月別アーカイブ: 2011年5月

日本人としての生き方を考える

 5月15日に講演というか、発表というか、20分間しゃべる機会をいただいた。

 聴衆の属性が不明だったので、話す内容をどうしようか当日まで悩み続けていたが、私の問題意識をストレートにぶつけることに決めて、20分に詰め込むことになった。

 正直なところ、20分という時間では、軽めの話題を浅く紹介しても足りないことは分かっていた。だから最初はウケ狙い企画で済まそうとも考えていた。あるいは、フューチャースクールのことを写真で紹介して終わるくらいがちょうどよい。

 もしも、リクエストが明確であったならば、それに沿って話すのだが、依頼趣旨が不明瞭だと、私なりに語るべきことを語る以外に興味が無いので、結果的に聴衆の聞きたいこととはズレが起こってしまう。

 特に私の話は、既存の価値観の問い直しを含めた議論を基底としているので、実用的な話を聞きたい側には難しいと受け取られるらしい。

 また来月、今度は一般の方も混ざった聴衆の前でフューチャースクールのことをしゃべる機会を与えられたので、依頼に沿ってしゃべろうと思う。

 けれども最近は、311大震災に関係して出てくる様々な事象を見るにつけ、とてもやるせない気分になることが多い。

 特に原発事故問題に関連して、日本と世界との関係に関わる動きには、失望の連続である。

 自分も含めて国内に閉じた生き方をしていることに、とても苛立ちを感じる。国際的な視野で物事を取り組んでこなかったことが、情けなくもなる。

 会社公用語を「英語」にした日本企業があるなんて話題が物珍しく語られたのはここ数年でしかない。

 それほど日本人の国際意識というのは遅れているというか、ズレていた。

 そして、今回の震災に関わって、マスコミ報道における国内外のまなざしの違い、事故に対応する企業や政府の言動の理不尽さ、あるいはネットの情報から浮かび上がる様々な意識の相違など…。

 学校教育のカリキュラムを考える人間として、あまりにも無残な現実を見るにつけ、従来の学校教育に「甘さ」みたいなものがあったのではないかと思わざるを得なくなってきている。

 その「甘さ」とは、怠けていた部分があるというよりは、根本的に何かが欠落していて、そもそも想定していなかったから取り組めてもいなかったという類いのものだと思う。正直言って、現場の先生たちは怠けてはいない。どちらかといえば、死に物狂いでやっている。

 問題は、従来よしとされた努力のベクトルが、本当に現代においても妥当なのかどうか、だれもその根本的な価値観を疑わずに、伝統の上に屋上屋を重ねてきたことこそ問われなければならないということである。

 情報時代のカリキュラムを考える。

 このテーマについて、いよいよ真剣に考えなければならないと思う。

GWが終わって

 あまり考えを発信する気分にもならず、こちらのブログは停滞気味。

 内省的な思索がよどみがちなときは、あまりジタバタせずに何も考えない時間を確保することが大事だと思っている。

 この頃、プログラミング作業に没頭しているのは、考えないようにするためでもある。アプリの動作を設計している間は、ツイッターもニュース報道もたまにしか見ないで済むし、機械的な整合性を考えるだけなので気が楽だ。

 GWの連休は帰省もして、本当にのんびりと暮らした。

 半ばリセット状態になって、あらためて自分の立ち位置を考えたとき、教育学を学んでいた自分をどこかに置いてきたことに気がついた。

 価値相対化が進んだ時代に、どこかしら規範学的な教育学が存在感を弱くしていた事実はあれど、だからこそ教育学的な思考が逆に必要とされていると言えなくもない。

 カリキュラム研究は教育学の中の学際的分野としてどこか中空に置かれているが、それでも全体を見渡すために強い思考を伴って展開するものとして必要とされている。漂うような立ち位置は、実際のところ捕らえ所が無くて敬遠されがちなのだが、そういう媒介的なところが好きだから仕方ない。

 5/15にとある会でしゃべることになった。

 久し振りにカリキュラム研究者としての立場で語ろうかなと考えている。

 温故知新になれば、それでいいかなと思う。