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ユビキタスの未来は

 私たちの生活が少しずつ便利になってきたのは,それを支える技術の進歩や改善が積み重ねられてきたからだ。電話機や電球の発明に始まり,ラジオ,テレビ,自動車,飛行機などが世界を変えた。その後もパソコン,インターネット,そして携帯電話がさらに私たちの生活様式を変えたことは誰も否定しないだろう。
 トーマス・フリードマン『フラット化する世界』の下巻(第6章)出だしには,著者のこんな考えが記されている。彼は止めることの出来ない世界のフラット化を最大限利用するにはどうすればいいのかという問いに「適切な知識と技倆と発想と努力する気持ちがあれば,ものにできるいい仕事が山ほどある」と答える。その一方で,「仕事は楽ではない」とも述べるのだ。
 フリードマンはグローバリゼーションを1.0から3.0に段階分けしたかと思うと,1.0では「国が,グローバルに栄える方法か,最低でも生き残る途だけは考えなければならなかった」とし,2.0では企業がそれを考えなければならなくなり,いよいよ3.0に至って個人が考えなければならなくなってきたことを指摘する。「それには科学技術の技倆だけではなく,かなりの精神的柔軟性と,努力する気持ち,変化に対する心構えがなければならない。」
 今夜はユビキタス技術の最新動向を触れる機会を得た。それは空間にQRコードをちりばめたり,小さなコンピュータを埋め込むことに始まって,いかに環境(システム)がユーザーの変化を読み取ってニーズに応えていくかという技術の集積である。それによって私たちの生活する空間は,より使い勝手を増し,私たちが豊かな生活を送ることに注力することを助けると期待されている。
 しかし,現在も横たわるユビキタス研究分野における応用側面の課題は,これらの技術を応用すべき対象の決定打を得られていないということのようだ。もしユビキタス技術を使えば,家や事務所の空間に埋め込まれた環境制御コンピュータが,個人の持っているIDカード(少しSFチックに描けば,体内に埋め込んだIDチップ)を識別して,個人個人に合わせた環境条件のセッティングをしてくれるようになったりする。少し太っている暑がりのお父さんなら部屋のクーラーが強めにかかるとか,昨日中断した仕事の続きをするためにパソコンが自動的にファイルを開くとか,街中で知人の所在を調べることが出来るとか。便利そうな応用は枚挙にいとまがない。けれども,「便利そう」なものが「いつも使う」ものになるとは限らない。
 今夜の勉強会で見えてきたのは,ユビキタス技術の前途に立ちはだかる壁が,「環境としてのユビキタス技術」に至るまでの「道具としてのユビキタス技術」段階におけるデザインにありそうだということ。フリードマン氏がグローバリゼーションに付けたバージョンを借りれば,3.0(環境)へ至る前の2.0(道具)の難しさをユビキタス技術はまだ真正面から直面していないのだと思う。仮に2.0をくぐり抜けて3.0へと飛躍したとき,今度はいよいよユーザー側がその難しさに直面する点はグローバリゼーションの場合と似ているような気もする。なぜなら,ユビキタス技術は,環境を全て技術的にフラット化するものだからだ。
 そうなると,私たちがユビキタス技術もしくはその隣接研究に対して期待すべきことは何なのか?ユビキタス技術が描き出す近未来の日常生活イメージは誤解や余計な不安を抱かせるばかりだから,ちょっと横に置いといて,もっと現実的な「道具として」,私たちの生活世界へとすり合せていくことを考えないといけないような気もする。道具として必要なことは何か。
  ・使途を限定しない(目的)
  ・機能が明確である(内容)
  ・使用が簡単で柔軟性がある(方法)
  ・壊れないこと(品質)
  ・使用を選択できる(選択)
 思いつくのはこんな感じだ。環境としての技術(3.0)を目指すユビキタス研究にとって悩ましいのは,使用の選択が発生してしまう道具としての技術(2.0)の段階をどのように克服するかということだと思う。ユビキタス技術を使う選択と使わない選択が同居する生活空間を人々が納得するようにデザインできるかどうか。もっと具体的に書くと,少し太った暑がりなお父さんにとってユビキタス対応クーラーのある部屋とない部屋の差異は納得できるのか。本社オフィスはユビキタス対応で仕事の自動レジューム機能があるが,支社オフィスへ行ったら古いデスクとノートパソコンしかない場面をうまく接合できるのか,といったことである。
 現実的には全ての環境を一気に変えることが出来ない以上,そのような長い長い過渡期におけるユビキタス技術が人々を納得させた上に,日常的に使ってもらえるものとなるには,技術革新とはかなり違った努力が必要だろう。宿題をもらった感じだ。
 その努力の一つとして,学校教育環境にユビキタス技術を導入するという入り口は,悪くない発想だと思う。というよりも,学校教育にとっては「環境としてのユビキタス技術」ではなく,「道具としてのユビキタス技術」の方が相性がいいかも知れない。もしかしたら,そこに「学習のための負荷」と「環境への適従」との拮抗点があるのかも知れないからだ。たとえば,今夜の勉強会でも,システムをシミュレーションの道具(教具)として使用することで,知識やノウハウの伝達に役立ててはどうかというアイデアがあった。このことから考えても,ユビキタス技術は中途半端なパソコンよりももっと柔軟な教育ツールを提供してくれる基盤技術としての役割を期待されているようにも思うのだ。
 さて,何十年後になるかわからない未来。私たちの子孫は,いずれユビキタス環境3.0の構築を達成した世界に生活していることだろう。そんな時代の人たちが,どんな心理状況にあって,どんな思考を展開するのか,残念ながら私たちは体験することが出来ない。拙い想像力を展開して,明るいシナリオと暗いシナリオを描くことはかろうじてできるのかも知れないが,それをするために私たちが今この時代に何を選択しているのかを考慮しないわけにはいかない。大文字の話になってしまうが,エネルギー問題一つとっても深刻だといわれているにもかかわらず,全てが電気を必要とするテクノロジーで構成される環境を構築して,それを持続的に維持可能なのかどうなのか,それすら私には想像もつかない。
 私の実家には,1960年代物のソニー製小型白黒テレビがあった。そのテレビは1979年くらいまで,食卓の上に置かれて使用していた記憶がある。今は行方不明だけれども,たぶん見つけ出せば今でもテレビ放送を受信することが出来るはずだ。それが2011年からアナログ地上波が停波することで,すべてのアナログテレビでテレビ放送を見ることが出来なくなる。
 それが少し不安なのである。道具に必要なのは「シンプルであること」だと思うのである。アナログテレビがラジオキットみたいに簡単に作れるわけじゃないとしても,デジタルテレビの複雑さ(技術の高度さ)に依存しきってしまうのは,いざというときに問題を引き起こすのではないかと不安なのである。まあ,その「いざというとき」って何だよって話もあるし,アナログ放送の立て替えとして「ワンセグ放送」があるという指摘もあるから,不安は漠然としたものに過ぎないかも知れない。
 ただ,少なくとも「持続可能性」の観点から考えれば,アナログ放送技術は持続を諦めるという選択を実行しようとしているのであり,そのような選択をなんの疑いも無しに迎えようとしつつある私たちの大雑把な選択眼に不安を覚えるのは確かである。ユビキタス技術導入に際してもいつかはそんなフェーズが訪れるのだろうか。そのとき私はまだ生きているのだろうか。

Multi-Touch Interaction Research

 そのレスポンス性にびっくりである。映画「マイノリティ・リポート」でトム・クルーズ演じる主人公が操作していたデータグローブによる空間インターフェースの手前に位置することになるだろうが,映画のものよりリアルだし,これなら幼児教育に取り入れて楽しむことができそうである。
 Multi-Touch Interaction Researchと呼ばれるこの研究は,ニューヨーク大学のJefferson Y. Han氏らによって進められているものらしい。リアプロジェクタ方式のタッチパネルは,名前の通りマルチなタッチ(指が何本かさわっている状態を感知する)を可能としており,その動きを解析することによって様々な操作を可能にするというものだ。とにかくデモムービーを見ていると,その拡大縮小操作の気持ちよさというか,軽快さにクラクラしてしまう。
 途中,キャラクターのようなものを操作して,まるで人形をクイクイッと動かす感じのデモもある。これなんかは子ども達にも受けそうなものだ。タブレットPCというまだまだ制限の多いインターフェイスを乗り越えたら,いよいよこうしたマルチタッチの時代なのかなと思う。
 もっとも最近は,「とくダネ」とか天気予報など,テレビの中で似たようなタッチスクリーンが登場しているから,皆さんにとってはすでにお馴染みなのかも知れない。あれにもっと自由な操作性が加わったと考えればいい。
 以下,ビデオもリンクしてみました。

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月面着陸問題

 本屋に出かけたら,副島隆彦『人類の月面着陸は無かったろう論』(徳間書店2004/1600円+税)が目に入った。昨年,テレビで話題となった問題である。昨年末の特番を途中から見た記憶もあるので,興味を持っていた。それに著者である副島氏の英語関係の本は,勉強させてもらった経験もあるので,どれどれといった感じで手に取ったのである。
 米国宇宙開発「アポロ計画」の一つとして世界中の人々が記憶にとどめる35年前のアポロ11号月面着陸。その科学史と人類史に残る偉業とされる出来事は,大嘘であったという論がある。それは当時から疑われていたらしい。ここにきてテレビ番組として扱われたことによって,その疑念が広がり始めたという。この本は,それらを踏まえて,著者の示す4つの論点において議論を挑もうとする書である。そのほか,当時の記録や映像について徹底的に疑念を表明し,人類は月面着陸していない証拠を提示していく。

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