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教育と情報の歴史探訪へ

 もう少しで小学校におけるフューチャースクールが終わりを迎える。

 何か教師支援に関することでコツコツ調査研究でも始めようかと思い,教員研修の関していくつかの教育センターに連絡を入れながら資料を集め始めた年の夏,とあるメールが届いたことから私の教育情報化めぐりがスタートした。

 それまでも教育の情報化は関心事ではあったけれども,外野に立っていたこともあって,直接的ではなく間接的に動向を把握していた程度だった。それは誰か偉い人が関与して取り組むもので,私のような外野は話題になることを眺めてやじを飛ばすのが関の山だった。

 ところが巡り合わせとは面白いもので,東京暮らしが終わって徳島に引っ込んだと思ったら,国の仕事に関わることになり,県外へとお出かけすることも多くなった。行政の仕組みを理解しなければならない場面も増え,そのための術を自分で探さなければならなかった。

 大きな事業の末端に関わり始めただけではあったが,教育の情報化に関する仕組みに直接関与する立場になって,あらためて過去の教育の情報化を振り返ろうとしたとき,その情報へのアクセスが極めて難しいことを思い知った。

 話題だけが先行し,その取組みが後に何を残して,どう積み上がっているのかを知るための資料は限られていた。この界隈は文部科学省だけが関わるわけではない,総務省はもちろん,かつては経産省も関わっていた(省庁再編前のことだ)。それらの取組みを加味して教育情報化を理解するためのまとまった手がかりは皆無と思われる。

 乗りかかった船というべきか,人一倍そういう事柄への関心が強いこともあり,教育情報化の歴史探訪を本格的に始めることにした。

 そんなわけで,流儀知らずをいいことに,あちこちに顔を出してはあれこれ質問などして勉強。まだ掘り起こしは足りないものの,少しずつ過去の流れのようなものが見えてきたりもした。

 ようやくフューチャースクール推進事業も区切りがつき,私自身の役目は解かれた。少しばかり文部科学省で始めたアルバイトの仕事が残っているが,そのことも含めていよいよ歴史探訪の本格作業を始めていきたいと考えている。まずは過去の文献を探しに行こう。

 そのまえに,一つ片付けておきたい仕事がある。デジタル教科書なるものに対する混乱状態をほぐすための情報整理作業である。これも資料をあれこれひっくり返して取り組みたいと思う。

デジタルデータ整理

 宿題が溜まっているというのに,歯医者に行って親知らずを抜くことになったり,受け損ねた健康診断を外部で受けなければならなくなったりと,慌ただしい。

 しかもこんなときに限って,掃除がしたくなるもので,今回はデジタルデータの渾沌が気になってしまい,バックアップ用のハードディスクをひも解いてみたら,調子が悪い。

 仕方ないので他のディスクの空き領域に分散して退避(これがまた渾沌を生むのだけれど…)して,ハードディスクを消去することにした。

 まぁ,これがギガ単位のデータだから,退避するだけでも時間がかかる。明らかに重複しているデータもあるが,いちいち検証する時間もないから,とにかく大事そうなものを優先的に丸ごとコピーするの繰り返し作業だ。

 そんなことをしていると改めて,これからの時代,自分のデジタルデータを管理・保存・消去する術を心得ておかないといけないなと思う。

 死後,自分のデータを消去することができるというサービスがあるとも聞いているが,それにしたって何を消すのか消さないのかを決めておかなくてはならないわけで,なかなか大変。

 デジタルデータなんかになっているものは所詮は虚像であると考えて,全部消えればいいという考え方もあると思うが,歴史的な記録というものは,そういう考え方では残ることができないわけで,なんとも厄介な時代になったと思う。

 ビッグデータがどうの,個人情報がどうのというレベルの問題も確かに大事だが,私たちが歴史から学ぶのと同じように,未来の人々が歴史から学べる条件を確保しないと,何でもかんでも二次的なまとめ情報で済ましたら,間違った記録を訂正する機会を永遠に失いかねない。

 ミスプリントした印刷用紙だけが残ってしまわないように,アーカイブの素養を一般人も身に付けておくことを考えなければならない。

何のためのデジタル教科書

 「デジタル教科書」が話題に上ることがある。教育の情報化に関係するトピックスとしてはホットな話題だとも言える。電子書籍へ注目が集まったことも相乗効果となった。

 デジタル教科書とは何か。

 電子書籍のように、教科書や教材が電子化されたものと想像できる。電子化されると、それはデジタルデータだから、昨今のWebページと同様にマルチメディアで表現され、インタラクティブな構成も可能だ。ネット接続されていれば既存のWebサイトともリンクするからオープンだとも言える。

 要するに、電子書籍やらWebやら動画やらのデジタルな情報資源を、教科書的に利用すればそれはデジタル教科書になるし、教材として使えばデジタル教材とも呼べるだろう。もしもデジタルな情報を記録する側に回って、その時に使ったソフトウェアの道具(ツール)があるなら、それをデジタルノートとか呼ぶことになるかも知れない。

 デジタル教科書とは、その程度のものである。

 他の方々は同意しないかも知れないが、私の考えでは、使い方が呼び方を規定している関係にあるように思う。

 だから、デジタル教科書を解説するときに登場する「指導者用デジタル教科書」と「学習者用デジタル教科書」という分類は、使い方の異なる主体で区別した結果できあがったものである。

 このうち、指導者用デジタル教科書に関しては、指導者の使い方が想定しやすく、実際の商品がすでに存在していたこともあって、カテゴリとしての共通理解は形成されているといってよい。端的には電子黒板(IWB)に映すためのもの、それである。

 ところが、学習者用デジタル教科書に関しては、学習者が教科書をどのように利用するのかハッキリと共有されていたわけでもなく、それをデジタル化して何が起こるのかについても、ほとんど想定がなされていない中で、名前だけが先行して付けられてしまった。

 率直に書けば、学習者用デジタル教科書とは「指導者用デジタル教科書以外」を指し示すために存在するようなものである。

 ところで、学習者用デジタル教科書なるものが成立するためには、その手前に踏まなければならないステップがある。

 学習者用デジタル教科書を動作させる機器(デバイス)が準備されることである。

 もし、使い方が名前を規定している説が正しいのであれば、件のデジタル教科書が動作するデバイスは、学習者の手の届く範囲に存在しなければ学習者用デジタル教科書にはならない。

 現状、デバイスはどの程度学習者の手の届く範囲にあるだろう。

 千差万別といったところである。

 研究事業に関わる学校などには試行的に学習者一人一台のデバイスが用意されているところも出てきてはいるが、ほとんどの学校で学習者が自由に使える状況にないだろう。家庭でのデバイス所有程度も一様ではない。

 このことから現状では、学習者デジタル教科書なるものが全員にまんべんなく使われるのは難しいことがわかる。

 また、学習者用デジタル教科書は動作するデバイスの性能や機能に規定される性質を持つこともわかる。

 こうした様々な制約や要因に強く影響を受け、そのうえ学習者の使い方によって求められる形が異なるであろう学習者デジタル教科書とは、本当に一体何なのか。

 皆さんはすでに、学習者用デジタル教科書と言えそうなものの実例をいくつか目にしている。

 たとえば大学の授業テキスト(教科書)として、電子書籍を使う試みがある。大学生という学習者が講読するために使うのだから、一般的な電子書籍ではあるが学習者用デジタル教科書と呼んでも間違いではない。

 iPhoenやiPad用の学習・教育アプリなどがある。これも教科書かどうかの見解は分かれると思うが、読みもの、ドリルもの、動画観賞ものなど、学習者が使えるものが多数ある。

 一方、国の事業として、児童生徒一人一台のデバイス環境を前提とした学習者用デジタル教科書の開発もなされている。各人にデバイスが確保されていることを前提とできるので、授業における学習者デジタル教科書の活用に期待がかけられている。

 いまのところ、これは実証校の公開授業を参観しない限り、一般の目に触れる機会がほとんどないため、どのようなものであるのかはあまり知られていない。「教育の情報化ビジョン」という文書に学習者用デジタル教科書に関する解説があるが、それを参照しながら開発されているとイメージしてもらう他ない。

 いずれにしても開発中のため、模索は続いている。

 学習者用デジタル教科書は興味深いテーマではあるかも知れないが、個人的には、そこが本丸ではないように思っている。

 どちらかといえば情報活用ツールとしての学習者用デバイスをどうするのかが問題だと思っているのだが、それもどんな機種や機能・性能を持つのかということではなくて、学習に必要ならば(学習者用デバイスやデジタル教科書に限らず)どのようなツールであれ自在に取り入れられるような条件整備こそが大事だと思っている。

 しかし、そうなれば、必然的に「何のためのデジタル教科書か」という問いが浮上する。到達しようとする学習の目標次第では、デジタル教科書なるものである必然性をなんら説明できない場合もある。

 たぶん、21世紀型スキルとかDeSeCoなどの話題と無関係ではないのだろうが、残念ながら、そのような論点を踏まえたデジタル教科書の議論は十分なされていない。
 

シンキングツールとの再会

 2012年2月4日に行なわれた関西大学初等部の研究発表会に参加する機会を得た。前日の予定が出張の主目的であり、大阪入りして初めて発表会の開催を知ったので、参加することになったのは偶然だった。

 関西大学初等部は2010年に開校した新しい私立小学校である。この学校では、思考スキルの習得による思考力育成の取り組みを行なっており、そこにシンキングツールとルーブリックと呼ばれるものが導入されている。この実践が注目を集めている。

 この学校と私には直接の縁があるわけではないが、大変お世話になっている関西大学の黒上先生が立ち上げに尽力されていることから、興味を持っていたというわけである。


 
とはいえ、実のところ全く無縁というわけではない。

 米国のシンキングツール実践事例を視察するよう、黒上先生からお使いに出された経験があるからである。米国フロリダ州オーランドにあるShenandoah Elementary Schoolに訪問したのは2005年10月のことだった。

 ところが当時の私は、職場でくるくる空回り。その年のクリスマスイブに辞表を提出して、翌年には東京に引っ越すという人生の転換点を迎えていた。

 せっかくお使いに出かけてお役に立つべきときにお仕事を放棄すことになってしまったというわけである。そんなわけで、シンキングツールは私にとって始まったまま終われなかったテーマとして、なんとなく頭の片隅に残り続けてきた。

 関西大学初等部ができるというニュースとその実践の方向性を聞いて以来、いつかは初等部に訪れたいと思っていたのである。
 (それに東京時代に修士論文でお世話になった先生もその学校でご活躍だと聞いていたので、久し振りにお会いできればとも思っていた。)

 これが神様のいたずらか、ひょっこりそのチャンスが訪れた。

 予定外だったとはいえ、前日の用事が公開授業の参観であったから、そのための準備は万端である。JRで高槻駅へと向かい、とことこと関西大学・高槻ミューズキャンパスへ。

 いやはや、ため息出ちゃうほど立派な建物である。

 しかし、建物以上に先生方の意気込みと実践に目を見張った。まだ4年生までしかおらず、6年制の小学校としては未完成状態、その中で、一つの大きな場所を生み出そうとして必死に頑張られている先生方の姿は迫力があった。

 思考スキル習得と思考力の育成を担う「ミューズ学習」の授業も低学年中学年にも関わらず大変高度な展開を見せていることに素直に驚いた。最初からこうではなかったらしいが、2年程度でここまでくるとは、ミューズ学習の取り組みの可能性を感じた。

 シンキングツールも米国で視察したものを流用するわけではなく、むしろ様々な思考技法の知見を踏まえた上で小学生の学びにあうものを選択して独自に作り上げて活用していた。ポケモンのように、新しい技法を一個一個ゲットしていく形で習得させようというわけである。

 もちろん現在もこの取り組みは試行錯誤を重ねながら作り出している最中。

 だからこそ、今回の公開授業でも「事実」から「まとめ」を起こしたあと「主張」に結びつけていく場面が発生したときに、子ども達が「まとめ」と「主張」をうまく区別できないという問題に直面していた。

 その後、これを分科会の議論のテーマとして掲げ、いろいろな意見が飛び交うことになるのだが、どうも私にはピンと来ない意見も多かった。

 発言しようかどうしようか迷ったが、頭の片隅に残っていた「宿題感」が提出を促していたので、遠慮がちに「アメリカでは、シンキングツールをもっとあっさり使っていた。まとめと主張を迷ったところも、スパッとシンキングツールを使って解決してもいいのではないか」と発言をした。

 ところが、この発言内容が、どうも現場の先生には違和感があったらしい。

 記録をとっていないので正確な受け止めではないかも知れないが、とある女性の先生がこんな感じの発言をした。

 「どなたかアメリカではもっとあっさり…と言われましたが、子ども達が困難に直面して考えようとしている場面で先生が寄り添って一緒に考えてあげていたことがとても良かったと思います。あくまでも子どもが主体的に考えることを大切にしたい…云々」

 当日の発言となんかちょっと違う気もするが、とにかく「あっさり」に対して違和感を感じていたことは明確に表明していたように思う。

 その後も現場の先生方の感想や意見が続くのであるが、私の中ではむくむくと補足をしたい気持ちが大きくなっていた。もはや、いつもの暴走モードである。

 先ほどの先生の発言や思いを否定するつもりはなかった。

 だから、子どもが主体的に考える場面を一緒になって大事にする、それも重要であることを確認した上で、なぜシンキングツールをもっとあっさり使うべきかを、関西大学初等部の関係者でも何でもないのに、かつてのお使い経験だけでとうとうと語り始めた。

 何をしゃべったのか、正直なところあんまり覚えていないが、時間を浪費したために最後に講評をいただく来賓の先生方の発言時間がわずかしか無くなってしまったのは申し訳ないことをしてしまった。


 
 全体シンポジウムは、このミューズ学習を教科の学習へと応用することに関する様々な意見が出されていた。もちろん、思考スキルの習得にフォーカスするという方法自体も議論の対象となった。思考スキルを学んだ成果が教科の学習にも転移するのかどうか。

 たぶん、実践をもっと見たり体験してみないと、シンキングツールをゲットして思考スキルを習得していくことの意味や効果を理解しづらいのかも知れない。

 「あっさり使えば」という私の意見は、もちろん何も考えないで淡々とツールを使えばいいということを言いたかったわけではない。子ども達にだってツールを使うことが腑に落ちなければならないだろうし、それを成立させるためのプロセスは思いの外手間がかかるはずである。日本的な教育との融合にもかなり悩みが多いはずだ。

 だから、正直なところ「あっさり」という言葉に違和感を感じた先生の反応は正しいと思う。きっと、背後に隠れた様々な苦労を直感的に感じたからこそ、先生がもっと子ども達によりそう重要性を指摘したのだろう。そして実際、関大初等部の先生方はその苦労をされていると思う。

 だから、私はもう少ししっくりくる表現を見つけて発言すべきだったのだろう。

 なんとなく、頭の片隅の宿題が大きくなった、そんな関大初等部での参観だった。

ビジネスに青田刈られて

 TechCrunch Tokyo 2011というイベントをちょこちょこ眺めると、スタートアップのプレゼンなど目に入る。

 テクノロジーやソーシャルサービスなどを活用し問題を解決しようとする営為をビジネスとして具現化していく動きが賑やかだ。

 こうした動きがどの程度の持続性を持つのか分からないけれども,少なくともテクノロジーによる社会貢献を志す者にしてみれば魅力的なパスであることは確かである。

 ただ他にも,テクノロジーで社会貢献するという似たような営為を目標としてきた領域がある。アカデミックな世界だ。

 テクノロジーの基礎的な部分を研究の対象とすることで同じ方向を目指しているのがアカデミアの世界で,応用的な部分を商品としてリリースしていくのがビジネスの世界,という違いはあるだろう。

 けれども,アカデミックな世界にも応用的な部分を扱う領域はあるはずで,そこではビジネスの領域と衝突が起こっているのではないかと思われる。

 何かしらの工学的な営為をアカデミックに扱っているべきか,あるいはビジネスとして扱っていくべきか。

 これは別に新しい問題でも何でもない。昔から産官学の連携とか,研究成果をビジネスとしてどのように活かすかはいろいろ試みが展開してきた。

 けれども,それが上手にできるのはごく一部。基本縦割り社会の日本だと一度それぞれに別れてから連携するのは,いまだにコストがかかる。

 そうなると,テクノロジーを思考する人は端的にビジネスを指向した方が社会貢献への近道へと考えたりするんではないだろうか。

 シリコンバレーに打って出て起業するなんて夢物語と思った時代もあったが、それがもう珍しいものではなく,やる気のある者にとっては現実なのだという時代が訪れた。

 そういう時代に生きる子どもたちを育てているのだと考えれば、私たち自身がもっと考え方も実践も前進させなくてはならないと思わずにはいられない。
 

勝手に共有

 近々,「ICTを活用した先導的な教育の実証研究に関する協議会」という総務省と文部科学省が連携している事業の省庁関係者と協議会構成員による会議が行なわれる。

 構成員の先生方が学校現場を視察するための準備や実施が進められているようだ。実証校では公開授業などが開かれている慌ただしい時期のため,日程調整はなかなか難航したりする。仕方ない面もあるとはいえ、なかなか悩ましい。

 オープンに情報交換できるとよいのだが、フルオープンにすると無用な混乱が発生するということも一理あるので、ぶっちゃけ型の私なんかは少々自制しなければならなかったりする。

 それでも,実証現場と協議会のような場との乖離は明らかだし、それはこちらから情報を送り届けきれていないとにも原因があると思うから、少なくとも私が怒られて済む範囲の情報(ってのがあるわきゃないとも言えるが ^_^;)なら,協議会関係者などに直接お知らせするのも悪くないと思うのである。

 というわけで,私たちにはソーシャルメディアがあるじゃないか,あるじゃないか!てな具合に,私の手持ちの情報を勝手に共有することにした。

 総務省「フューチャースクール推進事業」(FS:Future School)と文部科学省「学びのイノベーション事業」(LI:Learning Innovation)事業に関わって撮りだめている手持ちの写真をSNSで写真共有する。

 普段は公私でFlickrに写真を溜め込んでいるが、これでグループを作ってみたものの,米国Yahoo!のみで展開しているサービスということもあって登録が面倒くさいようだ。それで他のSNS,FacebookとGoogle+を検討してみた。

 Facebookの写真アルバムは,友達リスト機能と組み合わせると特定のグループで写真を共有できる。ただし,見てもらうには互いに「友達」承認しなければならない。
 アルバムは無制限に作成できるが,一つのアルバムは200枚までという制限がある。

 Google+にも写真アルバムがあり、サークル機能と組み合わせることで特定の人々に写真を見せることができる。Facebookと違って,Google+は一方的に相手をサークルに放り込んでしまえば、承認し合う必要もなく見てもらうことができる。
 アルバムは写真と動画を無制限に作成することができる。

 
 まぁ,どっちにしても相手がSNSに登録していなければ意味がないといえるが,とりあえずあれこれ共有の手段を確保して情報提供できればと考えている。

 意外なことに,わりと文部科学相側の協議会構成員はGoogle+に登録している人が居て,総務相側は一人くらい…。まあ,構成員にも是非ICTを利活用していただきたいと願いながら、学校現場近くからの情報発信を展開したいと思う。
 

あれから四半世紀

 私が学校という空間でパソコンに触れたのは,中学校のマイコンクラブだった。それは1984年頃のこと。そういえば日本教育工学会もそれくらいに設立である。

 能天気な中学生にとって,臨時教育審議会なるものが行なわれて「情報化への対応」なるものが答申されたことなど無関係な世界ではあったが,断片的に伝わってくる「コンピュータ教育萌芽」の息吹は,憧れとして心に焼き付くことになった。

 国が教育用コンピュータなどのハードウェア整備に予算を出し始めた頃は,ちょうど高校生から大学受験,浪人などして慌ただしく,その後,教育用ソフトウェアなどの予算が出されていた時には教育学部生としてのほほんと日常を過ごしていたので,国の動きなんてほとんど知らずに生きた。

 残念ながら私の被教育経験の中にパソコンが活用されたことはほとんどない。パソコン関連の知識はすべて自学であったし,難しいことは専門家が昔から考えてくれているだろうと信じていた。まして,昔で言うノンポリ大学生に国の仕組みや政治・行政が分かるわけなかった。

 てっきりコンピュータ教育も専門家が考えてくれていて,私は不幸にも触れられなかったけれど,すぐ後の後輩たちは恵まれたコンピュータ教育を受けられる世の中になるのだと素朴に思っていた。

 インテリジェントスクール,100校プロジェクト,こねっとプランだとかの名前が聞こえてくると,私のあずかり知らぬところで着実に物事は進展しているのだと信じないわけにはいかなかった。

 けれども,その後少しずつ分かってきたことは,私が見ている限りのこと以外には何も起こってはいなかったということであった。

 古い文献資料を掘り起こしていくと,たくさんの言説が豊かに広がっていて,まるで教育全体が情報化による豊かな学びの創造に賛同し,着実に変革が進もうとしているように思えるのであるが,残念ながら現実には少ないパソコン教室でたまに行う特別な授業といった状況は今も続いている。

 四半世紀が過ぎて,新しい道具を取り入れることにまだ四苦八苦している。

 何のご縁か,総務省と文部科学省の事業に関わる立場に立った。学校現場近くで見守るだけの仕事だ。願わくは自分が見てきた現実をもっと前進させることにお役に立ちたいと思うのだが,この立場に立ってみて初めて見えてくる難しい事情もある。

 とはいえ,私が関わる事業を今どこかで四半世紀前の私と同じまなざしで見ている後輩がいると思うと,もっと頑張らなければならないかなと思う。

 後輩が四半世紀後に「いまだ新しい道具を取り入れるのに四苦八苦している」と繰り返して書くことがないように物事がもっと進むよう発言していこうと思う。
 

手書き入力機能付きブラウザ

 この文章はiPad上で手書き入力している。

 そうなると有名になった7notesというアプリを使っていると考える人も多いかも知れないが、今回使用しているのは「mazec web client」という新しいアプリである。

 7notesはそれ自体で文章入力をするアプリとして閉じた構造になっているアプリで、手書き入力もそのアプリを使っている限りで有効なのであった。

 優秀な手書き機能が他の場面で使えないというのは大変もったいない。しかし、iPadのセキュリティ構造上、文字入力機能を自由にシステムには追加できない。これが可能なAndroid端末ではmazec for Androidとして手書き機能が単独で発表されたところである。

 そこでなんとかiOS上で汎用的に手書き機能を活用できないかという要望に応えるものとして開発されたであろうアプリが、mazec web clientというわけである。

 何が出来るのかというと、これはwebブラウザなので、Webサイトが見られる。そして、Webサイトの入力欄に文字を入力することができるというわけである。

 このことが意味するのは、Webページになっているものなら手書き入力機能が使えるということである。ブログやTwitterもWebページからアクセスすれば手書き入力が可能だ。

 Webページを上手に設計、デザインすれば面白い使い方が可能になるかも知れない。

みんなのデジタル教科書教育研究会Liveを終えて

 7月31日土曜日の夜に,「みんなのデジタル教科書教育研究会」のメンバーによるUstream生放送を行なった。略して「デジ教研Live」である。

 「みんなのデジタル教科書教育研究会」(以下,デジ教研)は,立場を問わずデジタル教科書が入り込む教育について関心のある人々が集って意見交換や議論を共有する目的で始まった。会費は無料の有志集団である。

 一方,企業・団体が集まって立ち上げられたのが「デジタル教科書教材協議会」(DiTT:ディット)という民間組織である。そちらは法人会員のみのいわゆる業界団体だ。設立シンポジウムは世間の注目を集めたし,今後様々な動きを見せるのだろうけれども,個人が関わることを前提にはしていない。

 デジ教研は,「デジタル教科書」というテーマを,関心のある人たちの手もとに引き寄せて,私たちも考えていこうという思いを形にしたものだと,私は理解している。

 Twitterやメール(メーリングリスト),掲示板を使ったやりとりが少しずつ始まっており,興味深い意見も交わされている。

 願わくは,会が賑やかに継続していくことを期待しているのだが,私自身の経験上,文字ベースのコミュニケーションには山あり谷あり,次第に勢いが衰えて,疎遠気味になる事例も珍しくない。

 たとえば,早い時期にあるテーマの議論が済んでいると,会の新参者が同じテーマを議論する際に「すでにそのテーマは扱いました」とか「アーカイブに議論がまとめてあるから読んどいて」みたいな対応を受けてしまいがちだ。

 議論がまとめてあるのは有り難い話だが,会の趣旨である意見交換や議論を共有したことにはならないのではないか。単に情報を共有することだけでなく,一緒に考えていく経験(端的に言えば時間)を共有することも必要なのだと思う。

 (もっともそれを曲解すると国会や審議会の審議みたいに「○時間審議したから十分」という身も蓋もない根拠に使われることになるけれど…)

 そういう場合,会の活動を活発化させるアイデアとしては,会報を定期的に発行するとか,集会や研究会を開くとか,イベントを開催するとか,そういう類の活動刺激をつくっていくことである。

 デジ教研は全国にメンバーが散らばっているので,どこかに集まることは難しいし,普段から文字ベースでコミュニケーションしているのだから,いまさら会報を出すのも新鮮みがない。

 というわけで,だったらUstream番組を定期的につくっていくことで,声のコミュニケーションを取り入れてはどうだろうかと思った次第である。Twitterと縁の深いUstreamを使わない手はない。発想は安易だが,よいアイデアだと思った。

 発起人の片山さんなどに投げかけたら,好感触だったので,さっさと日にちを決めて実験放送を実行することにした。それが7月31日だったというわけである。

 デジ教研Liveは,当初Skypeの会議通話を使って,複数の人たちと会話しながら,その音声をUstreamで放送する予定だった。私は技術調整係として,Skypeをホストし,Ustreamに流す仕事をすればいいだろうと考えていた。

 ところが,いざ会議通話を使ってみると,たった3人の会話さえうまく交わせないことがわかった。マシンの非力さか,回線の細さか,理由は様々だろうが,当初の予定通りにはできなくなった。

 Ustreamへの送出は私が担当していることもあって,私がSkypeでいろんな人の話を聞くというスタイルで進むことになった。

 第一部は,「みんなのデジタル教科書教育研究会」発起人である片山さんとおしゃべりをした。デジタル教科書が話題になってきたいきさつや会の紹介を目的としたものである。
 片山さんは,新潟の小学校の先生であり,地域の情報教育の研究にも尽力されている現場のエキスパート。そんな片山さんが呼びかけをした会だから,現場の先生方のメンバーも多いことが特徴だ。そこに様々な分野のメンバーが加わって,会の幅が広がっている。

 第二部第三部は,山形の大学に勤められているスットコさんにいろいろ話を聞いた。情報技術と教育の関わりについて長らく追いかけられている経験からデジタル教科書と教育の関係についてや,ご自身の取り組みも含めておしゃべりいただいた。
 スットコさんは,コンピュータネットワークを活かした教育を注視している研究者であると同時に,Twitterからは電子楽器やVJといったデジタル・カルチャーの実践者としての顔も見える。

 第四部は,再び片山さんにご登場願って,感想を聞いたり,補助教材の実際について解説いただいたりした。こうした現場の様子を語っていただくことも大事かなと思う。

 一旦,放送はここで終わる事にしたのだが,放送前から手伝ってくださると約束していた方がいたので,その方を待って,強引に第五部をスタートした。

 第五部は,山梨で公立図書館の館長さん(指定管理者館長が正式なのかな?)をされている丸山さんにご登場いただいた。図書館の立場から見たデジタル教科書や教育の情報化に関しておしゃべりしていただいた。
 教育現場と関係しながら,また違った角度からのお話は興味深いものであり,丸山さん自身が開発者という経験をお持ちで,知のエコシステムといった大きな枠組みに関する議論につなげて考えられていたりと,刺激的な話題が多かった。お疲れのところ申し訳なかったけれど,ご登場いただけたのは幸運だった。

 というわけで,実験放送のつもりが,一晩にお三方のお話をお伺いすることができ,しかもリアルタイムで30名程度の聴取者とTwitterのコメントにも恵まれ,大成功の内に幕を閉じた。

 こうやって,いろんな人たちの声を素直に伺ってみるだけでも,今までの議論をもう一度振り返ったり考え直したりできるし,もしかしたら新しい視点を得られるかもしれない。デジ教研Liveの可能性はいろいろ広がっているように思えた。

 どうしてもこれまでデジタル教科書は,ソフトバンクの孫正義さんとか,慶應義塾大学の中村伊知哉さんとか,それから,蔭山英男さんや藤原和博さんといった有名どころの人々ばかりが発信している話が話題になりがちであった。

 けれども,現場に近いところの人々の発信する話の方が,もっと現実的だし,もっと面白かったりするし,もっと刺激的だったりする。

 デジ教研Liveの活動は,デジタル教科書に対する人々の声を引き出す,とても大事な取り組みの一つになるように思う。私もできる限りお手伝いしたい。

 デジ教研Liveは,有志が多元的に展開する取り組みなので,もし「私も誰かの話を伺って放送してみたい」と思ったなら,会のUstチャネルを借りて実践することができる。

 そうした活動にも関心がある人は,「みんなのデジタル教科書教育研究会」に参加して挑戦してみてはいかがだろうか。

 個人的には,どこかの小学生や中学生も会に参加してくれて,デジタル教科書に関する調べ学習の中でインタビューを放送してくれても面白いなと思う。

デジタル教科書実現のために

 議論のために意識しておきたいことは先回書いた。

 その後,デジタル教科書教材協議会の設立シンポが開かれ,私自身もUstreamで会の進行を見ることができた。

 協議会設立シンポ自体は,登壇者の持論という部分では目新しいものがあったわけではないが,今後の前向きな取り組みを期待させる雰囲気のよいものであったと思う。元東大総長であり協議会の初代会長となった小宮山氏の見識も,この会の方向性をよい方向に導いてくれそうだったことが好感につながっている。

 さて,丁寧な議論が必要である一方,現実を動かすためのアグレッシブな取り組みも同時に必要であることは,明らかである。

 私が議論のために慎重さを求めると「懐疑派・否定派・抵抗勢力」側に立つと思われやすいのだが,実際のところ物事の実現のためには結構積極派でもある。

 要するにブレーキとアクセルを1人のドライバーが操作するのと同じ事。私は教習所の教官的にブレーキだけ踏む人ではないのである(もちろんそういう役回りが必要なときもあるが…)。

 というわけで,私の周りにあった「点と点」を結びつけることで,いくつかの取り組みにチャレンジすることにした。

 まずは,9月の日本教育工学会でワークショップの場が提供されるのであるが,そこで「タッチデバイスの教育利用」というテーマのワークショップを開催することとなった。夕刻の90分だけだが,学会以外の皆さんにも参加していただける企画である。ワークショップという名前は,あまり気にしなくてもいいと思う。あれこれご一緒に考えましょうという感じで十分。

 次に,デジタル教科書教材協議会の実証実験に参加表明することになった。実は,この分野に関心のある人々の中に,私の地元である愛知県尾張旭市とゆかりのある関係者が3人いて,Twitterで意気投合してしまった。ならば,来年予定されている実証実験やモデル校をやるのの協力をしようということになった。9月の学会は名古屋であるし,自分の出身地のためと思えば力も入る。

 そして,有志が集まった「みんなのデジタル教科書教育研究会」で,ネット番組による交流,情報発信をしてみてはどうかと提案した。文字だけのコミュニケーションだけだと,どんどん敷居が高くなったり,難しくなったりしがちだが,ざっくばらんに「しゃべる」機会を短くとも定期的に持つことで,会の活動の刺激にもなるのではないかと思った。そのお手伝いをする。

 こうやって,議論のためのプラットフォームづくりや活性化を通して,デジタル教科書の実現に貢献することも大事だと考えている。モデル校や実証実験にも関われれば研究者として本望だ。

 いろいろなことがうまく展開するよう頑張ろう。