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なぜ『ほんとうにいいの?デジタル教科書』は書き直されるべきか

 歴史を遡るためには史料を漁ることが大事なのだけれど,史料があるだけで正しい史実が浮かび上がる十分条件にはならないことは,歴史学の素人でも分かっている。

 自らの立場を明らかにしつつ,公正な議論へ開かれるように努力する方法論はいくつかあるとは思うけれども,少なくとも史料を丁寧に扱わなければならないことは不可欠だろうと思う。

 丁寧に扱うという方法にしたって,寸分たがわずというやり方や、筋は曲げずというやり方など,様々あるが,いずれにしてもそのやり方で,論者への信頼や論の信憑性が左右されることも事実だと思うのだ。

 何の因果か,新井紀子氏の『ほんとうにいいの?デジタル教科書』(以下、新井本)につっかかる契機をもってしまい,少しずつ本戦のための準備をしている。

 私個人はデジタル教科書なるものについての議論は、歴史や事実を幅広く整理し確認した上で展開され深められていくことを望んでいる。その上で建設的な見解や行動に結びつけることがベストだと考えている。

 膨大な論点があっては、議論も拡散するとは思うが,だからこそ、論点の位置づけや論点と論点の関係性を整理し確認する必要がある。それも恣意的になる危険性もあるが,そのことへの配慮の仕方が論者への信頼や論の信憑性を左右するのだと思う。

 そして、私が新井本に対して批判的なのは,冷静公正な議論のために執筆したと表明しながら,こういう部分について乱暴だということにほかならない。

 もしこの本を入り口にデジタル教科書議論に参加しようとすると,間違った知識と偏った議論を踏まえて始めることになり,これを軌道修正するのにエネルギーが必要となり,本来の建設的な議論へのエネルギーが削がれてしまう可能性がある。

 ただそれだけのことではあるが,そのことが契機となって私は新井本を批判的に検討する作業に関わることになってしまったのである。

 いったい新井本は何を間違っていて、何が偏っているのだろう。出だしの「はじめに」の1頁分だけで、この本の酷さが現われている。

 
○(2頁)「協同教育」

 →【誤記】:正しくは「協働教育」。参照した資料に誤字があったのかも知れないが,少なくとも原口一博議員や総務省は「協働教育」という表記で進めていた。著者も編集者もチェックが甘い。

 
○(2頁)「この事業はいわゆる事業仕分けの影響もあり二年間で幕を閉じたが、現在も実証実験は続いている」

 →【誤認と矛盾記述】:二年間で幕を閉じた事実はない。現在も続いていたらそもそも幕は閉じてないので矛盾した記述である。読み手が混乱する。

 
○(2頁)「明治以降、私たちは紙の教科書で教育を受けてきた。それがデジタルに置き換わるとするならば、(後略)」(中略)「そもそも、紙の教科書を今デジタルに置換える必然性はあるのか。」

 →【偏った前提】:「置き換え」論は可能性として論じられることはあれど、「組み合わせ」論の方が大勢であり,どのように組み合わせたり,使い分けたり、遠ざけるべきかが議論されている。そのような議論の全体構図が示されず,「置き換え」論だけにふれて議論を進めるのはミスリーディング。

 
 上の問題点は、まだかわいい方である。

 この調子で、勢いに任せて論点が書き綴られていくのであるが,その勢いに面食らってほとんどの読み手は「批判的に書く=冷静な議論」だと勘違いしてしまうのである。

 勢いに任せて書いてしまったとする根拠はいくつかある。

 
○(36頁)「(オンラインサービスについて)このようなユーザ向けソフトウェアの開発目的は、教育ではなく消費にある。にもかかわらず、現在出回っている教育ソフトウェアの多くが、消費者向けのソフトウェアのインタフェイスを模倣している。そのことに、開発者の多くは残念ながら自覚的ですらないのである。」

 →【乱暴な適用】:オンラインサービスの批判を「模倣している」とだけ書いて、教育ソフトウェアに適用しようとしている。模倣している事例があるなら明記すべきだし,すべての教育ソフトウェアに問題があるかどうかも書かずに「開発者の多くは自覚的ですらない」と書くのは乱暴ではないか。

 
○(54頁)「「光回線への需要喚起による「光の道」構想」という政策目標が「デジタル教科書」の出発点となったことは,教育にとっては不幸であった。光回線が必須であるような形態で「未来の学校」(フューチャースクール)の青写真を描かざるを得なくなったからである。」

→【勝手な価値判断】:なぜ教育にとって「不幸」であるのか理由が明記されてない。逆にどうだったら「幸せ」なのかも明記されていない。行間や続く記述を深読みすると推察することはできるが、それが不幸か幸せかで表現すべき事柄なのか疑問である。

 
 35〜36頁あたりの記述は,NetCommonsという情報共有基盤システム(コンテンツ・マネジメント・システム)を開発者と一緒につくった人物とは思えない配慮の無さである。もしかして自分が作ったシステムにはそんな問題がないと自信を持っているのか,あるいは開発者と一緒の仕事で意思疎通に困難を感じたことの表われなのか,それこそ余計な詮索を誘ってしまう。

 デジタル教科書に関する議論部分についても様々あるが,それは本戦にとっておくとしても,こういう調子で議論を進めていたら,正しい正しくない、メリット・デメリットとか以前に、冷静で公正な議論に入りづらくなってしまう。

 だから私は、新井本こと『ほんとうにいいの?デジタル教科書』に批判的なのである。

 新井氏は数学者なのだから,こういう文章構造も美しくない著書を出すことになって、内心は苦々しく思っているのではないかと私などは推察するのだが,その点も含めてこの本は書き直されなくてはならないと思う。少なくとも収められている論点自体は重要なものもあるのだから。

 
 岩波ブックレットの最終頁には「「岩波ブックレット」刊行のことば」が常に掲げられている。

 「(前略)現代人が当面する課題は数多く存在します。正確な情報とその分析、明確な主張を端的に伝え、解決のための見通しを読者と共に持ち、歴史の正しい方向づけをはかることを、このシリーズは基本の目的とします。」

 いま一度、新井氏と編集者にはこの趣旨を思い出していただき,正確な情報と明確な主張でこのブックレットを書き直していただきたい。それに見合う何かを発信するでもいい。
 

ネオ・デジタルネイティブ

『ネオ・デジタルネイティブの誕生』など読み直して、再確認。

76世代 PCデジタルネイティブ
86世代 ケータイ・デジタルネイティブ
96世代 ネオ・デジタルネイティブ

96世代は、モバイルと動画(映像情報処理)がキーワード。

勘違いな結論

 買いたくはなかったが,便乗ついでにとある会の座長をしている人物の著書を手に入れて読んだ。哀しい気持ちになっただけだった。

「 これまでの日本をつくってきたのは,若いネット世代ではなく彼らより上の大人世代です。大人たちの世代には,日本を戦後の混乱から救い,豊かな国にした大きな功績があります。その一方で大人たちには,一九九〇年以降の二十年間を「失われた二十年」にし,日本列島を世界の潮流に背を向けたガラパゴス列島にしてしまい,あらゆる面での閉塞状態をつくりだして,ネット世代に莫大なツケを回した責任があります。その責任を重く感じるなら,日本の大人たちは,私自身も含め,ネット世代の批判に終始せず,彼らの置かれている状況を理解し応援して,彼らが新しい「世界の中の日本」を創り,新しい「世界の中の日本人」になっていくための,新しい学びの場を大至急つくらなければなりません。
 日本のネット世代がこれから担うべき最大の仕事は,デジタル革命とグローバリズムの潮流を堂々と泳ぎ切れる「世界の中の日本」を生み出すことです。そして,日本の大人世代に託された最大の仕事は,ネット世代がその仕事に邁進できるようにするための新しい学びの場をつくることです。若い世代と大人の世代が協力し合って二十一世紀日本の開国が始まるのです。」(某書216-217頁より)

 どんなに正しい道筋で論を積み上げても,最後に自己存在の主張が入り込んでは,よい結論に結びついたとは言えない。

 新しい学びの場をつくるのは,学習者自身である。

 大人世代の仕事というものではない。

 大人世代が学習し続けるならば,一緒に場を共にすることは出来るが,それは責任で実現することでも実践することでもない。

 もしも責任を感じるならば,大人世代は後継世代に場を譲るため,最前線から撤退して,後方支援に回るべきである。それが責任のとり方だ。

 
 ネット世代が主役たるべきと説きながら,素知らぬ顔して自分たち大人世代の存在意義を主張しようとしているのはなぜか?

 若い世代の活躍を応援している余裕があるうちに,大人世代は自分たちの退去の仕方を考えた方が,よほど責任を果たすことになる。

世紀の越境からゼロ年代の教育行政記

 イベント用の資料をつくるにあたって私自身の見落としがないかどうかを確認する意味も込めて小川正人著『教育改革のゆくえ ――国から地方へ』(ちくま新書2010.2/777円+税)を読んだ。

 駄文でも教育制度や教育法規に関する知識が今後ますます必要になることは繰り返し述べてきたところではあるけれども,この本は,20世紀末から21世紀・ゼロ年代あたりの日本の教育行政の仕組みと起こった出来事を綴っており,制度と法規がどのように運用されたのかが分かる内容となっている。学校教育現場を振り回している教育改革の中心部がどんな風に動いていたのかを知るには手ごろな書である。

 ジャンルとしては教育行政学であるし義務教育周辺に焦点が当たっているので,たとえば教育基本法改正,学習指導要領のはどめ規定見直し,高等教育政策など,その他多様なトピックスや議論については触れられていない。この本が,当時の教育改革の全てを扱っているとはいえないまでも,確かに書名にある「国から地方へ」という大問題を考えるには十分な材料である。

 さらに,この本の執筆が政権交代して間も無い頃であったことも関係して,事業仕分けの話や教員養成課程の見直し議論などについて十分言及がされていない。民主党政権の教育改革は,まさにこれから始まろうとしているのだから,それも当然かも知れないが…。

 

 幸い,この新書が扱っている範囲で自分の認識が見落としているものはなかった。けれども,いまだ多くの一般市民がこのような新書に描かれている事情や変化について知っているとは言い難いようだ。

 これからは個々人がこうした事情を理解して学校教育に関わっていかなければならない時代になっている。特に教育が専門ではない分野の人々にも鳥瞰図を理解してもらい,効果的な方法で教育分野に関わってもらう必要がある。

 もちろん,直裁的に関わる人もいれば,面倒な部分を回避して関わる人もいるだろう。それは個々人のアプローチだから選択に口出しするつもりはないけれど,全体としてそれぞれが自分の立ち位置をおおよそ把握しておくことは大事だ。

 たまに全国の教育ニュースを収拾してTwitterで流しているのだが,そうした作業の中岳でも日本全国の地方の実態が様々であることはわかる。と同時に,地方分権の難しさも感じる。

 もっとこの問題にいろいろ斬込んでくれる人たちを増やさないと…。

特集「子ども危機」

週刊ダイヤモンド 7月25日号「子ども危機」
http://dw.diamond.ne.jp/contents/2009/0725/index.html

 来週には最新号が書店に並んでしまうが,7月25日号では「子ども危機」という特集が組まれ,週刊ダイヤモンドらしい視点からネットの危険,教育の後進性,少子化・育児問題,出産と小児医療の現実,子どもの貧困問題を扱っている。

 週刊ダイヤモンドの特集読むと気が重たくなるのは,そういう切り口だからか,そういう現実が本当に深刻だからか,雰囲気に引っ張られないように立ち止まって考えてみる。

 問題が一気に解決する手だてはない。だとすれば,どの部分から良い兆候が見えたら全体の雰囲気に波及するのかを考えるのが順当な手続きである。

 ところが優先順位のつけ方は人それぞれ。そのどれも一理あるのだから,結局のところ意思決定に政治が必要になる。つまりこの場合の「政治」というのは,端的に言えば,やってみてもいいかと思わせるくらいにハッタリをかますことである。

 米国教育研究学会(AERA)はWebサイトに「Research Points」というコーナーを用意して,政治行政などの意思決定の立場にある人々に対して,学会としての研究動向やポイントを示すようになっている。この数年は更新されていないが,少なくとも研究者側からの情報発信は明確にされている。

 日本でも研究動向をまとめた論文は存在するが,こういう形で発進することを前提としたものではないし,学会のWebサイトに掲げられているわけでもない。表立って特定の立場に肩入れしないのが日本の学術研究の倫理みたいなところもあるので,これは文化の違いみたいなものだ。研究者集団には研究によるそれなりの根拠があるにも関わらず,ハッタリをかますことが出来ていないということ。そして,マスコミが主導権を握って読者視聴者が喜びそうな言説や世間的に名前を知られた人々の主張が選択的に流布されているのが実情である。

 その意味で,週刊ダイヤモンドの特集記事も,問題の選択や情報の編集権はすべて記者や編集部にあって,その客観性や妥当性がどの辺にあるのかを見定めるのは,読者にはほとんど無理である。

 このあたりの問題から取り組むことが正しい優先順位になるのかどうか。正直なところ,確証はないし,得られるものでもないのである。ただそれでも,課題の分かりやすさから言えば,ここから改善するのならやってもいいかなと思わせるのに見合うのかも知れない。

 財源問題は悩ましい問題には違いない。この国に寄付文化が根付いていないし,企業は組織の持続成長を優先して社員に還元しない傾向にあるから,政治行政の側から保証をしなければならないのは仕方ないとも思える。日本は教育福祉関係予算をずっと低い水準で押さえ込んできたわけだが,ぼちぼちバランス配分を切り替えるときが来ているのかも知れない。

私が在るということ

 しばらくの間,最後の部分を残して,読む時間を確保できていなかった。今日,仕事を終えてから一気に読み切った。最後の章は,久し振りに声を出し朗読しながら味わった。『1Q84』は,静かに幕を閉じた。

 内田樹氏のブログにある評論(記憶離脱)も読み,なるほどこういう捉え方や思索の広げ方があるのだなと感心したりする。自分の現実を重ねすぎても,息苦しくなるだけなのでほどほどにした方がよいが,先急ぐことばかりしている自分の生き方を考え直した方がいいとも感じた。

 「物語」は教育あるいは学習に文脈においても重要視されている概念である。鳶野氏(2003)は,筋立てて物語ることが「理解する」際にも強く働くとして,こんな風に書いている。

「出来事を理解するとは,出来事を,その発端と展開と収束の全過程を見通す筋立てのもとに,有意味なまとまりとして捉えることだといえる。」(4頁)

 しかし一方で,物語ることによる出来事の「意味付け」だとか「筋立て」ということに依拠するような在り方は,物語としての整合性や一貫性に縛られて,それにそぐわない別の意味付けを閉ざしてしまう可能性も孕む。

 教育の文脈においては,リオタールの指摘した「大きな物語」の終焉と「小さな物語」の復権のようなことが繰り返し語られるが,このことについても鳶野は

「物語論的視点からの教育学的人間研究にとっての,教育における大きな物語への批判的眼差しはの射程は,物語の「大・小」の問題を突き抜けて,全体を見通した筋立てのものに出来事を意味づけるという「物語ること」それ自体が内包する問題領域へと進みはいらねばならない。」(20頁)

 と指摘して,あえて慣れ親しい「語り方」や「聴き方」から決別して,教育を物語ることの不思議さに目覚め続けることを示唆するのである。

 村上春樹という作家をかかえ,様々な物語を見通すにも適した日本という国にいることは,とても幸せなことと思う。ところが,一方で,その豊かさは情報や物語の過多という側面において,たくさんの不自由も運んでくる。

 そして,日本の子どもの考える力の低下(クローブアップ現代)や,世界における図書や教育環境の不十分な地域の存在(アンビリーバボー)といった現実,「国営マンガ喫茶」と揶揄された国立メディア芸術総合センター(仮)構想(各種ニュース)などから,考えさせられる事柄はいろいろある。

 おそらく,高速回転しているこの時代において,私たちはブレーキを必要としている。自分自身の思考をゆっくりと回すためには,ある程度の摩擦が必要なのだ。豊富な情報と物語によって,整合性のよいパーツがすぐに揃ってしまうようなことではなく,不整合なものをどれだけ確保できるか。

 私が在ることの意味をそういうところに見出して,自身を鼓舞していくしかない。


鳶野克己(2003)「物語ることの内と外」(矢野智司,鳶野克己 編『物語の臨界』世織書房2003.3)

200Q

 『1Q84』を読んでいる。2冊目の後半部分にさしかかり,物語を楽しむ時間も残り僅かとなってきた。仕事が終わって帰宅してからチビチビ読んでいるので,進みが遅いのだけど…。

 テレビやネットでは,空前の売れ行きというニュースが流れている。本の内容についてネタバレするようなニュースがないのは幸いである。その代わり,みんなが何を考えて『1Q84』を読んでいるのかも分からない。まあ,小説というのは自分が楽しめればそれでよいのであるから,他人の評価は差し当たり意味はない。

 物語世界が照らし出す現実世界の記憶。

 教育というフィールドに関わる以上,望むと望まざるとに関わらず,私たちは搦め捕られている。

なんの助けにもならない

11歳で大学を卒業したアメリカの天才少年 「テレビゲームは時間の無駄」
http://gs.inside-games.jp/news/190/19075.html

 うむ,君のように堂々とこう言えるのも一つの生き方だと思う。こういう姿勢を認め合える空気を日本でもつくりたい。つまりは,そうでない生き方だってあるということにも寛大でありたい。もちろん教育関係者として何かを助けることを志向したいのは当然だけどね。

生き方の模索の中で

 教育基本法の改正議論にしても,英語教育の動向云々にしても,私たちが何に振り回されて,あるいは振り回されずに生きていくかというところで渦巻いているのではないかと思える。
 4月15日号の週刊ダイヤモンド誌は毎年恒例の「息子・娘を入れたい学校」特集。ハイパーメリトクラシーに対応したような複雑な学歴社会の中における学校教育の,これまた複雑な取り組みが取り上げられている。心休まるような状況とは,とても言えない。めまぐるしい選択の一つ一つを気にして生きるのか,自分なりの哲学をどこかに見つけてデンと構えるか。
 教養,心身,消費,情報といったキーワード。それらが家庭の中でどういった役割を担い,どのように構成していくことができるのか。カリキュラムは,ライフ・マネジメントの領域を取り込まなくてはならないような気がする。でも,それはかつてカリキュラム研究の活動分析法や社会機能法的なカリキュラム構成を時代に合わせて焼き直せということに過ぎないのか。
 過去の歴史を振り返ると共に,未来を見通すこと。この2つのバランスをどうアレンジしていくのかが問われているのかも知れない。

オズの出版社

 旅支度を進めながら,今月発売の月刊誌を眺める。『世界』11月号には「徹底討論・脳科学は教育を変えるか」と題し,ジャーナリスト司会で脳科学周辺の専門家3人による討論が掲載されている。
 昨今,教育議論に脳科学の成果を参照したものが多く見受けられるようになった。そうでなくても昔から「左脳だ,右脳だ」と学習について脳のメカニズムを引用して語る教育論は馴染みが深いが,最新脳科学によってさらに教育方法の裏付けが得られるのではないかという期待が高まっている。
 この風潮で有名なのは一時期「多重知能」(もしくは多元的知能)として注目され流行もしたハワード・ガードナー氏の理論である。ちなみに彼はその著書で,多重知能理論が学校教育の基本的な課題の触媒としてはたらくような教育場面を大事にすると記している。要するにそれは,理論を根拠としてでなくきっかけとして使って欲しいと断わっているのだ。
 当事者の思いもむなしく,現実には脳科学が学習にまつわる謎を解き明かし,より効果的な学習の方法を提示してくれると思いこんでいる人たちがいる。徹底討論では,そのような誤解が発生する理由の一つとして,脳科学の研究手法の問題を取り上げ,そこに登場する「作業仮説」があたかも実証済みの事象として取り扱われてしまうことを指摘。そのような誤解を生むのは,そうした科学研究に関する一般向けの教育が足りない(またこれか!)ことを挙げている。そしてもちろん,「脳科学的な実証」を売り文句にした出版ビジネスの弊害を憂慮し警鐘を鳴らしている。

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