前期試験が終わった途端,出張に出かけた。
基本的に私はインドア研究者で,図書館にこもって文献を漁るのを得意としている。あるいは,ひとところの場でじっくりと取り組むのが大事と教えられてきたタイプである。
もっとも個人的にはアウトドアも嫌いじゃなくて,フィールドに出かけてあちこち彷徨うのも新しい発見のためには必要だと考えている。お出かけ好きはそういうところに依拠している。
これまでの出張というと,ひとところに出かけて帰ってくるタイプがほとんどだった。今回は,連日違う場所に移動して依頼をこなすという経験をした。活躍している先生たちにとっては珍しくもないことかも知れないが,マイペースな私にとって3つも相手のある仕事を並べたのは難題だった。
結局,一つ一つのために考える時間を確保できなかったので,ありモノか中途半端な状態で対応せざるを得なかった。京都大学で行なったシンポジウムの発表なんかはスライドが未完成で,しかもそれがニュース記事に掲載されちゃったりしてるから恥ずかしい。
それに,隙間時間に仕事をするという器用なことができないので,出張中は他の仕事が一時停止。エリートサラリーマンのように出張中でも原稿書きする先生たちの優秀さをいつもうらやましく思う。
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ネット上でも時々紹介されている『ワーク・シフト』(プレジデント社)を手にしたのでぱらぱらと眺めてみた。
2025年に私たちの労働や働き方がどうなるのか,変化の要因を整理し様々な現象をパッチワークして描くことを企図した内容は,斜め読みでもなかなか面白い。
牧歌的な仕事の仕方をしている自分は「漫然と迎える未来」が待っているのかも知れないと思うと,ちょっと寒気もするし,願わくは「主体的に築く未来」選択したいとは思う。
この本はそのために3つのシフトを提案する。
1. ゼネラリストから「連続スペシャリスト」へ
2. 孤独な競争から「協力して起こすイノベーション」へ
3. 大量消費から「情熱を傾けられる経験」へ
どれも負荷は高いのだが,なるほど様々に直面している出来事は,いずれかのシフトを私に迫っていることの表われかなと思える。
たとえば,1は,研究者として「カリキュラム論に関する研究者」「教育情報化に関する研究者」のように専門分野を越境していくことも(派手さはないが)大事ということなのだろうし,「iOSアプリの開発者」といったまったく肩書きの異なる仕事をするは分かりやすいかも知れない。
2は,他の研究者や関係者の皆さんが,私を誘って一緒に活動しようとしてくれていることなどが当たるかも知れない。孤独な競争世代の師匠たちを見て学んできた分,このシフトは一番厄介なのだけど…。
3は,何かを生み出す情熱といったところに取り組めるかどうか。「わくわく」することができるかどうかといったところなのかも知れない。個人的にはアプリ開発とか,ブログやtwitter,USTREAMを使った情報発信,たまに催すイベントなどがそれに当たるかなと思うが,十分こなれているとはいえないかも知れない。
いずれにしても2025年という,たぶん生きて迎えられるけれど何がどうなっているか分からない未来を考えることは,今の私たちにとってとても大事なのかも知れないなと思う。
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様々なシフトが大事と思う一方で,日本に根強く残る保守的な構造の転換はーの難しさに悩むこともある。それと分かちがたく結びついている学校教育についても。
そして慌ただしい出張の日々に考えていたICTと教育のこと。
私は正直なところ,このテーマに関して苛立っている。
きっともっとシンプルにできるはずのことなのに,なぜにここまで複雑な事態になっているのか。あるいはそうさせた理由は何なのかを考えるほど,理不尽な思いに駆られる。
もちろん,万能な解決策はない。けれど,諸外国や過去の事例を参考にして,打つべき手は少なからずあるはずなのである。
けれども,そういうことにはなかなか動けない。もうすっかり業界の関係は固定化してしまっているから,新しいことを始めるにしても,いろいろシフトしない以上は「漫然と迎える未来」ばかりが共有されてしまう。
今回の出張は,とある書籍の研究会からスタートしていた。
そこでは「主体的に築く未来」への希求とともに,これからの教育とICTの関係を考えるざっくばらんな議論が展開して,とても前向きな気持ちをもって過ごすことができた。
たぶん,そんな立ち位置から続くいろんな仕事の中のいろんな要素を眺めてしまったせいなのだろう。少しずつ自分の中の苛立ちが増幅していたのだと思う。
そのことにびっくりした人もいれば,面白がってくれた人もいる。残念に思った人もいたのかも知れない。本当にいろいろな反応を巻き起こしてしまい,それはまたじっくり考える必要性を私に感じさせるものとなった。
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CIECが京都大学で主催した2012 PCカンファレンスでシンポジウムに登壇し,そんな苛立ちを抱えながら発表をしていた。
そして「〈デジタル教科書〉狂騒曲」という言葉とともに,最近のデジタル教科書に関する様々な動きに関しても言及した。DiTTの動きもそうだし,日本デジタル教科書学会の設立についても触れた。
シンポジウムが終わってから,懇意にしていただいている先生に「りんさん,日本デジタル教科書学会は,デジタル教科書に関していろいろ議論しようとするために場を作ったのだから,狂騒曲という表現はどうかと思う」といった趣旨のコメントをいただいた。
私にしてみると,学会名に「デジタル教科書」という言葉を付けたことの理由が明確でない以上,その学会設立も一連の狂騒曲の中で起こっていることの一つだという見解で,そのことについてできれば相談する機会があったら良かったのに…とお返事した。
たぶん,あまり納得していただけてなかったのかも知れない。じゃあ対案があるのかと問われれば「デジタル教材学会」くらいしか,私にも持ち合わせはない(「デジタル教科書」はダメで「デジタル教材」ならOK,それは何故なのかという問いもあるかも知れないが,単純に「教科書」という言葉に色が付き過ぎていることにほかならない。英語はともかく,日本語の場合は厄介である)。
「デジタル教科書」という言葉は曖昧である。学術研究ということなら用語について慎重になるべきだと思うが,これからそれを議論するからという理由で後先を逆転させるのは,狂騒曲の中の出来事だからこそ許される。
本来であれば,既存の学術研究の場で「デジタル教科書」を措定した上で,その言葉の定義に賛同するものによって学術団体が組織されることが学術手続というものである。もちろんその定義が幅をもっていることに何の問題もない。その幅のもとで議論することが示されるのだから。
日本デジタル教科書学会のような現場の先生方が積極的に関わる学術団体ができることは,とても素晴らしいことだと思う。
けれども,このような形で学会を形成すると,しがらみがないという以上に,既存の流れとの連結点がないことになり,双方向に連携する際の大きな障壁になりがちである。しかも「デジタル教科書」というバズワードを冠に付けるとなれば,いよいよハードルは厳しくなる。
だから8月18日の設立大会は,この学会にとってとても重要な場であり,学会の存在意義を定義する機会になるだろうと思う。
この学会のいうところの「デジタル教科書」とは何なのか。
そしてこの「デジタル教科書」という言葉をめぐって動いている様々なものを,ひとまずどうマッピングしていくのか,そしてどのようにそれを更新していくのか。
このような問いや疑問に対して何かしらの指針が浮かび上がれば,この学会が〈デジタル教科書〉狂騒曲の中を抜け出るための羅針盤を担う存在になりうるだろう。
もし,そうでなければ,それもまた狂騒曲の中の出来事である。
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少し涼しくなった夜道を自転車で駆け抜けて,スターバックスに入り読書。
慌ただし夏だけれど,久し振りにマイペースに時間を過ごしてみたりする。