月別アーカイブ: 2006年12月

よいお年を…

 暮れの気分を高めようと意識はしているのだが、相変わらずそれっぽくない大晦日。気分はともかく、あともう少しで2006年が去りゆく時刻となっている。
2006ronten さて、いつもなら今年1年を振り返る企画をしているのだが、実家に戻ってすっかり休暇モードになっているため、「教育論点2006」を図にして済ませることにしよう(購読している日本教育新聞から話題を拾った)。
 教育界今年一番のトピックは「教育基本法改正」を始めとした教育改革のゴタゴタ騒動であろう。この国の教育に関して、責任を持っているにもかかわらず動かなかったり、黙して支えるべき部分が騒がしかったりと、ほとんどすべてがちぐはぐになってしまったことが露呈したともいえる。「教育の政治問題化」、今に始まったことではないとはいえ、これが今年の教育界であった。
 と同時に、これほど教育について誤解やミス・リーディングが放っておかれた年もなかった。その象徴的存在ともいえるのが「教育再生会議」であろう。もうハチャメチャである。
 The Economist誌の年末年始号では、日本の教育に関して「The wrong answer」と題する短い記事を掲載している。OECD-PISAの順位が低下したこと。日本政府の教育改革は、若い人たちの批判的判断能力を育成することよりも、愛国心を育成するように教育基本法の書き換えにご執心だったこと。伊吹文部科学大臣が日本の小学校には英語外国語を教育する余裕はないと信じていること。新基本法が教育勅語を思わせること。日本には抜本的な教育改革が必要であること。なぜなら、日本は目を見張る経済変化を経てきたにもかかわらず、教育制度はほとんど何も変わってこなかったこと。そして経済的成功が、皮肉にも若い人たちが現代世界で成功するための創造的な技能に注意を向けさせずにきたことを書いている。
 はっきりいって、諸外国から見た日本の教育界は、本当にずたぼろなのだ。ところが、肝心の日本の人たちが、その事にほとんど関心を持っておらず、「いじめ」だ、「未履修」だと、分かりやすいテーマについてマスコミに乗る形でだけ騒いでいる。
 ただ、そうした議論において、さすがに人々のうんざり感も増しており、こうした議論の在り方のおかしさに気がつきつつあるのは、不幸中の幸いである。2007年は、きっと関連法案に関する議論の中で、より有意義な議論が起こることを期待したい。
 さてと、そんなこんなで今年もあと数十分という時刻である。私個人にとって、感慨深い一年であった。来年はさらにアグレッシブな年になりそうである。いやいや、そうしないとね。
 本年も教育フォルダ&教育らくがきをご愛顧くださりありがとうございました。皆様もどうぞ、よい年をお迎えください。

師走28日目

 西洋的な祭日を過ぎれば、少しは日本らしい暮れを味わう時期がやってくる。風情があるかどうかは別として、東京も街並デコレーションだけは季節季節に応じたものに変わるので、それなりの景色にはなるようだ。
 近況報告をするために年賀状を準備した。試験だ、退職だ、引越だ、生活だ、また試験だ、有り難や仕事だ、と慌ただしかったので、ここまでご挨拶が延び延びになってしまった。また新年になったらここにも年賀状を掲載しよう。
 先日、書店へ出かけいつものように教育の棚を見ていたら、皆さんもよくご存知の著名な先生もいらっしゃって、しゃがんで棚を眺めていた。こっ、ここまで足を伸ばされていたのね。咄嗟のことでビビッてしまった。
 そしたら今度は若い大学生グループがやってきて、授業の課題なのか教育の本についてしゃべり始めた。当然、先生の名前も飛び出して、なんやかんや語っている。側にご本人がいるのを知らない様子。その光景を眺めて、勝手にハラハラしていた。
 吉田典史『小学校の仕組みがわかる本』(秀和システム2006.12/1200円+税)とか、佐藤晴雄監修『「保護者力」養成マニュアル』(時事通信社2006.12/1600円+税)といった保護者向けの義務教育解説本のようなものが発売されていた。
 よく考えると、こういう類の本は少ない。かつて学研が教育改革に関してわかりやすく紹介した本を出した記憶はあるが、他にあるだろうか。保護者向けだと、大概が子育てや家庭教育といったテーマになり、近年だと親野智可等氏の「親力」あたりが人気である。
 しかし、上記の2冊を見て、義務教育制度に関する説明書やマニュアルというものが整備されているとはいえない現状を改めて再確認した。文部科学省のホームページ「小・中・高校教育に関すること」も、保護者が学校教育制度に向かい合うことを助けるようには整備されているとはいえない。
 電化製品でも何でも、説明書は大事である。分厚いマニュアルは読まれない傾向もあり、マニュアルの電子化や廃止が普通になっている分野があるとはいえ、基本としては説明書は必要である。
 学校教育の基本的な使い方が分からないから、学校と家庭と社会との役割切り分けが曖昧になり、保護者からの要求水準に歯止めが無くなってしまうことも考えられる。
 それについては小野田正利『悲鳴をあげる学校』(旬報社2006.12/1400円+税)が、保護者のイチャモン(無理難題要求)研究の必要性について言及し、事例考察の成果を披露している。
 情報を引き出しやすくなったにもかかわらず、大人さえうまく扱えていない現実がある。雑誌『人間会議』(2006年冬号)は、特集「情報社会をより良く生きるには」と題して、様々な観点から情報との向き合い方を論じている。
 様々な考え方はあるものの、よりよく生きるとは何かを考え、それを実践へとつなげる努力こそ重要なのだろうと思う。それを可能にするのが情報社会ではないか。
 ところが、実際には私たち自身が情報の編集プロセッサみたいな存在になることが社会的に重視され、そこに価値や意義を集約させてしまっているようにも思う。
 ある時から、理想の実現自体を「時間的先送り」の名の下に有名無実化することで、富の集中が企てられてしまったのかも知れない。それが資本主義の根本原理に基づくだけに、抜け出すのは大変だ。ニートも、第二新卒も、ワーキングプアも、そういう構造の中で起こった地続き現象というか、安定性を与えるための「括り名」なのだと思う。
 東京に来てインターネット接続の頼りの綱であったLivedoor Wirelessが存続するかどうか怪しくなってきた。月500円+税で利用できる魅力的なサービスだから、貧乏人にとっては有り難かったのだが、サービス停止となったら凄く困る。できればどこか存続を前提に引き継いでくれるといいのに…。でもインターネットから距離を置くのには、いい機会が訪れるのかも知れない。
 さてと、そろそろ帰省の準備して実家に帰ろう。年末年始は実家の家族と過ごす。それから新年早々から渡英。イギリスで教育情報技術に関するBETTという催しがあるので視察する。初めての欧州である。というわけで渡航記も順次お届けする予定。

あるいはメリー・クリスマス

 クリスマス・イヴ。ご存知のようにイエズス生誕日の前夜という意味であり,キリスト教文化に由来する。日本は必ずしもキリスト教国家ではないが,ブリコラージュされたような日本文化のなかに行事として位置付いている。
 近年,クリスマス恋愛映画の新定番となったのは『ラヴ・アクチュアリー』。いくつかの愛の物語で綴られたパッピーなロマンティックコメディーである。しかし,単に男女の色恋だけを愛として取り上げているわけではない。キリスト教の博愛という教えにもあるように,それは家族,友人,隣人,多くの他者に対する愛が含まれている。
20061224_omotesando 久しぶりに一眼レフカメラを片手に街の中を歩き,クリスマス・ムードを味わう人たちの中でシャッターを切った。映画のオープニングとエンディングで出てくる空港よりも男女愛みたいな雰囲気が濃い場所とはいえ,いろんな人たちがいて,それぞれの週末を過ごそうとしていた。
 宗教関係のあんちょこ本を眺めると,日本人の宗教観が「方法」に依存していることが分かる。キリスト教を始めとした西洋宗教が,確固とした教えに基づいて形成された「内容」重視の形をしているのとは対照的なのだ。
 高尾山で百八段階段を一歩ずつ上れば煩悩が晴れるとか,信じて念ずれば通ずるもしくは極楽浄土へ行けるといった行動に結びついたような宗教信仰観なんかにそれは象徴されているように思う。逆に言えば,教えに対する厳格さはそれほど強くないということだ。聖書に基づいて誰がなんと言ったかをいちいち問うのとは大違いというわけである。
 クリスマス・イヴを祝うというイベント型の受容の仕方も,儀式や行事を行なうことが好きという「方法」好きな日本らしいやり方なのだと改めて思う。とりあえず「愛」で盛り上がっちゃおう,というノリである。愛が何かという「内容」を考えるということは,とりあえず二の次なのだ。
 今年のクリスマスは,教育界にとってあんまり嬉しくないプレゼントをもらう結果となった。教育基本法改正は,「内容」を吟味した結果というよりは,憲法改正への敷布という「方法」としてしか捉えられずに終わった。そこに愛はなかったにも関わらず,愛がうたわれているという不可思議に,「方法」好きな私たちさえ怪訝な思いを抱いた。
 日本にそもそも「愛」があったのかさえ,正直なところ分からないことだと思う。純粋日本人じゃない私が語っても,あんまり信憑性もないか。ただ,短い人生の中で「想う」ことの大切さについては意識しているつもりである。
 私を支えてくれた家族や友人や仲間達のことを今でも想う。過去の恋人も心の恋人も夢見る恋人のことだって想うことがある。大学教員生活で元気をくれたのは教え子達だった。そのことに感謝して教え子のことを想う。これから歩む道筋の中で,私に関わってくれる人たちのことを想う。「想う」という方法に重きがある点で「愛」という内容とはまた違う気もするが,あるいはこの2つはどこかで重なっているのかも知れない。
 かつて「教育内容と教育方法の幸せな結婚が出来るのか」なんて駄文を書いたことをおぼろげに思い出した。これまで両者の結婚は難しく,どんどん晩婚化してきた。それが情報技術の進展によって新しい縁結びを為し得るのかは今後の努力次第だし,いや私たちはなんとかそれを幸せな結末へと導かなければならないと思う。
 な〜にを相変わらず意味ありげな駄文を書いているんだか。要するにクリスマスが気になってるんなら,それなりに楽しめばいいじゃん。とにもかくにもハッピー・ホリデー!

そして高尾山にいた

20061223_takaosan クリスマス・ムードにあふれる都心から離れて,東京都の外れに出かけようと思い,京王線の西の終点・高尾山口駅を目指した。都心から1時間もかからぬ場所に自然は広がっていた。
 午後から出かけたので,ちょっと散歩するだけのつもりだった。ところが,ケーブルカーに乗り,すこし歩き回っていたら,ついでに頂上にでも行ってみようという気持ちになって,登山ハイキングになってしまった。
 どうも頂上から見る日の出や日の入りが素晴らしいようで,夕日を目当てにした観光客が多かった。そんな人の流れに身を任せながら,私も頂上を目指して高尾山薬王院有喜寺を経由する登山道を歩いた。
 途中,百八段階段や北原白秋歌碑,天狗が居場所にしているという大杉原と遭遇する。薬王院有喜寺でお参りをし,さらにその先の頂上へ。いろいろなことを考えながら歩いた。
 人生で初めての退職願を出してからちょうど1年が経過していた。あの日のことは今でもわりと鮮明に覚えている。冬期休業に入る前の慌ただしい一日だった。なんども書き直した退職願。書き上げるのに時間がかかったわりには,学長先生に手渡す場面はあっさりとしたものだった。
 その1年後に,自分が高尾山にいるなんてことは,想像できるはずもなかった。こうして振り返ってみれば,不思議な気分になる。けれども「人生何が起こるか分からない」ということを信じるに足る経験ともいえる。そして,諦めずに邁進すれば何かしら結果はついてくることも…。
 頂上は大混雑。もうそろそろ夕日が沈もうというところで,みんながカメラを構えて待っていた。老若男女,家族もカップルもグループも,わいわいと頂上で群れていた。
 沈みゆく夕日を眺めたいという気持ちは強かったが,この大群と共に下山するのは御免だ。美味しい部分はまた次回にとっておくとして,混み合う前に下山することにした。散歩が目的だったのだから,これで十分である。
 大学の講義を担当すると,たまに雑談をする。こんな感じの話をすると,若い学生達は興味深く聞いてくれたりする。自分の未来が想像もつかない展開をする不思議さを感じてもらえればと思う。
 入試募集活動の際に,高校に出かけて模擬授業したときにも,10年後の未来について想像してみることを提案したことがあった。高校生達には,10年後は遠すぎるようだが,どうやら5年後も1年後すら想像する(夢見る)ことが苦手らしい。もちろん「一寸先は闇」なのは確かだけれど,逆に若い人たちにはもっとわくわくするような未来を夢見て欲しいと思うのである。
 また1年後,今度は富士山かも知れないし,海外でクリスマスを迎えているかも知れない。あるいは,私も誰かと連れ添って夕日を眺めているかも知れない。もしかしたら,何も変わってないのかも知れないが,とにかくまだ見ぬ未来が楽しみである。

表参道アカリウム

20061219_akari 暗いお話には明かりを灯しましょうということで,表参道に出かけてきた。いま「表参道アカリウム」というライトアップが行なわれている。照明灯がずらっと並んでいるのはキレイである。
 そうでなくても表参道はいろんなビルのおかげでライトアップされている状態だし,さらにクリスマス・イルミネーションがキレイに夜を演出しているので,時間が早いと明るすぎてちょっと違和感もある。だから,見に行くなら遅い時間の方がよいかも知れない。ちなみに点灯時刻は17:00〜22:00まで。
 それでも,人の流れに合わせず,自分のペースでゆっくりと歩いてアカリウムを楽しんだ。近くの照明灯よりは,道路の反対側の離れた照明灯を眺めた方がキレイに見えたのも,まだ時間が早かったからだろう。とにかくロマンティックな独り散歩をした。
 今回の「表参道アカリウム」という取り組みは,もちろんスポンサーの協賛があって実現しているが,地域の人たちのボランティアにも助けられているようである。表参道交番近くには,オフィシャルブックを販売しているブースがあり,買い手の気持ち次第で価格を決めて購入することが出来る。来年以降も続けてもらえるよう支援する気持ちでお金を払った。
 これが日本なのかな。そう思うと,複雑な気分にはなるけれど,表参道を歩きながら素朴にアカリに癒されていた。

基本法改正をめぐる態度について

 「教育に貢献したい」と書いたシミが乾かぬうちに,「教育基本法改正お疲れ様」と書くとは無責任にもほどがある,そう思う御仁もいるかも知れない。皆さんの心証が悪いのは仕方ないと覚悟はしている。
 月曜日だから「AERA」なんかを立ち読みしに行くと「教育基本法「改正」で立ち上がった面々」なんて記事があり,いままで反対抗議活動をしそうに無い人たちのことを取り上げたりしている。
 研究者はこの問題に対して何もしてこなかったのかと問えば,答えはNOである。緊急出版された教育学関連15学会編・共同公開シンポジウム準備委員会『教育基本法改正案を問う』(学文社2006)に記録されているように,自分たちのフィールドで議論を積極的に展開してきた。その情報伝搬の努力が十分だったかどうかは問われなければならないが,高みの見物をしていたわけではない。
 教育基本法の改正というのは,本来ならば国民投票が行なわれなければならないほど国民の行く末を左右する行為である。この国が法治国家である限り,私たちは制定された法に従わねばならず,善悪を裁く場合にも法が根拠となる。私たちの日常生活では意識されないとしても,それは日常生活の根本を変えているという点で,きわめて危うい行為なのである。(教育基本法自体は理念法だが,それに基づいて改正していくその他の法律が問題となってくる。)
 分野は異なるが,たとえば「大規模小売店舗法」(1998年制定)とその後それを廃止して制定された「大規模小売店舗立地法」(2000年制定)によって日本全国に出現した「巨大ショッピングセンター」が,各地域の商店街を風化させ,地域社会を壊してしまったのと同じようなことが起こると考えれば分かりやすい。
 車があり購買力も高い大多数の住民にとっては,利便性が享受できるし,効率化や合理化によって安い買い物も出来る。税収や人材雇用の面でも地域活性化という前向きな変化に見えるだろう。
 しかし,車を運転できない人,遠い距離を移動するのが辛い高齢者などの人々にとって,郊外ショッピングセンターは,便利でも何でもない。あるいは何かしらの事情でショッピングセンターが撤退したら…。そういうことに関する想像力が初期のショッピングセンター戦略にはまるでないのだ。(ちなみに,2006年に「都市計画法」「中心市街地活性化法」が改正されて,出店の規制が強化された。まちづくりを重視した出店が必要になってきたのである。これ,テレビの請け売りね。)
 教育の分野でも,こうした「住みにくい日本」が広がっていくことになりかねない,という危機なのだ。そのことに関しては,たぶん誰も異論無いだろう。とにかく大問題であることに関しては,私だって同意する。
 ところが,困ったことに私たちは「住みやすさ」のようなものに対する理解がどんどん衰えている。ある論者は,世代間戦争といった物騒な言い回しも含めて,特定の世代の富裕層によって他の世代が騙され続けているのだと分析したりする。若い世代には教育程度を低めることで騙し,高齢世代には老化をいいことに騙し…。
 もしもこの消費社会日本で快適に過ごすことが「住みよい」ことならば(というかそれ以外の選択肢を選ぶことはとても難しいのだが…という風に思いこむことさえ私の頭が悪いせいかもしれない),私たちは(きっと誰かがしてしまった)妥協の選択を引き受けなければならないところに来ている。「あんた達みたいな階層や世代が悪いのだ」と特定の相手を批難することは出来なくはないが,そんな議論の効果は糠に釘。
 これは因果応報なのだと思う。私たちはその選択をしてきたし,それを許容してきたのである。だから私は自分の勉強不足を悔やむし,自分の教員や研究者としての力量のなさを反省する。その上で,未熟さを乗り越える取り組みを続け,何か変えられる機会が得られるように虎視眈々と準備を続けるしかない。
 私がこうした問題を生真面目に書きたくないのは,気持ちがどんどん暗くなるのは当然として,情けなくなってくるからである。これは人の問題なのだ。人の問題だからこそ,どうしてこんな事態を招いたのかという情けなさを感じる。
 この情けない感情は,人のやる気を削いでしまう。だから私は,茶化して誤魔化すか,人に多くを期待しないことで中和するかを選びがちなのである。ショウは終わらない。だったら,自分のやる気を失って立ち止まるわけにはいかない。所詮は駄文である。飲み屋調子で綴って,次への鋭気を養おう。不謹慎とはいえ,そういうことである。
 日本には,教育だけでなく,たくさんの問題が渦巻いている。それらはほとんど全部つながっているのだが,それぞれへの取り組みの哲学がバラバラで,何やってもまともな効果が出ないでいる。要するに,この国で生まれると,人生の中で様々なジレンマを抱えて生活することを余儀なくされる。そして死のうにも死ねず,苦しい老年を過ごさなければならないかも知れないのだ。
 中学生や老人が社会制度としての殺し合いゲームをするという設定の小説がある。まさかそんな法律が可決されるわけはない,あくまでも架空の物語と笑っていられる時代ではなくなった。様々な悪法が成立し,教育基本法までもが改正されたのだ。そんな世の中では,新・教育基本法の理念にそぐわない教育者や研究者から資格を剥奪することは簡単である。必要ならば,あらぬ罪(「電車内で痴漢をした!」)をかぶせて社会的な信用を奪うことさえ出来る。
 こんな暗い想像さえ膨らんでしまうのは,健全ではない。確かに暗いニュースばかりではあるけれども,だからといってスポーツニュースに逃げ込むのではなくて,嫌味や皮肉も躊躇しないで問題について知ることである。そこから始めるしかない。

新・教育基本法ね

 そうそう,ついでっぽい感じで書くが,教育基本法案が15日の参院本会議で可決され,新・教育基本法が成立した。お疲れ様。さっそく財務省が動き出して教育政策予算の4%増額をアピールし始めた。
 これは全く異なる行動規範に基づくグループ同士が,ある共通したテーマを持って接触することになったときの,様々なジレンマを下手な芝居で演じて見せたという出来事である。その犠牲が,変えなくてもよかった教育基本法だったことは残念ではあるけれども,大人の世界として考えれば,こうなるより他なかったと理解するしかない。それが「政治」の世界。
 識者・研究者にとって政治は,題材や対象にはなり得ても,表立った手法にはなり得ない。だから声明を発するか,角材持つかしかない。角材持つ野蛮な季節は過ぎたというなら,情報の洪水の中に埋もれること承知で声明を打つしかない。苦々しいこと,この上ないが,政治が学問を尊重してくれない以上,そんな苦々しさはいつまでも続く。
 ところで,海外ではこのニュースがどのように扱われただろうか。反応が気になるだろう中国と,アメリカのニュースサイトを覗いてみた。すると,中国のsinaニュースセンターの記事でも,アメリカのニューヨークタイムズCNNにしても,海外メディアの扱いは,「防衛庁の省への格上げ」ニュースとセットで報じていることである。ワシントンポストは一緒のもあるし,別のものもある。
 まあ,同じ日に可決したからワンパックで記事化したというのもあるが,それにしたって,日本国内では教育基本法改正のニュースがトロトロ報道されて,気がつくと湧いて出てきた「防衛”省”化」ニュースという別個の扱いだったのに,世界ではこの記事の漫画にもあるように防衛省と教育基本法はワンセットで戦前回帰しようとしているような扱われ方なのである。
 とはいえ,どうやら世界は日本の教育基本法より6カ国協議と松坂大輔の方が大事みたいなので,どこの記事もこの話題を盛り上げようという感じがない。さらっと流している雰囲気もある。
 まぁね,松坂との交渉を入札するのに教育予算の1%分が動き,6年間契約でもう1%動くくらいだもんね。松坂1人で教育予算の2%もの規模のお金が動いているのである。高給な政治家達が泥仕合をして教育基本法が改正されも,財務省が動かしましょう,といってくれるお金は教育予算の4%規模。
 松坂が凄いのか,レッドソックスが凄いのか,それとも日本の政治家・官僚がしょぼいのか…。
 ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン。基本法改正したからといって,それで終わりじゃない。学校教育法,学習指導要領,そして教育振興基本計画が登場する番である。賛成するにしても,反対するにしても,しっかりと動向を把握しないといけない。

ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン

 私が長崎で独り芝居(研究発表)をしていた日,教え子達が大きな舞台で児童劇を上演していた(写真1,2)。児童文化研究部「はとぽっぽ」というのが,私が顧問をしていたクラブである。
 長い長い伝統のあるクラブなのだが,学生全体のクラブ活動停滞もあって,私が引き継いだときには部員が5〜6人という時期もあった。そこからまたどんどん大所帯になって,いまは50人弱いるらしい。そして年の瀬のこの時期に,定期公演がある。
 舞台というのは,想像以上に裏が大変なのである。しかも学生達は,律儀な厚生労働省のおかげでみっちり授業があり,準備や練習のための時間を確保するのも難儀な日々。大学のクラブなんて肩書きだけの顧問というのが普通かも知れないが,ここの場合それだけでは部員達を支えられないのである。
 本番前日まで,衣装の作り直しや細かい演技指導が入ったらしい。昨年,とある事情でこの会場が使えなかったので,今年の部員達は会場の勝手も分からぬ状態からのスタートであることを考えれば,その苦労たるや大変なものだったろう。それにもかかわらず,険しい道を選択して頑張った教え子達に心からエールを贈りたい。
 主人公姉弟の名前は「りん」ちゃんと「ゆうき」くん。学生の言うことには,姉の方の名前は「先生からとった」らしい。親バカならぬ担任・教員・顧問バカで恐縮だが,こういうことする教え子が居てくれるというのは,教師冥利に尽きるとしか言いようがない。
 さて,直接指導した学生達が卒業するまで,あともう少し。それで少しは気が楽になる。それでもザ・ショウ・マスト・ゴー・オン!たとえつまらないと言われようとも,私自身のショウをまだまだ続けなくてはならない。

あの歌がきこえて

 2006年も残すところ半月を切る。私自身にとって今年は,大きな転機を迎えた年だった。お世話になった職場を退いて上京。当てもないのに東京へ出て,大学院受験の準備をすることにした。
 自分の人生がどうなるのか。かなりオープンエンドにしていて,ほとんど考えていない。いつか連れられたスナックで,隣の客から「モットーは何ですか?」と聞かれ,困ったあげくに思いついた「教育に貢献すること」というのが唯一の人生目標。ただ,それが自分に為し得ることなのかさえ,分からないまま過ごしている。
 NHK「あの歌がきこえる」で,オフコースの「生まれ来る子供たちのために」が流れていた。オフコースは,4人編成が解散する頃に曲を意識するようになってからのファン。この曲は特に自分の気持ちに入ってくる。あまりに純真な世界観ゆえに,違和感を抱く人も多いかも知れないが,私は結構好きだし大事にしたいと思っている。
 退職と上京という自分のわがままを通し,少なからぬ迷惑を周りにかけたというのに,多くの人たちが快く送り出してくれたり,手を差し伸べてくださった。何か言いたかった人たちもいただろうけれど,面と向かっては口をつぐんでくれたのだと思う。様々な形で助けられていることを思えば,結局は「教育に貢献すること」を全うするしかお返しする術がない。いまは大変未熟だし,これからも大した成果を残せるか分からない放浪者だが,自分なりに取り組んでいこうと思う。
 あと数ヶ月で,長い長い春休みが終わる(本当に休んでたかどうかは,よく分からない…ははは)。人生二度目の大学院生活が始まる。若さじゃ負けるが,その辺は精神年齢の低さでカバーするとして,年の功で経験が生かせるように頑張りたい。

長崎大学で研究発表

Rin_nagasaki 週末は長崎大学で日本教育工学会の研究会があった。研究協力しているプロジェクトで前座となる調査研究の発表を担当することになっていたので,6年ぶり3度目の長崎訪問をした。(仕事している珍しい写真)
「小学生の学習に関する親子の意識や特性に関する分析」
 林向達(椙山女学園大学),堀田龍也(メディア教育開発センター),堀田博史(園田学園女子大学),星野徹・牛島大介(株式会社ベネッセコーポレーション)
 学校での学習だけでなく,学校外学習との連携が重視されてくる中で,宿題を始めとした家庭での学習を促進させることを考えなければならなくなっている。そのために必要なことは何か,求められているものは何かを把握し,どう働きかけるべきかは,体系化されていないし,共通認識が固まっているとも言い難い。
 子どもの学習環境や学習現実をどのように設計(デザイン)していくのか。その鍵プレイヤーである「親」はどう関わり,振る舞うべきか。このことに関する知見を固めていくことが,広義のカリキュラム観点からも大事だし,教育工学的に支援ツールを開発する観点からも重要だ。今回の研究発表は,そういう取り組みの最初の最初。予備調査による仮説組み立て部分といった内容である。
 学会発表は初めてではないけれど,日本教育工学会で発表するのは,シンポジウム登壇を別にすれば,初めて。実は小さな発表デビューだった。発表資料を用意してそれに基づいて発表するスタイルとは違い,スライドを映写して発表するスタイルなので,さながら大学の講義みたいになってしまった。細かい反省はたくさんあれど,とりあえず90分タイマーは作動せずに終えられた。
 長崎には前日の夕方に到着。長崎といえばH先生がお住まいになっている。ホテルにチェックインしてすぐにバスで網場町に向かった。すでに辺りは暗くなっていたし,事前に連絡もせずお伺いするので(先生,ごめんなさい),会えないことも覚悟して向かった。幸いH先生はご在宅。お疲れのところだったが,少しばかりおしゃべりすることが出来た。お元気そうでよかった。嬉しいことに,研究発表の場にも訪ねてくださった。ありがとうございました。
 研究会最後の特別講演を英語で聴く。ゴールベースドシナリオによるコミュニケーションスキルを育成する教材をご紹介いただいた。約1000もの事例とエキスパートによる数百本のコメントビデオによってつくられた環境問題に関する教材だった。興味深くはあるけれども,行き着くところコストの問題だなと思う。
 ただ質疑の場面で,扱っている題材が英米圏の価値観で集められたものに偏っていることを指摘するものがあり,もっと共生共存を指向するような文化的価値観によるコンテンツでつくってはどうかという主張があった(と思う,英語で…)。
 問題解決のための最適解について,多数の事例や証言に基づくとはいえ,その解釈がある種の思考体系から逸脱することが出来ていない可能性はあるのかも知れない。シナリオ化するにあたって無意識に選択する文化的背景や習慣を意識化して考慮していくのは,また違った難しさを生むのかも知れない。
 長崎空港までK先生運転のレンタカーに便乗する。食事をご一緒してから,先に飛び立つ先生を見送って,しばし待ち時間。今回の研究協力メンバーの皆さんと合流して,東京に向かう。ぼちぼち,年末と年始からの出張の準備をしなくてはならない。