月別アーカイブ: 2007年7月

協調的知識統合

 蒸し暑い七月の終わり,集中講義を受講している。「協調的知識統合論」という講義で,学習科学の世界的な権威である三宅なほみ先生が担当されている。
 しかも授業は東京大学駒場キャンパスにある新しい学習空間「駒場アクティブラーニングスタジオ」(略称:KALS)で行なわれている。私にとって初めての駒場キャンパス授業である。いろんな意味で新鮮な気分で通っている。

 講義は「熟達化とは」をテーマにしており,熟達化に関する研究知見をジグソーメソッドによって協調的に学んでいく授業である。先生が説明する時間は限られており,ほとんどは私たち受講生が資料を読み,それを受講生同士で共有する作業を通して,知識統合していく過程に時間が割かれている。
 これが気がつくとあっという間に時間が過ぎてしまう。しかも参考資料を読んで理解したうえで説明する作業が続くので,一段落した頃には脳みそも身体もぐったりしている。いやはや,こういうタイプの集中講義は初めての経験かも知れない。
 ジグソーメソッド自体は目新しくはない。昔から知られた方法であるし,私自身,教育学講義などで紹介したりするお馴染みの方法である。しかし,実際にジグソーメソッドを使う機会というのは,意外と無い。普通の授業の時間で収まりきる方法でないことも一因だろう。だからこそ,朝から夕刻までの集中講義などは,絶好の適用機会というわけだ。

 けれども,このジグソーメソッドをなかなか使わないもう一つ要因は,効果的に用いることができるのか,教員側に掴みにくいところにある。
 一つには,用意した資料からジグソー的な活動がうまく成立するのか不安なこと。二つ目には,ジグソーに参加する学生の能力に左右される不安があること。三つ目には,最終的に期待した理解に到達することができるのかということ。四つ目には,評価が難しいことなどがある。
 端から見た活動の様子は,教員側が資料を配って,あとは学生が議論して,その結果を発表するといった風である。教員は議論しているところを見守っているくらいで,あとはじっと待つしかない。「なんだ教員は楽じゃん」と思うかも知れないが,長い時間を待ち続けて,しかも授業の行方や結果は不安だらけという状況は,なかなか耐え難いものがある。そんなこんなで,ジグソーメソッドを実際に導入するのは,躊躇しがちなのであった。
 ところが,実際に受講生の立場で経験してみると,これはこれでなかなか面白いのである。疲れるけれども,受講生同士で協調する過程で,繰り返し重複することも多いが,それでも新しい見方や考え方に接することもできるからである。その上,気がついたら時間が経過しているというのだから,長い長い集中講義に対する心理的な抵抗感も低くなっている。
 おお,これは使える。というわけで,わたくし,夏の出稼ぎ非常勤講師は,自分が受講している集中講義が終わった翌日から,自分の担当する集中講義があるので,さっそくこのメソッドを使おうと心に決めたのであった。
 え?教える側が楽できることに気がついたからじゃないかって? ま,まさか,馬鹿にしてもらっちゃ,こ困るなぁ。新しい知見を活用するのは教員として当然の責務。自分の抱えている課題や仕事が忙しくてあんまり準備できなかったから,ネタをパクっちゃおうって魂胆なんか全然無いんだから…,そうじゃ無いんだから…,そんなんじゃ無いって…,無いって言ってるのに…,違うんだもん…。

 さて,熟達化というテーマは,長いこと論じられつつも,いまだホットなのだという。昨年には,ケンブリッジ・ハンドブック・シリーズの一つとして『Expertise and Expert Performance』が上梓されている。分厚い本には,「加齢と熟達化」なんて章もあって,多方面から熟達化について論じたものとなっている。後期のゼミで購読する予定。
 集中講義は,さすがに全てを扱えないので,そこから三宅先生なりに授業構成を考慮して選んだ代表的な理論や実験研究を扱っている。故波多野誼余夫による定型的塾達と適応的熟達であるとか,状況論的な学習などを含んでいる。個々の理論はお馴染みだが,それらを組み合わせて考えるとどうなるのか,複数の人間で議論して考えると,また違った学びを生成させるのである。
 理想的には,このような協調的知識統合活動が学校現場の教員間で展開されることが期待される。もちろん,結構負荷の高い活動ではあるので,いつでも展開してなきゃいけないというわけではない。
 けれども,たまに展開しようと思ってできることでもないのが,なかなか難しいところだ。教育の専門家として,協調的知識統合が今後の教師に重要な能力であるとすれば,そもそも教師には何が必要になるのか。何はなくとも,何度も体験してみることこそ大事なのだと思う。そのためのファシリテイターの存在が当分は重要視されるだろう。

子どもとセキュリティ

 ITproの週末スペシャル「学校裏サイト,ワンクリック詐欺 — 子どもとネットセキュリティの問題を考える」は,改めて子どもを取り巻くネット環境について考えるのによい材料となるように思う。
 情報モラルやケータイモラル教育の必要性だとか,親や企業の責任だとか,日本の先進性だとか,いろいろ論者によって切り口様々だが,あらためてこの時代の教育が背負い込んだ厄介さにため息をつかざるを得ない。

ひとりよがり

 大学院生になろうと大学教員を辞めて,東京にやってきたから,私の日々も取り巻く人間関係は(当然)変っている。そのこと自体は望んだことであるし,場から中空に浮くことも物心ついたときから慣れていることなので,苦しみながらも楽しんでいるといったところである。
 むしろ気がかりなことは,その事を(あくまで)きっかけとして,この頃の私自身が駄文から遠ざかっていることだった。理由になりそうなものは,いくらでもある。
 毎日が慌ただしく,ブログの書き込み画面を開いて長時間にらめっこしている時間がないとか。世の中の動きにうんざりして,駄文を書く気が起きないとか。積み残しの仕事や課題を後回しにして駄文を書いていると罪悪感を感じるとか。
 まあ,とにかく人生の中で最も早回しの日々を送っているのは確かなことで,「ひとりよがり」になることさえままならなかったのである。

 整理する整理すると繰り返し書きながら,この十数年の教育らくがき駄文を見直すことはして来れなかった。私は駄文を書き散らした人間として,自分の過去の駄文にある程度責任を持たざるを得ないが,その本人にしても,いかに自分の駄文が(いま振り返る地点からすれば)無責任なものであるのか,認めざるを得ないものが幾つかある。
 いまはちょうど参院選挙の時期で,候補者達を非難批判するために過去のブログの発言を探し出して失態をあげつらう動きもあちこち見受けられる。ブログというメディアを持つことが「忘却との別れ」を受け容れざるを得ないということに人々は少しずつ気がつき始めているが,まだその恐ろしさを味わう立場にないという点では十何年駄文を書いている私とて変わりはしない。あなたの悪意(もしくは正義)が私に向けられた場合,私の過去の駄文達は,いくらも私自身を苦しめて,私自身を失脚させることも不可能ではない。少なくともそのための材料を豊富に提供するのだ。(いまは懇意で一緒に仕事をしてくださる方々に対しても,私の旧い駄文は生意気な口をきいていたりする。ええ,人生とはそんな気まずい悪戯を仕掛けてくるのだ。)
 駄文のデータがネット上に拡散してしまった以上,今さら「消す」行為に実効力はないが,それでもオリジナルを消すことが「本人の姿勢」の表現として重要であることも,選択肢の一つとして確保されなければならない。そうなれば当然,「消さない」ことにも何かしらの姿勢が込められることになる。そこがこういう表現手段に手を出してしまうことのリスクというか重さなのだ。(完全ではないとしても)ネットを匿名的に使うことの必要性は,こんなところにもあるのかも知れない。
 悲しいかな私の場合,匿名にするにはもう手遅れだし,駄文の調子は指紋のように個人を特定し得るから,もはやネット上のどこに何を書こうが,私自身から逃れられない。場合によっては他人の書いた私らしい偽文の責任さえかぶるのだろう。

 ああ,インターネットで駄文を書くことが,これほどまでにも暗い波長の未来につながっているなんて,どうして思い描く必要があるのだろう。
 それは私があらためて「ひとりよがり」したいがための心の整理なのだ。

 あなたは自分自身のついて,仕事に就くまでや仕事に就いている間や仕事を辞めたあと,そして何の保証もないのに新しいことを始めようとしているときに,どれほど周りの人々の存在が直接にも間接的にも自分を支えてくれたかを想像できるだろうか。私は,ほんの一瞬でもそれを思い描けたとき(ただ,それはすぐに消え去るほど一瞬)に,身震いというか,寒気というか,自分の浅はかさに永遠を掛け合わせたと表現するような感覚に襲われるのだ。
 その一瞬を踏まえて,私はもの凄く周りの人々に感謝したいのだが,どうも感謝の仕方が一辺倒で,簡単に言えば「下手」なのである。そのうち「ありがとうございます」も「感謝します」の言葉も,自分から発せられるものが「棒読み」に思えてきて,もう詰まるところ「沈黙は感謝なり」で済ませたくなってしまうのである。
 あなたが女性なら「そんなこと信じられない」「感謝はどんな風でも表すべき」あるいは「してほしい」と直感でお答えになるのかも知れないが,男という生き物は斯様な思考に陥ると,なかなかそこから抜けられないのだ。
 というわけで,なぜ私が駄文を書きづらくなっているのかという,長い長い理由説明が続いているわけなのだが,きっと私はすでに「遠慮」という域を超えて,自分がなるべきではないと思っていたミイラにでもなっているのじゃないかと,そろそろ思い始めたりしているのである。

 せめて私は駄文の上くらい「嫌な野郎」になる覚悟で書かないといけないなと思う。駄文を書く私という人格は,私の一部ではあっても,私そのものではない。物静かにニコニコ微笑む私をお望みならば,実際の私の会うことにしていただいて,せめて駄文は「ひとりよがり」な私を発揮させていただければと思うのである。

じゃぶじゃぶデジカメ活用

20070726_digicame夏は教員研修の季節である。私もご縁があってセミナーをお手伝いする。今回は「これならできる!普段着の活用 〜じゃぶじゃぶ使おう デジカメ活用術〜」でデジカメのうんちくを担当した。
 教育関係者には,デジカメマニアのごとく,とてもデジカメに詳しい人達が多い。また,もともと銀塩カメラの時代から写真に凝っていたという人達も少なくない。
 一方で,デジカメがまったく分からないという人々は当然いるし,学校現場での活用となると,実際はどうすればよいのか迷う人達もたくさん居る。
 そういう方々に,あらためてデジカメってどんなもの?というレベルからご紹介するのが私の役目。もっともデジカメは細かいうんちくを掘り返せば一日中でも語れるだけに,どの辺の基礎までを扱うべきかは悩ましかった。なにしろデジカメ一つでNHK趣味講座が出来上がるほどである。それを10分で扱うとなると駆け足にならざるを得なかった。
 ただ,現場の先生方が発表する活用実践事例を合わせて聞くと,なんだか自分でも授業でデジカメを使いたくなる気持ちが持てる良い催しだったと思う。またデジカメについて話す機会があれば,今度はじっくりと語ってみたい。

せ,洗濯したい…

 せっかくの晴天があっても,慌ただしい日々続き,なかなか落ち着かぬ。ああ,洗濯させて,洗濯…。

ワークショップをつくる

 世間は連休。ところが台風に地震にと日本列島は災害続き。今日の新潟中越沖地震は,東京でも長い時間ゆらゆらと大きく揺れた。じっと様子を観察しながら,もしかしたら直接ドカンと大きなものがくるのかと心配だった。
 雨降りの日々は家に閉じこもって,課題の本を眺めたり,パソコンのメンテナンスをしていた。ソフトウェア入れ替えのために不活性なデータをDVD-Rに退避して,ハードディスクの最適化を施す。心持ち動作もスッキリしたような気がする。これを機会に,創作意欲を盛り上げていきたい。

 今日は授業で取組んでいるワークショップづくりの打ち合わせをした。学びの一つの形として「ワークショップ」に注目が集まっていることはご存知の方もいると思う。それを実際にプロデュースすることからいろいろ学ぼうというのが目的で,私たちのグループもアイデアを練ってつくっているところである。
 旧教室文化に属する一斉授業型の指導方法が,一般的な教授学習スタイルとして認識されてきた。(と書いてみて,実のところ本当にそうなのかこの頃つくづく分からなくなってきた。世間には,こんな認識がまだ残っているのだろうか。あるいは,塾のような個別指導型の学習の方が当たり前だと思われているのだろうか。多様化する「世間の認識」を知ったかぶりして語ることが,最近酷く辛くなってきたというのが駄文からも距離を置かざるを得ない一つの事情である。もう少し鈍感になってでも話を語り継がないといけないなぁとは思うのだけど…。)
 ワークショップという学びのスタイルが新しいのかどうなのか,正直分からない。教育現場を志向した経験から言えば,豊かな学びが発生した授業や学校活動には,いまで言うところのワークショップ的な要素が含まれていたわけで,そういうまなざしからすると,今日のワークショップ議論は「何を今さら」といった気にもなる。
 かつて教員養成学部で応用教育実習という名の自主教育実習活動「YOU遊サタデー」を始め,やがて教員養成系学部大学・フレンドシップ事業という全国的な取組みになった活動に関わった。あれも広い意味ではワークショップ的な学びをつくる実習をやろうとしていたわけで,ワークショップは古くて新しいテーマである。
 ただ,それを言うと「なんだ,ワークショップなんて大したことないな」なんて認識を植え付けてしまうかも知れないので,なぜ今ごろあえてワークショップが注目されてるのかの理由を説明すると,ワークショップの方法論を明確にしようという取組みが本格化したというのがそれである。
 ワークショップの方法論を明らかにする模索から,学習科学や情報・デザインの分野との知見がリンクした形でのワークショップというものが目立ち始めて,それもまた新鮮なワークショップとして受け止められ,理論と実践共々注目を集め始めたというのが昨今のワークショップブームの発端だと思われる。

 教師の実践的な教育行為を言語化し理論化していくことの難しさや,逆に理論化したものを実践へと活かそうとする道筋の難しさは,永遠の問題とされている。
 認知心理・教育心理学者であるカール・ベライターは著書で,そこに両者の文化を融合したところのハイブリッドな文化を創り出さなきゃならないなんて書いている。そう論じる理由も分からないではない,というか,むしろそれはそうあるべきだと思うのだけど,それって私が越境的な人生送っているからなのだろうか。
 世間との認識のズレをなんとかしたいと思いつつ,ワークショップでずれまくろうと努力していることに,一抹の不安を抱えている自分であった。

BBC Jamが一時停止

 3月にはそうなっていたのにいままで気がつかなかった…。英国のBBCが提供していたオンラインのインタラクティブ学習サービスである「BBC Jam」が3月から一時停止をしていた。
 どうもBBCの事業見直しの過程で,BBC Jamも議論の対象になったようだ。詳細を理解している暇がないので,勝手な想像なのだが,BBC Jamの事業における透明性か,学習サービスの無料提供が民間に与える不利益かについて疑問が呈されたのかも知れない。
 国営放送としての難しい立場といったところなのだろうか。日本の公共放送も難しい立場に立たされているのは似てるのかも知れない。テレビの時代が終わるというのは,こういう難しさが表出していることからも,本当のことなのかも知れない。

文月3日目

 今月は授業やゼミでの発表が重なっている。名簿順が後ろだと,最初は悠長としてられるが,最後に順番が回ってきたときに大変な思いをする。ああ,もしかして締め切りが迫らないとエンジンがかからないのは,長らくその条件に慣れてしまったせいだろうか。なんて勝手な理由を考えたりする。

 大学院に入って3ヶ月。ようやく学内での振る舞い方も馴染んできた。図書館が少々遠くて,入り浸り足りないが,もっと大学のリソースをあれこれ活用しようと思っている。
 文系から理系の研究流儀に切り替えるのは課題も多くて,実践しながらまだまだ学ばなくてはならない。それでも,以前よりは理系流儀に対する理解も深まって,なぜ多くの人々が心理学系の大学院に行きたがるのか理由も分かってきたし,データベースのおかげで膨大な先行研究を扱えるようになった便利さも実感している。
 英語文献を触れる機会が強制的にあるおかげで勉強になっている。相変わらずボキャブラリーのなさが足を引っ張るが,少しでも英語文献を手に取る時間があるというのは,大学院に入り直した一つの収穫でもある。不得意が得意になるかどうかは後から分かることだが,諦めなければ何とかなると信じていよう。

 本当なら個別の授業のことをここに書き記して,私の勉学生活を披露していくつもりだったのに,そういう展開になっていないことが申し訳ない。
 いずれ個別の講義の紹介もしたいが,面白い話もあれば,月並みなときもある。私も日々の疲れと年齢のせい(?)か,しっかり授業中に居眠りなんかをしてしまうことがある。教員もやって学生もやって,どっちの苦労もどっちの足りなさも体感中。偉そうなことをだんだん言えなくなってきてしまう,ははは。ごめんなさい。ただただ日々のやるべき事に努めます。

美声に追悼

 中江真司さんが亡くなられていたことをついさっき知った。この方はナレーターとして有名で,「トリビアの泉」や任天堂のCMなどでもその声は広く知られている方である。
 美声や個性的な声をお持ちの方が亡くなられるのは,またある種違った寂しさを感じる。録音された声が流れてくれば,その人が生きているようにも思えるし,けれども,やはり新しい言葉を聞くことはないし…。
 落ち着いた声でゆったりとしゃべることに憧れる。社会に出てからは,落ち着かないテンポで日々が過ぎていくので,すっかり高い声で早口の落ち着きのないしゃべりになってしまった自分が悲しいが,元来,私自身は,もう少し低いトーンで落ち着いてしゃべりたいとずっと思っている。ただ,そうすると一気に老け込む感じもするので,今度は日々の慌ただしさに対抗できなくなってしまうのが悩ましい。
 秋以降,時間ができたら,大人のポッドキャストを録音してみようかと思ったりする。それにしても,今後,任天堂のCMも特番のトリビアも,あの声で楽しめないと思うと,やっぱり寂しいものである。

文月1日目

 あっという間に7月になってしまった。宿題が山積みで駄文書いてる暇がない(というのは正確ではなくて,本当は駄文でも書いて思考の逃避をしないとダメなのだが,後手に回っている宿題もたくさんあって,駄文書いて関係者を不快にさせるのはいかがなものかと自粛している。悩ましい話である)。とか言って,やっぱり書いちゃうんだけどね。

 米国ではiPhoneが発売されて,かなり盛り上がっているらしい。日本には2008年以降の提供になるようだ。それはそれでのんびり待つとして,むしろ今月はAdobeのCreative Suite3のマスターコレクション版が発売されることの方が大事。この機会を首を長くして待っていた。
 WebデザインソフトのDreamweaverもレイアウトソフトのIn Designも,PDFソフトのAcrobatも,もちろんPhotoshopやIllustratorも,とにかくほとんど全部のソフトのユーザーなのだが,バラバラに購入していたので,ここらでまとめてバージョンアップしたい。学割でも高いソフトだが,お金確保して長いこと待ったんだから買う。

 ナントカー先生が参議院選挙に出馬して,オールなんとか先生が入れ替わりに教育再生会議委員になったのだとか。前者は困った話であるが,後者は学術会議の要望に合致するのかどうなのか,一度関係者に感想を聞いてみたいものだ。
 それにしてもナントカー先生は,もうそろそろ年貢の納め時だろう。教育を踏み台にして自己顕示欲を満たすのはいい加減にしていただきたい。はあ…。それにしても,教育委員って結構なお給料なんだな。

 全国学力調査は鋭意採点中の模様。あちこちで問題の分析や調査自体の意味の検討がなされている。教育学修士時代の師匠がとある雑誌に「悉皆調査の意義は,結果が学校に返されることである」といった趣旨の論考を書いていた。悉皆調査の問題は,序列化云々の懸念や調査の費用対効果への疑問など,いろいろある。けれど,そもそもは調査が教育の改善に役立つことを企図しているのであるし,そのような意思で結果を使えばそれは不可能なことではない。その前向きな発想をしっかり掴むことを忘れてはいけないと,久し振りに師匠の文章を読んで思った。
 また別の雑誌で陰山英男先生が,学力調査の問題は,「これからこの方向の学力向上に取組む」という文部科学省からのメッセージだという旨を書いていた。悉皆調査の意味と合わせて考えれば,学校現場に対して,その問題と調査結果を踏まえてこれからの学校づくりをして欲しいという事なのかも知れない。
 笑ったのは,フォーサイト誌の記事「学力調査はPISAの模擬試験だった」という論旨。なるほど,確かにそういう見方もできるかも知れない。だとしても,意識は低いかも知れないが,それはそれでいい部分もあるのではないか。結局のところ,国が動くためには,そういうインセンティブが必要かも知れないのだから。

 ちょっと読んでいる暇がないのだが,神野直彦『財政のしくみがわかる本』(岩波ジュニア新書/819円+税)は,国の財政を理解するのによさそうな本である。中途半端な知識しか持っていないので,これで再勉強したい。が,読む時間がない…。