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「iのある教育と学習」終了と次回

 2010年3月28日(日曜日)13:30〜15:30に東京・初台オペラシティー32階セミナールームにて,iPad/iPhone教育利用の集い「iのある教育と学習」を開催した。
 事前申込みと当日受付を併用して参加募集したところ,95名の事前登録をいただき,うち54名の方が出席。当日飛び込みは17名。関係者や小さいお子様も合わせると83名が参加してくださった集いだった。
 ネット上で呼びかけながら実現した催し物としては,そこそこ立派な規模で出来たのではないかと思う。特に,こうしたテーマに敏感な来場者を多数迎えられたことは幸せなことだし,そうした期待以上に素晴らしいプレゼンとトークを展開したくださった登壇者の皆様,それを支えてくださった協力者の方々の力を得られたことは幸運だった。
 いや,もう正直「やったぜ!母ちゃん!今日はホームランだ!」(ガッツポーズ)。

 とはいえ,課題は多い。準備・運営に関して言えば,何かしら組織や体制を整えたものではなかった。あなたとあなたを呼んできて,ちょっと近くの喫茶店でお見合いしましょう。ということは出来たのだとしても,今回の成果を踏まえて継続的に開催していくための手続きはほとんど端折っている。
 願わくは「私たちもやってみよう」と声が上がってくれることなのだが,さて,その一声を出す勢いと,準備に関わらなければならない手間を厭わぬ積極さがなければ,本当のつぶやきに終わってしまいやすい。
 そのことはスタート当初から分かっていたことではあるけれど,それを丁寧に組み立てていると緊急開催が難しい。その上,ネット上の皆さんを結びつけて実イベントの準備に関わってもらうには,すでにある団体や組織が開催する場合とまた違った配慮が必要で,アクションとフィードバックを迅速・明確にしなければならない。単発性が強くなるのは,そうした理由もある。

 さらに,こうした活動を継続するには本当ならスポンサーも必要だ。今回入った喫茶店には,たまたま林檎のマークが付いていたわけだけれども,別に林檎さんから一銭ももらっていない。場所代は菓子折りと引き換え(たぶん)。登壇者や協力者の皆さんは手弁当で参加してくださった。確かにこういう点は継続性に欠ける点だっただろう。
 ちなみに今回少なからずかかったであろう経費は,私個人負担もあるが,iPhoneあしながプロジェクトで稼いでいる資金を充てようと考えている。開発したiPhoneアプリのアプリ内広告は,おかげさまで少しずつ稼いでくれているので,印刷費やポストイット代くらいは賄えそう。それ以外は初期投資として諦めなければならない。
 ただ,お金の問題は丁寧にする必要があって,そのためにも組織とか責任者が必要ともいえる。それがこの手の催しや活動を面倒なものにしてしまう原因でもあって,志はあっても多くのエネルギーは割けない個人が集う活動を難しくする。一方で,組織を作り始めれば,準備運営に関わる者とそうでない者との温度差が開き,やがて内輪や馴染みの人たちにしか訴求しなくなってくる懸念が高まる点,悩ましい。
 Twitter的なものがある種のコミュニケーション・プラットフォームになり得るのであれば,そのような問題を少しでも乗り越えるモデルや方法論などが見えてくるとよいのだが,それはソーシャル・ネットワーキングの分野でいろいろ明らかにされてくることだろう。私はその分野は門外漢だから,実践を通して探ってみるだけである。

 次回は西の方でやりたい。ゴールデンウィーク明け直後が良いのではないかとアドバイスもいただいている。名乗りを挙げて?いるのは大阪と京都。両方ともやってみたいが,まずどちらから開催するべきかは,ラブコール次第と考えている。あと,いろんな形のスポンサーがつくと嬉しい(事務引き受けとか,経費サポートとか,会場提供とか,宣伝告知サポートとか…)。
 私個人は,もう少し気楽に手伝えたらと思う。

イベント準備

 3月28日(日曜日)にiPad/iPhone教育利用の集い「iのある教育と学習」を東京初台オペラシティ32階にあるセミナールームで開催することになっている。

 それは1月28日あたりにアップル社の新しいタッチデバイスであるiPadが発表されたことをきっかけとして,iPadを学校現場に持ち込みたいと私がツイート(Twitter上の書き込み)し,様々な人々が反応してくれたことに端を発している。

 最初はオンライン上で協力し合えればよいかなと漠然と思っていたが,それだと盛り上がりが雲散霧消してしまうだろうことは経験的にわかっていたので,少なくとも最初は何か物理的に集うイベントが必要だと考えた。

 ならば,教育関係者向けにiPad発表内容をリピートしてもらおうと,アップルジャパンにお願いしてみることにした。どうせ会場も必要だろうから,AppleStore銀座のシアターを借りる手続きも始めてしまおう,そんな風に準備が始まった。

 林檎マークの会社と長らく付き合っていると,その行動規範のようなものも分かってくるし,最悪の事態もある程度想定できる。駄目元でお願いすることから始めたので,交渉中は緊張感もあったが同時に気楽でもあった。交渉は紆余曲折あって,当初イメージした形とは変わったものの,結果いろんな方々のおかげでイベントを開催する目処が立った。

 それにしても林檎マークの会社は,変な会社である。いい意味でも悪い意味でもストイックな姿勢を貫いている。そこが好きでもあり嫌いでもある。ただ,それは何かに似ているのではないか。そうだ,学校教育だ。多くの人々に強烈な影響を与えているくせに,ある程度インビジブルであろうとする。そして好きだと言う者もいれば嫌いだと言う者もいる。なるほど,私が林檎にシンパシーを感じるのはそういう理由なのかも知れない。

 これまでご一緒したことのない方々にも協力をいただくことができたのは,インターネットとTwitterがあったからこそだ。そしてUstreamがイベントを全国や世界の皆さんに届けるのに力を貸してくれる。本当の意味で「新しいご縁」を生み出すことに,これらのツールを活用できることを嬉しく思う。イベントを機に参加者同士の出会いも生まれるといいなと思う。

 黒子に徹しようと考えているが,呼びかけといて何もしないわけにはいかないので,最初のご挨拶や趣旨説明と資料くらいは用意しようと思って作業している。あとはイベント進行のために動くのが私の役目。そして,第2弾,第3弾をご一緒してくださる方を見つけて,流れを繋げていくことが大事だと思っている。

 おかげさまで,事前登録だけでも70名以上の参加表明をいただき,あと当日飛び込んできてくださる方を期待すれば,100名弱の皆さんとご一緒できる予定である。さらにUstとTwitterでイベントを見届けてくださる方を含めれば,そこそこの規模だと思う。扱うテーマと開催地,そして協力してくださる皆さんのネームバリューのおかげだ。

 こうした動きと学術的な世界を,うまく繋ぎ合わせられると,より可能性も広がるだろう。次回以降,私が表舞台を踏む機会が訪れたら,いろいろとお話しできることもあると思う。

 まだまだ,たくさんの人たちに出会わなければならない。ひとところには留まってられないなと思う。

使っていない筋肉

 数日前から通勤手段を徒歩にした。最近雨降りが多かったので,自転車ではどうも具合が悪いこともあったが,日頃の運動不足を解消するためにも,徒歩通勤が一番よいと思えた。

 徒歩で歩くと世界がまた違って見えたりする。通り道にはパチンコ屋やラブホテルくらいしかないので,あまり素敵な通勤路ではないが,遠くに見える眉山を眺めたり,Podcastを聴きながらトコトコと歩くのは,自転車でシャーっと走り抜けるよりも自分の存在感を強く感じる。

 どこかの雑誌に「日本人は膝下でしか歩いていない」という話が載っていた。それじゃあ姿勢も悪くなるし,そもそも運動にならないので,意識的に股を交互に前経出す感じで歩くようにしている。

 普段使っていない筋肉で歩くことになって,さらに身体もすぐ温まる。職場に着いたときには少し暑いくらいになっていたりする。そうやって日常的なエネルギー代謝があがれば,健康にもプラスになるかも知れない。

 今のうち,早寝早起きも習慣づけて,大忙しになる新年度の準備をしよう。そういえば,来週から名古屋,東京へ出掛ける。いろんなことが上手くいくといいなと思う。

世紀の越境からゼロ年代の教育行政記

 イベント用の資料をつくるにあたって私自身の見落としがないかどうかを確認する意味も込めて小川正人著『教育改革のゆくえ ――国から地方へ』(ちくま新書2010.2/777円+税)を読んだ。

 駄文でも教育制度や教育法規に関する知識が今後ますます必要になることは繰り返し述べてきたところではあるけれども,この本は,20世紀末から21世紀・ゼロ年代あたりの日本の教育行政の仕組みと起こった出来事を綴っており,制度と法規がどのように運用されたのかが分かる内容となっている。学校教育現場を振り回している教育改革の中心部がどんな風に動いていたのかを知るには手ごろな書である。

 ジャンルとしては教育行政学であるし義務教育周辺に焦点が当たっているので,たとえば教育基本法改正,学習指導要領のはどめ規定見直し,高等教育政策など,その他多様なトピックスや議論については触れられていない。この本が,当時の教育改革の全てを扱っているとはいえないまでも,確かに書名にある「国から地方へ」という大問題を考えるには十分な材料である。

 さらに,この本の執筆が政権交代して間も無い頃であったことも関係して,事業仕分けの話や教員養成課程の見直し議論などについて十分言及がされていない。民主党政権の教育改革は,まさにこれから始まろうとしているのだから,それも当然かも知れないが…。

 

 幸い,この新書が扱っている範囲で自分の認識が見落としているものはなかった。けれども,いまだ多くの一般市民がこのような新書に描かれている事情や変化について知っているとは言い難いようだ。

 これからは個々人がこうした事情を理解して学校教育に関わっていかなければならない時代になっている。特に教育が専門ではない分野の人々にも鳥瞰図を理解してもらい,効果的な方法で教育分野に関わってもらう必要がある。

 もちろん,直裁的に関わる人もいれば,面倒な部分を回避して関わる人もいるだろう。それは個々人のアプローチだから選択に口出しするつもりはないけれど,全体としてそれぞれが自分の立ち位置をおおよそ把握しておくことは大事だ。

 たまに全国の教育ニュースを収拾してTwitterで流しているのだが,そうした作業の中岳でも日本全国の地方の実態が様々であることはわかる。と同時に,地方分権の難しさも感じる。

 もっとこの問題にいろいろ斬込んでくれる人たちを増やさないと…。

新年度の時間割り

 帰りがけ確認したポストに,来年度の担当授業リストが入っていた。
 前期は週7時間。私立大学ならば標準的な時数かな。週3時間という先生もいれば,週10時間以上という先生もあるから,比較し始めたらややこしい話になる。曜日の割り振りは,月から金までまんべんなく。これも一日で済む先生もあれば,月から土まで授業という先生もいるから,あれこれ言っても仕方ない。
 私個人的には毎日出勤して,授業して,翌日の準備して,という規則正しい生活になるので,独り身としては堕落する暇がなくて助かるというものである。
 もっとも現実的には土曜日も出勤し,日曜日に一週間の家事洗濯をすれば,それでまた新しい一週間になってしまうので,学期が始まると一週間一週間が矢の如く過ぎていく。それがちょっと残念か。
 それでも幸い,今年度と同じ授業科目もあるから,蓄積を踏まえて授業を深めていけそうだ。新しく担当になった科目もあるから,それについてはまた一から蓄積を重ねなくては。パソコンの授業はようやくOffice2007ベースへ移行予定。どうなることやら。

 今日は,ご無沙汰している方々にメールを書いた。催しの告知をして,関心があったら来てもらおうと思ったからである。お世話になった方々全てには書けていないが,元気でやってますの報告を兼ねて…。
 大変お世話になった学校の先生方にもメールを書きたいと思っている。ただ,別の活動でお忙しそうだから,ちょっと気が引けてしまっている。あっちもやって,こっちも来てよと言うのは,先生たちの忙しさを思うと安易にできない。でも,告知だけでもしたいと思っている。


タッチデバイスを現在へ

 今年,タッチデバイスに関する話題のさらなる盛り上がりが予想される。そのための布石をつくってきたのは他ならぬiPhoneに代表されるスマートフォンの登場と認知であった。そしてiPadの登場。いよいよタッチデバイスが実際に私たちの手の触れる場所へやって来る。

  従来の携帯電話は単なる電話ではなくネットに繋がった情報デバイスであるとの事実が,教育界に情報モラル教育の必要性を認識させてから,まだ長くは経過していない。昨今の携帯電話はスマートフォンの影響を受けて更なる高性能化を果たし,完全にインターネットの世界を前提とした情報デバイスになっている。学校のPCよりも自由度が高い。それを学校教育でどう扱うべきかは,ほとんどコンセンサスが得られていない。まして,カリキュラムはほとんど蓄積が無い。

 学校教育はどうしてこんなにも情報化やICTの動きに対して後手に回ったのだろうか。

 一体,学校教育を取り巻いてきた私たちは何をしてきたことになっているのだろうか。

 2000年頃の私たちは,世紀の越境を学級崩壊や学力低下の問題を抱えながら歩んでいた。その後,e-Japan戦略が国家戦略として示され,教育分野も2005年を期限とした目標を掲げたものの,これを達成しないまま2010年を迎えている。2009年度の補正予算に掲げられた「スクールニューディール事業」も政権交代と事業仕分けによって,滑り込み組を除けば,すっぱり廃止された。

 残念な事態。そんな言葉が慰めのように中空を駆け巡る。各自がやるべきこと,出来る事に取り組むことが大事だと,物分かりのよい納得を奨励する空気が漂う。確かに,それが一番力を持つのだろう。誰のせいでもない以上,誰がどうこうできる話でもないのかも知れない。次の機会のために,一から積み上げ直す作業は必要だと思う。

 けれども,それは一体いつの機会のことを指しているのだろう。

 ハードウェアやICTを学校教育に導入することが目的化しているような動きに対して,多くの人々がけん制球を投げる。モノを売りつけるだけ売りつけて業者だけが儲かって終わるだけと案ずる声や,新しい道具が教育の営みを根本的に改善するわけではないのだと道具の導入を冷ややかに見る目が増えている。まずは実験的に確かめてから,事例を積み重ねてから,可能性と限界を見極めてから,その上で慎重に教育活動をデザインして普及させなければならないと正論が流布される。

 なるほど。それは一理ある。

 いやしかし,なぜ私たちは学校教育の場に道具が導入されることをまずは引き止められるのだろうか。

 子ども達への影響を理由に,失敗が許されないと述べるその口や頭は,どんな理想的な導入プランがいつ紡ぎ出され,それがどんな方法で学校現場の教員に正しく伝えられると踏んでいるのだろうか。その成果は,導入タイミングを遅らせることを十分に納得させるにたるものだと,何をもって説明するのだろう。

 もちろん,教員の適応力の水準が低いのだと指摘した上で,無目的にハードウェアや道具だけが導入されても使いこなせるわけがないと看破する意見はもっともである。だから,納得できる利活用の方法を蓄積するのが遠回りとしても近道なのだということも理解できる。その努力は,今も誰かが取り組んでいるし,今後も引き続き多くを積み重ねていくべきである。

 しかし,そのような努力を継続的に取り組んでいくことと,ハードウェアや道具が導入されることは決して順列に為されなければならない事柄ではない。

 正直なところ,前者の努力には多くの人々が意識を払うけれども,後者の努力は企業や業者がやればよいと考えて,どこか頬被りではなかったか。

 本当にそう思うなら,自分でやれよ…。

 私が私に対して出した意見である。

 

 私は,2010年代のうちに,先生たちの間でタッチデバイスが日常的な道具になっていると考えている。

 その出発点は2010年のiPadであろう。

 そして,iPadが集めたタッチデバイスへの期待をAndroidタブレットが引き継ぎ普及が始まると予想している。

 私たちが今すべきなのは,iPadのもつ「わくわく感」要素をしっかり見極めて,Androidタブレットに正しくフィードフォワードしていくことである。その成果はOLPC(子ども1人にPC1台プロジェクト)にも反映されていくことがベストである。

 日本の私たちは,モノの善し悪しを見極める力はどの国よりも高いはずなのだから,下手にオリジナリティを固執するようなことをせず,素直に善きものを取り込み,悪しきものに改善を加える努力で貢献していくことが望まれる。

 その作業と並行して,どんどん学校現場にハードウェアを普及させる努力をないがしろにしてはならない。本気でモノを売り込む努力無くして,本気でモノを改良していく努力も生まれはしない。それぞれのプレーヤーは,それぞれの立場から普及に貢献していくことが望まれているのである。

 要するに,これまでのハードウェア売り買いも道具売り買いも緊張感が足りなかったのであり,緊張感がないところに真摯で誠実な商売や消費もあり得ない。

 今の私は,その緊張が生まれるような知見提供や活動を積極的に展開していくことが大事だと考えている。

 私は,電子デバイスをまったく導入しない学校教育の可能性もあるとは思っている。カリキュラム研究に携わる人間として,いつ何時でも,その可能性と選択肢について立ち戻り吟味することを厭わない。けれども,今のところ,私は電子デバイスが利活用される学校教育の可能性の方に魅力を感じているし,その方向性でカリキュラムを考えていきたいと願っている。

 そのために多くの変数を変えていくという「意志」「行動」が必要なのだと思う。

 それは,研究者というよりも実践者としての選択なのだが,私はまさに今,そちらに重きを置いている。

  私は子ども達がタッチデバイスを活用する日が来るとも思うのだけれども,正直なところ,その部分に関しては自分の立場をニュートラルにしようと考えている。

 多くの人々の関心は,子ども達一人一人がタッチデバイスあるいはデジタル教科書・ノートを持つ事に向けられている。そのことは了解しているし,私にとってもそれは興味深い未来予想図なのだけれども,私にはその前に小中高校の先生方にとって一般的なツール(それは使うなら使うし,使わないなら使わないという選択が自然にできる位置づけの道具という意味合い)になることが最優先だと思っている。そのこと無しには,どうしても子どもの方まで想