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学校教育の情報化に関する懇談会

 4/23文部科学省が「学校教育の情報化に関する懇談会」が開催された。行政刷新会議の事業仕分けで好評だったネット中継に習い,ライブ配信も実施され,現地に赴いて傍聴できない国民にも会の内容が公開された。

 総勢22名ものメンバーによる初回は,定石通り自己紹介でいっぱいいっぱい。それぞれの立場と論点を披露するだけで時間はあっという間に過ぎた。そういうのがよく分かっている人たちばかりだから,もう少し控えめにするのかなと思っていたら,資料があるからとばかりに結構踏み込んだ指摘も出してきていたのは,よい意味で予想を裏切った。

 とはいえ,座長を務める安西委員もまとめに困るほど論点は様々だったにもかかわらず,それは資料を配布したので置いといて,次回からさっそくヒヤリングですとばかりに進めていくのは,相変わらずの事務調子の進行で残念だった。

 しかも,本来であれば,懇談会の継続的な公開を確認すべきところ,あっさりと「非公開で」と閉じてしまった。企業・メーカーへのヒヤリングという特殊事情が理由ではあるが,それではその後の公開は確保されるのかどうかもハッキリは示されなかった。情報公開に対する感度の鈍さがこういうところに残っているのは今後の改善が必要だ。

 私自身は,ライブ配信で傍聴するついでに発言内容のキーワードを記録しようかとTwitterを立ち上げ,いつもの調子でハッシュタグ(#johokon)を決めてツイートし始めたら,いつの間にかtsudaっていた。論点がシンプルな人もいれば,たくさんのことを伝えたくて盛り込んでいる人,座長がまとめるのに困ったことは理解できる。

 懇談会の回を重ねていく中で,懇談会の主題と合わせて示された論点がちゃんとマッピングされ,主題との関係性や距離,優先度などが明確にされるプロセスを示しながら,最終的に情報化ビジョンへと繋げていくことが重要になる。情報化を話し合おうという会なのだから,それくらいのことを委員から積極的にやってくれないと,信頼を勝ち取ることは難しい。

 現場で頑張る人々は,いつも「出来上がったビジョン」が降ってきて,自分たちが地道に積み重ねてきた努力を脇に置かされて,それを受け取るように仕向けられてきた。

 情報化の時代は,「出来上がったもの」だけでなく,そのプロセスを追えるように情報を伝達したり共有できることに意味があるんじゃなかっただろうか。だとしたら,懇談会の議論は,あるいは企業やメーカーの考えていることさえも,現場の人々が参照できる形に公開しておくことにこそ,最終的なビジョンへの理解も得られるのではないか。

 そういった根本的なところを閑却したまま,旧来と同じような懇談会運営でこのテーマを論じても,あまり信頼は置けない。

 あらためて,この懇談会の懇談事項は

(1)授業におけるICTの活用について(デジタル教科書・教材、情報端末・デジタル機器、学校・教員等の在り方を含む)
(2)ICTを活用した校務支援について
(3)ICTの活用に関する教員へのサポート等について

 である。基本的には扱おうとしている論点は(広範な議論の企図して)曖昧である。

 だから,何か特定の目標を実現するための手段として,この懇談会に期待することは,あまり効率的な話ではない。

 この懇談会に求められていることは,来年度の文部科学省概算要求の中に盛り込むICT予算項目を明確にすること。

 そのための根拠となる「情報化ビジョン」を策定するための材料を示すこと。

 それだけである。

 そこで実のある話が展開されても,それはあくまで副産物である。

 もし,学校教育現場の学習環境を実際に管轄している地方公共団体を動かしたければ,違うアプローチが必要だ。

 文部科学省だけでは無理なのだと思う。

 総務省と経産省との連携において,両省になめられないよう,どれだけ向こうを張れるのか。

 懇談会はそのための材料を出していくことが求められている。

 そういう意味で,企業・メーカーヒヤリングを非公開にしたことは,早くも及び腰を印象づける結果となってしまったと思う。こういう場合,道理云々ではなく,プレゼンスが重要なのだ。

 財務省にコテンパンにされた経験から,文部科学省は何も学んでいない…。

世界と繋がらない日本

 iPadに表計算ソフト「Numbers」を入れて,受講生名簿を扱い始めている。「一枚板デバイス」の携帯性・可搬性はノートパソコンとは明らかに異なっており,存在感はクリップボード(用箋ばさみ)に近い。

 そうなると,画面との距離のとり方も変わってくる。直接のタッチ操作であることが逆に表示物との余裕の確保を可能にしているように思える。ノートパソコンでは,どうしても画面に釘付けになる傾向があるのだが,iPadだと,他からの視線が入り込む余地を生んでいる。

 新製品ゆえ,目新しさからのめり込む体験をしている人も多いが,やがて見慣れてくれば日常に溶け込み,デバイス自体にはそれほど特別な関心を向けなくなるのではないかと思える。

 明日(22日)に「学校教育の情報化に関する懇談会」が行なわれる。

 文部科学省は,このところネットの力を活用することをさらに加速させており,この懇談会もネットで中継されることが予告されている。画期的といえば画期的。教育の情報化に関して以前から触れてきた私たちにすれば,ようやくの前進だが,世間一般の認識が追いつくことも重要な要素と考えれば,これでも先進的ということになる。

 懇談会は主に

(1)授業におけるICTの活用について(デジタル教科書・教材、情報端末・デジタル機器、学校・教員等の在り方を含む)
(2)ICTを活用した校務支援について
(3)ICTの活用に関する教員へのサポート等について

 を話し合うとされている。学校教育の情報化に以前から関心を持つ人々にとっては,出てくる話も想像できる範囲だと思われ,問題はそれをどう地方公共団体が理解して具体的な施策として学校現場に届くよう行動してくれるのかだが,広くコンセンサスを得るためには,少し遠回りも必要というところだろう。

 正直なところ,ここまで政治状況が混迷し,財政的な困難が深刻化している中では,大胆な提案も難しく,議論の展開も空回りがちになると予想される。ICT関連が総務省にお株を奪われたことや,過去にはメディア教育開発センターを廃止に追いやったツケをどう払うのか等,本来であれば議論されてしかるべきなのだろうが,おそらくそういう部分は触れない範囲で意見交換が行なわれるのだろう。

 日本という国の国際的なプレゼンスという観点で学校教育の情報化をどう考えるのか,そういった水準で懇談会の意見が交わされることを期待してやまない。世界の人々は,情報ツールをあっさりと利用して得られるものを得ようとしている。慎重なのが日本の取り柄とはいえ,そうこうしているうちに日本の情報化が世界のそれに付いていけてないことは,相変わらず国内志向の閉鎖性を維持することにしか繋がらないと思う。

 日本版のBecta(英)のような組織をつくって,もっとガンガンやるべきではないのか。財団法人だけどJAPETはもう少し政治的に動いてもよいように思うのだが,メンバーには日本の有力なメーカーが揃いすぎていて結果的に誰も動けなかったし,そうこうしているうちに韓国など海外勢が市場を席巻し始めて自社存続の危機意識から足並みが揃えられなくなって…。だれかビジョンを語って行動し,この領域に骨をうずめる覚悟の人を立てないとダメだなと思う。

朝は苦手なのに…

 生活サイクルとしてなるべく朝方を保ってはいるが,実のところ朝はゆっくり寝ていたい派(怠け者)。けれども,今年度前期は木曜を除いて毎日1時間目から授業がある。健康的だけど,気持ちくたびれる。

 パソコン操作を教える授業では,Officeのバージョンが統一的に2007になって,ソフトの操作としては便利になった部分も多いけれど,授業の作り直しの手間はかかる。進度の遅い子と速い子の存在を両方とも考えると,いつもどちらかにしか対応できていない結果に終わる準備不足な自分が悲しい。私1人で40人を相手している現実に,私自身の体力や精神力はいつまで絶えられるのだろうかと,いつぞやの悩みを再び抱えているわけだが,それに朝1時間目のしんどさを掛け合わせて心配してくれるようなご親切な人は,なかなかそういなかったりするわけなのだ。

 明日は教育学の授業がスタート。あらためて今の時代に教育学を語るということは何を目指した行為なのかを,最近の関連文献を眺めて考える。

 広田照幸氏『ヒューマニティーズ・教育学』(岩波書店2009)は,教育学がポストモダン論の洗礼を受けたことによる影響が,教育目的の迷走を呼び寄せ,それが「教育学のシニシズム」を生んでしまうことを指摘している。また一方で,無理に「教育目的を再構築」することも危惧している。

 『変貌する教育学』において矢野智司氏は,共同体の内部で考える限りにおいて教育は共同体の内部の社会化機能の一部であり,そこに謎は無く,普遍的に合理的な手段の探究だけになると指摘する。そして,共同体が外部という限界・極限に直面するとき教育の起源はふたたび謎として立ち現れ,共約不可能な異質性をもった体験をもたらす「最初の先生」をも考えることができるという。

 教育学の言説は,分野細分化されたり,複雑に組み合わせを変えたりして,文言のバリエーションがやたらと多くなったこと以外は,基本的メッセージは何も変わっていない。どちらかといえば,私たちの現実の方が懸念されていた世界へと急速に接近したに過ぎない。

 けれども,それが私たちの選択であるし,途中成果はすでに産出されてもいる。それをグローバリズムと呼ぶのか,格差と呼ぶのか,環境危機と呼ぶのかは,私たちの視線の向け方次第。

 いま,教師という存在が揺らいでいるのは,教師の力量の問題と一般的には考えられている。

 もう一歩,踏み込んだ指摘があるとすれば,一般の人々の学歴も高くなり,多様な情報へのアクセスが容易になったことで,教師の知的優位性が相対的に低くみなされるようになったというものである。

 あるいは,教師という存在の多様性の理解不足と合わせて,教育サービスによる自主選択的な教育学習機会の獲得が可能だという思い込みや,一部の教師の失敗・不祥事を過剰に問題視する態度が,教師イメージに対する負の連鎖を紡ぎ続けている可能性もある。

 これを教員養成の充実や延長で打開する方策も考えられている。正しいか間違っているかを断じることはできないし,この問題とは別にそれ自体は取り組まれなければならない当然のことであるので,その努力を否定し得ない。

 ただ,今日起こっている教師という存在の揺らぎ,ひいては公教育への信頼の揺らぎといったものに対処する手段として考えた場合,あまりにも関係ないリスクを抱え込むやり方だというだけである。

 とはいえ,代替案に決定打がない。教育研究に携わる人間から言えることは,極めてシンプルである。「教師を外部の知を展望する高みに上らせること」。教員養成改革はもちろんそのための一案ではあるけれども,それは将来的な期待にもとづく策である。今現在,学校教育現場に従事する教師すべてが,この高みに上ることを促されるような策を打つことが必要だと思われる。それは何か。そこに万人納得する決定打がないことが悩ましいのである。

 個別的な対応を小さな範囲で努力することは,不可能なことでは無い。教師の自主研修やその類いの制度を各地域で様々な立場の人間が力を合わせて実現していけばよいこと。

 そうした動きは累積すると,本来は国家規模でなされなければならない事柄にも関わらず,個別具体的すぎて国家規模で対応するのに必要な統一的方策として提示できないがゆえに,納税者に対する形での予算措置へと結びつけ難いことが問題である。国と地方の権限や税源配分の問題は一筋縄ではいかない。地方の学校教育に直接届けられる「教育交付金」という予算枠の創設も話題になり,何かしらの動きも見られなくは無いが,おそらく教師の問題に直接届くのには時間がかかるだろう。

 昨今,ICT活用教育の推進も旗色が悪くなっているが,本来的にはこうした教師の情報環境整備といった事象が,教師の存在を原点回帰させる役目を負い,教師自身の知的展望などを拡げ高めていく方向に活かされるべきである。

 ところが,そのような環境整備を怠り続けた状況によって,一方の業を煮やした人々による導入圧力と,その一方の導入圧力に対する抵抗力が,むやみに高まり続けて,本来ならば不必要なICT有用無用議論の泥沼に自らをからめ捕ってしまう自体を招いた。何か一つの道具を教師が手にするために,これほどの労力が必要とされなくてはならないものなのか。そのこと自体を納得させる答えはあるものなのか。

 残念ながら,すでにこうした事態に直面した以上,丁寧なアプローチが必要であることは確かである。学術の世界は,先行事例を研究して,有効な成果を得てからことを運ぶべきと考える。政治の世界は,経済刺激策として抱き合わせるなどして財源確保や世界の情勢を突き合わせて政策的妥当性を模索する。学校教育の世界は,直接対する子ども達を経由して現実社会を追いかけ,自らの努力において研さんを積む。

 いま,「よい教師」を生み,「よい教師」となる努力をし,「よい教師」へと高める支援のための努力が必要だ。それは,乱暴な言動による個々の解釈枠組みへの揺さぶりや倒壊を企図するようなやり方では不可能である。なぜなら今日,そもそも解釈枠組みは形を成しておらず,物事を相対的に見ることが定着し,「何がよいのか」という問いさえ持つ余裕がなくなっているからである。

 朝起きて,「さて今日はどんな一日にしようか」と素朴に思うように,「どんな教育や学習を紡ぎ出そうか」という世界との交渉のもとで,「よい教師」の希求と探究を続けていかなくてはならない。

 もっとも私は,朝が苦手なのだが…。

新年度が始まって…

新年度に入って何度もエントリーを書きかけていたのだが、下書きのまま公開せずに終わっていた。この文章もどうなるのかわからないが、懲りずに書き出してみている。

多分、昔よりも公開することに躊躇い迷うことが多くなったのだろう。基本的には独り言であるはずなのだが、誰かは読んでいるだろうことは自明で、そして昔はそのことに無頓着でいられた。けれども、今は恩義を感じる人も多くなって、その人達に誤解を与えることに不安を感じることが多くなってしまったのかも知れない。浅はかなままでは、たとえそれが私一人の言動であっても、周囲に迷惑をかけてしまう、場合によってはそのつもりがなくても相手を否定してしまう結果となる、なんかそういう人生の時期に否応なく至っているということである。

実は私の指先にはiPadがある。この文章も慣れないローマ字入力を駆使して打ち込んでいるというわけである。音をひとまとまりのキーとして入力するリズムにこだわっていた人間としては、フリック入力をあらかじめ用意してくれなかったことは腹立たしい(それに全角スペースを入力させてくれないのも煩わしい)が、一枚板のこのデバイスをチェアに座って操作する喜びを差し出されてしまっては、もう引き下がってローマ字に慣れるしかない。幸い、変換はストレスがない。

思いを巡らせていた通り、このデバイスには様々な可能性を感じられると同時に、その形態からくる限界があることがわかってきた。それについて、Appleがどこにとりあえずの着地点を定め、おそらく今後の様子をみて変えようとしているのかも感じ取れた。なるほどAppleの作品成果としての面白さがここにはある。

iPadは極めてオールディーズなデバイスだと思われる。本当の意味での未来のデバイスではない。そのことは、私のような古い価値観にもコミットしている人間にとって、とてもホッと出来るものでもある。あれもこれも何でも、という訳ではないということである。

もちろん、iPadは新しいツールである。こんな形に仕上げられたツールは無かった。だから、少しはお祭り気分で楽しむのも悪くないと思うのである。

ただ、これもすでに知られているように、iPadにはいろいろな縛りもある。私たちがよく知るパソコンに比べれば、出来ることが圧倒的に限られている。私は、もしも人々がこれまでの延長線上でこうした形のデバイスを求めているのなら、いずれiPadは通り過ぎて、Android端末が私たちを取り巻き支えてくれると思っている。だからiPadから吸収出来るものがあるなら今にうちに吸収すべきと思っている(この前の催しもそういう考えに基づいている)。

どうなるのか、それを決めるのは市場である。

個人的には、iPadの底辺に横たわっている世界観を大事にしたいと思う。

Macで仕事をすると様々なソフトが動き、支援をしてくれる。しかし、同時にあれこれに気を配り始めると集中が疎かにもなる。メールが届けば音が鳴るし、TwitterのタイムラインもRSSの通知も気にはなる。文献や情報の検索は掘れば掘るほどに切りが無くなり、いつしか調べている主題がすり替わっていたりもする。出来た人間が使う道具としてならともかく、そうでない人には混沌を運んでくる道具になりかねないのではないか。

iPadがそうならないとは言わないが、思うにこのデバイスはそれぞれのシチュエーションに意識をもっと焦点化させる専用機的な性格が織り込まれていると思う。次期iPhone OS4のプレビューイベントで披露されたマルチタスク機能を見ても、その辺を意図的か無意図的かわからないが堅持していることに、私は好感を抱くのである。

夢見たようなデバイスを実際に操作できる時代を迎えて、私は少し舵とる方向を変えていかなくてはならないと改めて思う。まだこうしたツールを教育で使う時代は始まっていない。一方で誠実にそのために研究を積み重ねる努力がなされている。一方で商業的にこうしたデバイスを盛り上げる動きが盛んになっていく。一方で政治的な文脈の中で経済刺激策的に論じられている。一方で教育現場には連綿と続く日々の困難な営みが待ち受けている。

今一度、その接合点を追いかけてみたいと思う。