研究・学問」カテゴリーアーカイブ

きっと最後だというのに…

 この週末,特別に研究合宿に参加させていただいた。

 関連分野の人々と時間を過ごすのは久し振りだし,様々な話を聞いたりしたのも久し振りだった。一方で,自分のことはあまりよく伝えられなかった。伝えるものがあったのかもよくわからなかった。

 むしろ,自分がかなり無鉄砲にやっていることを確認した時間だった。

 いま,私自身は何をやっているのだろう。

 関心の赴くままに,あれこれを調べて眺めてつぶやいて。

 普通の人よりは何かを分かっているのだろうけれど,本当のところ何も分かっちゃいないから,どこかに焦点化することもしていない。

 そういう自分の状態のことはよく分かってはいるのに,どこかのピースとしてはまることよりも,こぼれ落ちる方を好むようにマインドが凝り固まってしまっていて,自分でもどうリセットすべきか悩み続けているというのが正直なところなのである。

 この界隈の寅さんを気取るのは,元気なうちや面白がられているうちはいい。けれども,それで残せるものは何もないのだということも痛いほど理解をしている。

 しかし,もう生き方がそうなのだろう…どちらかといえばコミュニティからはみ出てこぼれ落ちることがアイデンティティになってしまったところがあって,それ以外の立ち居振る舞いがうまくいかない。

 今回の研究合宿のお誘いは,そういう私を見かねての助け船なのだと思う。

 空回りしてこぼれ落ちていく知見の断片じゃ使いようもないのだから一緒にもっとうまく出してみないかと,呆れため息をつきながらも手招きをして声を掛けてくれている。

 一緒にやるのがいやとかそういうことではなくて,気がつくとはみ出てこぼれ落ちようとする自分を抑えることができるのか自分自身に不安が募る。すぐ幽体離脱して,物事をメタ的に眺めようとする悪い癖を我慢できるのか,それが本当に分からない。

 会話の場面であれば,黙ることで抑制できる。最近,学会で質問しなくなったのも黙ることではみ出さずに済むからである。でも頭の中はそうはいかない。勝手に心離れてしまうことだってある。実際,それで迷惑をかけたことがなくはない。

 自分がうまくはまるのか。それが正直よく分からないのである。

 でも分からないというのは,研究者としてどうよとも思うのである。

 たぶん,最後の助け船だろうと思うだけに,そして自分の悪癖を分かっているのだからこそ,なんとか自分の問題関心を焦点化して何か寄与したい。

 そう焦るほどに,根源的な問いという悪い癖も顔を出しやすいのだけど…。

 原稿を書くにしても,何か授業内容を考え出すにしても,誰かの話を吟味するにしても,「そもそも論」がいつも私をどこかへ連れていってしまう。

 その題目に使われている言葉の定義は何なのか…という問いや,この事業が始まる以前にはどんな歴史があったのだろうと出来事を日付レベルで遡り始めたりとか,指導方法や教育内容をつくるといってもその場合の指導方法というのは手順の話なのか技法の話なのか,教育内容はスケジュールの話か,予想される活動
含んだ展開の記述か…,そもそもカリキュラムとは何ぞやとか。

 私がどこかのコミュニティの文脈に依存すれば,たぶんこうした問題はすぐさまクリアされて,先へ進めるのだろうし,皆さんはそうしているのだろう。でも,コミュニティからはみ出して,寅さん状態で放浪すると,脱文脈化されて断片が集積してもこぼれ落ちてしまうのだと思う。

 もちろん,文脈に依存するとなれば,どこのコミュニティやグループの文脈を採用するのかという選択問題はある。

 そして,たぶん私はそこを閑却した状態でこの世界を過ごしている。

 だから師匠たちへの恩返しもできなければ,同期との縁も薄れるという結果に陥るのだとは思うのだけど,それもこれもたぶん自分自身が招いている事態なのだから反省をするしかない。

 この助け船を無駄にしないよう,しばらく試行錯誤することになると思う。

 毎日の生活も仕事も,もう一度ちゃんと見直さないと。

 という自分の駄文自体が,どうにももうメタ的で相変わらずなのがいやになる。

 

311後の学術活動

 日本教育工学会に出席したことに関してはりんラボ・ブログに書いた。

 あのような文章を表ページとも言えるりんラボ・ブログに書くのは珍しいが、もちろん、もっとディープなお話があるからこそ、である。

 「国際重視・国内軽視」というのは極端な表現なので、そんなことを考えている人はいない!とお叱りを受けるかも知れない。しかし、そのように受け止められる余地がある以上は、あながち間違いな表現でもないと思われる。

 そこで、否応なく連想したり重ね合わせてしまうのが、311(東日本大震災と原発事故)以後の出来事である。

 特に原発事故に関係する情報の一部は、国内重視・国内軽視の姿勢に則って流れていたのではないかと思わざるを得ない。

 国際社会や機関に対しては情報を提出しなければならないのでルール上出すが、国内社会や関係者に対しては何かしらの理由をつけて情報を隠蔽していたことは周知の事実である。

 もっとも、こうした現実は、国際重視・国内軽視が理由とは言えないかも知れない。全く逆に「国際軽視・国内重視」だからこそ、海外にはホイホイ情報を出すが、国内には危機管理やパニック回避の理由から情報公開を渋ったと説明することも成り立つ。

 結局、私が言いたいのは、方輪走行の滑稽さなのだ。

 そして、積極的に情報公開を行ない、共有した情報をもとに議論を展開することの方を私は好むということである。

 もし無差別的な人々による議論の拡散やあらぬ誤解によって間違った展開をすることを懸念しているというのなら、それこそ学術研究共同体が責任を持って情報掌握と議論を代理していくことこそ大事だろう。その場合でも私自身は広く情報公開されるべきと思っている。

 私が心配しているのは、国際重視・国内軽視みたいなことを無意識にやっていると、そのうち研究者というものは足下救われちゃいますよ、ということだ。

 日本の文脈を離れて研究することは良いこと。けれど、日本の文脈はいつになく困難な事態を迎えているというのに、それについて何もコミットしないのは、いかがなものか。私にしてみると、国内の面倒くさい部分は先達の人たちに押し付けて見て見ぬふりをしているようにも思えてしまうのである。

 確かに日本の文脈は大変特異でロジカルに説明したり、問題を解決しようとすることが困難だったりする。

 だったらそんな面倒な部分は閑却して、海外事例などの分かりやすいところで研究を進めたくなるのももっともな話であるし、それを日本の文脈にあてがって論じてみた方が速く感じることもあるかも知れない。

 けれども、それにしたって国内の問題をどうにかすることを後手に回せば、世界から相手にされなくなる時はやって来る。

 いや、もうやって来ているのかも知れない。
 

タッチデバイス教育利用WSに向けて

 9月18日(土)18:00〜19:30,愛知県名古屋にある金城学院大学にて,日本教育工学会ワークショップが開催される。そのプログラムの一つとして「タッチデバイスの教育利用 ~新しい技術やデバイスに注目と関心が集まる現象と実相を考える」がある。

 流行りものに手を出したお調子者は,私である。

 ワークショップ(WS)で何をするつもりなのか。

 iPhoneやiPadを持ち寄って教育利用の方法を考える…という月並みなネタを(自由枠とはいえ)学会の場でするつもりはない。

 WS目的は,私たちの「ミスディレクション」を少なくする方策を考えることである。

 ミスディレクションとは何のことか。

 ある対象を論じる際の見方の偏向をもたらす働き全般である。何かしらの誘導ともいえるし,欺きともいえる。

 たとえば「新しいデバイスが教育を革新する」という文言は,意味的にも論理的にも飛躍を含んでいる点で問題だが,同時に,事実の有無とは無関係に,ある種の心理的な誘導を生ずる点でも問題をはらんでいる。

 「デジタル教科書でなければならない理由が見当たらない。印刷教科書でできていることを変える必要がどこにあるのか」といった文言は,一見,正当な指摘に感じられるが,デジタル教科書と印刷教科書の関係を排他的に置いている前提が問われず,「他方の否定」を肯定する枠組みに人々を追い込んでしまう。

 いま,こうした「ミスディレクション」が至る所で展開し,人々の解釈枠組みを振り回したり,規定してしまったりしている。

 本来,学術研究の領域は,こうした混沌とした言説に向けて,適切な補助線を提示することが求められているのではなかろうか。

 しかし,たとえば「教育の情報化」という範囲の大きく,かつ,歴史の長いテーマについてでさえ,学術界は外部に対して明確なメッセージを発してこれたとは言い難い。結果的に,政治行政の世界から学問は排除されてきた。

 補助線提示の先行事例として私が常々挙げるのは,AERAの「Research Points」である。これはアメリカ教育学会が学術研究成果を教育政策につなげようとして出している出版物である。

 あるテーマに関して,現在どのような研究成果があり,責任研究者による捉え方を端的にまとめた研究要約論文が公開されている。行政に携わる人々が,こうした知見を踏まえることを促す努力の一端である。

 皆さんもネット上で海外の研究成果をニュースとして見ることがあるだろう。最近でいえば「ネット接続時間の22.7%はソーシャルメディアに割かれていた」といった類の話題があった。

 このようにある研究成果が話題になることは,米国に限らず日本でも時々あるのだが,海外発の話題の方が量的にも伝搬力においても優勢のように感じられる(残念ながらその根拠は手もとになく印象論である…)。

 私が企画したWSは,進行中の事態を事例として,このようなことを指摘した上で,新しい研究対象に対する学術研究のあり方を考えていこうというものである。そのための具体例として,タッチデバイスの教育利用を取り上げ,また実際に,そのことについても(アクロバティックな進行にはなるが)同時に皆さんと考えていきたいと思っている。

 という難しい話はあるにはあるが,私はiPad持ってきて,ぐりぐりデモンストレーションしちゃうのだ。あとは質素に暮らします ^_^;

日本教育工学会二日目

 学会二日目。今朝は少し気持ちの余裕も生まれたものの,別の上着のポケットに名札を忘れてしまったところからスタート。受付で新しいものをお借りして,工学部へ。途中,山内研のMさんと会い,歩きながら久しぶりにおしゃべりをした。

 午前中は一般発表を聞いて回り,途中,福武ホールの地下で行なわれているポスターセッションにも足を運んだ。あまりたくさんの発表を追いかけすぎずに自分でペース調整すれば,大会参加もゆったりできるのかなと思えた。

 応募数の増加もあって一般発表の持ち時間が短くなり,いくらかネガティブな感想が聞こえる。来年はポスターセッションを申し込みたいという声が少なくない数あった。Mさんによれば,心理関係の学会などは査読つきの課題研究以外は全部ポスターセッションらしい。もしかしたら学会大会の形や雰囲気も変わっていくかも知れない。

 山内研で同期のSくんとも再会し,近況など。福武ホールに寄ったら,山内研・中原研のメンバーがいたので,学環コモンズに入れてもらい,昼食をそこで一緒に食べることにした。

 その後,Sくんとともに安田講堂に向かい,全体会とシンポジウムに出席する。何人かの先生にご挨拶したり,長らく渡しそびれていたものをお渡ししたり,シンポジウムの内容を確認したりする。

 新学会長・永野先生挨拶。日本教育工学会全国大会は第25回だけれども,11月に入らないと学会設立25周年の記念期間ではないらしい。晴れて25周年に入ったら,学会のシンボル(ロゴ)マークを公募するのだという。そういえば,日本教育工学会にはシンボルマークが無かった。なんかちょっと考えて応募してみようかな…。

 シンポジウムは「変革をささえる教育工学:サスティナビリティとスケーラビリティ」という題目で,中原先生をコーディネータに,強力な面々を登壇者として迎えたものである。中原先生の持ち玉としては,わりと鉄板なところで突いてきたという感じではあるけれど,それゆえ面白みのあるシンポジウムだったと思う。コメンテーターに,経営学畑のお二方を迎えて,進行しているシンポをパサァと斬って断面を見せてもらう趣向にしたことがうまく効いた。

 シンポジウムの議論自体は,昨日のサブ・シンポジウムで語られていたこととも通じていたと思う。永野先生によるとどうやらメイン・シンポジウムの方の議論とも通じていたらしいから,やはり「研究と実践」あるいは成果普及の問題は,教育工学という研究分野全体に共通する主題なのだろう。このシンポジウムについては,また別に詳しく書いてみたいと思う。

 安田講堂でのシンポジウムが終わったら,そのまま安田講堂地下に広がる中央食堂を会場に懇親会。

 学会の懇親会は,居場所や居心地の予想を付け辛く,参加する直前まで気持ちが躊躇してしまう。とはいえせっかく来たのだからと,人の流れに身を任せて,懇親会会場に紛れ込むことにした。

 考えてみれば,今年は在籍していたキャンパスでの開催なのだから,知った顔も少なくない。まずは山内研のメンバーあたりと集いながら,懇親会を始めることにした。

 M1(修士1年生)の後輩達とは,一緒に過ごす時間も少なかったものだから,特に先輩らしいことは何一つしてあげられていなかった。そこで,山内先生のお許しももらって,先輩としてM1をいろんな先生達に紹介することになった。

 研究室に縁の深そうな先生方から探し回って,気がつくと山内研と中原研のM1後輩たち4人を引き連れていた。懇親会会場は大盛況で,先生方を捕まえるのはなかなか難しかったけれど,世話焼きおばさんのつもりで幾人かの先生方にM1の後輩をご紹介することが出来た。ちょっとは先輩らしいことが出来てホッとする。

 私個人も幾人かの先生方とご挨拶。本当はもっとたくさんの先生方に徳島へ飛んだことを直接ご報告しなければならないとは思いつつ,タイミングが合ったり,お声掛がけいただいた先生から順に近況などご報告する。

 途中,影戸先生が「お〜,うわさのりんさんか」と声をかけてくださり,「???」で話を聞くと,「ちゃんと飯は食えているのか,みんな心配してた」とのこと。知らないところで,想像以上,多くの方にご心配をおかけしていたのだと,大きく反省。そうやって思っていただけていたことに対して,ご恩返しの仕事・研究など貢献をしなければならないなと感じた。

 そんなこんなで,あっという間に懇親会も終わり。会場の後片づけに男手が必要ということなので,喜んで手伝う。いつまでたっても実動部隊で動けるつもりの自分。後から筋肉痛や疲労が襲ってきて苦しむことを,いつも忘れる。

 片づけ終わって福武ホールへ。予定では,みんなに連れられて地下で行なわれているはずのワカモノ飲み会に合流するはずだったが,荷物をスタッフ室に運んだついでに,同じ研究室出身のSさんとの会話が始まって居座り開始。あれやこれやと話が続いて,スタッフの皆さんも会話に加わり,さらに話が盛り上がる。気がついたらワカモノ飲み会は終了していた,ははは…,予定は未定だから。仕方ないので池袋に帰った。

 明日は最終日。学会が終わった後,片づけの手伝いが必要なときに,声がかけられてもいいよう終日滞在できるようにしてある。その辺は様子を見ながら,ウロウロしていよう。

日本教育工学会初日

 東京大学で行なわれている日本教育工学会全国大会に出席。わりと早く着いたので,人がごった返す場面にあわず,受付を完了し,研究室にご挨拶。あとは発表やシンポジウムを聞き,自分の発表を済ませ,Yくんと再会を祝して夕食。

 シンポジウムは,メインの「学習指導要領のスタートに向けて「教育の情報化」のために教育工学は何をすべきか」とサブの「ICTを利用した教育・学習システムの目標設定と評価法」の2つ。

 教育の情報化ですべきことはもう分かり切っているので,サブのシンポジウムを聞きに行った。そう考える人は多いのか,かなり盛況だった。

 シンポジウムを始める前に,S先生から論文誌に新たなカテゴリーを新設するとの方針が披露された。「教育システム開発論文」と「教育実践論文」という枠は,従来の「論文」枠とともに併設され,投稿の際に予め選択することになる。

 従来,何かしらのシステム開発を企図した研究は,その開発に関する研究部分とシステム運用の実験部分という性格が異なるパートを論文に盛り込まざるを得ず,そのため不幸にも論文自体がリジェクト(返戻)されてしまうことが多い。

 そのような不幸を減らすためにも,教育システムの開発部分とシステムの実践評価部分を分けて論文化しても適切な査読評価を得られるように,新設枠が提案されたのだという。

 それはそれ自体として歓迎すべき告知であったが,困ったことに,シンポジウムの理解に不要なバイアスをもたらし混乱が生じてしまったように思われる。

 正直なところ,不思議な議論展開をしたシンポジウムであった。

 開発物をめぐって研究者の思惑と学校現場などの協力を得ることの難しさを言及する発表。教育システムが学習パフォーマンスに与える因果連鎖において,システムそのものよりも依って立つモデルや技法が大きな影響を与えることを指摘するもの。ツールのみを評価するのではなく,活用する人間の活動と一体となった関係性を含めて捉えていく必要性を指摘する発表。教育工学が当然視(あるいは結果的に隠ぺい)している事柄を問い直し,量的・実証的アプローチが目指す脱文脈的な研究ではなく,質的アプローチによる文脈的な研究を重視していく重要性を指摘するもの。

 教育・学習システムに関するそれぞれの問題意識や指摘は,(文系教育研究畑からやってきた)私には目新しいものではなかったけれども,どうやら教育工学の世界ではようやく議論が始まったばかりだという。

 私が登壇者でもあるO先生の授業の席を立ち,教育工学と出会うことなく距離を広げたのは,まさにその問題をO先生が議論し始めた直前のことであった。もしあの時,その事情を知りえたなら,その頃からともに問題を考え,根っからの教育工学研究者になっていたかも知れない。そう思うと,運命のいたずらが少し悔やまれるが,いずれにしてもあれから14年が経過した今になって,ようやく問題が共有され,議論が始まったところだということに,やるせなさを感じる。

 いずれにしても,教育・学習システムの開発と評価を行なう研究について,これまで様々な苦悩があったとして,今後は,文脈や実際の利用者からの声を積極的に繰り込んでいくような質的アプローチによる研究を推進していくことで,少しでも研究的にも実践的にも有意味な研究と論文が生成されていくことを目指していく提案は,了解しえる。

 ところが,フロアの中には「発表はいずれも論文化ということを絶対視している。社会貢献することを目指す在り方もあるのではないか」といった理解を示す人もいたし,「研究者と教育現場の実践者とのコミュニケーション(意思疎通)の問題」として問題を考えているような質問・コメントも聞こえた。

 もしも論文化における採択の難しさが問題だという趣旨でシンポジウム発表が理解されていたとすれば,S先生が披露した新たな論文枠の設定は,問題の解決を図ったものなのかという混乱した理解も引き連れてきそうである。

 シンポジウムの議論は,様々なレベルや位相の各論の狭間に紛れ込んで,司会者もどこに焦点化すべきであるのか迷ってしまった。

 私にわからなかったのは,文脈に沿う質的アプローチを重視することによって教育・学習システム研究の活路を見いだそうとするとしても,「教育の情報化」の理不尽な停滞状況が解き放たれた場合にどうなってしまうか。その想像図が不明瞭であるということだ。

 このシンポジウムでは,もし「論文化」が「実験的評価の実証性」ばかりを問うてしまい「実効性あるシステム開発」に何がしかの障壁を生んでいるとすれば,むしろ「全体を捉え」「利用活動を一体と見なし」「目標にとらわれない経過に焦点化した」評価が重要だと論じたのであった。

 しかし,「本当に実効性のあるシステム開発がしたければGoogleにでも行って開発すれば?」という声に対して,シンポジウムの主張はどんな対抗する言葉を持ち得るのかよくわからない。

 圧倒的なブランディングとグローバル戦略でサービスを提供するGoogleが教育・学習システムをどんどん提供していくことを想像したとき,研究者が論文化の問題で質的アプローチによる険しい道のりを歩み始めている間に,教育の情報化を取り巻く状況はどんどん変わってしまい,「教育・学習システムの開発を研究すること」のメリットを見出し難くなってしまうのではなかろうか。

 社会的に貢献する教育・学習システム開発を優先し,その経過や成果を後付けで論文化するような方法論に対し,教育工学のような学術研究としての教育・学習システムの方法論が打ち勝つための最後の砦はどこにあるのか。

 シンポジウムの議論を聞きながら,内部での努力も必要だが,外部に対する備えも必要ではないかと思えた。