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地方で起こっていること

 四国での生活も2年目に突入。何もしない間に時間だけが過ぎてしまっているが,とりあえず元気に過ごせている。

 最近,地元の愛知県の名古屋市で,市長と議会の衝突が話題となった。それ以前から,各地には名物知事や首長が登場し,地方からの改革と称した動きが活発化していたが,とうとう首長と議会の問題にまで改革の触手が届いてきたというわけである。

 2000年に入ってからの一連の行政改革の動きと教育改革との関係性を理解するためには,どうしても行財政に関わる理解が必要になっていたし,教育基本法の改正といった一大事もあったので,教育法規に対する理解も深めなければならない時代となった。

 けれども,この10年の間に,教育行財政に関する議論や教育法規に関する理解が高まって,学校教育現場にその成果が届いたというような話はほとんど聞かない。

 どちらかといえば相変わらず「振り回されて疲れました」「ほっといてください」という今どきな声が現場からあがっているようにも見受けられる。だからといって,学校教育現場に関わる人間もまた行財政や法規に関する知見を踏まえたというわけではなさそうだ。

 昨年,堀和郎/柳林信彦『教育委員会制度再生の条件』(筑波大学出版会2009.6/3900円+税)という研究書が出版された。

 学校教育現場に最も近い教育行政組織でありながら,その内実は見えにくく,その必要性も疑われ続けてきたのが教育委員会であるが,そこに調査のメスを入れて実証的に分析して見せたのが上記の本である。

 すでに一般向けの書物として古山明男氏の『変えよう! 日本の学校システム』(平凡社2006.6/1600円+税)が,教育委員会とそこに置かれた事務局およびその長である教育長の存在について紹介するなどして,複雑な権限分散システムが前向きな教育改革の取組みを阻む元凶になっていることなど一部で話題になった。(ちなみに古山氏は「熟議カケアイ」サイトで積極的に書き込みなどして活躍されている。)

 先の書は,教育長の存在が,教育委員会もしくは教育改革の進展にどう寄与しているのか,という興味深い問題設定を行ない,データにもとづいた分析を試みている。その他にも教育委員会の運用実態であるとか,首長との関係性に焦点を当てた分析も用意されている。

 ちなみにこの研究で,教育長の態度志向パターンを3つに分類しているところが興味深い。曰く,「問題解決志向」「首長一体志向」「自己利益志向」である。もちろん,この他にも交流パターンや職務遂行パターンなどの変数が加わって分析が試みられている。

 こうした研究成果が注目されることや,否応なく突き進むこの国の地方分権化の流れを考えれば,私たち国民もしくは市民がもっとも注視し,影響力を行使しなければならない対象が「地方」に存在することは明らかである。

 ところが実際には,この「地方」というものがほとんど省みられてこなかった。

 都会に軸足を置くような大マスコミを中心とする報道・言論の世界では,地方の問題は見える現象を紹介するくらいが関の山で,その問題解決のために必要なローカル情報はほとんど取り上げられない。地方においても,地方新聞といったローカルマスコミが元気なところでない限り,自分たちの住む土地の行政がどうなっているのかは,ほとんど知られていないのが実際ではなかろうか。

 こうした状況を変え始めたのは,タレント知事や名物首長の存在と活動であったと思う。乱暴な言動や派手な演出が話題になることも多いが,おかげで地方の在り方に光が当たり始めた。そうした様々な出来事から考えても,「地方」を動かすことが物事を動かす出発点であることは間違いなさそうだ。

 今後,どのような教育的議論・取組を行なう際にも,国家と地方自治の関係を行財政・法規の視点から大雑把にでも理解していくことが重要である。現場では,これまで校長・副校長・教頭レベルで求められていたような知識であるが,今後は一般の教職員もこうした知識を深めていなければ,高まる市民の知的水準に追随できなくなる。

 昨今は教育法規に関して『図解・表解 教育法規』(教育開発研究所)といった見やすい資料が発売されているが,『教育法規便覧』(学陽書房)くらいの範囲が見渡せる情報に触れておくと良いかも知れない。

 地方自治に関する文献は様々あるが,村松岐夫氏の『テキストブック地方自治 第2版』(東洋経済新報社2010)は版が新しく,「教育」についても一章分設けている点から,最もおすすめの概論書である。同様な文献として佐々木信夫氏の『現代地方自治』(学陽書房2009)も地方自治の内側を掘り起こしながら簡潔に整理している良書だと思う。

 地方自治の仕組みについて理解を深めたならば,あとはお金の動きを追いかけるのが最も効率的である。これらのテキストで地方財政の関する解説を読み,たとえば『図解 自治体財政はやわかり』(学陽書房)にような概説書を覗くことから始めると,国の財政と地方の財政との関係などが少し見えてくるし,教育にだけお金が回らない仕組みも少し見えてくる。

 名古屋で巻き起こっている議論のあるべき決着の形は,正直なところ私には分からない。現在の首長と議会の仕組みが,首長に有利というものもあれば,議会が議決権を持っているから首長劣勢だと考える人もいる。

 けれどもどちらも市民の代表者。日本がとった「二元代表制」の仕組みがあって,それを生かしているのか殺しているのかが問われていたりする。首長が暴走してもダメだし,議員があぐらをかいていてもダメ。どちらも住民の意思を汲み取り動いてもらわなければ,損をするのは市民である。

 同じことが教育の分野でも起こっているのだろう。権限が分散した事情は複雑で理不尽だったかも知れないが,いずれも教育に奉仕する立場のはずである。もっと前向きに取り組んで欲しいが,あるいはそのためには私たち市民あるいは国民がそう仕向けるための圧力をしっかりとかけていく必要があるのかも知れない。

 そのためにも「地方」という足下へのルートを開けておく必要がある。

世界と繋がらない日本

 iPadに表計算ソフト「Numbers」を入れて,受講生名簿を扱い始めている。「一枚板デバイス」の携帯性・可搬性はノートパソコンとは明らかに異なっており,存在感はクリップボード(用箋ばさみ)に近い。

 そうなると,画面との距離のとり方も変わってくる。直接のタッチ操作であることが逆に表示物との余裕の確保を可能にしているように思える。ノートパソコンでは,どうしても画面に釘付けになる傾向があるのだが,iPadだと,他からの視線が入り込む余地を生んでいる。

 新製品ゆえ,目新しさからのめり込む体験をしている人も多いが,やがて見慣れてくれば日常に溶け込み,デバイス自体にはそれほど特別な関心を向けなくなるのではないかと思える。

 明日(22日)に「学校教育の情報化に関する懇談会」が行なわれる。

 文部科学省は,このところネットの力を活用することをさらに加速させており,この懇談会もネットで中継されることが予告されている。画期的といえば画期的。教育の情報化に関して以前から触れてきた私たちにすれば,ようやくの前進だが,世間一般の認識が追いつくことも重要な要素と考えれば,これでも先進的ということになる。

 懇談会は主に

(1)授業におけるICTの活用について(デジタル教科書・教材、情報端末・デジタル機器、学校・教員等の在り方を含む)
(2)ICTを活用した校務支援について
(3)ICTの活用に関する教員へのサポート等について

 を話し合うとされている。学校教育の情報化に以前から関心を持つ人々にとっては,出てくる話も想像できる範囲だと思われ,問題はそれをどう地方公共団体が理解して具体的な施策として学校現場に届くよう行動してくれるのかだが,広くコンセンサスを得るためには,少し遠回りも必要というところだろう。

 正直なところ,ここまで政治状況が混迷し,財政的な困難が深刻化している中では,大胆な提案も難しく,議論の展開も空回りがちになると予想される。ICT関連が総務省にお株を奪われたことや,過去にはメディア教育開発センターを廃止に追いやったツケをどう払うのか等,本来であれば議論されてしかるべきなのだろうが,おそらくそういう部分は触れない範囲で意見交換が行なわれるのだろう。

 日本という国の国際的なプレゼンスという観点で学校教育の情報化をどう考えるのか,そういった水準で懇談会の意見が交わされることを期待してやまない。世界の人々は,情報ツールをあっさりと利用して得られるものを得ようとしている。慎重なのが日本の取り柄とはいえ,そうこうしているうちに日本の情報化が世界のそれに付いていけてないことは,相変わらず国内志向の閉鎖性を維持することにしか繋がらないと思う。

 日本版のBecta(英)のような組織をつくって,もっとガンガンやるべきではないのか。財団法人だけどJAPETはもう少し政治的に動いてもよいように思うのだが,メンバーには日本の有力なメーカーが揃いすぎていて結果的に誰も動けなかったし,そうこうしているうちに韓国など海外勢が市場を席巻し始めて自社存続の危機意識から足並みが揃えられなくなって…。だれかビジョンを語って行動し,この領域に骨をうずめる覚悟の人を立てないとダメだなと思う。

新年度が始まって…

新年度に入って何度もエントリーを書きかけていたのだが、下書きのまま公開せずに終わっていた。この文章もどうなるのかわからないが、懲りずに書き出してみている。

多分、昔よりも公開することに躊躇い迷うことが多くなったのだろう。基本的には独り言であるはずなのだが、誰かは読んでいるだろうことは自明で、そして昔はそのことに無頓着でいられた。けれども、今は恩義を感じる人も多くなって、その人達に誤解を与えることに不安を感じることが多くなってしまったのかも知れない。浅はかなままでは、たとえそれが私一人の言動であっても、周囲に迷惑をかけてしまう、場合によってはそのつもりがなくても相手を否定してしまう結果となる、なんかそういう人生の時期に否応なく至っているということである。

実は私の指先にはiPadがある。この文章も慣れないローマ字入力を駆使して打ち込んでいるというわけである。音をひとまとまりのキーとして入力するリズムにこだわっていた人間としては、フリック入力をあらかじめ用意してくれなかったことは腹立たしい(それに全角スペースを入力させてくれないのも煩わしい)が、一枚板のこのデバイスをチェアに座って操作する喜びを差し出されてしまっては、もう引き下がってローマ字に慣れるしかない。幸い、変換はストレスがない。

思いを巡らせていた通り、このデバイスには様々な可能性を感じられると同時に、その形態からくる限界があることがわかってきた。それについて、Appleがどこにとりあえずの着地点を定め、おそらく今後の様子をみて変えようとしているのかも感じ取れた。なるほどAppleの作品成果としての面白さがここにはある。

iPadは極めてオールディーズなデバイスだと思われる。本当の意味での未来のデバイスではない。そのことは、私のような古い価値観にもコミットしている人間にとって、とてもホッと出来るものでもある。あれもこれも何でも、という訳ではないということである。

もちろん、iPadは新しいツールである。こんな形に仕上げられたツールは無かった。だから、少しはお祭り気分で楽しむのも悪くないと思うのである。

ただ、これもすでに知られているように、iPadにはいろいろな縛りもある。私たちがよく知るパソコンに比べれば、出来ることが圧倒的に限られている。私は、もしも人々がこれまでの延長線上でこうした形のデバイスを求めているのなら、いずれiPadは通り過ぎて、Android端末が私たちを取り巻き支えてくれると思っている。だからiPadから吸収出来るものがあるなら今にうちに吸収すべきと思っている(この前の催しもそういう考えに基づいている)。

どうなるのか、それを決めるのは市場である。

個人的には、iPadの底辺に横たわっている世界観を大事にしたいと思う。

Macで仕事をすると様々なソフトが動き、支援をしてくれる。しかし、同時にあれこれに気を配り始めると集中が疎かにもなる。メールが届けば音が鳴るし、TwitterのタイムラインもRSSの通知も気にはなる。文献や情報の検索は掘れば掘るほどに切りが無くなり、いつしか調べている主題がすり替わっていたりもする。出来た人間が使う道具としてならともかく、そうでない人には混沌を運んでくる道具になりかねないのではないか。

iPadがそうならないとは言わないが、思うにこのデバイスはそれぞれのシチュエーションに意識をもっと焦点化させる専用機的な性格が織り込まれていると思う。次期iPhone OS4のプレビューイベントで披露されたマルチタスク機能を見ても、その辺を意図的か無意図的かわからないが堅持していることに、私は好感を抱くのである。

夢見たようなデバイスを実際に操作できる時代を迎えて、私は少し舵とる方向を変えていかなくてはならないと改めて思う。まだこうしたツールを教育で使う時代は始まっていない。一方で誠実にそのために研究を積み重ねる努力がなされている。一方で商業的にこうしたデバイスを盛り上げる動きが盛んになっていく。一方で政治的な文脈の中で経済刺激策的に論じられている。一方で教育現場には連綿と続く日々の困難な営みが待ち受けている。

今一度、その接合点を追いかけてみたいと思う。

「iのある教育と学習」終了と次回

 2010年3月28日(日曜日)13:30〜15:30に東京・初台オペラシティー32階セミナールームにて,iPad/iPhone教育利用の集い「iのある教育と学習」を開催した。
 事前申込みと当日受付を併用して参加募集したところ,95名の事前登録をいただき,うち54名の方が出席。当日飛び込みは17名。関係者や小さいお子様も合わせると83名が参加してくださった集いだった。
 ネット上で呼びかけながら実現した催し物としては,そこそこ立派な規模で出来たのではないかと思う。特に,こうしたテーマに敏感な来場者を多数迎えられたことは幸せなことだし,そうした期待以上に素晴らしいプレゼンとトークを展開したくださった登壇者の皆様,それを支えてくださった協力者の方々の力を得られたことは幸運だった。
 いや,もう正直「やったぜ!母ちゃん!今日はホームランだ!」(ガッツポーズ)。

 とはいえ,課題は多い。準備・運営に関して言えば,何かしら組織や体制を整えたものではなかった。あなたとあなたを呼んできて,ちょっと近くの喫茶店でお見合いしましょう。ということは出来たのだとしても,今回の成果を踏まえて継続的に開催していくための手続きはほとんど端折っている。
 願わくは「私たちもやってみよう」と声が上がってくれることなのだが,さて,その一声を出す勢いと,準備に関わらなければならない手間を厭わぬ積極さがなければ,本当のつぶやきに終わってしまいやすい。
 そのことはスタート当初から分かっていたことではあるけれど,それを丁寧に組み立てていると緊急開催が難しい。その上,ネット上の皆さんを結びつけて実イベントの準備に関わってもらうには,すでにある団体や組織が開催する場合とまた違った配慮が必要で,アクションとフィードバックを迅速・明確にしなければならない。単発性が強くなるのは,そうした理由もある。

 さらに,こうした活動を継続するには本当ならスポンサーも必要だ。今回入った喫茶店には,たまたま林檎のマークが付いていたわけだけれども,別に林檎さんから一銭ももらっていない。場所代は菓子折りと引き換え(たぶん)。登壇者や協力者の皆さんは手弁当で参加してくださった。確かにこういう点は継続性に欠ける点だっただろう。
 ちなみに今回少なからずかかったであろう経費は,私個人負担もあるが,iPhoneあしながプロジェクトで稼いでいる資金を充てようと考えている。開発したiPhoneアプリのアプリ内広告は,おかげさまで少しずつ稼いでくれているので,印刷費やポストイット代くらいは賄えそう。それ以外は初期投資として諦めなければならない。
 ただ,お金の問題は丁寧にする必要があって,そのためにも組織とか責任者が必要ともいえる。それがこの手の催しや活動を面倒なものにしてしまう原因でもあって,志はあっても多くのエネルギーは割けない個人が集う活動を難しくする。一方で,組織を作り始めれば,準備運営に関わる者とそうでない者との温度差が開き,やがて内輪や馴染みの人たちにしか訴求しなくなってくる懸念が高まる点,悩ましい。
 Twitter的なものがある種のコミュニケーション・プラットフォームになり得るのであれば,そのような問題を少しでも乗り越えるモデルや方法論などが見えてくるとよいのだが,それはソーシャル・ネットワーキングの分野でいろいろ明らかにされてくることだろう。私はその分野は門外漢だから,実践を通して探ってみるだけである。

 次回は西の方でやりたい。ゴールデンウィーク明け直後が良いのではないかとアドバイスもいただいている。名乗りを挙げて?いるのは大阪と京都。両方ともやってみたいが,まずどちらから開催するべきかは,ラブコール次第と考えている。あと,いろんな形のスポンサーがつくと嬉しい(事務引き受けとか,経費サポートとか,会場提供とか,宣伝告知サポートとか…)。
 私個人は,もう少し気楽に手伝えたらと思う。

イベント準備

 3月28日(日曜日)にiPad/iPhone教育利用の集い「iのある教育と学習」を東京初台オペラシティ32階にあるセミナールームで開催することになっている。

 それは1月28日あたりにアップル社の新しいタッチデバイスであるiPadが発表されたことをきっかけとして,iPadを学校現場に持ち込みたいと私がツイート(Twitter上の書き込み)し,様々な人々が反応してくれたことに端を発している。

 最初はオンライン上で協力し合えればよいかなと漠然と思っていたが,それだと盛り上がりが雲散霧消してしまうだろうことは経験的にわかっていたので,少なくとも最初は何か物理的に集うイベントが必要だと考えた。

 ならば,教育関係者向けにiPad発表内容をリピートしてもらおうと,アップルジャパンにお願いしてみることにした。どうせ会場も必要だろうから,AppleStore銀座のシアターを借りる手続きも始めてしまおう,そんな風に準備が始まった。

 林檎マークの会社と長らく付き合っていると,その行動規範のようなものも分かってくるし,最悪の事態もある程度想定できる。駄目元でお願いすることから始めたので,交渉中は緊張感もあったが同時に気楽でもあった。交渉は紆余曲折あって,当初イメージした形とは変わったものの,結果いろんな方々のおかげでイベントを開催する目処が立った。

 それにしても林檎マークの会社は,変な会社である。いい意味でも悪い意味でもストイックな姿勢を貫いている。そこが好きでもあり嫌いでもある。ただ,それは何かに似ているのではないか。そうだ,学校教育だ。多くの人々に強烈な影響を与えているくせに,ある程度インビジブルであろうとする。そして好きだと言う者もいれば嫌いだと言う者もいる。なるほど,私が林檎にシンパシーを感じるのはそういう理由なのかも知れない。

 これまでご一緒したことのない方々にも協力をいただくことができたのは,インターネットとTwitterがあったからこそだ。そしてUstreamがイベントを全国や世界の皆さんに届けるのに力を貸してくれる。本当の意味で「新しいご縁」を生み出すことに,これらのツールを活用できることを嬉しく思う。イベントを機に参加者同士の出会いも生まれるといいなと思う。

 黒子に徹しようと考えているが,呼びかけといて何もしないわけにはいかないので,最初のご挨拶や趣旨説明と資料くらいは用意しようと思って作業している。あとはイベント進行のために動くのが私の役目。そして,第2弾,第3弾をご一緒してくださる方を見つけて,流れを繋げていくことが大事だと思っている。

 おかげさまで,事前登録だけでも70名以上の参加表明をいただき,あと当日飛び込んできてくださる方を期待すれば,100名弱の皆さんとご一緒できる予定である。さらにUstとTwitterでイベントを見届けてくださる方を含めれば,そこそこの規模だと思う。扱うテーマと開催地,そして協力してくださる皆さんのネームバリューのおかげだ。

 こうした動きと学術的な世界を,うまく繋ぎ合わせられると,より可能性も広がるだろう。次回以降,私が表舞台を踏む機会が訪れたら,いろいろとお話しできることもあると思う。

 まだまだ,たくさんの人たちに出会わなければならない。ひとところには留まってられないなと思う。

タッチデバイスを現在へ

 今年,タッチデバイスに関する話題のさらなる盛り上がりが予想される。そのための布石をつくってきたのは他ならぬiPhoneに代表されるスマートフォンの登場と認知であった。そしてiPadの登場。いよいよタッチデバイスが実際に私たちの手の触れる場所へやって来る。

  従来の携帯電話は単なる電話ではなくネットに繋がった情報デバイスであるとの事実が,教育界に情報モラル教育の必要性を認識させてから,まだ長くは経過していない。昨今の携帯電話はスマートフォンの影響を受けて更なる高性能化を果たし,完全にインターネットの世界を前提とした情報デバイスになっている。学校のPCよりも自由度が高い。それを学校教育でどう扱うべきかは,ほとんどコンセンサスが得られていない。まして,カリキュラムはほとんど蓄積が無い。

 学校教育はどうしてこんなにも情報化やICTの動きに対して後手に回ったのだろうか。

 一体,学校教育を取り巻いてきた私たちは何をしてきたことになっているのだろうか。

 2000年頃の私たちは,世紀の越境を学級崩壊や学力低下の問題を抱えながら歩んでいた。その後,e-Japan戦略が国家戦略として示され,教育分野も2005年を期限とした目標を掲げたものの,これを達成しないまま2010年を迎えている。2009年度の補正予算に掲げられた「スクールニューディール事業」も政権交代と事業仕分けによって,滑り込み組を除けば,すっぱり廃止された。

 残念な事態。そんな言葉が慰めのように中空を駆け巡る。各自がやるべきこと,出来る事に取り組むことが大事だと,物分かりのよい納得を奨励する空気が漂う。確かに,それが一番力を持つのだろう。誰のせいでもない以上,誰がどうこうできる話でもないのかも知れない。次の機会のために,一から積み上げ直す作業は必要だと思う。

 けれども,それは一体いつの機会のことを指しているのだろう。

 ハードウェアやICTを学校教育に導入することが目的化しているような動きに対して,多くの人々がけん制球を投げる。モノを売りつけるだけ売りつけて業者だけが儲かって終わるだけと案ずる声や,新しい道具が教育の営みを根本的に改善するわけではないのだと道具の導入を冷ややかに見る目が増えている。まずは実験的に確かめてから,事例を積み重ねてから,可能性と限界を見極めてから,その上で慎重に教育活動をデザインして普及させなければならないと正論が流布される。

 なるほど。それは一理ある。

 いやしかし,なぜ私たちは学校教育の場に道具が導入されることをまずは引き止められるのだろうか。

 子ども達への影響を理由に,失敗が許されないと述べるその口や頭は,どんな理想的な導入プランがいつ紡ぎ出され,それがどんな方法で学校現場の教員に正しく伝えられると踏んでいるのだろうか。その成果は,導入タイミングを遅らせることを十分に納得させるにたるものだと,何をもって説明するのだろう。

 もちろん,教員の適応力の水準が低いのだと指摘した上で,無目的にハードウェアや道具だけが導入されても使いこなせるわけがないと看破する意見はもっともである。だから,納得できる利活用の方法を蓄積するのが遠回りとしても近道なのだということも理解できる。その努力は,今も誰かが取り組んでいるし,今後も引き続き多くを積み重ねていくべきである。

 しかし,そのような努力を継続的に取り組んでいくことと,ハードウェアや道具が導入されることは決して順列に為されなければならない事柄ではない。

 正直なところ,前者の努力には多くの人々が意識を払うけれども,後者の努力は企業や業者がやればよいと考えて,どこか頬被りではなかったか。

 本当にそう思うなら,自分でやれよ…。

 私が私に対して出した意見である。

 

 私は,2010年代のうちに,先生たちの間でタッチデバイスが日常的な道具になっていると考えている。

 その出発点は2010年のiPadであろう。

 そして,iPadが集めたタッチデバイスへの期待をAndroidタブレットが引き継ぎ普及が始まると予想している。

 私たちが今すべきなのは,iPadのもつ「わくわく感」要素をしっかり見極めて,Androidタブレットに正しくフィードフォワードしていくことである。その成果はOLPC(子ども1人にPC1台プロジェクト)にも反映されていくことがベストである。

 日本の私たちは,モノの善し悪しを見極める力はどの国よりも高いはずなのだから,下手にオリジナリティを固執するようなことをせず,素直に善きものを取り込み,悪しきものに改善を加える努力で貢献していくことが望まれる。

 その作業と並行して,どんどん学校現場にハードウェアを普及させる努力をないがしろにしてはならない。本気でモノを売り込む努力無くして,本気でモノを改良していく努力も生まれはしない。それぞれのプレーヤーは,それぞれの立場から普及に貢献していくことが望まれているのである。

 要するに,これまでのハードウェア売り買いも道具売り買いも緊張感が足りなかったのであり,緊張感がないところに真摯で誠実な商売や消費もあり得ない。

 今の私は,その緊張が生まれるような知見提供や活動を積極的に展開していくことが大事だと考えている。

 私は,電子デバイスをまったく導入しない学校教育の可能性もあるとは思っている。カリキュラム研究に携わる人間として,いつ何時でも,その可能性と選択肢について立ち戻り吟味することを厭わない。けれども,今のところ,私は電子デバイスが利活用される学校教育の可能性の方に魅力を感じているし,その方向性でカリキュラムを考えていきたいと願っている。

 そのために多くの変数を変えていくという「意志」「行動」が必要なのだと思う。

 それは,研究者というよりも実践者としての選択なのだが,私はまさに今,そちらに重きを置いている。

  私は子ども達がタッチデバイスを活用する日が来るとも思うのだけれども,正直なところ,その部分に関しては自分の立場をニュートラルにしようと考えている。

 多くの人々の関心は,子ども達一人一人がタッチデバイスあるいはデジタル教科書・ノートを持つ事に向けられている。そのことは了解しているし,私にとってもそれは興味深い未来予想図なのだけれども,私にはその前に小中高校の先生方にとって一般的なツール(それは使うなら使うし,使わないなら使わないという選択が自然にできる位置づけの道具という意味合い)になることが最優先だと思っている。そのこと無しには,どうしても子どもの方まで想

考え中…

 新しい年が始まり,さて,新たな心持ちであれやこれやに取り組もうと考えていた。

 けれどもそのまま,長考に入ってしまった。

 実のところ,あまり言葉を紡ぐ心境にはない。

 もちろん,日常の事柄は全自動洗濯機のように進んでいる。表面的には,特別代わり映えもなく行動し,有り難いことに健康に暮らしている。近づく年度末の慌ただしさはあれど,悪い出来事は何もないし,同じくらい良い出来事も特にない。

 いや,正確には良い出来事はあったか…。

 当初の予定通り,iPhoneアプリを全世界にリリースした。目の肥えた日本のユーザーの評価は相変わらず手厳しいが,期待を抱いてくださる人々に成果が届いたことは,開発者冥利に尽きる体験である。

 少数ながらヨーロッパを始めとした各国の人々にダウンロードされていることは,望外の喜びである。いつの日か必ず彼の地へ訪れたいという気持ちが,これで一層強くもなった。

 それは新しい年が始まって早々に体験した良い出来事であった。

 そういう個別的な出来事についてはなんら問題ない。

 むしろ,そうした出来事の総体を見通す視座がどうあるべきなのかが問題なのである。

 世間の多くの出来事がデジャヴュのように映る。

 それはいつか歩んだ迷い道。なのになぜ疑いもなく進むのか。

 疑問を差し挟めば常識知らずはお前だと返されようか。

 もしやそれは,似て非なる希望の途やも知れぬ。

 しかし,その道は誰にとってのそれなのか。

 10年後の身の振り方をどうするかも含めて,いままだ考え中である。

2009年を振り返って

 本年もありがとうございました。よいお年をお迎えください。

 2009年もこども店長と大橋ポニョのぞみちゃんを見守りつつ間もなく去る(まだちょっと時間あるけど…)。ある意味,激動の一年だった。そして,それは2010年以降にも続く変動の始まりに過ぎないということも分かってくる。

 米国初の黒人大統領が就任し,日本では本格的な政権交代が起こった。諸々のニュースを総合すれば,もう何が起こってもおかしくないという事に確信が持てるようになったわけで,そこで正統性や正当性を維持することがどれほど困難であるか強く自覚されなければならなくなっている。

 事業仕分けは,とても印象的なイベントとなった。それに駆動されて起こった出来事や人々の反応は,さらに印象深かった。希望も見えたが,残念な気持ちになる事柄も多かった。

 それでも2009年とは,私たちがもう一度様々なスケッチを描き直すことを可能にするきっかけの年になったと思う。その意味では,悪くない年だった。旧いスケッチを描いた人々には,不満も多かったかも知れないが…。

 私自身は,いろんな人々にお世話になった東京暮らしを終えて,人生初の西日本,四国暮らしを始めた。また異なった世界にポーンと飛び込んだので,ほとんどの事柄がリセット状態。最初からやり直すのは苦ではないが,周りには迷惑をかけるので,人間関係は自然と疎遠になる。そんなこんなでひとりマイペースに過ごしているといったところ。

 いつか映画「となりのトトロ」のサツキとメイの家のような場所で過ごしたいと願っていた人間からすると,俗に言う都落ちをして四国の地に移ったことは,宝くじに当たったようなものであった。すぐ隣に森があるわけではないものの,四国の海と眉山などの自然に囲まれたそこは,住むのにとても心地よい。

 男の独り身は気楽だが,それなりに慌ただしい。準備と授業も追いかけっこしながらの自転車操業状態。自宅よりも研究室に滞在する時間の方が圧倒的に長いが,それができるだけでも幸せだ。

 久しぶりにプログラミングの虫が騒いだのでiPhoneアプリの開発もしていた。来年はモバイル端末に新しい風が吹くことが予想されるので,iPhoneやAndroid,そしてアップル社の新しいタブレット端末を前提として,その先へ繋げるために知るべき良い点と悪い点を洗い出していく必要がある。手を動かしながら,あれこれ考えたりしていた。

 新しい年は,iPhoneアプリのリリースからスタートする。そこから得た反応をもとに教育現場向けのiPhoneアプリの開発に繋げて行く予定だ。研究成果によって社会貢献するのとは逆に,社会貢献の成果を研究に活かせるのかどうか。小さな実験だが,その試みにわくわくしているところである。

 それから長いこと棚上げしていた宿題を片づけなければならない年になると思う。論文執筆も取り組む必要があるだろう。気分屋さんだから,そういう雰囲気をつくれるかどうかが重要。

 2年目になれば,職場の仕事も増えてくる。すでに声掛けが始まっているものもいくつか…。授業準備も初年度の見直しとともに整理して,テキストを書くくらいの気持ちでいかないとなぁ。やりたいことは盛りだくさん。

 来年も慌ただしさは変わらないが,さらに良い年に出来るといい。

ダイヤのプレゼント

 年内の授業も一段落した。出席管理などの雑務は残っているし,宿題は積み上がったままだが,一方で,「時刻表」の世界に引きずり込まれ始めていた。来年リリース予定の時刻表アプリ(ソフト)の作業をしているせいもある。

 東京暮らしをしている最中,街の移動に列車(地下鉄やJR)を頻繁に利用していた。縦横無尽にはり巡らされた東京の路線を乗りこなすのは難しい。路線に慣れても,乗り換えに配慮した時間行動をすることはさらにまた難しい。在京中は,よく遅刻をしたものである。

 いつもの通学列車の選択も悩ましかった。今いる駅から乗換駅へ行くのに利用できる路線が2つあったりすると,どちらのホームへ行けば待たずに乗れるかを判断するのに毎度戸惑った。駅では2つの路線の時刻表を並べて貼ってくれているけれど,現在時刻の確認と2つの時刻表の比較は面倒な作業であることに変わりない。

 それで,東京暮らしは終わったが,iPhoneアプリをつくるなら,かつての自分のために時刻表を比較できるソフトを作ってみようと考えたのであった。おまけ的な試みだが,アプリからの収益を,教育現場にICTを持ち込むための資金に充てようと考えている。


 
 そんなこんなで時刻表アプリの原型が完成したのだが,その設計をするため「時刻表」の先行研究レビューをしているうちに,なんとも奥深い時刻表の世界に魅せられ始めてきたのである(いつもの悪い癖の始まりである…)。

 日本の学術研究論文データベースであるCiNiiで「時刻表」を検索すれば,様々な文献が表示される。時刻表そのものの研究よりも,乗継ぎ系列探索システムの研究であるとか,運行情報提供システムとか,輸送計画設計システムなどの成果が目立つ。あとは都市計画や雑誌の記事・紀行文,エッセイなどが山のように並んでいる感じである。

 時刻表の本質を問うということは,すなわち「列車ダイヤ」の本質を問うこととなる。そうやって『列車ダイヤと運行管理』(交通新聞社)であるとか,『列車ダイヤのひみつ』(成山堂)のような専門家の著作をたぐり寄せたり,『時刻表世界史』(社会評論社)といった世界の時刻表をコレクションした文献などに触れてみた。

 それは情報デザインの実践史を追いかける作業にも思えたし,そうやって時刻とともに生きることを選択し続けていった私たちの「人生のダイヤグラム」に関する歴史の旅のようにも見えたのである。

 もうお気付きかも知れないが,これはカリキュラムの問題と無縁ではないのである。私たちがどこから由来して現在に至り,この踊り場での活動が今後にどのように繋がっていくのかを対象として考えるのが広義のカリキュラム観である。

 私はあれこれのダイヤをわしづかみにして,気の向くままにスジを乗り換えながら旅をしている人間である。一方で,多くの人々は自分に合った/自分の欲したスジをダイヤから選び出したり生成したりして人生を歩む。人は人のスジと交わり,そして追い越して行くこともある。一生交わらないスジだって膨大にある。

 そうか,私はそういうダイヤグラムの世界が好きなのか。あらためて,そんなつまらないことに気がついた。プログラミングが好きなのも,その現れともいえる。もっとも,自分自身のスケジューリングは二の次なのだけれど…。


 
 海外の時刻表を研究するために『トーマスクック・ヨーロッパ鉄道時刻表』も入手した。ロンドンを除けば,まだヨーロッパに行ったことはない。ロンドンからパリに向かうユーロ・スターという列車を眺めて,いつかヨーロッパ鉄道の旅がしたいと夢を見たことはある。

 来年か再来年には,ヨーロッパに出かけてみたいと思う。そのときまでには,自作の時刻表アプリでヨーロッパ鉄道の旅が支援できるように改良できたらと思う。今年のクリスマスプレゼントは,そんな目標(ダイヤ)が出来たことかな。

 ハッピーホリデー!

そのまた先に思いを馳せて

 今日は授業や打ち合わせなどで慌ただしい中,行政刷新委員会では事業仕分け後半2日目の文部科学省パートが行なわれていた。奨学金やら義務教育国庫負担金の話やら,気になるものも多い。前半戦の話題もあって,多くの見学人が詰めかけたというニュースも流れている。

 そして,夕方にはノーベル賞・フィールズ賞受賞者による声明発表や科学者による討論が東京大学で行なわれた。ネット時代らしく,開催の告知が駆け巡り,かなり注目を集めたようだ。私もネット中継でいくらか観ることができた。それにしても,ここのところUSTREAM等のストリーミング・サービスやTwitterは大活躍である。

 日頃から危機意識をチラつかせながら駄文を書いている当「教育らくがき」なら,この勢いに便乗して喚きそうなもの。けれども,ここまで来てしまうと私はもう次のことを考えたくなるので,基本的に静観モードで,すこし茶々入れしてみるくらいの心持ちなのである。

 皆が騒ぐべきことに気がついたならば,また違うことに視線を向けて,物事を見通そうとしなければならない。

 
 気がつかなかったが米国では23日(日本なら24日)にオバマ大統領が「Educate to Innovate」というキャンペーンを始めたというニュースを見つけた。
 別にホワイトハウスが乗り出せば上手くいくなんてちっとも思わないし,大統領が語っている物事がすべて上手くいっているとも思わないが,いかにも演出が上手いじゃないか。こういうワクワク感が日本のノーベル賞学者からもフィールズ賞学者からも出てきていないということに,ちょっとシクシク感を抱くのである。

 ま,とにかく私はいま,ローカルに軸足を置いたネットワークの可能性に興味を強くしている最中なので,あれこれ距離感を測ることで時間が過ぎている。私は基本的にタネはたくさん持っているけれど,蒔いて育てることには弱いので,少なくとも苗まで育てて,一緒に育ててくれる誰かに会いにいく準備をするのが目下の課題である。

 
 というわけで,科学・技術も人文・社会科学も,ますます世間とのコミュニケーションを強めることで,進歩していくことを願うのみである。私は地道に仕込み作業継続…。あ〜,でも毎日の授業は,毎日原稿締切りがあるみたいで大変である。