そのたび憶えていようと思うのだけれど,自分が過去どこで誕生日を迎えたかは,意外と憶えていないものである。先日,東京に出てきて初めて誕生日を迎えた。
何の変哲もない一日。確定申告の書類作成のために,散らばった源泉徴収票等を探し集めていた。歳の数値は増えたのに,申告の数値は減っている現実は,滑稽なドラマを演じているようにも思えた。
国税庁のサイトにある確定申告書の作成サービスを利用して計算をチェックする。せっかくだからPDFで出力されたものをそのまま利用することにしよう。今年も収入があるなら,来年,電子申告に挑戦してみよう。
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そうやって家の中に閉じこもって夕方。このまま誕生日が終わるのも寂しいので出かけることにした。書店に寄ってみるが,こんな日に限って刺激を受ける本も雑誌も見あたらない。
それでも時間だけは過ぎて夜。そろそろ家路につこうとするが,夕食をどうしようかと思う。自炊するか…。ぼんやりそう思いながら家に向かうが,途中で思いつく。「そうか,今日は祝いの日だ。世界のやまちゃんへ行こう」
珍しく酒を飲みに行くことにした。生ビールと幻の手羽先二人前とトマトスライス。ただひたすら手羽先に食らいついていた。たまに昔のことを思い出したりした。そして今後のことを考えてみたりした。けれども,これから何がどうなるかなんて,まるきり分からなかった。
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教育学部を受験するため高校の内申書をもらいに,今は亡き高校の恩師に会いに行ったとき,先生はこんな風なことを言った。「お金と女には気をつけなさい。教員はこの2つに気をつけないといけない」
短期大学の教員になったときは焦った。この2つがワッと押し寄せてくるのだから…。幸い,どっちとも距離は遠かった。むしろ気をつけるとしたら自分自身の浅はかさだった。
その証拠に依願退職をした。任期でも何でもないのに自分から飛び出した。このご時世で,あんまり賢い選択ではないな。冷静沈着な人間であったなら,もう少しマシな異なる方法を選択するものである。かくして私は冷静沈着ではなかったのだ。恩師が「自分自身に気をつけろ」と付け加えていたなら…。(注:ここ笑うポイント)
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手羽先を食べる私の向かい,衝立(ついたて)越しの席に男女がやって来た。顔は見えないが手元は見えるという衝立の向こうで注文が始まり,しばらくして二人ともタバコを吸い始めた。なんてこった,せっかくの手羽先三昧の雰囲気が,一発で台無しじゃないか。
タバコの害についてのビデオ教材編集に関わったことを思い出した。タバコは百害あって一利無し。そう昔から教えられているにもかかわらず,なぜ人々は平然とタバコを吸うのだろうか。
でもそれは,私が祝い事に手羽先を食べたいと思う気持ちと,どこが違うというのだろう。手羽先ばかりの夕食が健康的でないのは明らかである。それでも手羽先三昧を欲したのは私ではないか。
吹けば飛ぶような人のモラル。それが私たちの現実。だからこそ,徒労にも思えるかも知れないが,モラル教育を繰り返し繰り返し続けていく必要があるとも言える。けれども,それを担うことはますます難しい時代にもなった。
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もうじき大学院が始まる。案ずるより産むが易しかも知れない。内田樹氏も書いていた。教育や研究は,これから得るものが分からないからこそ成立するものだと(ん?そんな風には書いてないか?)。
きっと「分かっていなければならない」という強迫観念に翻弄されているのかも知れない。少なくとも教員として過ごしてきた日々は,そう振る舞うことが求められていた。
いまから「分からないです。だから調査・研究するんです」と素直に思えるようになれるかどうかが,私の課題なのかも知れない。初心,忘れるべからず。
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生ビールと手羽先を一つずつおかわりした。向かいの男女もタバコはやめて食事を楽しんでいる。そう,こんな感じでいい。とりあえず,今夜はこんな感じで過ごせればいい。
きっと目まぐるしい未来がやってくる。そのとき,私は思い出すだろう。東京で初めて迎えた誕生日,生ビールと幻の手羽先とトマトスライスを食べて過ごした時間のことを。今までの出来事とこれからの出来事の狭間で漂うことの出来た,何の変哲もない一夜のこと。懐かしく思い出すのだろう。
月別アーカイブ: 2007年2月
時代はずれで
先日,研究会後の懇親会で若き教育学学徒とやりとりする機会があった。私より何倍もスマート(賢い)人達だから,そうした人達が活躍するのをアシストできるくらいに私も頑張りたいと考えている。もっとも,アシストする方がよっぽど難しいかも知れないが…。
彼らと話して驚いたことがある。ある意味,ピュアなんだな。人生に疲れていないというか。理想と現実となら,まだ理想だけを見続けても,躊躇いが起こらないというか…。
それは教育を語ろうとする人々には,多かれ少なかれ潜在するのかも知れない。私だって,結構一途である(何に?)。
それでも私の場合,駄文を書くフェーズや思索に入り込むと,批判だけする自分も登場させるし,深読みする自分も現れるし,細かな心情を想像しようとする自分も呼び出すし,奇想天外でマッドな発想をする自分も試みたりする。
あんまり登場人物が多くなりすぎて,ごちゃごちゃしているものだから,普段の私は,静かに微笑んで周囲の意見を聞く「聞き役に徹する」ことにしている。たまに考え事して聞き逃しちゃってるけど,ははは…。
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情報教育というのは,世間で扱われる「情報」一般について様々学ぶ領域である。ところが,教育現場では,情報教育というと「パソコンを使わせる授業」であると想像されがちである。まるっきり間違いではないが,正しくもない,というのが情報教育分野でのメインストリームである。
要するに「周回遅れ的な認識」が依然存在しているということである。教育の世界には,結構この「周回遅れ」というのがあったりする。学習指導要領の改訂スパンが長かった時代もあるので,その名残みたいなものだ。
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近日中に記事がWeb公開されるが,「FACTA」誌3月号に「パソコンを見放す20代「下流」携帯族」という記事が掲載された(ちなみにFACTA誌は年間購読の直販雑誌だが,いくつかの書店には置いてある)。
この記事は,調査会社ネットレイティングスが昨年公表した「ウェブ利用者の年齢構成」リサーチに基づいて,「第二デジタル・デバイドの出現」について解説を試みた記事である。要するに2000年から2006年の6年間で,PCからウェブを利用する20代が右肩下がりで減少しているというのである。
この調査結果をもとに,記事は「PCイリテラシー(文盲)層」の増加が社会常識に大きな断層を生じさせる可能性を憂うのである。もちろん,こうしたネガティブ論調の記事には一定の距離を置くリテラシーが私たちに求められる。それでも,当該リサーチの世代構成比グラフの変化について考えることは興味深い思索である。
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当該調査において6年間,「19歳以下」というカテゴリーは一定の構成比を保っており,その他の世代カテゴリーも細かい増減はあれ,際立った変化は示していない。「20歳代」だけが顕著に減少している。
こう考えると,19歳以下が保たれているのは,学校教育で「パソコンを使わせる授業」が周回遅れで残っていることが貢献しているのかも知れない。そうした環境から解き放たれた若者は,携帯で事足れりとPCを捨てるのかも知れない。
そこから30代になると,仕事上の必要性が発生して比率が増すのかどうか。残念ながら6年間という調査スパンのデータではそこまで推論を延長することは出来ない。もし今後の調査で30代の比率も緩やかに減少していくとしたら,憂うべき事態が進行していることを本気で考えなければならないかも知れない。
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同記事は,先月話題になったアップル社のiPhoneというスマートフォン(高性能携帯電話)について触れ,今後ますます携帯電話や端末で事足れりという状況が来ることを示唆している。
情報教育分野の一部では「携帯電話の教育利用」や「携帯モラル」について取り組んでいるものの,周回遅れの教育現場にとってはまだ先の話といったところもある。
ただ,もしかしたらこの周回遅れ的な現実が,若者のPC離れを食い止めることになるやも知れない。教員向けの校務用パソコンの配布が周回遅れで遅くなったおかげでVistaから始められた(XPからのアップグレード問題で悩まなくてよかった)のと同じで,「情報教育でパソコンを使わなきゃ!」という周回遅れ的な現場対応が奏功するやも知れない。
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同じく年間購読型雑誌で「フォーサイト」誌がある。こちらの3月号にはノーベル賞受賞で知られる小柴昌俊氏のインタビューが掲載されている。からかい半分とはいえ,「「ゆとり教育」なんて,教育学者が頭の中で考えただけの,馬鹿げたことだ。」と述べたことは極めて遺憾だ。
こうやって教育学に携わる者の存在を貶める言葉を「ノーベル賞学者」がメディアに掲載させることを許すのだから,どうかしている。同じ「ノーベル賞学者」がやっている教育ナンチャラ会議の迷走ぶりについて,何かお言葉はないものかね。いい加減にして欲しいものである。
若き学徒達は,こういう貶めについて,まだまだウブである。一方私たちは,次第に鈍感になったり,立場上文句は言わない大人の対応をするようになっていく。ったく,どうなってんだろう。
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ごめんね,時代はずれで。
教育改革関係図2007
「教師の専門性・育成に関する勉強会」に出席してきた。この分野を専門とする若手研究者の皆さんの報告を聞いて,ディスカッションをした。
私なりの議論は別に駄文を書くとして,研究会ではこの問題の緊急性とともに,あまりの領域の広さと現状における様々な困難を改めて確認することになった。懇親会の場でも,この問題を論じる難しさや限界について議論が交わされていた。
もちろん各自の前向きな取り組みについても触れられていた。それに教師問題に関心を持つ若手が集まったことで,今後この問題について一緒に何かできるのではないかという機運も芽生えそうである。
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さて,連日断片的に流れてくる教育改革に関するニュースに振り回されて,どうも全体像が見えにくくなっているように思う。そもそも教育に関する基本情報が世間に十分浸透していない状態で,どこの誰それが何か言ったことが報道されても,それが全体の中でどういう位置づけになるのか,理解できるわけがない。
教師問題の難しさが,世間一般の教育組織への理解が乏しいためであることは明白である。「教育委員会」ひとつとっても,その言葉に含まれている摩訶不思議な体系を理解している市民は少ない。
というわけで,まことに力不足ながら,教育らくがき版「教育改革関係図2007」を作成し,リスクは承知でご紹介してみたい。なお,予めお断りしておくが,物事は常に変化するゆえ,この図の賞味期間は短い。また私自身,理解が深まれば図を修正することになるので,その点を念頭に置いて参照されたい。
この関係図で注目すべき箇所は,以前の駄文にも記したように,「文部科学省」「都道府県市町村首長」「都道府県教育委員会事務局」「市町村教育委員会事務局」の四者がそれぞれ持つ権能である。
このことによって派生しているのは,義務教育(小中学校)における教員や学校長の雇用と学校の設置が,都道府県と市町村に分離しているという事態。こうした形が,場合によっては幸せな状況を生んでいない可能性があるということである。
それから教育再生会議の周辺についても,ややこしさが見えてくる。縦割りによる省庁間の溝が,細かいところで敵対関係を生んだり,場合によっては利害を利用し合ったりしていて,なんとも国民には分かりにくい。17人の委員がピーチクパーチク叫んでいるのを隠れ蓑にして,官僚がうまいことやっている感じでもある。
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まだ中途半端な図なので,意図をうまく表せていないものもあれば,誤解を生む部分もたくさんあると思う。
「子ども」が周囲から隔離されて置いてきぼりになっていることを表した部分に,「企業」からの消費者育成を線で伸ばしてある。皮肉を込めた面もあるし,学校教育などがいろいろ後手に回っている間,消費社会から様々影響を受けて育っている事実を込めたつもりでもある。
教員人事の部分については,簡略している。非常勤講師なども登場していいだろうし,むしろいまはそれが大きな問題になっている。この図からは,教員が都道府県の「県費負担職員」として位置づけられており,市町村にとってはよそ者感があることを読み取っていただくことを期待している。
それから「教育委員会」と「教育委員会事務局」という夫婦がいて,実のところ家庭内別居しているということを理解してもらうことも大事だろう。首長(この図では都道府県の知事レベルと市町村の長レベルを一緒にまとめてしまった。図の簡略化のためである)が任命できるのは「教育委員会」の教育委員だけ。「教育委員会事務局」は独立している。
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というわけで,この図の利用は,利用者本人の責任においてご自由に。作成者である私にとっては未完成な図なので,正確性についても利用によるトラブルなどについても責任は持てる段階ではないのであしからず。
日豪と教育 ((豪州渡航記10))
海外視察へ出かけるデメリットがあるとすれば「海外かぶれ」になりがちなこと。国の成り立ちも思想も全く異なる国の社会を表面的に眺めたら,そりゃ隣の花は赤く見えてしまうものである。
海外渡航を記録した駄文を読み返すたび,その自分の浅はかさを痛感するのだ。だから罰として,そのまま恥をさらしておくことも教育らくがきの役目である。ここをお読みの皆さんは,私がどんなに浅はかか先刻ご承知だと思うけれど,とにかく常に「ほんとか?」と疑いながら,こっそりお楽しみいただければと思う。まあ,知ったかぶりして情報提供するのもこのサイトの役目であるから。
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今年は日豪が通商を開始してから50年にあたる年だという。オーストラリアといえば海と大地の国みたいなイメージがあり,観光はもちろんワーキングホリデーに出かける人も多いといった印象が強い。日本の英会話学校の外国人講師にはオーストラリア人が多いということもなんとなく聞いたことがある。
そんな豪州は,日本の約20倍という国土に,約2000万人の人口というバランスの国である。国土の8割ほどが乾燥地帯だが,資源や食糧は豊富なことと自国の人口が少ないことから,多くを海外輸出に回せるらしい。
というわけで,日本や中国など資源を必要としている国にとって,豪州は頼りになる通商相手国なのである。いま日豪間では,自由貿易協定や経済連携協定の締結を目指しており,さらに安全保障面での関係強化についても共同声明を計画している。豪州は日本やアジアにとって,ますます重要な国になるというわけだ。
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豪州は深刻な教員不足に悩んでいる。少なくとも西豪州の教育訓練省は,広報紙「SCHOOL MATTERS」の最新号に掲載されたA/Director General(肩書きの全体像を確認しようと思ったんだが,事務局系の組織図が見つけられなかったので「A/」の意味が不確かである。Acting Director Generalではないかと推察される。差し詰め「執行統括教育長」みたいな感じか…)の挨拶文で,教員定員を埋められなかったことが述べられている。そんな状況の中,子ども達が新学期をスムーズに始められるよう現場の先生方が尽力したことに感銘したとある。
先日の駄文にも書いたように,西豪州は喉から手が出るほど教員が欲しい。現地通訳として私たちを助けてくれた日本人のヤスミさんも,学校で日本語を教えている先生である。とにかくなり手が少なくて困っているらしい。シドニーやメルボルンといった東側で人口の集中している街は状況が異なるのかも知れない。州をまたげば違う現実があることも珍しくはないから。
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実はオーストラリアに対してもう一つ抱いていたイメージに「遠隔教育の盛んな国」というものがあった。人口に対して広大な土地であるから,さぞやインターネット上に様々なコンテンツが用意されているだろうと思い描いていたのである。
ところが,英国ほどにはコンテンツがわんさと用意されているという空気が感じられなかったし,学校内での活用の様子もほとんど見られなかった。つまり第一に,豪州はもともと英語圏なので,ローカルな話題は別にして,豪州独自にコンテンツを用意しなくても英国や米国のコンテンツを利用することができること。第二に,学校内での利活用が見られなかったのは,そもそも英国のようにはICTが普通教室に入ってきていないという日本と似た状況にあること。こうした現実があったように思う。
それから,遠隔教育そのものはしっかりと営まれているようだ。対応の仕方はこれも各州で異なっている。たとえば,二宮皓 編著『世界の学校』(学事出版2006.4/2500円+税)でオーストラリアを分担執筆した笹森健氏は,ニューサウスウェールズ州やクィーンズランド州といった東側のメジャーな州を取り上げており,遠隔教育についてもクィーンズランド州の「遠隔教育ブリスベンセンター」の事例を紹介している。
ウエスタンオーストラリア(WA),つまり西豪州は,Schools of Isolated and Distance Education (SIDE)という学校をつくって運営するという形を取っているようだ。遠隔授業としてCentraというオンライン学習プラットフォームを活用したインタラクティブ授業も行なっている様子。興味のある人はWebサイトを探索するといい。
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あらためて,海外視察というものは,ストレスフルなものでもあるとも感じた。他国の事情を見ることで,自分自身が見えてくる。すると「何やってるんだろう,自分…」という境地になりがちなのである。
もちろん視察先から学ぶべきことはたくさんある。そして,話を深く聞き出していけば,その国が抱える独自の問題も見えてきて,(いつものセリフ)「物事そう簡単ではない」ということが分かったりもする。
結局,自分自身が「どう生きたい」のか。最後にはその選択にかかっている,としか言えなくなっている。その上で,既存の枠組みを踏まえて,あるいは隙間を突いて,現実を変えていくことになる。問題は,日本でそのためのコンセンサスがまったく形成されていない点にある。そのための「場の形成」さえ,官僚慣行と政治の壁に阻まれて形成しづらいのは事実である。
豪州にしても英国にしても,そもそも多様な人々の集まりであるという点が合意形成への努力に繋がっているのだろう。Public Relations (PR)に対する理解の深さにも表れている。多様なパブリックに向けたリレーションの仕方に努力が払われたわけである。
一方,日本も歴史的には複数民族国家であるはずなのだが,早くから識字率が高く,江戸における手習塾の普及の高さなども功を奏してリレーションし易いパブリックが生まれた。効率という点でこれほど素晴らしい状態もないが,問題はリレーションへの努力に注意が払われないままに来てしまったこと。
現在の日本は,パブリックは多様化したうえ意識水準は低下。リレーションするための努力も上がったわけでもない。結局,そこに個人情報保護の暴走とか,企業の不祥事隠しとか,言語意識の粗雑な政治家とか,マスコミの放送内容虚偽とかの問題が起こってくるのである。要するに日本全国,知的足腰がガタガタなのである。
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安彦忠彦先生が「教育課程の見直しに参加して」という連載をこの3月号まで「現代教育科学」誌で執筆されていた。今まさに展開している中教審の教育課程部会での作業を研究者委員としての立場から報告されている興味深い連載である。その論調は普段の安彦先生のものとは異なり,かなりジャーナリスティックというか,政治と向かい合って苦しむ様を描いていた点で驚きのものだった。
規制緩和と地方分権。これが日本の現在の方向性である。そう考えると豪州の状況と似たようになるとも思える。ところが,肝心の地方には様々な問題が存在し,「教育」に対するエネルギーやリソースの注ぎ方にはすでに大きな格差が存在する。まだまだ国が手を入れなければならない箇所が多く残ってしまっているのである。
規制緩和と地方分権。これを少しばかり逆行して,それぞれの地方が教育についてしっかりとエネルギーとリソースを注ぐ体制ができるまで国が手を入れられるようにするのか,それとも地方の底力を信じて国が関わることを禁ずるのか。ソフトランディングとハードランディングのどちらが日本という国にとってよいのか,もっと議論を深めなければならない。
ただ,いずれにしても教育現場に関わる者には,信念と努力を伴った柔軟性が求められる。もっと広い視野で自分自身の教育実践を構築し展開しなければならないと思う。次代の子どもたちは,本当の意味で世界を股にかけて動き回る時代を生きていくのである。そう考えたとき,日本の教育あるいは教師を取り巻いている縛りは,あまりに狭いことは明らかなのである。そして,その縛りを乗り越えていく力を現場の先生達はすでに持っている。それもまた明らかなことなのだ。
一人一人の教師は,もっと自信を持っていい。そしてもっと努力できる環境を手に入れるべきである。いずれはその場所が日本でも豪州でもありうる時代になる。教師もまた世界を股にかけるはずなんだ。
教員のICT活用指導力チェックリスト
文部科学省の新着情報メールは毎日たくさんのリンクを届けてくれる。こんなにたくさんの情報発信をしているのだから,もっと整理しないとあとから探すの大変である。でも便利なので有り難い。
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2/19新着情報に「教員のICT活用指導力のチェックリストの公表」が紹介されていた。「教員のICT活用指導力の基準の具体化・明確化に関する検討会」というところで昨年から検討されていたものの成果である。
チェックリストは小学校版と中学校・高等学校版の2種類。どちらもA4一枚のシンプルなチェックリストである。
リストは大まかに次の5つの能力(2つの活用能力と3つの指導能力)についてチェックするようになっている。
A. 教師のICT活用能力
B. ICTを活用して指導する能力
C. 生徒のICT活用を指導する能力
D. 情報モラルの指導能力
E. 校務でのICT活用能力
ICT活用指導力チェックリストとしてはシンプルでよいのではないだろうか。一枚ペラでまとまったのがよいと思う。もっとシンプルにすることがチェックリストにとっては大事だが,あとはデザインでうまく処理すればいい。
そういう意味では,ワードでつくりました的なレイアウトデザイン・センスに問題があるということかも知れない。時間ができたら,もう少しキレイにデザインし直してあげることにしよう。
大事なのは「やってみたい!」と思わせることである。それが見てくれでなんとかできるなら,努力しない手はない。日本のお役所仕事の詰めの甘さは,そういうデザインセンスなんだな。印刷物にしても,プロジェクトにしても。
帰国 ((豪州渡航記09))
学校視察についての記録がまとまらずエントリー公開する前に帰国のときと相成った。この一週間あちこちの学校を視察したおかげで,西オーストラリア州の教育について,細部は別にして,大雑把なところは見えてきた。
メディア・スタディに関する視察という趣旨に添って,現地での視察をコーディネイトしていただいたのは,西オーストラリアでメディア・スタディの神様と呼ばれているJan McMahonさんと,共著などでJanさんと一緒に仕事をしているEdith Cowan Univ.のJulie Keaneさんのお二人。
明るく優しいお二人による配慮の行き届いたコーディネイトのおかげで,大変充実した視察を行なうことができた。
西オーストラリアのカリキュラム・カウンシルでメディア・スタディのカリキュラムについて作業をしたほどの大御所なのに,とてもフレンドリーに接してくれたことは印象深い。私の下手な英語が通じたように錯覚したのも,終始こちらにレベルを合わせてくれた皆さんのおかげだろう。
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ところで,オーストラリアに上陸したのは今回が初めて。首都はキャンベラで,有名なシドニーやメルボルンといった都市もほとんど東側に位置している。そこにはこれっぽっちも寄らず,始めてたどり着いたのがパースという街だ。
西オーストラリア州は,砂漠も含めてオーストラリアの西側をがっぷりと占めている大きな州である。主要な都市は南にあるパースと北にあるシャークベイで,その他にもさらに北にブルームとかカナナラという都市があるようだ。
季節は夏。ところが,私たちの滞在中は天候が悪く(なんだ,いつものパターンか?),水不足が心配されるほど降らなかった雨が降る始末。どうも東京に出てきてからというもの,行く先々で雨に見舞われるようになってしまった。雨男の烙印を押されかねない状況だ,とほほ。
もっともそんな天気も週末まで。最後の方にはオーストラリアの夏らしい夏の日がやってきて,久し振りに大量の紫外線を浴びた。暑くて出していた肩が日差しを浴びてひりひりである。
街中は時間帯によっては人混みもあったりして,アメリカなどの街角の雰囲気と変わらないが,キングス・パークという公園からのパースの眺めや住宅地域に突如現れたりする公園などの景色は,息をのむ美しさである。
こういう住環境に一時は住んでみたいと思う。賑やかさが足りない面もあるので,ずっと住むとなると寂しいかも知れないけど。
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パース空港を午後5時前に飛び立ち,乗り継ぎのシンガポールので約5時間。それから数時間待ち,午前12時前に成田へ出発。半日かけての移動で,21日朝に日本に帰国することになる。
Mac大活躍 ((豪州渡航記06))
参観しているのがメディアの授業ということもあって,視察した学校にはアップル社のMacパソコンがごく当たり前に整備されている。同行したMac好きの先生方は大喜びである。
かくいう私も教育界でのコアなMacファンである。正確にはAppleファンであるから,Macに限らずApple関連は大いに関心がある。
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メディア・スタディでは映像作品などを制作するため,その道具としてMacが用いられる。もちろんWinPCも利用されているのでご安心を。
西オーストラリアのメディアの先生達は,誰もが口を揃えて「映像編集などをするときにはMacがいい」という。プロフェッショナルな映像編集をする場合にはアドビ・プレミアを使うことが多いらしく,そのときはどうしてもWinPCになる。それと公立学校は予算の絡みもあってWinPCのみの場合も多いが,私立学校の場合は必ずメディア・スタディ用にMacが導入されていた。
すでにご紹介したポッドキャトを制作している小学校では,もちろんMacを使っている。
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これはMacに用意されている「iLife」というアプリケーション・スイート(セット)がメディア制作物に適しているためである。
映像編集の「iMovie」と「iDVD」,音声楽曲編集の「GarageBand」,お馴染みの無料音楽プレーヤー「iTunes」も仲間である。そして写真アルバムソフトの「iPhoto」,ホームページ編集ソフト「iWeb」といった構成だ。
プロ用の映像ソフトとしては「Final Cut」があり,放送業界で高い支持を得ている。アドビ社の「プレミア」というソフトは現在WinPC用しかないが,次期バージョンではMac版が復活するらしい。
そしてご存知のようにMacにはこれらを支える基本ソフト「Mac OS X」があり,その使いやすさや堅牢性はあちこちで語られているとおりである。最近出たWindows Vistaと同等以上の機能でありながら,より安定しており,安心して使えるというわけである。
この辺は半分営業トークみたいなものなので,割り引いていただいても構わないが,少なくとも私はそう評価している。
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海外の教育市場では,昔からApple社の存在感が強く,しばらく市場シェアが低迷していた時代にはWinPCが教育市場を席巻してしまったときもあったが,そんな中でもApple好きな先生や学校は残っている。これも他に倣うというよりは,自分たちで何が必要かを見極めた上で教育ツールを選択している諸外国ならではの結果であろう。
まあ日本の教育界のMac無知度は,『NEW教育とコンピュータ』誌の視野の狭さを見れば一目瞭然(NEW誌は一刻も早くMac関係のための記事ページを毎月確保すべきである。部数に貢献するはずだ。なんならボランティア執筆してあげるし…)。そんなメディアとしては多様性も自己批判のへったくれもない状態の雑誌が情報教育の主要雑誌なのだから,私は端で見ていて悲しいのである。
(教育分野でパソコン雑誌を発行する苦労は,現れては消えた雑誌達を見てきたからよく分かってる!「Pasotea」という野心的な雑誌を出していた気概だって知ってる。知ってるからこそ,苦言を呈してるんだ。あの時の気概はどこへ行ったのかってこと!学研の偉い方々!もう一度,この時期だからこそチャンスをつくって欲しいものである。教育の情報化の時代にもかかわらず,教育の情報化を語る雑誌がほとんど無いんだぜ。ほんとにもう。)
(追記:あっ,5月号から値下げって書いてある。やっぱり高いってわかってたな。それとも発行部数増えたのかな。CD-ROM削減だけでそこまで安くはならないだろうし。まずは一歩前進…)
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というわけで,Mac大好き教育関係者の声を勝手に代弁してみました。
西オーストラリアの教育 ((豪州渡航記05))
今回の視察はメディアスタディを中心にしたものである。今一度,西オーストラリア州における教育についておさらいしよう。
なお,オーストラリアは連邦国なので,教育に関しては州単位で制度が異なっている。個別の独自性を重んじる文化であるため,州だけでなく,地域・地区,学校・教師毎に異なる教育実態が展開していると考えるのが自然である。その上で,ある程度共通な部分について見てみたい。
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まず西オーストラリア州の学校段階は次のようになっている。
・Kindergarten
・Primary School (Year 1-7)
・Junior Secondary School (Year 8-10)
・Senior Secondary School (Year 11,12)
俗に言う「K-12」という形である。学年に「5」を足せば年齢になると覚えよう。西オーストラリア州はご覧のように7-3-2制の学校段階制度をとっているが,同じオーストラリアでも他の州は,6-4-2制になっているところもある。
また,Secondary Schoolの呼び方は,学校によってHigh Schoolとするところもあれば,Collegeと呼んでいるところもある。
義務教育はPrimary SchoolとJunior Secondary Schoolで,Year1から10までの10年間である。Year11と12は進学準備期間の段階となり,どんなコースを選択するかは進路次第である。
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K-12の教育内容の枠組みは各州毎に決められているが,オーストラリア全体の国力と国際競争力を上げるなどの議論もあり,Australian Education Councilによって8つの領域が示されている。
8つの領域とは:
・The Arts
・English
・Health and Physical Education
・Languages Other Than English
・Mathematics
・Science
・Society and Environment
・Technology and Enterprise
西オーストラリア州でもカリキュラム・カウンシルによって8領域のカリキュラムが示されている。それらはOutcomes and Standardsに基づくCurriculum Frameworkであり,Outcomes Based Educationという考え方を徹底しようとしている。 要するに評価規準を予め明確化する考え方である。
Outcomes and StandardsとCurriculum Framework(標準成果とカリキュラム枠組み)という考え方について議論を始めると長くなってしまうが,大雑把に日本との違いを指摘するなら,教科書に関する文化の違いが一つある。
諸外国のカリキュラム研究ではCurriculum Implementationという領域が盛んに議論されるのであるが,日本の私たちにはいつもピンとこない。というのも日本には検定教科書があり,日本におけるCurriculum Implementationの大部分を教科書会社が担っているためである。これを根強い教科書信仰が支えているというわけである。
西オーストラリア州の教育関係者曰く「私たちにはそういうテキストブック・カルチャー(教科書文化)はない。」授業でどんな教科書や教材を使うかは,専門家たる教師もしくは学校で決めることになる。
目指すべき標準成果とカリキュラムの枠組みがきっちりつくられると同時に,それらを実際の学校実践に落とし込む(Implementation)部分に教師や学校の創意工夫が求められているわけである。
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Year11,12にも成果(標準目標)とカリキュラム枠組みが用意されているが,この学年の子ども達にはいくつかの選択が用意されている。なお,西オーストラリア州ではよりフレキシブルなYear11,12コースへと転換中である。
1)大学進学コース
大学進学を考えている生徒にはTEE (Tertiary Entrance Examination)と呼ばれる大学入学試験に向けたコースが用意されている。ちなみにオーストラリアには大学が少なく,進学率もそれほど高くないらしい。
2)TAFEへ進学
Year10修了とともにTAFE (Technical and Further Education)という専門学校へ進学することもできる。早くから自分の職業が明確になっている生徒は,専門学校へ進んで専門知識を積み上げた方がよいのだろう。
3)一般コース(そのまま進級)
大学進学でもなく,すぐにTAFEという道も選ばない生徒は,ごく普通にYear11,12に進級する。ちなみに一般コースという名前があるわけではない。Year11,12で学ぶ内容は,必須のEnglishを除いて全て選択である。イメージは日本の総合高校だろうか。WACE (Westan Australian Certification of Education)という卒業認定を取得することが求められる。
4)就職
もちろん働き出す生徒もいる。
—
問題となるImplementationの部分は,学校と教師によって様々である。Curriculum Frameworkは明確であるが,それを満たす授業づくりは全くの白紙といってもいい(正確に記せば,白紙にもできる自由度があるということだ)。
Primary Schoolの先生は,いくつかを除いて全ての教科を担当する。それゆえ,日常の時間割について柔軟に変更が可能である。また,教科の授業区切りも自由に設定できる。
Secondary Schoolの先生は,教科の専門がある。メディア専門の先生は,8領域のうちのArts領域で授業を行なうことになる。またEnglish領域でもメディアを扱う部分があるが,こちらはEnglishの先生が担当することになると思われる。実態は学校毎に異なる可能性があるからだ。
Year11,12において,約50種類あるWACE卒業認定の「Media Production and Analysis」を取りたい場合には,メディアコースを選択する。そうすると必須の英語以外はメディア関係の授業で時間割を埋めることができる。
そうすると毎日の如く,メディア制作やら何やらに取り組むことができるわけだ。映画「カサブランカ」を見ながら学習していた学校の様子は,このメディアコースというわけである。
というわけで,子ども達の学習を促進させるために教師のもてる能力を発揮しなさいという基本方針があり,それがどのようなものかをについては教師次第という点に,強さもあれば弱さもあるといった風なのである。
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西オーストラリア州は中国特需のおかげで鉱山系の業界で好景気が訪れているという。その業界での給料が軒並み高水準らしい。
一方,教師業は低賃金の上に重労働。教師は専門性を要求されるから,それなりの知的水準の人物であることが求められるが,その人物に見合う給与を出せないでいるというのが現実だという。これはどこの国でも同じだが,トラック運転手の稼ぎの方が教師よりもよいという状況から,西オーストラリア州は深厚な教師不足が問題となっており,つい先日も教員の定年延長と海外からの教師のなり手を募集することがニュースとなっていた。
というわけで,日本も団塊の世代の大量退職によって教員不足が叫ばれているが,日本の教員志望諸君,西オーストラリアで教員をするというのも人生経験としてよい選択しかも知れない。
日本よりも教師としての自由度が高く,重労働とはいっても5時でスパッと終わるメリハリある労働環境。そのうえ,西オーストラリアの豊かな自然が間近にあふれる住環境。もしあなたが世界をフィールドとして教育に貢献したいというなら,私はむしろ世界に出ることを勧めるね。それから日本に戻ってきて,広い見識のもとで日本の教育現実を変えることで故郷に錦を飾って欲しい。しばらくの間は,我々が日本で格闘しておくから…。
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海外視察を英国,豪州と見てきたが,どんな選択をした国で生きているのか,あるいは自分たちがどんな生き方をしたいのか,改めて考えを深めなければならないと痛感する。
そして教員としての生き方も問われなくてはならないのかも知れない。これについては帰国後に関係する研究会もあるので,もう一度そこで考えてみよう。
ポッドキャストとGoogle Video ((豪州渡航記04))
視察3校目はOrange Grove Primary Schoolという公立小学校である。全校生徒が120名程度の小さな学校だ。
この学校は西オーストラリアから少し離れた場所にあるが,住宅地というよりは,広大な土地にぱらぱらと家があるという感じなので,子どもの数もそれほど多くないというわけである。
校舎もこぢんまりとしたものだが,土地はあるし環境が素晴らしい。この環境にKindergartenからYear7(幼稚園から小学生)までが学べるというのだから,必ずしも私立が全て良いとは限らないのだ。
こんな都会の喧噪とは無縁の小さな学校が世界中で有名なのは,この学校で取り組んであるポッドキャスト制作の授業のためである。
Year4と5のクラスでは,毎月一本を目指して子ども達自身がポッドキャストの番組を放送している。実際の制作は先生がバックアップしているわけだが,番組内容や語りは子ども達自身が担当し,その時々の学習内容に即したテーマについて各人がコーナー番組を用意,それらをつなげた上で公開している。
ポッドキャスト制作には,アップルのマックというパソコンとそれに付属している音楽制作録音ソフト「ガレージバンド」を活用している。
このソフトはマックを購入するともれなく付いているうえに,録音と編集が容易,BGMも予めあれこれ用意されているので,簡単にポッドキャスト番組が制作できるというわけだ。
授業の流れとしては,次のような感じだと推察される。子ども達にテーマを与えて,まず内容を考えさせて原稿を作成させる。放送原稿は実際に自分が読むものになるので,どうやったら聴いてくれる人に自分の言いたいことを伝えられるか,いろいろ考えることになるだろう。
原稿ができあがったら,全員が集まる。教室にはマック・パソコンと液晶プロジェクタ,インタラクティブ・ボード,そしてマイクとスピーカーが用意されている。そこでみんなに囲まれながらそれぞれの番組を吹き込んでいく。
吹き込んでいる間は他の子達も静かにそれを見守っている。吹き込みは満足するまで何度でもやり直しができることを予め伝えてある。そして吹き込みが終われば,前後の余分な声があればカットし,好きなBGMを選んだら完了。
インタビュー番組の場合は,iPodをICレコーダーにできる機械を取り付けて,それで子ども達とインビュー対象者を交互に録音したりする。
今回,私たちの視察団も代表のN先生がゲスト出演。子ども達から予めインタビューの質問をもらってあるので,それをもとに対談形式で録音した。近く公開される番組で声を聴くことができるだろう。
ポッドキャストを教育に取り入れること自体はあちこちで試みが見られるようになってきた。私自身,十分な成果とはならなかったとはいえ,ポッドキャスティングを教育現場で制作したし,このサイトでも(しばらく途絶えているが)ポッドキャスティングを展開中である。
ただ,この学校の場合,小学校で学習に結びつけて継続的に展開している事例として貴重なのだろう。豪アップル社のサイトでも教育の事例として紹介されているほどである。世界中からファンレターも届いているそうだから,なかなかのものだ。
ポッドキャストの制作と公開に関しても,保護者の同意の手続きを経ているという。子ども達の個人情報の扱いに関しては,西オーストラリアもかなり神経質になっているようだ。
ただ,ポッドキャストの場合,顔が出るわけではなく声だけであり,また名前もファーストネーム(日本で言えば下の名前)だけが番組で出てくるだけなので,子どもの特定は写真や映像よりも難しい。その点,保護者の同意は得やすいようなニュアンスであった。
ちなみに小学校の先生は日本と同じように全教科担当する感じの存在だ。しかし,日本と違うのは担当するクラスの科目や時間割を自在にコントロールすることができる点。教科の区分を明確にすることもできるが,一方で,教科といった切れ目を曖昧にして,統合的に授業を構成していくこともできる。ポッドキャスト制作もそういった環境の中だからこそし易いのだろう。
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視察4校目はMt. Lawley Senior High Schoolという公立学校だ。1955年に開校した学校で,それなりの歴史を持つ学校である。
Middle School(Year8,9)とSenior School(Year10,11,12)から成り立っており,校舎もそれぞれ分かれている。ちなみに校舎は最近建て直したらしく,新しさが残るキレイな環境である。
ここでもYear11と12(つまり高校生)のメディアの授業を覗かせてもらった。インターネットなどを利用して「ポップカルチャー」もしくは「音楽分野」について調べ,自分なりのプレゼンテーションを制作するのが課題であった。
生徒達は思い思いのテーマでインターネットサーフィンをしたり,ワープロで発表内容をまとめているようだった。多くの生徒が音楽分野に関する調べとして,Google Videoを検索して音楽クリップを見ていた。男子生徒はそれ見てボーッとしている感じが無くはなかったが,まあ,何を調べてどんなことを学んだのかを記録して提出しなければならないので,それはそれで授業を楽しむという点でよいらしい。
ちなみにGoogle VideoはいずれYouTubeに吸収されるという話もあるが,教室ではほとんどの生徒がGoogle Videoを使っていた。「なんでGoogle Videoを使っていて,YouTubeは使ってないの?何かルールでも設定しているの?」と先生に聞いたら,「僕には決める権限はないんだ。テクニカル・コーディネイターが決めることだからね」と言葉が返ってきた。
最初,返答の意味がよく分からなかったが,ふと思いついて空いているパソコンでYouTubeにアクセスしてみたら「表示できません」と出てきた。つまりアクセス制限をしているということだ。なるほど。
教室環境は,iMacG5が12台。無線LANアクセスポイントも完備している。この新しい校舎は教室だけでなく,廊下の壁にも電気と情報のコンセントが用意されていて,いろんな形の活動に対応できるようになっている。どうやら同じ公立学校でもこういう贅沢な環境を持つところもあるらしい。
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オーストラリアの高校生(Year11,12)は,英語のみが必須で,あとは選択科目である。そうやってその後進む道に合わせて基礎勉強を積み上げていくことになる。もっとも同じ年齢でもYear10を終えて職に就く人達もいる。
さらに大学進学は日本ほどポピュラーではないので,多くは職業教育を受ける専門学校(教育コース)に進学することになる。その専門学校(教育コース)をTechnical and Further Education (TAFE)と呼んでいる。オーストラリア中あちこちに,この専門学校(教育コース)があるという感じである。
というわけで,Year11とか12とかでメディアの授業を受けるということは,自ら選択科目として選んだ生徒が出席していることになっている。ゆえに,将来的にはメディアが絡む職業を目指すつもりがある生徒達という意味にもなる。最近ではメディア関係を選択する生徒が増えているという話らしい。
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ポッドキャストもGoogle Video(YouTube)も発信メディアとして登場し,脚光を浴びている。しかし,以前にも思ったことだが,個人情報の話もあるように,ますます子ども達が自分を発信することに関して神経質な時代にもなっている。個人情報やプライバシーの問題は神経質になりすぎても足りないほど注意を払わなければならないことは当然なのだが,それにしても気軽な発信メディアがようやく手に入ったのに,こんなに必要以上に気を遣う必要が出てきてしまった事態に,少し残念な気持ちも伴う。
シンガポールで乗継ぎ ((豪州渡航記02))
豪州パースへは直行便ではなく,シンガポール乗り継ぎで向かっている。6時間弱のシンガポールへのフライトのあと,ほぼ6時間待ってから,さらに6時間のフライトでパースにたどり着く。いまはシンガポールの空港にて。
ご一緒している皆さんとシンガポールの街へ出て,街歩きと屋台での夕食。空港に戻って軽くシャワーを浴びて,あとは時間まで待つのみ。シンガポールと日本には1時間の時差があるが,現地時間で夜中の1時発,日本時間でいえば夜中の2時に出発である。パースには翌早朝に到着するので,ホテルのチェックインには早いというのが難点か。
ところで,シンガポール空港は乗り継ぎ旅行者のための施設が充実している。インターネット接続整備も無料で使用できるし,ノートパソコンのための電源もEthernetコネクタも自由に使用できる。ありがたや。
海外ローミングサービスでお馴染みのiPassというものがあるが,こちらは世界中の電話アクセスポイントや無線/有線アクセスポイントに接続できるようにしている。専用の接続ソフトが必要で,ついこの間までインテル・マック対応版はリリースされていなかったが,気がついたら専用接続ソフトの新しいバージョンが登場していて,使えるようになった。これで俄然海外アクセスが便利になりそうだ。
さて,今回の旅はどうなることやら。また追ってご報告したい。