月別アーカイブ: 2005年1月

悪意のない無配慮

 たびたび書き記しているが,ここ数年は職場で入試募集委員なるものに属している。それはそれは大変な仕事である。先の駄文で『崖っぷち弱小大学物語』(中公新書ラクレ)という新書をご紹介したが,そこに書かれているような事柄と通じているのかも知れない。
 ところで実のところ,私はその本をまともに読んではいない。その本に限っては読む気がしないのである。ところが,私の職場の一部でその本が大流行だ。とりあえず,話題にされるので相づちは打つのだが,一つひとつのエピソードすべてを読んでないから,あまりピンときていない。はっきり言って,面白がる心理がよくわからないくらいだ。それよりも読むべき本は山のようにある。
 それはさておき,私自身は(これまでの駄文にも表われていたように)かなり精神的に摩耗してしまった。おそらく私は,数え切れないくらい周りに対して指摘や文句,反論や激怒すべき機会に直面していたと思う。けれども,その度,私は相手の心理や状況を慮ってきたし,こちらが我慢すればいいことや,軽く流せば相手も気持ちよく過ごせるならと放ってきた。その方が総体的には自分のエネルギーを使わずに済むからだ。
 けれども,精神的余裕は確実にすり切れていたし,次第に相手に対して期待を抱けなくなってきていた。被害妄想にも似た感覚が急激に襲うときすらある。それは普段なら受け流せるだろう悪意のない冗談にさえ,相手の無神経さを見つけ出してしまうような,ひどくせっぱ詰まった状況も含んでいる。この人は,私を軽く見ているのか。心の底では馬鹿にしているのか。
 いや,もしかしたら,それが自分の正当な評価なのだろうか。疑いは必然的に自分に向けられる。確かに仕事がうまくできるとは言い難い。このところ研究分野でも成果は上げられていない。多忙を理由に勉強していないことを肯定しようとしている。影で人のことを話題にして人を傷つけているのは,実は自分なのではないか。
 際限無い問いかけを止めるために,冷静に考えてみる。自分の抱えている仕事の実相は,彼らが直面しているものと比較してどれほどのものだろうかと。自分の要領の悪さがすべての原因なのか,それともやはり抱えているものが多いからなのか。配慮が足らないのは,周囲の方なのか,自分の方なのか。
 自分の味方をするのが自分しかいないのならば,百歩譲ってもらって,この際周りの人々の対応に問題があるとしよう。パワー・ハラスメントが生じていると考えることは無理のある解釈なのだろうか。
 「先生,私たちの仕事は学生たちのためになることから喜びを得るしかないですよね」といけしゃあしゅあと言うアンタはその気になっているのかも知れないが,私にしてみればあらゆる努力は不十分であり不本意で,教員として喜びを得るためにすべき事柄(授業研究や学生支援など)からどんどん引き離されて精神的苦痛さえ感じているのである。しかもその一因はアンタがつくっているじゃないか。その悪意のない無配慮にも笑って付き合っている私は,さらにアンタに馬鹿にされても仕方ないと思っているのである。
 自分の学習能力の無さを棚に上げて,周囲の学習能力の無さを指摘するのは,正直気が引ける。けれども,今年度が終わろうとするこの時期に思うのは,もはやこれ以上を自分が引き取る必要はないということ。相手に合わせる必要もないこと。
 質素なものでいいから,教育研究の旅路に戻りたい。そうした空間で素朴に語らい合える相手や時間が欲しい。ときたま駄文でぶちあげる余興があってもいいけれど,もっとじっくりと物事を考える精神的余裕が欲しいと思う。

不毛を避けられるだろうか

 告知としては間に合わないが,今夜(28日から29日へかけての)1:30〜4:20に,テレビ朝日系列の「朝まで生テレビ!」が,「激論!こんな教育が日本を滅ぼす!?」というテーマで放送されるらしい。
 私は今日明日と職場の入試業務があるので,夜更かし厳禁。実家にビデオ録画を頼んで,後から見るとしよう。間に合う皆さんは,議論が不毛にならないかどうか,興味深く見守ってもいいかもしれない。

最近の本あれこれ

 アップルストア名古屋栄にオープン初日訪れたその足で,紀伊國屋書店に寄る。最近はなかなか本のご紹介が出来ていないが,このところ出てきて入手したものをランダムにご紹介しておこう。
○苅谷剛彦・志水宏吉 編『学力の社会学』(岩波書店2004/3200円+税)
 →以前,『論座』論考や岩波ブックレットとしても紹介された苅谷氏と清水市による学力調査「関東調査」「関西調査」に基づく調査分析の書。日本の学力問題を考える際には重要な先行研究成果のひとつだろう。
 ちなみに苅谷氏は,アメリカにおける子ども中心主義の登場を歴史的に追いかけた書『教育の世紀』(弘文堂)も上梓した。その書のエッセンスは雑誌『アスティオン』61号の論考「教育改革という見果てぬ夢』として掲載されている。
○国立教育政策研究所 編『生きるための知識と技能2』(ぎょうせい2004/3800円+税)
 →話題にされているOECD-PISA(生徒の学習到達度調査)に関する2003年調査国際結果報告書の日本語版である。2000年調査に続く第2回なので,書名に『2』が付いている。この書も学力を云々したければ目を通しておくべき資料だ。
 日本における調査実施の状況や考え方も記されているので,単に調査結果の数値を比較するだけでなく,調査自体の在り方と併せて吟味できる。特に「学習の背景」のセクションについては,国の違いを考えるためにもその辺は大事なポイントだろう。
○S.B. メリアム『質的調査法入門』(ミネルヴァ書房2004/4200円+税)
 →以前から,教育研究における研究方法を勉強するための図書選択の難しさについては考えてきた。もちろん細分化しつつある教育研究のすべてをカバーするものは難しいし,だったら個別に親和性の高い他学問分野の研究法文献で腕を磨くのが一番良いのだろう。この本は,質的調査法に関するテキスト本。副題が「教育における調査方法とケース・スタディ」とあるのが嬉しい。それでいて具体事例どっぷりでなく,基礎議論から積み上げようとしている点に(私は)好感を抱いた。
○『教育小六法 平成17年版』(学陽書房2005/2500円+税)
 →教育にかかわる法律について収録した基本資料の新版。『教育小六法』は,学陽書房と三省堂から毎年発行されているので,そのどちらかを買うが,今年は学陽書房のものが先に店頭に並んでいたので購入した。基本的な内容に違いはないが,資料セクションにはそれぞれの出版社の工夫がある。研究者には三省堂版がいいときもある。余裕があったら両方買えばいいのだけれど‥‥。
○山田昌弘 著『希望格差社会』(筑摩書店2004/1900円+税)
 →遅ればせながら読み始めている。議論の内容はあちこちで聞いていたので後回しにしてしまったが,意外と面白いこと書いてあるので改めて購入した次第だ。日本の教育制度を「パイプライン・システム」と表現して説明する教育議論は少ないので,ここに登場する「パイプの漏れ」といった表現も考慮しておかないと‥‥。「リスク化」「二極化」する日本社会について小気味よく紹介してくれている。
○宮台真司・仲正昌樹『日常・共同体・アイロニー』(双風舎2004/1800円+税)
 →素養もないのにこういう議論に身を乗り出してみることが好きなので,ちょこちょこ読んでみる。ただ読んでいるというだけ。
○杉山幸丸『崖っぷち弱小大学物語』(中公新書ラクレ2004/720円+税)
 →説明はいらないと思う。私たちにとっては日常が書いてあるかも知れないし,皆さんにとってはびっりする世界が展開しているのかも知れない。それでも頑張らなくては‥‥。

Apple StoreへGo!

 プライベートブログにも書いたが,Apple Store Nagoya Sakaeが明日(22日)にオープンする。私の住む名古屋地区にもアップル社の直営店がやって来たわけである。教育雑談界(なんじゃそれ?)において熱心なアップルファンを自認する私としては,オープン初日に行かないわけにはいかない。始発の電車で並びに行く予定なのだ。
 あれこれ慌ただしさにかまけて,先日サンフランシスコで行なわれたアップル社の新製品について取り上げなかった。いやはや,いよいよ真打ち登場である。「Mac mini」は,既存のパソコンユーザーがMacintoshコンピュータを所有し始めるには格好の製品だ。すでに持っているディスプレイ,キーボード,マウスを流用することを前提として,きわめてシンプルにデザインされた小さな本体とACアダプタのみで構成されている。特筆すべきは,そのパッケージの小ささと手軽さ,そして6万円弱という開始価格である。
 皆さんは,あいかわらずMacintoshというパソコンが,Windowsパソコンと使い勝手が違うとか,互換性がないから使い物にならないだろうとお考えかも知れない。しかし,21世紀に入ってMacintoshには,Windowsパソコンが太刀打ちできないほど価値のあるソフトウェア(「iLife」という名前である)が無償で添付され,その性能と使い勝手の良さは高い評価を得ているのである。実際私は,iLifeでかなり楽しませてもらっているし,教育現場の仕事にも大変役立ち,楽しい経験を生み出している。
 これまで私はそれらMacintoshの進歩やバージョンアップに多額の資金をつぎ込んできた(ファンだから仕方ない)が,はっきり言って,それほどの価値のあるパソコンとソフトウェアのセットを6万円程度から手に入れて体験できるというのは,今から購入する人たちは,幸せである。なにはともあれ,Apple Storeへ行こうじゃないか。

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歴史をなぞる

 昨年末に発表されたOECD-PISAとIEA-TIMSSの学習・教育到達調査の結果が,学力低下傾向を示していたことに端を発し,学力重視の主張がさらに激しさを増してきているようだ,そして,18日付報道にもあったように,中山文科大臣の学習指導要領の抜本的見直しを公に明らかにした。日本教育新聞の記事では,すでに昨年の中教審総会にて,見直しに関する要請が伝えられたことが報道されている。
 2つの国際調査が学力低下傾向を表したとはいえ,それは単なるペーパーテストの結果と解すべきではない。特にOECD-PISAが行なった学習到達度調査の内容は,昨日の駄文に対するlee氏のコメントにもあるように,今後のますます複雑化する時代を生き抜くに必要なリテラシーとは何かを詳細に吟味した上で設定されたものであるのだから,中山文科大臣が発言したような教科中心主義への比重移動の必要性は,すり替え議論でしかない。『論座』2005年2月号には,その辺の話も含んだ,佐藤学氏による「「改革」によって拡大する危機」という論考が掲載されている。
 「文科大臣の発言は個人のものではあり得ない。」雑談の中でそう言われて,少しハッとした。それはそうだ,見過ごすところだった。すべては文科省のとある勢力や大臣の取り巻きがお膳立てしたシチュエーションの中で起こっていること。そう考えると,なるほど過去の歴史にその構図の見本がある。教育基本法改正問題も,過去の制定過程を調べてみれば,どうしても変えたがっている理由のようなものが見えてくる。日本国憲法を変えるためには,教育基本法を変えなければならないという暗黙の理屈を踏襲しようとしているようなのだ。その歴史の周辺には「国語重視」のような考え方も散見される。要するに,今あらためて60年前などの歴史の段取りをまねて物事を変えようと画策している人たちがいるということだ。
 その人達にとって,忘れん坊で煽ること大好きなマスコミは便利な道具だし,「ゆとり教育」なる言葉は正式なものでないとしても攻撃しやすい分だけ有り難いレッテルなのだろうし,様々な現場の人たちの感情的な発言や意見は議論のすり替えの余地をもたらす点で大歓迎なのだろう。政治問題になりにくいといわれる教育は,実はもっとも政治的に操られている分野である歴史は変わらないようだ。

年明けの文部周辺

 センター試験であれこれ問題が出てきて賑やかだと思ったら,今度はいよいよ「総合的な学習の時間」の削減も視野に入れた学習指導要領の抜本的見直しを中山文科大臣が明確にしたというニュースが飛び込んできた。
 
 それにしても年明けの文部行政周辺はいつも慌ただしい。ご存知のように今年に入って読売新聞には,教育基本法改正に関する作業部会だかどこかの提案原案を取り上げたアドバルーン記事がお目見え。かつて文科省の「ゆとりから学力重視」の方針転換を年明け早々にすっぱ抜いた読売らしい記事である。まあ自民党大会で改めて年内の改正が誓われたのではあるが‥‥。
 今回,中山文科大臣がスクールミーティングの後で明らかにしたとされる意向は,「主要教科の授業時間数拡大確保」「総合的な学習の時間の削減可能性容認」「土曜日授業実施の弾力的容認」となっている。個人的な見解として「国語を重視」といったところのようだ。スクールミーティングで現場の先生たちの意見を聞いた後ということもあるだろうが,これらの意見は中山文科大臣自身が前々から取り組みたかった懸案事項のようでもある。
 それにしても,この不十分な情報からすると,中山文科大臣の発言は単なる復古主義にみえる。要するに改革する前の状態の方がマシだったことを受けて,そこへ戻してもいいんじゃない?と言っているだけじゃないか。それを中教審はどう吟味するつもりだろう。学習指導要領の抜本的見直しは必要としても,そのどさくさに紛れて「総合的な学習の時間」削減論を,さももっともらしく立論してしまうのは,これまた乱暴としか思えない。教育研究はどこまで蔑ろにされてしまうのか。
 皆さん,よく考えていただきたい。そして本来切り分けて考えなければならない事柄を混同させてしまう落とし穴に気をつけていただきたい。あたかも現場の声を吸い上げて,ゆとり教育なるものを見直し,かつての学校教育を取り戻せるかのように思わせる今回の動きは,改革の新たなバリエーションを増やすことに加担して,実のところ更なる混乱を引き起こしかねない。
 物事を変えるにあたって,大胆な決断や行動の必要性は認めるとしても,教育研究がその決断と行動のために研究成果を蓄積し続けているにもかかわらず,参照され熟考されることなくマスコミ報道の盛り上がりの声によって事態が進展してしまう実態。実は,それこそが私たちが繰り返している過ちなのではないだろうか。

防災対策少しずつ

 「阪神淡路大震災から10年」とあちこちで唱えられる。当時,私は大学生だった。翌朝,友人達が取っている新聞を寮の玄関で眺めたことを覚えている。大変なことになったなと思った。
 さて,東南海地震がいつかやってくるぞと警告を受け続ける愛知県民の私にとって,このところの災害ニュースの数々は,いよいよ対策をしなければならないという危機感を抱かせる。昨年の地震のときには,とりあえず周りにある着替えやラジオなどを詰め込んだ即席簡易非常袋を準備して,いまでも玄関に置いている。先日は,本棚と天井の間に挟み込む突っ張り棒を購入し,転倒防止するようにした。研究者は「本の下で死ねたら本望」と言うのは格好いいが,ホントに死ぬのは冗談じゃないので,少なくとも時間稼ぎのためにも付けた。
 この機会に,少しずつ防災対策をしようと思う。

成人の日

 新春気分もすっかり抜けてきて、今年の事柄がいろいろ始まっている。北海道では日教組の教研集会が行なわれて終わったし、センター試験に向けた受験生や関係者の準備も進んでいる(そういえば私もその手の仕事がある)。そして学生たちは、成人の仲間入りを象徴する「成人式」に参加するため、朝も早くから美容院へと出かけていたことだろう。
 統計局の「統計トピックスNo.10」によれば、新成人となる昭和59年生まれの人口推計は150万人。一緒に掲載されているグラフからもわかるように、今後は年々減少傾向にあるとのこと。これに関して、若い世代の人口だけでなく日本全体の人口が減っていくことが経済を縮小させ、世界における日本の競争力を懸念する論がある。また一方で、少子化結構、日本経済は別に人口に関係なくそこそこに適応していく、という考えもある。ああ、いろんな要素をごちゃ混ぜました、すみません。
 まぁとにかく、新成人の皆さん、おめでとう。 何が「おめでとう」なのか、実のところよくわからないが‥‥。

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『ケータイ・リテラシー』

 情報メディア教育の分野で論議の主役に躍り出ようとしているのは、「ケータイ」こと携帯電話だ。一般の人々から見れば、何をいまさら感があるケータイだが、教育の分野における議論は驚くほど浸透していない。そして困ったことは、議論参加者もしくは対象者間における認識の格差が大きい、そういう話題であることだ。たとえば皆さんは「e-learning」というならば「ああ、聞いたことはある」という程度に認知してきていると思うが、先進的な取り組みを志す先達者たちの間では「m-learning」の可能性が模索されている。これはケータイなどのモバイル端末を教育利用で活用してしまおうという実践なのだが、まだ一般的に認知されているとはいい難い。
 それにしても、実際の教育現場でケータイはとても厄介な存在である。メディアとしての可能性を見いだす立場からは、その道具性ゆえに使い方や接し方について「教育をしっかりすべき」であると論じられるものの、もたらされうる現実について詳細に検討することは少なかった。下田博次氏は『ケータイ・リテラシー』(NTT出版2004/1600円+税)で、たくさんの資料を駆使してケータイのもたらす現実を記述している。ケータイ周辺の問題点を明らかにしようとするとともに、現実的な解決策を模索している。
 下田氏の本においても、結論的には、ケータイなどを代表とするIT技術が活かされた社会の中で、どのように子どもたちが生き、また私たち大人が関わっていくべきなのか、具体的に取り組むべきことは何か、を示している点で議論の大まかな方向性がこれまでのものと異なるわけではない。しかし、下田氏の論は、単にケータイというメディアの特性だけでなく、若者たちの文化や心理の領域を丁寧にたどろうというところに特徴があり、それをもって私たち大人が取り組むべきものを考えようとしている。たとえば子どもたちが大きな関心を抱く「性」文化の問題も扱っているが、こういう議論はすべての論者ができているわけではない。
 それにしても私たち(一般読者)は、ケータイにまつわる言説について、光と陰を語られ、子どもや社会への接し方を考え直した上で、実践することを求められている。それはたとえば利用料金を薄く広く徴収して莫大な利益を上げるビジネスに対して、いちいち抗するといったことも含まれていると思う。小さな実践を積み重ねるという忍耐強さもまた鍛えなくてはならない世の中になってきた。それも子どもたちではなくて、日々の事柄に巻き込まれて慌ただしい大人たちが、である。

語りつづける

 昨年からゼミの学生達とともにインターネットラジオ番組への挑戦を試みていた。ひとつの表現形態としてのラジオ番組を経験してもらおうという目論見であったが,私の多忙が災いしてペースを作り出せなかった。この辺はゼミの運営方法について私自身がもっと熟達しなければならないことだ。
 この数日,収録してありながら半年以上も寝かせていた音源を編集する作業に明け暮れた。インターネット上でなんとか公開。これで気になっていた事柄が少し減った。一人一人が保育所実習で経験したことを語った「実習報告トーク」は,独りしゃべりということもあって,それぞれの個性というか,色が出ていて興味深い。
 「語る」ということは,想像以上に難しい。「しゃべり」は出来ても「語り」になるには,それなりの要素が必要な気もする。おそらく他者性との関係から考えることが出来そうなのだが,それについてはもう少し落ち着いてから考えてみよう。なにしろ,気になっている事柄があれこれ積み上がっているので,思考に腰が入らない‥‥。

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