5月15日に講演というか、発表というか、20分間しゃべる機会をいただいた。
聴衆の属性が不明だったので、話す内容をどうしようか当日まで悩み続けていたが、私の問題意識をストレートにぶつけることに決めて、20分に詰め込むことになった。
正直なところ、20分という時間では、軽めの話題を浅く紹介しても足りないことは分かっていた。だから最初はウケ狙い企画で済まそうとも考えていた。あるいは、フューチャースクールのことを写真で紹介して終わるくらいがちょうどよい。
もしも、リクエストが明確であったならば、それに沿って話すのだが、依頼趣旨が不明瞭だと、私なりに語るべきことを語る以外に興味が無いので、結果的に聴衆の聞きたいこととはズレが起こってしまう。
特に私の話は、既存の価値観の問い直しを含めた議論を基底としているので、実用的な話を聞きたい側には難しいと受け取られるらしい。
また来月、今度は一般の方も混ざった聴衆の前でフューチャースクールのことをしゃべる機会を与えられたので、依頼に沿ってしゃべろうと思う。
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けれども最近は、311大震災に関係して出てくる様々な事象を見るにつけ、とてもやるせない気分になることが多い。
特に原発事故問題に関連して、日本と世界との関係に関わる動きには、失望の連続である。
自分も含めて国内に閉じた生き方をしていることに、とても苛立ちを感じる。国際的な視野で物事を取り組んでこなかったことが、情けなくもなる。
会社公用語を「英語」にした日本企業があるなんて話題が物珍しく語られたのはここ数年でしかない。
それほど日本人の国際意識というのは遅れているというか、ズレていた。
そして、今回の震災に関わって、マスコミ報道における国内外のまなざしの違い、事故に対応する企業や政府の言動の理不尽さ、あるいはネットの情報から浮かび上がる様々な意識の相違など…。
学校教育のカリキュラムを考える人間として、あまりにも無残な現実を見るにつけ、従来の学校教育に「甘さ」みたいなものがあったのではないかと思わざるを得なくなってきている。
その「甘さ」とは、怠けていた部分があるというよりは、根本的に何かが欠落していて、そもそも想定していなかったから取り組めてもいなかったという類いのものだと思う。正直言って、現場の先生たちは怠けてはいない。どちらかといえば、死に物狂いでやっている。
問題は、従来よしとされた努力のベクトルが、本当に現代においても妥当なのかどうか、だれもその根本的な価値観を疑わずに、伝統の上に屋上屋を重ねてきたことこそ問われなければならないということである。
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情報時代のカリキュラムを考える。
このテーマについて、いよいよ真剣に考えなければならないと思う。