月別アーカイブ: 2006年7月

よこはま教師塾

 なかはらさんところのブログから。「よこはま教師塾」というのができるらしい。杉並師範館と似て,地方自治体単位のローカルな教師養成の取り組みである(ただし,免許付与機関では無い)。
 こうした取り組みが,かつて教師を志したものの今は一般社会人である人々にとって,教壇への再挑戦機会になるのは,とてもいい事だと思う。個人的には心惹かれるし。
 とはいえ,教員養成学部出身者で,かつ応援者のつもりの私としては,各都道府県にある教員養成大学・学部がこうしたニーズに何も出来ずに来てしまったことを苦々しく思う。
 なんだったんだ?あの「在り方懇」ってやつは?一部都道府県の教育学部統廃合問題とやらで将来を考えたかと思ったら,名称変更程度で嵐が過ぎた。そして教職大学院は,いまだによく理解が得られていない。それでもって,とうとう教員免許が医師免許を差し置いて更新制になっちゃった。何しているんだろう,この国の教員養成は。
 自治体からこういう形で三行半のようなものを突きつけられる前に,もっと地域に根ざして活性化(単純素朴に元気にするようなものでいい)に貢献するような教員養成をつくらないと,日本の教育から覇気が消えるばかりだ。

文月29日目

 8月は,1日に日本科学未来舘で「情報教育セミナー2006」に登壇し,2日から名古屋で集中講義を担当と相変わらず賑やかな日々。資料作りも煮詰まってしまったので,気分転換に出かけた。
20070729_sumida 今日は隅田川花火大会の日である。ホントは名古屋に居る予定だったので諦めていたが,東京で仕事することにしたので,この機会に観に行くことにした。情報誌や聞いた話では,打ち上げ会場周辺は大変な混雑であるらしい。動員数は約95万人の規模だというから,ただただ凄そうという印象だ。だから,観に行くにしても混雑を避けて遠くで観るか,あるいは迫力を求めて会場近くへ行くかは悩ましい。もっとも,今年は独り身軽なので,混雑が実際どんなものなのかを知るためにも,とことこ歩いて打ち上げ会場近くまで行ってみることにした。で,花火が始まってみるとこの混雑である。すごい!
20070729_sumidagawa 台東リバーサイドスポーツセンター近くの道に入ったところ,ちょうど大きな木が花火の打ち上げ軌跡を覆い隠す感じの微妙な場所で花火鑑賞。とはいえ,大きな花火になると木のてっぺんを余裕で超えて,ど迫力な音とともに素晴らしい花を咲かせる。素晴らしい。いやはや,ちょっと侮っていた自分を反省。というか,今までこんな贅沢な花火大会をこれだけの迫力で見たことがなかった。なんでしょう,あれは。都会の花火大会は違うのぉ…。
 会場までの経路は,混雑を意識して,都営荒川線という路面電車に乗って少し遠回りしてみた。会場までは歩くことになるが,それもまた楽しい。浅草駅周辺には訪れなかったので,本当の混雑具合は結局わからず仕舞いだったが,おかげで足止めを食らうこともなくスムーズに行き帰りできた。

トトロのお父さん

 今年もテレビで「となりのトトロ」を放映している。何度も見たことはあるけれど,それでもやっぱり何度でも見ちゃうのは,それだけ名作ということなんだな。それとも昭和30年が舞台のせい?
 かつて学生に「トトロのお父さんに雰囲気が似ている」とよく言われたことがある。トトロのお父さんじゃ,大トトロになっちゃうので,正確にはサツキとメイのお父さんだ。これは結構嬉しかった。
 あのお父さんも大学で仕事をする人(お父さんは考古学を専攻しているらしい)だったが,あんな自然の豊かな場所に家を構えて,原稿書きと子育てに専念できるなんて,憧れというか,研究職としての夢である。1990年代前半に観ていたときは「そんな遠方の田舎で原稿書く仕事できるなんて,現実には無理だな」と思ったものだが,1995年以降,インターネットが普及したご時世ならインターネット接続確保できれば遠方で仕事が出来そうな気もしている。でも,時間が経過すればするほど,ああいう地域や住居環境を確保することの方が難しくなってきたようにも思う。
 皆さんの記憶からすっかり消え去った愛地球博だが,跡地の公園が部分開園している。あのサツキとメイの家は,その跡地で再公開されることになっている。いまは愛知を離れてしまったが,いつかは訪れてみたいと思う。

文月27日目

 昨日は,ベネッセの研究助言のお仕事と学習科学研究会に出席。朝から夜まで頑張った一日だった。どちらも今年度に入ってからのご縁で,私にとっては視野を広げる有り難い機会だ。
20060726_gkkj 前者は東京大学大学院情報学環ベネッセ先端教育技術学講座(BEAT講座)の客員助教授・堀田龍也先生にお声掛けいただき共同で研究と助言している仕事。そんなわけで,私も東京大学大学院のBEAT講座アソシエイツとして(本当に)末席に名を連ねている。ちょっとだけでも,そういうところに名を連ねるのは正直嬉しいことだ。
 とはいえ,いろいろ事情もあって名前を連ねるのは9月まで。共同研究自体は継続するので,別に何も変わらないんだけど,せっかくなので名を連ねているうちに,記念撮影のつもりでここにも書いておきたかったわけである。半年お世話になりました。感謝感謝。(追記:写真は定例会議のあった敷地内で皆さんと。都内の某所にある。)
 学習科学研究会は第2回目。『The Cambridge Handbook of the Learning Sciences』という学習科学に関するハンドブックをみんなで講読している。学習科学というのは,学習に関する学際的研究領域だと紹介されている。素人として乱暴な説明をしてみれば,教育心理学が心理学全般を教育に適用しようとする研究分野なのに対して,学習科学は認知心理学の知見を主軸に学習を科学しようとしている領域だと考えればいいのではないかと思う。
 学習科学に関する日本語の文献は徐々に増えているようだが,まだ豊富とは言えないようだ。とりあえず関心がある皆さんは,放送大学テキストに学習科学関連のものがいくつもあるので,それらから手をつけるといい。
 学習科学の研究会に参加して,異なる研究領域の異なる流儀に慣れ親しむことの難しさを体感しているところだ。たとえば,現場で活躍している先生方と教育研究者とが意見交換するときに,同一の現象を説明しているにもかかわらず,使う言葉や説明の仕方が全く違うことがある。つまり,現場の先生は個別具体的な授業・子供の様子を表現するのに対して,研究者は抽象化または一般化した言葉や理屈で表そうとする。たまに横文字なんかも出てきて,現場教師と研究者とでは言葉が通じないと言われたりする。
 それに似て,学問世界でも分野が違えば言葉や流儀が異なる。あるいは何は自明視されていて,何は合意に至ってないのかも違う。カリキュラム研究と学習科学は,見ている対象はかなり重なるはずなのに,やはり言葉や流儀が違う。
 たとえば学習科学には「デザイン研究」という言葉がある。なぜこんな言葉が独立独歩,意味深な雰囲気を伴いながら登場するのだろうか。教育研究者は最初面食らう。学習科学における,何か独特な手法の研究なのだろうか。いろいろ考えながら文献を読んだり,皆さんの議論に耳を傾けるが,どこが独特なのかよくわからない。
 そして,手元にある限られた資料を一通り眺め直して,ようやくある種の確信を抱くに至るのである。「なんだ,デザイン研究というのは,学校づくりをしている私たち現場の日頃の努力そのもののことじゃないか」と。もしかしたらこれは教育心理学とのかかわりで「アクションリサーチ」と言っているものに位置するそれを,学習科学として「デザイン研究」という言葉で再配置しているものなのだろうか,と思えてくる。
 さらに妄想を働かせると,おいおいデザイン研究ってのは広義のカリキュラム研究のことであって,わたしらカリキュラム研究者は知らないうちに他領域の方々から領域侵犯されているんじゃなかろうか,とだんだん思えてきた。まあ,最近のカリキュラム研究は脳科学の知見を借りようと頑張ったりもしているので,領域侵犯はお互い様か。もうちょっと建設的なコミュニケーションをして,もっと力を合わせるべきだと思う。
 こういう関係性の確認作業を一つずつこなして,さらに諸外国と地続きな研究コミュニティの流儀を読み取っていくのに頭がいっぱい。あれこれ固有名詞や研究プロジェクトもあって,「なるほど,そういうものがあるのね」の連続である。
 長丁場の研究会。最後の方は眠気とも闘いながら,学習科学の議論に身をゆだねていた。ぼんやり思ったのは,日本の教育実践研究も学習科学の観点から記述しようとすれば,世界に通用するレベルにある気がしたこと。教師の資質的な部分に多くを拠っているという点は問題視されるかもしれないが,逆に言えば,改めて日本の教師はすごいということ。だから日本の教育現場が学習科学を踏まえて自分たちの実践を意識し始めたら,鬼に金棒かも知れない。
 ただ,百本足のムカデが自分の踏み出す足を意識しすぎて動けなくなったという寓話もある。終わらない問いへの限りない努力はするとしても,一方では自然体で事に当たれるようにもしたいものだ。

国語に関する世論調査

 文化庁からは平成17年度「国語に関する世論調査」の結果が公表されていた。変わりゆく日本語のいまを知るには面白い資料である。質問概要の「8. どんな語に「お」を付けるか」は,いろんな言葉を自分でも考えてみたりする。
 「お」を付けるか付けないかの判断基準はいろいろある。日本語の語感から判断する場合もあるし,状況に照らして判断する場合もある。おおよそ「お」を付けるにふさわしくない語であった場合,たとえば接客業における誤った使用があったときなど,使用者が若いと「勉強不足だ」と思う場合もあるし,そうでなかったとしたら「度が過ぎてしまってるよ」と違和感を覚えるわけだ。
 ただ,相変わらずの私的な見解で恐縮だが,こういう間違った使用法に遭遇した場合でも日本的な文化だと,客商売である以上「文法的な正しさよりも背後の馬鹿丁寧さが大事」という状況的なものを汲み取ってしまう余地が大きいのではないかなと思う。つまり,間違った使用法が「へりくだった自分」を明示する記号として働く(もしくは,そう解釈される)のではないだろうか。「言葉の誤使用するほどの馬鹿者の私が,お客様を接客させていただきます」という風な構図をそこに描く効果を発揮してしまうのである。
 至極ストレートに考えれば,「そんな馬鹿には接客して欲しくないわい」となるところだが,そうでないところが日本文化の奥ゆかしさというか,曖昧さというか…。とりあえず「お」付けときゃいいか,という実際的な事情が開けっ広げになった(奥ゆかしくなくなった)ご時世には,残念ながらそういう曖昧さの予定調和は成立しなくなっているけれども。
 私の日本語も,相当変な調子で形成されてきたので,あまり偉そうなことは言えない。もう少し日本語の勉強もしないといけない。

学校における教育の情報化の実態等に関する調査結果

 文部科学省から平成18年3月時点の「学校における教育の情報化の実態等に関する調査結果」が発表された。2005年度までの教育の情報化の成果がこれで判明したわけだ。
(追記:そうそう,文部科学省Webサイトがデザインリニューアルされた。どうだろう,見やすくなったかな。慣れたところでの変更だから,なんとも甲乙付け難い。)

どこでも職場

 私は自分のことをカリキュラム論を軸にしている教育研究者だと位置づけているのだけれど,この頃のお仕事は情報教育分野との絡みが多くて,「情報通信時代の教育」を研究している人間になっているのが実態である。だから,モバイルとかユビキタスという世界に入り込んでモノを考えている。
 もっとも自分自身の活用という意味では,中高生のような携帯ヘビーユーザではないし,PDAも大昔のシャープ電子手帳で懲りたし,マッキントッシュのデカいノートパソコンをメインで使うので,私自身はちっともモバイルな人じゃない。ユビキタスも,どっちかというと懐疑的な立場である。ただし,根っからの新し物好きと好奇心が唯一の頼りとなって,こういう世界に思いを馳せて,「う〜ん,どうでしょ〜。お〜,そうかなぁ〜」と考えるのが好きなのだ。
 そんな私のパソコンにはSkypeがインストールされていて,ごく普通にオンラインにしている。阿部寛のドラマじゃないが,オンラインにしても滅多にコールはないから,とくに支障はない。じゃSkypeをわざわざオンラインにしている意味がないじゃないかと思われるかもしれない。私も半分そんな気がしている。
 けれども,前の職場を離れてからはしばしば,問い合わせメッセージが入ってきて,引き継ぎ足りなかった事柄をやり取りするのに使う機会がある。コンタクトリストには,前の職場の人たちが幾人か登録されているので,場所が離れていても必要があれば連絡取れる形になっているわけだ。
 オンライン状態をいちいち見られるというのは,抵抗感もあるが,距離感がわかって慣れてしまえばどうって事はない。お互いオンライン状態なのにずっと通信しないこともあるが,それはこういうツールを使うときには織り込み済みの前提条件みたいなものである。インスタントメッセージとも呼ばれるチャット機能でのやり取りが断続的で,ときに文脈逸脱しやすいということや,反応の順番がひっくり返ってしまうことなども,すべて了解した上で使うわけである。
 先日も,久しぶりに前の職場で一緒に働いていた職員さんから問い合わせのコール。音声チャットを電話感覚で使い,ソフトウェアの使い方や技術的な解説などをやりとりした。なんか在職していたときと全く変わらないやり取りが展開するので,私は自分が退職したことを忘れそうになる。「うちの学校では…」,ああ,もう自分の学校じゃないか…,と。
 Skypeのマック版は,ウインドウズ版に比べてバージョンが低いが,ようやく次のバージョンのベータ版と,ビデオチャット機能を搭載したプレビュー版が登場した。これでウインドウズパソコンとのビデオチャットが実現するようになる。正式リリースされる頃には,ビデオチャットソフトの定番はSkypeになるだろう。
 ほかにもYahoo! MessengerAIMGoogle TalkGizmoなどのソフトもあるが,なんといっても一番ユーザー数が大きいのは,MSN Messenger(いまはWindows Liveメッセンジャー)である。ところがこのソフトもマック版には力を入れていないため,音声とビデオチャットが同じようにできないのだ。そういうわけで,いまのところクロスプラットフォームのビデオチャットの有望株はSkypeかYahoo!くらいしかない。Skypeに関していうと,すでに無線LAN対応Skype携帯が登場し,いよいよ構内電話といての活用もできそうになってきた(便利なのは確かだが,正直この機器に対してとるべき態度は考えなければならない…)。
 ちなみにGizmoはユーザー登録の際に電話番号登録もいとわなければ,登録した者同士のネット通話や固定電話に対する通話も無料にするという大胆なサービスを開始している。ビデオはできないけど,音声で十分というユーザーにとっては魅力的だし,これで一気にSkypeを追い越そうと考えているらしい。
 技術競争もさることながら,いよいよ価格競争も現実的になってきたVoIPソフト市場。モバイルやユビキタスと合わせて,教育活用の可能性,もしくは問題性を考えておきたいところである。

文月24日目

 先週の国際学会や書類提出は,ぐるぐる考えすぎてしまったので,週末は非行に走ってみた。真夜中に独りでビールと手羽先を食べに出かけ,生まれて初めてマンガ喫茶も体験した。なるほど,こういう空間があったか(ぜんぜん非行になっていないという話もある)。
 構わなかった部屋の掃除をした。名古屋から持ち込んだ本が大変なことになっているが,これは本棚買うまで仕方ないとして,少なくとも今手がけている研究やら仕事やらの資料がごっちゃにならないように,ファイリング関係の文具をまた買い込んだ。けれど,まったく足りないことがわかった。ああ。
 締め切りは過ぎてしまったけれど,8月1日と2日に「情報教育セミナー2006」が日本科学未来館のホールで開催される。1日のパネルディスカッションには私も登壇。仕事で日本科学未来舘デビューすることになった。できればオフでデビューしたかったけど…。
 小難しい話は資料の原稿に押し込んだので,当日はみんなが知っていることを分かりやすくしゃべることに徹しようと思った。真新しい話や違った発想で語ると,聴衆の頭の上にハテナマークが浮かぶことは何度も経験済み。なので,無理せず,普段のおしゃべりをしようと思う。考えすぎはよくないからね。
 それから,携帯電話の教育活用プロジェクトでご一緒している中川一史先生による「携帯電話の教育活用セミナー」が10月21日に行なわれる。こちらは参加者大募集中なので,どうぞよろしく。
 こういう機会に素朴な疑問をぶつけてもらったり,興味関心があったら協力の申し込みをしていただけるとありがたい。私も都合がよければ,ひっそりと会場で勉強しているはず。セミナーを違った角度からおしゃべりしてみたいという方は気軽にお声をかけてくだされば,「裏セミナー」ってことで,ご一緒にいろいろ話を広げてお話できると思う。ははは。いいんかいな,こんな宣伝で。

自尊感情を高める「評価」とは

 2006年の駄文群が,少々湿っぽくて内向的なのは,私個人を取り巻く状況を考えると仕方ないことかも知れない。読まれる諸氏にはうんざりする話かも知れないが,まあ,止まない雨はないと思ってお付き合い願えればと思う。
 さてと,自分を見つめ直す作業を続けながら,深みにはまっているといったところ。モノローグな私は,よせばいいのにさらに奥深くへと入り込んでみたりする。速水敏彦氏の『他人を見下す若者たち』(講談社現代新書2006/720円+税)なんかを手がかりに,いろいろ自己分析をしてみるのだ。
 長い前置きは省略して,自尊感情と仮想的有能感(他者軽視)の高低を二次元座標化してつくった4分類を参照する。「全能型」「自尊型」「仮想型」「萎縮型」の4つ。で,2006年の私のモードは萎縮型になっているのかなとぼんやり考えてみたりするのである。
 もっとも私はこういう座標分類を見ると「遷移できる」と考える質だし,実際その遷移を統計調査することが一つの研究になるわけだから,分類結果を固定的に考える必要はないと思っている。
 興味深いのはこの新書に,4分類に関する年齢区分毎の比率変化グラフが掲載されていて,萎縮型というのが中高生をピークにして年齢と共に最も低い比率に推移していくらしいということだ。要するに,自分の心理状態が萎縮型にあるとしたら,それは中高生レベルに戻ってしまっていますよ,ということである。いやぁ,若いねぇ〜,って照れてる場合じゃない。いい歳をして,ちょっと恥ずかしいことかも知れない。
 ただ誤解して欲しくないが,萎縮型の心性にあるのは悪いことばかりではない。問題は萎縮型からどちらの型に遷移しようとしているのか,そのベクトルの在り方をうまく捉えることが大事なのである。それ次第で,「石橋をたたいて渡る」慎重さを持つタイプとして長所を生かせるかも知れないし,もしかしたら「他人を見下して口だけ」達者なタイプとして場を乱してしまうかも知れない。それはたぶん自分自身もそうだし,状況にも依存することだと思う。
 ただ,この本も全般的に触れていることだが,自尊感情を高めることや他者軽視を抑えるために必要な「評価」にかかわる経験は,だいぶ多様化してきてしまって,この問題を難しくしている。なるほど(後付解釈としての)肯定的な他者から評価や自己評価の経験が自尊感情を高め,かつ良い連鎖としての肯定的な他者への評価を増やすということ(自尊型への遷移)はあり得ることだ。速水氏はさらに,しつけを回復すること,多くの人達に直接触れて自由にコミュニケーションする場を増やすことを提案している。
 ところが,自尊感情を高めるはずの肯定的評価そのものを根拠づける仕組みをたどり始めると,プツンと糸が切れてしまうのである。「何を根拠にものを言っているのか」という問いは,突き詰めすぎると全てを跡形もなく砕いてしまう。だから,私たちの社会は「権威」というボックスを作り出して機能させ,それを根拠の最低根拠と見なしてきたのであったと思う。ところが,それも様々な要因で,ずいぶんと砕かれてしまった。
 「権威」というボックスの内と外は,明確に区切られていなければならない。権威というボックスは,その外側の社会的な評価根拠の問いに歯止めを掛けるために存在してきた。一方で,ボックスの内側では,評価根拠の問いを延々と繰り返し問い続けることを機能としてきた。つまり,権威は「永遠に問い続ける」行為を社会から引き取る事によって初めて,社会が円滑に機能するように貢献する「評価根拠ボックス」としての存在意義を確保していたと思う。
 こうやって書くと「権威」という言葉の位置に「大学」とか「専門家」とかの言葉を置き換えたくなるかも知れないが,そういうのは狭い解釈である。
 ならば,違う表現をしてみよう。私たちが「信頼に値すると見なす存在」とは誰だろう。私たちは「その人が言うなら,きっと信頼できる」と考えて,問いに区切りをすることがある。つまりそういう誰かというのは,どんな存在なのかということを考えてみると,どこかで権威の議論と繋がってくるということである。
 それは「直感を信じる」という場合でも,実はさしたる違いはない。必ずどこかで「問う行為の永続性」の議論に繋がっていくはずだと思われる。
 さて,そこで自分自身の中にある権威ボックスを探らなければならない段階に入るのだが,ここにはもう一つ,厄介な問題が立ちはだかる。つまり,私の問いは,ボックスの外側の問いなのか,内側の問いなのかということである。もしも私の問いがボックスの内側であるとしたら,その問いにきりがなくなってしまう。そしてそれは何を意味しているかというと,私自身が「権威」として指向してしまっていることを意味してしまうことにもなってしまう。言い方を変えれば「信頼に値すると見なされる存在」を指向しているということになる。
 これは,結果的に「傲慢」な態度へと接続されてしまう途ではないのか。それを掻き消すために,さらなる「自己懐疑」を注入し,問いの問いを問うような無限退行をも連れてくる。良いか悪いかというよりも,これは問うている自分の状況あるいは立ち位置によって,そうなる場合もあるし,そうならない場合もあるというだけだ。
 だから,もしも問いに区切りをつけなければならないなら,自分が置かれている状況や自分が立ちたい場所を早く理解して,区切る目処をつけるほかない。もっとも,まさにこの区切り方こそ,最大問題であるのだけれども…。
 さてと,短く区切るつもりが,また長い駄文へと続いてしまった。このことからして,皆さんには,私がどんな心的シチュエーションにいるのか,わかりやすいほどおわかりいただけると思う。というところで,この駄文を区切っておかないと,「けれども…」と続けざるを得ない。
 モノローグはいつまでも続く。私は誰かとダイアローグしなければならない。

要精進

 今日はメディア教育国際会議に出席した。書きたいことはたくさんあるが,なによりも,いかに自分に発信する力がないかを再確認して,かなり凹んだ。何をやっているんだろうか?>自分
 いろんな人の話を聞き,そして幾人かの人に自分の思いや考えを少し聞いてもらった。書類作成の必要もあって,あらためて自分の経歴などを振り返って,ついでに個人ページも更新した。いろんな機会に呼んでくださった皆さんの期待にちゃんと応えられてきたのかな,とまた一人で考え込んでいた。
 深く考え続けることが私の得意とすることであるけれど,どこかで割り切らないと…。孤軍奮闘しているうちに,その方法をすっかり見失った自分が居る。もう少し,周りに頼ってもいいのかも知れない。けれども,正直,どうすべきかよくわかっていない。つくづくモノローグな私である。