黒ペンと赤ペン

 先日,ニコ生(ネット放送の「ニコニコ生放送」)を見ながら残業をしていた。民主主義2.1というテーマで,東浩紀さんを司会に,鈴木寛文科副大臣も出席して,熟議カケアイが,どのような考えのもとで設けられたのかを解説していた。

 従来まで文科省の官僚が政策を(黒ペンで)作文し,有識者による審議会が(赤ペンで)審議答申するという形であった政策産出プロセスに代えて,国民の有志に黒ペンを一部預ける試みなのだと説明していた。

 熟議カケアイに関わる人間の数はせいぜい数千人。そして書き込まれた無数の意見を整理し政策へとまとめ上げる難しさ。そうした考え得る問題点や不十分さはあるけれども,これまで閉鎖空間で特定の人間によって行なわれていた政策構築を条件付きでオープンにしたことは,その場の出演者全員が評価していた。

 黒ペンを国民の有志に…という表現もあり得るし,赤ペン的な位置づけにあるパプリックコメントに対する黒ペンとしての熟議カケアイという捉え方もできる。また,多くの当事者たちによる政策アイデアのオープンウェアといった考え方もあった。

 いずれにしてもインターネットがベースとなってもたらした民主主義のバージョンアップ(もしくはリビジョンアップ)というのが,その議論のモチーフであった。

 こういうことが議論として可能になったのも,おそらくインターネットがの普及度が高まり,携帯電話によってWebアクセスも可能になり,プログやポッドキャストを経て,ツイッターやストリーミング放送が提供され,利用の敷居が低くなったからだろうと思う。

 実は,こうした何気に浸透してしまったツール達は,事前議論をスルーして日本に持ち込まれて,アーリーアダプタから一般へと運良く広まったもの(あるいは広まりつつあるもの)ばかりである。

 たとえば,もしもツイッターを日本に普及させるべきかを持ち込む前に議論することができたとしよう。果たして私たちは,140文字を制限とした自分のつぶやきメディアに可能性を見出したり,学習や教育に役立つと考えたりして,「導入しよう」と決断をくだしただろうか。

 私は,そういう思考実験をするたび,その結果を,長らく続いている学校教育の情報化議論の滑稽さにつなげて考えてしまうのである。
 

 誤解を恐れずに言えば,事前の議論や審議による教育の情報化政策の形成プロセスが,教育の情報化の道具や機器を生業にしているコミュニティを甘やかす状況の温存に繋がってしまっている。

 たとえばGoogle EarthやYahoo!きっずは,純粋に企業の営為によって生み出され,現場に使いたいと思わせることに成功したサービスである。ニーズに率直に向き合いフィードバックに真摯に応える緊張関係のもとで改良改善されれば,それは事前の議論を必要とはしない。良いものが残り,使えないものは淘汰されるだけである。

 しかし,下手に事前に議論や審議されたものは,いろいろな理屈がヒモづけられる。

 理屈にヒモづけられてしまうと,現場のニーズやフィードバックに素直に向き合えなくなる。

 緊張関係のないところに,道具や機器の進歩や活用技術の向上はあり得ない。

 そうなれば,とりあえず権威的な売り文句をつけたり,売り逃げするような考えが生まれる。

 結果的には,誰も責任を持たない教育の情報化が常態化してしまう。
 

 私は,学校教育と営利企業とのやり取りをもっと自由化すべきと考える。不正が行なわれないような仕掛けを作っておく必要はあるとは思うが,もっと市場のエネルギーを教師のフリーハンド創造に変換できるような回路を設計すべきだと思っている。

 教育市場にかかわる企業人も,教育を担う主要なプレイヤーとして教育コミュニティメンバーのアイデンティティを育むべき時代である。それは国民が政策の黒ペンを持つのと同じで,企業人も教育者としての黒ペンを持ち,同じ教育コミュニティのメンバーとして関わる覚悟を醸成することである。

 だからこそ生まれる緊張感と責任に基づくことで,新しい教育の可能性も開かれるはずだと思うし,すでにそのような取組みをしている人々がいるということを,国民も知らなければならない。出来の悪い業者もたくさん残ってはいるが,新しい教育学習の世界を構築しようとがんばっている業者も生まれている。

 さて,黒ペンを持つその手は,何を生み出すのだろうか。