振り回された政治家

 こんな風にすべきだっただろうか。日本の首相がまた変わることになった。

 鳩山総理は積もり積もった政治世界の古い慣行を見直す作業をスタートさせるべく8ヶ月前の暑い夏に選ばれたのではなかったか。それは今でも必要とされることだし,その苦しい作業を担うリーダーとして,鳩山氏は悪くない人だったと思うのである。

 けれど,本人が掲げた理由にもあるように,普天間基地移転に関する言動問題が大きな割合を持って降りかかってきてしまった。そして,鳩山家の資産の扱いに関わって明るみに出た政治と金の問題というスネの傷。従来の政治文法でいけば総理辞任もやむなしかも知れない。

 これらは責任を持って対応しなければならない問題とは思う。

 けれども,こんな風に総理をやめさせるべきだったとは思わない。

 政治家に届くフィードバックの妥当性がまるで検証されなかったことにこの問題の深刻さがあるように思える。

 本来的には選挙によって問われなければならなかったことを,あくまでも指標でしかない世論調査のようなものとマスコミの論調を「国民」の意見がの如く扱ってこの状況を作り出したのは,無意図的だとしても深刻な問題だと思う。

 ネットで情報が届きやすくなったことで,私たちの情報に対するリテラシーの在り方が善い意味でも悪い意味でも露になってきているように思う。残念ながら,それについて私たちの民度が高まっているという状況にはないことを真摯に受け止めなければならない。

 透明なフィルターのように振る舞っていたマスコミ・報道機関の乱暴なフィルタリングの実態が,ネットによる記者会見のノーカット伝達によって明るみになったことは大きな変化ではあった。事業仕分けの現場がストリーミング放送されたこともそのようなフィルタリングの実態をあぶり出すのに一役買った。

 まして,記者会見におけるマスコミ・報道機関記者たちの悪しき伝統芸的な取材・質問手法を見るにつけ,それによって「世論」なるものがつくられている残念な現実に「戦慄」するのは必至である。

 一体,この8ヶ月。マスコミ・報道,あるいはジャーナリズムは,乱立する問題を解決するに役立つ知見を国民に提示してきたのだろうか。期待を踏みにじったとか踏みにじらないとか,五月までと言ったぞ辞めるのかどうなのかといった,感情ベースの伝言ゲームを繰り返してばかりだったのではないか。

 そして一方で,私たち個人はどうだろう。

 多くの人々は今日聞いたこと,昨日聞いたことと,一週間前に聞いたこと,数カ月前に聞いたこと,数年前に聞いたことなどの差分を追いかけられるようになり,それを標本の如く陳列することに,何の躊躇いもない。

 Twitter上でリツイートの連鎖が起こると,元がいつツイートされたかも分からぬまま,長いことメッセージが流れ続けてしまう。情報訂正が必要な場合,人々の関心が高ければ訂正もリツイートされるが,そうでなければ放置されてお終いである。こういった情報環境に慣れてしまうことは,明らかに情報に対する丁寧さを欠く。

 そんなフロー情報に対する安易な態度が新たな問題として浮上していることだ。

 おかげで,世論調査の支持率低下のグラフが右肩下がりであることだけが確認されたら,それでハイお終い。踏みとどまって,データを子細に検討する態度何ぞはまるで育まれてはいない。

 そして,たぶん一国の首相が変わっても,誰もあんまり深刻じゃないってことが起こっている。

 鳩山総理は,欠点も多い人だけれど,支えていくに値する人だったとも思う。辞意表明演説を見ると,その印象はますます強くなる。

 何十年と積みあがってきた悪しき伝統のもとで何かを正そうとしていたのである。結果が期待外れになる可能性があることは初めから想像できたことだし,政権交代選挙でそれを計算に入れなかった人がいたらお坊ちゃん以上に能天気である。

 次の人たちがお金についてよりクリーンであることが,状況の難しさを打開する決め手になるとも思えない。いい加減に,この調子で政治家を振り回していたら,結局は,私たち自身に跳ね返って損をするだけである。

 もう少し辛抱強く,前に向かって日本の国の歩みを進めていくべきだと思う。ちゃんとした仕事をさせなかったことも,最後まで仕事をさせなかったことも,結局,私たちの責任であると思う。