど無いこともあって,この手の商品がほとんど消えてしまったのである。
イベント放送をしたいと思っている人には,業務用を探すか,ワイヤレスマイクシステムなどで代用するかしかない。非常に残念な状況なのだ。
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しかし,FMトランスミットを製造して販売しているところが無いわけではない。実はtxDesignというところが,FMトランスミッタを設計して製造し,希望者に販売している。とはいえ,いつも販売しているわけでなく,毎回FMトランスミッタを設計して,数量限定で販売し,売り切れたら終わり。またいつか新しいFMトランスミッタを設計したら販売するという,不定期販売数量限定なのである。
そして,このたび,新しいFMトランスミッタの販売が始まった。それが新型FMステレオトランスミッタ「STM301」である。38,000円(送料別)と,少々値が張るものの,このレベルのFMトランスミッタの完成品を手に入れるのはそう簡単ではないので,必要な人には安い買い物である。
私もこの前のバージョンを購入して,お世話になった。手作りだけど,とてもしっかりとした作りで信頼できるので,興味関心ある方はぜひ問い合わせをしていただきたい。
Podcastで世界にラジオ番組が発信できる時代だが,だからこそこうしたアナログなメディアも見直したいものである。
「見えない危機」
とあるお仕事の関係で,とある中学校で製作されたビデオ作品を見ることになった。その作品,まあ,映像作品としての質がどうのこうのという次元とか,題材の深刻さに比して制作者の姿勢は軽すぎないかとか,そういう「野暮」な指摘をするのは置いてといて,若さが成せるユーモア作品なのである。
願わくは,この中学生たちのお調子者具合やマイケル・ムーアばりの風刺ぶりを皆様にもお届けしたいと思い続けていたが,幸運なことに作品が見られるようになっていた。
それが「見えない危機」である。
私の記憶が曖昧になったためなのか,かなり全体の軽快さが無くなってしまっているような気がするのだが,彼らのコミカルな演技とやりとりの部分は,微笑ましさからしょうがねえな〜コイツらみたいな経路を通って,その脳天気さに笑わされてしまうのである。
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正直なところ,学校施設の耐震化工事に関して,地方による取組みの温度差が激しく,それはつまり地方財政の問題などに連なる,あまり明るい話ではないのだ。しかも,いまや日本列島はいつどこに地震が来るのか,まるっきりわからない状態。東海地方が来る来ると言い続けられていながらも,日本海側で頻発したりと大変な事態である。学校施設の耐震化の遅れを笑いにすることについて,ある種の違和感を感じないわけにはいかない。
しかし,もしあなたが,そのような感情からこの作品や関係者に対してクレームをつけようとしたり,問題にしようするなら,それこそお門違いも甚だしいと言わざるを得ない。もし何かしら文句をいいたければ,耐震化が進まぬ現状を生んでいる他の何かに対して言うことの方が最優先されるべきだろう。
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おそらく私たちは,物事の優先順位の付け方について,その対象のフィールドが広まってしまったことに気がついていないのかも知れない。このようにリンク一つで映像作品をご紹介していることが,当たり前に思えているのかも知れないが,それがとても広大な時空に見る者を連れ出していて,見る側にも短絡的な言動をの慎しみをどこかで要求しているということは,もっと考えられて然るべきだと思われる。
中央教育審議会は,年内に行なわれる学習指導要領改訂の柱を「言語力」の育成に重きを置いたものにするとしたらしい。この「言語力」というものが,審議会においてどのような質のものとして了解されているのかは,もう少し情報を待たなくてはならないが,報道の範囲で紹介されている具体的な例とやらを見ると,「表現伝達手段としての言語」観が強く表れているように思う。
ちょうどヴィゴツキーを読解中なので,機会を改めて「言語」の可能性について考えみたいと思うが,そのような次元とはかけ離れたところで「言語」をいくら柱に置いてみても,目先の学力の向上に焦点化しているという,実に短絡的なものにならざるを得ない可能性がある。
いじめや人間関係をめぐる問題を考えるのに「言語力」が重要であるという場合には,その内実についてもっと丁寧な解説が必要だと思うが,このままでは,単に口や言葉の上手な人間が,いじめの言葉の表現を豊かにしたり,言葉巧みに人を貶めたりすることさえ考えられ得るのである。
その意味では「道徳」の必要性を繰り返す人々もいるのかも知れないが,その場合にもまた,どのような道徳を行なうのかについての明確な説明や展望の提示がないと,手垢のついた領域だけに,多くの人々が誤解を繰り返すだけである。
それゆえ,私自身は以前にも書いたように「哲学」という領域を真剣に考えた方がよいと思っているのだけれど,それについては,情報学の観点から考えようとしている人々のアイデアをうまく援用できないものかなとも考えている。それがゆくゆくカリキュラムの問題としてつながれば,私も帰るところに帰れるわけだけれども,それはまだまだ見えない私自身の行く末についての話である。
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とにかく「見えない危機」をご紹介するにあたって,その純粋なバカさ加減を素直に笑おう,という話から,久し振りにシリアスな雰囲気の駄文の展開に至るとは,書いてる本人も思ってなかった。いずれにしても上記のリンクから笑いに行って欲しい。
平均気温の変遷
この時とばかりに大学の施設を活用し,日中は涼しい部屋の中で過ごしている。クーラー派ではないのだが,自宅でクーラーを使わないとなると暑くて,とても勉強という状態ではない。小型扇風機をディスカウント店で買う手もあるが,やはり広々とした研究室の環境で取組んだ方が気持ちがいい。
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それにしてもこの暑さはなんだろうか。北海道さえ最高気温が35度を超えたとも聞く。温暖化(グローバル・ウォーミング)がますます進んでしまったかのようだ。アル・ゴア氏の映画でも気温の上昇をグラフで印象的に描いていた。
日本の気温もグラフ化したら,かなり右肩上がりで上昇しているのだろうか?と思って,まず東京と名古屋の観測地点での平均気温の経年変化をグラフ化してみることにした。
ただ,漫然とグラフ化してもわかりにくいと思ったので,今回は東京と名古屋の「8月」の平均を経年的に取りだしたものでグラフ化してみた。まあ,7月でもよかったかもしれないが,今月は8月だし,そのあたりで…。
気象データは,我らが気象庁が誇る「気象統計情報」のサイトから。最初,取っつきにくいが,すぐに使い方がわかる。気象に関しては大変有り難いデータベースだ。こういうものがちゃんと整備され無償で公開されていることは行政サービスの基本中のキだね。
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さて,グラフの見方であるが,上段が「東京」,下段が「名古屋」である。
そして,左が「8月の毎日の平均気温」で,真ん中は「8月の毎日の最高気温の平均」であり,右が「8月の毎日の最低気温の平均」というわけである。
ご覧のように東京は観測が1876年から始まり,名古屋は1891年となっているので,比較条件に多少問題はあるが,今回はだいたいの感じを掴むためのグラフ化なので,正確なデータ比較などはご自分でやってみて欲しい。
それから東京と名古屋という観測地の選択も,これが日本の気温の代表とは言えないという問題はある。長野とか,九州とか,その辺の環境でどうなのかもまた見てみたい。
というわけで,ご覧のような感じだ。グラフの縦横比率次第で印象も異なるが,このスパンで見た限りでは「東京は極端ではないものの緩やかに右上がりしている(様に見える)。名古屋はあんまり変化がない(様に見える)。」といった感じ。ううむ,あまりセンセーショナルなグラフにはならなかったな。
もしもこのグラフの範囲を絞ったり,縦横の比率をいじると,かなり違う雰囲気になるのかも知れない。とにかく,暑いことには変わりないのだが,なんとかならんのかな。
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ところで,このページでグラフが出てくるってことは,たいがいグラフを作る仕事をしてるってときなのだが,今回も同じ。しかもこの前発売されたばかりのアップル社・表計算ソフトNumbersでゴチャゴチャやっている。脱線せずに早く仕事しないと…。
ひとりよがり
大学院生になろうと大学教員を辞めて,東京にやってきたから,私の日々も取り巻く人間関係は(当然)変っている。そのこと自体は望んだことであるし,場から中空に浮くことも物心ついたときから慣れていることなので,苦しみながらも楽しんでいるといったところである。
むしろ気がかりなことは,その事を(あくまで)きっかけとして,この頃の私自身が駄文から遠ざかっていることだった。理由になりそうなものは,いくらでもある。
毎日が慌ただしく,ブログの書き込み画面を開いて長時間にらめっこしている時間がないとか。世の中の動きにうんざりして,駄文を書く気が起きないとか。積み残しの仕事や課題を後回しにして駄文を書いていると罪悪感を感じるとか。
まあ,とにかく人生の中で最も早回しの日々を送っているのは確かなことで,「ひとりよがり」になることさえままならなかったのである。
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整理する整理すると繰り返し書きながら,この十数年の教育らくがき駄文を見直すことはして来れなかった。私は駄文を書き散らした人間として,自分の過去の駄文にある程度責任を持たざるを得ないが,その本人にしても,いかに自分の駄文が(いま振り返る地点からすれば)無責任なものであるのか,認めざるを得ないものが幾つかある。
いまはちょうど参院選挙の時期で,候補者達を非難批判するために過去のブログの発言を探し出して失態をあげつらう動きもあちこち見受けられる。ブログというメディアを持つことが「忘却との別れ」を受け容れざるを得ないということに人々は少しずつ気がつき始めているが,まだその恐ろしさを味わう立場にないという点では十何年駄文を書いている私とて変わりはしない。あなたの悪意(もしくは正義)が私に向けられた場合,私の過去の駄文達は,いくらも私自身を苦しめて,私自身を失脚させることも不可能ではない。少なくともそのための材料を豊富に提供するのだ。(いまは懇意で一緒に仕事をしてくださる方々に対しても,私の旧い駄文は生意気な口をきいていたりする。ええ,人生とはそんな気まずい悪戯を仕掛けてくるのだ。)
駄文のデータがネット上に拡散してしまった以上,今さら「消す」行為に実効力はないが,それでもオリジナルを消すことが「本人の姿勢」の表現として重要であることも,選択肢の一つとして確保されなければならない。そうなれば当然,「消さない」ことにも何かしらの姿勢が込められることになる。そこがこういう表現手段に手を出してしまうことのリスクというか重さなのだ。(完全ではないとしても)ネットを匿名的に使うことの必要性は,こんなところにもあるのかも知れない。
悲しいかな私の場合,匿名にするにはもう手遅れだし,駄文の調子は指紋のように個人を特定し得るから,もはやネット上のどこに何を書こうが,私自身から逃れられない。場合によっては他人の書いた私らしい偽文の責任さえかぶるのだろう。
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ああ,インターネットで駄文を書くことが,これほどまでにも暗い波長の未来につながっているなんて,どうして思い描く必要があるのだろう。
それは私があらためて「ひとりよがり」したいがための心の整理なのだ。
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あなたは自分自身のついて,仕事に就くまでや仕事に就いている間や仕事を辞めたあと,そして何の保証もないのに新しいことを始めようとしているときに,どれほど周りの人々の存在が直接にも間接的にも自分を支えてくれたかを想像できるだろうか。私は,ほんの一瞬でもそれを思い描けたとき(ただ,それはすぐに消え去るほど一瞬)に,身震いというか,寒気というか,自分の浅はかさに永遠を掛け合わせたと表現するような感覚に襲われるのだ。
その一瞬を踏まえて,私はもの凄く周りの人々に感謝したいのだが,どうも感謝の仕方が一辺倒で,簡単に言えば「下手」なのである。そのうち「ありがとうございます」も「感謝します」の言葉も,自分から発せられるものが「棒読み」に思えてきて,もう詰まるところ「沈黙は感謝なり」で済ませたくなってしまうのである。
あなたが女性なら「そんなこと信じられない」「感謝はどんな風でも表すべき」あるいは「してほしい」と直感でお答えになるのかも知れないが,男という生き物は斯様な思考に陥ると,なかなかそこから抜けられないのだ。
というわけで,なぜ私が駄文を書きづらくなっているのかという,長い長い理由説明が続いているわけなのだが,きっと私はすでに「遠慮」という域を超えて,自分がなるべきではないと思っていたミイラにでもなっているのじゃないかと,そろそろ思い始めたりしているのである。
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せめて私は駄文の上くらい「嫌な野郎」になる覚悟で書かないといけないなと思う。駄文を書く私という人格は,私の一部ではあっても,私そのものではない。物静かにニコニコ微笑む私をお望みならば,実際の私の会うことにしていただいて,せめて駄文は「ひとりよがり」な私を発揮させていただければと思うのである。
せ,洗濯したい…
せっかくの晴天があっても,慌ただしい日々続き,なかなか落ち着かぬ。ああ,洗濯させて,洗濯…。