月別アーカイブ: 2010年7月

デジタル教科書実現のために

 議論のために意識しておきたいことは先回書いた。

 その後,デジタル教科書教材協議会の設立シンポが開かれ,私自身もUstreamで会の進行を見ることができた。

 協議会設立シンポ自体は,登壇者の持論という部分では目新しいものがあったわけではないが,今後の前向きな取り組みを期待させる雰囲気のよいものであったと思う。元東大総長であり協議会の初代会長となった小宮山氏の見識も,この会の方向性をよい方向に導いてくれそうだったことが好感につながっている。

 さて,丁寧な議論が必要である一方,現実を動かすためのアグレッシブな取り組みも同時に必要であることは,明らかである。

 私が議論のために慎重さを求めると「懐疑派・否定派・抵抗勢力」側に立つと思われやすいのだが,実際のところ物事の実現のためには結構積極派でもある。

 要するにブレーキとアクセルを1人のドライバーが操作するのと同じ事。私は教習所の教官的にブレーキだけ踏む人ではないのである(もちろんそういう役回りが必要なときもあるが…)。

 というわけで,私の周りにあった「点と点」を結びつけることで,いくつかの取り組みにチャレンジすることにした。

 まずは,9月の日本教育工学会でワークショップの場が提供されるのであるが,そこで「タッチデバイスの教育利用」というテーマのワークショップを開催することとなった。夕刻の90分だけだが,学会以外の皆さんにも参加していただける企画である。ワークショップという名前は,あまり気にしなくてもいいと思う。あれこれご一緒に考えましょうという感じで十分。

 次に,デジタル教科書教材協議会の実証実験に参加表明することになった。実は,この分野に関心のある人々の中に,私の地元である愛知県尾張旭市とゆかりのある関係者が3人いて,Twitterで意気投合してしまった。ならば,来年予定されている実証実験やモデル校をやるのの協力をしようということになった。9月の学会は名古屋であるし,自分の出身地のためと思えば力も入る。

 そして,有志が集まった「みんなのデジタル教科書教育研究会」で,ネット番組による交流,情報発信をしてみてはどうかと提案した。文字だけのコミュニケーションだけだと,どんどん敷居が高くなったり,難しくなったりしがちだが,ざっくばらんに「しゃべる」機会を短くとも定期的に持つことで,会の活動の刺激にもなるのではないかと思った。そのお手伝いをする。

 こうやって,議論のためのプラットフォームづくりや活性化を通して,デジタル教科書の実現に貢献することも大事だと考えている。モデル校や実証実験にも関われれば研究者として本望だ。

 いろいろなことがうまく展開するよう頑張ろう。

デジタル教科書議論のために

 明日(27日),民間の「デジタル教科書教材協議会」が設立され,そのシンポジウムが開催される。有力者や有識者が集う教育の情報化推進の動きだけに,これまでのものとは注目度が違う。

 これと連動するように「みんなのデジタル教科書教育研究会」という有志による会も結成され,こうした動きに関心のある人々同士で垣根のない情報交換する活動を展開し始めている。

 明後日(28日)には,文部科学省「学校教育の情報化に関する懇談会」の第8回が開催され,先に示された「教育の情報化ビジョン骨子(案)」に関する討議を行なう予定である。

 その他にも,総務省の動きIT戦略本部の新IT戦略などが平行している。

 電子書籍やデジタル教科書の動向について自分なりに追いかけてきた私にしてみると,こうした動きは歓迎すべき側面と憂慮すべき側面の両方があって,注意しながら様子を見ている。

 気になったり,考えていることは,次のようなことである。

 ・これまでの教育の情報化に関する取り組みの到達点と残した課題についての整理がないか,少なくとも共有されないまま議論がスタートしている。(先行事例との継続性の無さ)

 ・校務の情報化や学習の情報化などの取り組みに優先順位を付けて,取り組みやすいところから順次目標達成していくべきなのに,児童生徒による活用や学力向上目的の利用というハードルの高いところに注力して足踏みをしてきたことを忘れて,児童生徒用のデジタル教科書を優先して考えている。(優勢順位付けの無さ)

 ・今後ますます,地方の教育行政のあり方が,学校教育に光としても影としても差してくる。問題は,地方の現状と展望に照らして,いかなる学校教育および教育の情報化を具現化するかであり,それを可能にする国家的な施策とは何かを明らかにしなければならないがビジョン素案にはそうした視点が欠けている。(国と地方との乖離)

 ・デジタル教科書のハードウェア要件を絞り込むといった議論は,「デジタル教科書問題」という全体テーマのイメージを共有する手段として意義はあるが,現実的には意味がないこと。(ミスディレクション効果)

 ・道具や教材教具はまず提供されてから善し悪しを磨き上げていくものであり,こうも事前に盛り上がるのは,端的に教育的な理由以外の要素が多く混在しているからである。こうした複雑な問題を見通すための情報提供が少ない。(議論吟味のための情報の無さ)

 etc…

 日本の学校教育は,日本自体が世界の中で相対的に沈下していくのに引っ張られる形で沈んでいるのだと思う。しかも国内で地域間格差が生じながら。

 デジタル教科書は,学習指導要領や検定教科書によって保たれてきた全国一律の教育水準と機会提供という看板を降ろしたところで本格的に普及していく教育・学習のツールになると考えられる。

 それはつまり,地域(とそこでの教育)にとってICTや情報化とは何かがはっきりしてこなければならないこととも関連している。

 もちろん,デジタル教科書を推進する理由の一つには,経済活性化のために文教市場をもっと拓きたいという人々の思惑もある。それがナショナルブランドやメーカーによって占められるものか,地方の商業にも果実を落とすことになるのかはデザイン次第だ。

 いずれにしても地域にとって何かしらのメリットをもたらさない限りは,デジタル教科書も教育の情報化も,学校教育に根付いていかないだろう。それが結局は,日本国民をさらに世界から取り残す結果を招くことにもなる。

 日本人は何をとるのか,その具体的到達目標が明確にされないまま,とりあえず21世紀の学びは大事ねという曖昧な総論賛成状態では,また十年後にリセット状態から教育の情報化を議論することになるのだろう。

 デジタル教科書議論が,お互いの腹を割って,教育のため,商売のため,地方のため,政局のためという構成要素を明らかにしながら,それでもなお,共通のプラットフォームで議論する努力のもと展開していくことを願う。

教育は投資

 そろそろ授業も,拡げた風呂敷を畳んでケリをつける時期。

 今日は教育学講義で久し振りにビデオを見た。iPadにあれこれ映像ソースを溜めておくと講義の際に見せるのも楽ちんである(一方,アナログ放送が終わり,地上デジタルになると,テレビ番組を使いたい教育現場は大変困る)。

 昨年10月に放送された「セーフティーネット・クライシス第3回しのびよる貧困 子どもを救えるか」を学生達と一緒に観て考えていく。鳩山内閣が短命に終わって,かなり状況も変わってしまったけれど,子ども達が直面している貧困の問題が根本的に解消したわけではないので,観る意義はあると考えた。

 学生達の感想を読むと,皆一様に驚いていた。

 私よりも小中高校生に近い存在である大学生たちが,こうした現実がどこかにある事に驚きを感じるというのは,本人たちの問題というよりも,日本のあちこちにオブラートを張り巡らされているような社会であるせいだろう。

 番組はわかりやすい構成で,小学校や高校,そして家庭で起こっている子ども達の貧困状況,フィンランドの教育改革,そして駄目押しで日本の待機児童の問題のビデオが流れ,パネラーのコメントが挟まれ進行していく。

 もともと社会保障などを抑制し,経済成長を基調として企業や家庭がセーフティーネットを支えてきた日本のあり方が,立ち行かなくなっている現実を指摘する。問題は,教育が公的に投資ではなく負担と捉えられ,私的な支出で賄うものだと考えるマインドが根付いてしまっていることである。その点を指摘しているので,私個人はこの番組を評価して授業で使っている。

 幸い,子ども手当や高校授業料無償化がスタートして,この問題に対する大事な一歩を踏み出しはしたのだが,私たちに教育を支えていくというマインドが醸成され始めたかといえば,それはやはり「お上の決めたこと」。

 選挙まっただ中,マニフェストを覗いてみても,どこもかしこも野暮ったいことしか書かなくなっていることに,私たちはもっと怒るべきなのだが,忙しさにすっかり絡め捕られている日々なのである。

 それに,この国にある教育のリソースは,人も物も考えも不十分で,投資に見合うかどうかを判断するところで大きな懸念が立ち上ってしまう。

 だから,今ごろになって,教員資質の向上を考え直しているし,学校環境整備をやらないといけないし,教育課程も見直さなきゃと慌てている。

 要するに裏を返せば,どれも投資に見合うようにはバージョンアップしてこなかったということである。

 だとしたら,制度的な緩和でも何でもして,プラットフォームをオープンにして,外から有望なリソースを持ち込んでくることも現実的に考えなければならないが,それも生理的な拒否反応を示しそうな,そんなこの国である。

 それでも私は,学校教育がある程度オープンになるというか,既存部分のいくらかを放棄してもらって,そこに新しい流れを打ち立てていく,そんな構図で変わっていくのではないかと思っている。

 おそらく私たちが「これまで日本の教育を支えてきたもの」と考えているものを放棄しなければならないと思っている。それが学習棄却という形で実現するのか,権益放棄という形で実現するのか,人員転換という形で実現するのかは,正直分からないし,それは人々の選択の問題だと考えている。

 研究者としては,学習棄却あたりで苦労してもらって,新しいプラットフォームに日本の学校教育が乗っかればいいなと穏便に考えたい気持ちが大きい。けれども,為政者や納税者にすれば,クビ切りが一番かも知れないから,そういう立場の違う人々とどう社会創造を共有するか,その問題も解かなければならないかも知れない。

 相変わらず先行きが見えないということだけはハッキリしている。

 p.s.テレビ東京系「ガイヤの夜明け」で子育てをテーマにした回があった。こちらも観てから教材に使えるか検討してみよう。

「生活」とは何なのか

 先日,賞与をいただいた。

 その名前に値することをしているのかどうかは,いまいちピンとはこないが,毎日職場に通う継続性に対して与えられているのだと素直に納得しておきたい。

 もっとも,iPadやら何やらの先行投資が多すぎて,大半はその支払いに消えていく。そして,学会費やら家賃やら税金やら借金やらを払うと,ほぼ消滅する。

 それでもわずかに余裕が出来るから,久し振りに夏用スラックスを買ったり,生活雑貨を買い込んだりした。相変わらず本や雑誌も買った。

 けれども最近,本をじっくり読む余裕が失われた。

 調べものの文献資料を「漁る」ことや「掘る」ことはする。ネット検索も組み合わせて,情報を集めては記録していく。ネタ帳に書き込まれて使われる機会を待つものや,授業のレジュメ資料として紹介されていくものもある。

 けれども,じっくり対峙することが確実に少なくなっている。

 特定の理由があるわけではない。強いてあげれば,自己管理能力の無さに他ならない。とはいえ,新しい環境への適応作業がまだ続いているという事実も否定できない。

 新しい職場の2年目。初年に比べれば授業は楽なはずと思いきや,細かな変数が変わってしまって,調整の必要な授業が多かった。教職科目と情報科目を5種類も同時並行するのは,私みたいな人間には骨の折れる仕事である。

 その上,自分の関心テーマを追いかけようというのだから,時間的にはかなりきつくなる。「生活」部分はかなり放ったらかしである。

 そして,あらためて「生活」とは何なのか疑問が立ち上る。

 選挙の投票日が間近に迫り,すでに期日前投票も始まって,選挙戦は白熱している。「国民の皆さんの生活のために」と叫ばれるときの「生活」とは何なのかと思うことも多い。

 円やドルが強い時代は終わり,元が強くなりつつある新しい世界が始まっている。いわゆるグローバル社会に突入した今,日本で生活するということにどんな変化を強いられるのか私たちはまだ自覚的(事態の理解を踏まえて対処しようとする)ではない。

 医療も教育も優先できない生活とは何なのかと思う。家賃と食費と光熱費を払えれば御の字,むしろ税金を支払うために,そうした生活費に回すことさえ出来ない人たちもいる。税金すら払えない人もいる。

 同じ「生活」という言葉でも,まったく異なる世界が広がっている。

 以前の私は,働き口もないまま本当の意味で底辺に落ちる可能性があった。どちらかといえば,そちらの可能性の方が大きかった。

 だというのに,今こうして職に就いてお給料をいただける状況に置いてもらっている。そのことをやはり感謝せずにはいられない。

 ただ,また慌ただしい日々を過ごす中で,なかなか形にできない様々なアイデアや意気込みが宙ぶらりんになっていることを,苦々しくも思う。

 恩返しは,賞与がいくらあっても足りないものである。

文月四日

 週末は賑やかに過ごした。

 職場のすぐ近くにあるコミュニティFMの開局記念生放送があったので,ちょっと出入りをしていた。

 番組に出るのは土曜の午前中だったが,金曜の夜に担当者に会いに寄ったら,「(番組に)出ていきません?」と言われて,あれよあれよと生放送に出演していた。しかも控室はビール飲み放題状態。賑やかな空気とビールにつられてすっかり居座っていた。

 いつの間にか家に帰って寝ていたらしく,目が覚めて時計を見ると出演時間40分前!やっちまった,と思いながら飛び起きて行水して,身支度をして急いでラジオ局に向かった。幸い放送時間には間に合った。

 iPhoneやAndroid携帯などのスマートフォンについて話を振られて,今までの携帯との違いやその便利さ,プログラミングやiPadの話題まで,いろいろしゃべった。リクエスト曲はEPOのDOWN TOWNであった。土曜日だからね。

 本来はその日,徳島県らしく,阿波踊りの有名団体が一挙集合して競演するという一台企画が会ったのだけれども,天気が悪くなって残念ながら中止。屋台やら何やら到着するのを待っていたが,生放送以外はイベントが何もなくなったので,仕方なく昼食を食べに出かけてから解散することになった。

 スポーツで世間が湧いたと思ったら,スポーツがスポーツを賭けの対象にして世間を失望させたり,あれこれスポーツ界が落ち着かない。

 そして,来週は参院選挙投票日。当日の投票が難しそうなので,期日前投票をする予定。いつものことだが,判断の難しい選挙だ。

 久し振りにMacのOSをクリーンインストールした。あらかじめ「タイムマシーン」というバックアップ機能で退避しておくと,データはもちろんアプリケーションなども丸ごと保存されるので,復活も楽である。やってみたら,ハードディスクの空き領域がかなり空いた。

 さてと,明日からまた働くか。

頼まれ出演

 土曜日にコミュニティFMに出演することになった。頼まれたというか,誘われたので,こちらも二つ返事で参加表明した。

 徳島にあるFM眉山(B-FM)が14周年記念の34時間生放送をするのだという(→番組表)。その中の土曜日10:00から1時間の「ハイテクAWA」という枠に出演する。

 同じ職場の先生と共演。別に何をしゃべってもよいみたいだけど,番組名からすればメディア系の話をして欲しいような淡い空気が漂ってくるので,メディアとかITとかのことを話すことになりそう。共演の先生は「地域メディア」についてお話するらしい。

 まあ,iPadとかiPhoneがらみのことをお話することになりそうだ。その流れでソーシャルメディアについて触れて,共演の先生にお渡しすればよいかなと思う。

 ハイテク…といいながら諸事情でTwitterもUSTREAMも実使用は遠慮してくれということなので,話だけで終わりそうだが,私は気にせず勝手につぶやくからいいや。