月別アーカイブ: 2010年8月

本読みの憂鬱

 集中講義が始まった。今年は40名弱の受講生と一緒に「カリキュラム論」をつくっていくことになる。

 学習指導要領も新しくなって来年度から本格実施が始まるし,指導要録に関しても評価観点が再整理されたので,そうした話も踏まえて,教育をわ〜っと考える4日間である。

 そのための文献資料を読むついでに,あれこれ気になる本に現実逃避のために手を出しているが,なぜか日頃じっくり読む余裕をつくっていないことを深く反省する気持ちが湧いてくる。本を読まないと思考の筋力が衰える。そのことが分かるからだろう。

 でも,「研究者は本じゃなくて,論文を読まないとダメ。本は古い沈殿物が固まったものでしかないし,所詮随筆でしかない」とかなんとか言う声を聞いたことがある。

 それを聞いたときの私は,コテコテの人文系で本ばっかり読んでいた頃だったので驚いたものだったが,なるほど理系はそんな世界かと納得したりもした。

 いまは,どっちも読めればいいなと思う。

 けれど,人文系の本を読み漁るという行為には,混沌を練り歩くようなところがあり,それが思考の筋力を鍛えるように思われる。それはとても大事な作業じゃないかと改めて考えている。そうした鍛練みたいなものがないと,読めるものしか読まないという悪い癖がつく。

 理系の人たちが理路整然と形式に沿った論文を好むのは,書かれた内容を余計な負荷なく読み取ることを可能にし,学術成果の連鎖を繋いでいくのに必要だからである。それも大事なのだけれど,そんなのに慣れすぎると,読む方は何も苦労を強いられないから,読めるものしか読めなくなる懸念が大きい。

 いざ論文ではない本や文章を読む際に,字面から読み取れる情報だけで解釈を試みようとして,本人としては精緻にやっているつもりでも,えらく外してしまっている事例も見受けられる。申し訳ないが,少し滑稽に見えたりする。

 「書かれたものが全て。だから,書かれた文面でのみ理解をするべき」

 というような考えもあるとは思う。けれど,本読みはそういう合理的な読みだけでテキストを解釈しない。

 本読みは,テキストと対面する際に,その向こう側の書き手の思考を覗こうとする。作者の在不在を論じるような文学理論は,私にはよくわからないのでさて置くとして,簡単に言えば,行間から透けて見える書き手の思考の筋道を追いかけようとする,そういう素朴な読書心理のことである。

 ところが,行間が何だかわからない人がいる。

 書き手の心理を追いかけるような思索の負荷を愉しまない人もいる。

 書き手が言外に言いたいことを受け取らない読み手がいる。

 困ったことに,影響力のある人たちに,その傾向が目立つようになっている。

 読めるものしか読まないし,書き手の思考もお構いなしだ。

 なんてことだろうと思う。

 要するに,そういう人たちは,私と同じく本を「じっくり読む余裕」を確保できていないのだろうと思う。だから,思考の筋力がどこか凝り固まっているかも知れない。

 人には,脳が重要だと思っていない情報に関してフィルタリングしてしまい一種の盲点を作り出す「スコトーマの原理」というものが働いているという。

 私自身にも同様に何かしらの盲点が存在し,あるいは重大な見落としをしているのかも知れない。だから他者とのコミュニケーションが噛み合っていないのは,そうしたスコトーマの原理の働き方が他者と異なっていたりするせいかもしれない。

 仕方のない部分も残るとは思うが,私自身はそうした盲点を少しでも小さくできるよう努力はしたいし,そのためには,もっと本を読むことが大事かなと思う。

里帰り&集中講義

 夏になると担当している集中講義がやって来る。いつもは8月初めに予定が組まれるのだが,今年は8月末から9月にまたがる4日間だ。どこの大学も予定組みがどんどん困難になっているようだ。

 集中講義先は,実家近くなので,この機会は里帰りも伴う。

 こうして今でも実家の家族と過ごす時間を持てるのは幸せなことではある。買い物の手伝いや実家の草むしりなどして数日を過ごし,さて,そろそろ集中講義の態勢に切り替えなくてはならない。

 普通に実家生活を送ると,一応ネット接続はしているが,普段のようなネットコミュニケーションの連鎖と距離が生まれるので,メールもブログもTwitterも放ったらかしである。こうしてようやくブログなんかは書いてみたりする。

 先日は「教育の情報化ビジョン(骨子)」が出たり,ハーバードのサンデル教授が来日してあちこち講演を開いていたり,「光の道」構想の書名をソフトバンクが集め始めたり,民主党代表選が近かったりと賑やかではあるが,どれもピンとこない状態で,モヤッと感は否めない。

 どうしてピンとこないのか,集中講義をやりながら自分に問うてみたいと思う。

事が始まる前に

 本来,今の段階でも私が何かを発してはいけなくなっていると思うのだが,この段階で何も書き置くことなく事態に突入するのは,建前は正しくても,私らしくないと思えるので,書くことにする。
 

 明日から「ある仕事」の関わりを始める。

 その仕事を依頼してくれた皆さんとお会いすることになっているのであり,私の中では,そこが実質的な立場の切り替え機会になる。

 その仕事に関する情報を明確に発することができるかどうかは,関係者の皆さんに確認して,許される範囲で試みたいと考えている。

 その範囲がどの程度かは定かでないにしても,一つハッキリしていることは,私の立ち位置が変わるということである。

 具体的には,いつもの調子で気楽に批評を加えるだけでは済まないということになる。当事者の一人になるわけであるから,第三者的に振る舞えないのは当然である。

 そして私は,そのお仕事をできるだけ批判に耐え得るようアドバイスして,内部補強する形で「守る」ことを目指さなくてはならない。それが可能なのかどうかはやってみなければ分からないが,努力はしたい。

 たぶん問題山積なのだろうと思う。

 こうした仕事に満足の行く部分がわずかでもあれば幸せな方で,あとからあとから非難や批判が積み重ねられて辛いことの方が普通なのだろう。

 なので,私は,最初から別の目標を立てることにしようと思う。

 考えていることは漠然としたものばかり幾つもあるといった感じだが,顕在的な大きな目標よりも,潜在的な隙間の問題を拾い集めて考えていこうと思っている。たとえば,仕事にかかわる人たちのコミュニケーションの問題に焦点を当てるだけでも,いろんな問いが浮かび上がりそうだ。

 他の人たちが注視してくれるところは,私が気にしても仕方ないので,私は私なりのスタンスでその仕事を捉えて,内外に還元していこうと思っている。もちろん,仕事における本来の役目を全うするのは当然。

 その仕事に関わるのは私一人だけではない。多くの人たちが関わっている。その中で,足並みを揃えなければならない部分は多い。

 そのことが,私自身の中の葛藤としてどう生起するのかしないのか分からないが,そのこともちゃんと考えて成果に反映させていければなと思うのである。

 私がここに書き置きたかったのは,確かに私の立場は大きく変わるし,それゆえに私の言動が変わって見えるところもあるかも知れないが,私は私であるし,制約や関係性の中でも私なりの試みを展開したいという意気込みである。それを忘れないように記しておきたかったのである。

 私から失礼やご迷惑をおかけしている皆様も多いけれども,そのような状況と,私の生来の不徳のせい。どうかご容赦を。

 そして,これから起こることをこっそりとお楽しみいただきたいとも思う。

めぐり合わせ

 試験期間と採点作業も終わり、大学は夏季休暇モードに入った。細々とした校務や技術ノウハウ蓄積のためのプログラム解析作業をしながら過ごす日々が続いている。

 徳島は12日から阿波踊りが始まり、夕方になると街のあちこちに設営された会場で同時多発的に演舞が繰り広げられる。特に徳島駅前から阿波踊り会館を結ぶ道路は、交差する川沿いも含めて人でごった返す。この期間ばかりは、日頃閑散としている通りも、渋谷並の交通量である。

 そんな阿波踊りの賑わいを目前にしていた頃、一通のメール。予期せぬ依頼事に目をぱちくりしていた。

 ご縁があるなら、お役に立てるよう身を捧げるだけ。出来る事は限られているが、私なりに関わっていこうと思う。

 それにしても、めぐり合わせの妙を感じないわけにはいかない。人生の旅は、どこまでも興味深いものである。感謝。

タッチデバイス教育利用WSに向けて

 9月18日(土)18:00〜19:30,愛知県名古屋にある金城学院大学にて,日本教育工学会ワークショップが開催される。そのプログラムの一つとして「タッチデバイスの教育利用 ~新しい技術やデバイスに注目と関心が集まる現象と実相を考える」がある。

 流行りものに手を出したお調子者は,私である。

 ワークショップ(WS)で何をするつもりなのか。

 iPhoneやiPadを持ち寄って教育利用の方法を考える…という月並みなネタを(自由枠とはいえ)学会の場でするつもりはない。

 WS目的は,私たちの「ミスディレクション」を少なくする方策を考えることである。

 ミスディレクションとは何のことか。

 ある対象を論じる際の見方の偏向をもたらす働き全般である。何かしらの誘導ともいえるし,欺きともいえる。

 たとえば「新しいデバイスが教育を革新する」という文言は,意味的にも論理的にも飛躍を含んでいる点で問題だが,同時に,事実の有無とは無関係に,ある種の心理的な誘導を生ずる点でも問題をはらんでいる。

 「デジタル教科書でなければならない理由が見当たらない。印刷教科書でできていることを変える必要がどこにあるのか」といった文言は,一見,正当な指摘に感じられるが,デジタル教科書と印刷教科書の関係を排他的に置いている前提が問われず,「他方の否定」を肯定する枠組みに人々を追い込んでしまう。

 いま,こうした「ミスディレクション」が至る所で展開し,人々の解釈枠組みを振り回したり,規定してしまったりしている。

 本来,学術研究の領域は,こうした混沌とした言説に向けて,適切な補助線を提示することが求められているのではなかろうか。

 しかし,たとえば「教育の情報化」という範囲の大きく,かつ,歴史の長いテーマについてでさえ,学術界は外部に対して明確なメッセージを発してこれたとは言い難い。結果的に,政治行政の世界から学問は排除されてきた。

 補助線提示の先行事例として私が常々挙げるのは,AERAの「Research Points」である。これはアメリカ教育学会が学術研究成果を教育政策につなげようとして出している出版物である。

 あるテーマに関して,現在どのような研究成果があり,責任研究者による捉え方を端的にまとめた研究要約論文が公開されている。行政に携わる人々が,こうした知見を踏まえることを促す努力の一端である。

 皆さんもネット上で海外の研究成果をニュースとして見ることがあるだろう。最近でいえば「ネット接続時間の22.7%はソーシャルメディアに割かれていた」といった類の話題があった。

 このようにある研究成果が話題になることは,米国に限らず日本でも時々あるのだが,海外発の話題の方が量的にも伝搬力においても優勢のように感じられる(残念ながらその根拠は手もとになく印象論である…)。

 私が企画したWSは,進行中の事態を事例として,このようなことを指摘した上で,新しい研究対象に対する学術研究のあり方を考えていこうというものである。そのための具体例として,タッチデバイスの教育利用を取り上げ,また実際に,そのことについても(アクロバティックな進行にはなるが)同時に皆さんと考えていきたいと思っている。

 という難しい話はあるにはあるが,私はiPad持ってきて,ぐりぐりデモンストレーションしちゃうのだ。あとは質素に暮らします ^_^;

みんなのデジタル教科書教育研究会Liveを終えて

 7月31日土曜日の夜に,「みんなのデジタル教科書教育研究会」のメンバーによるUstream生放送を行なった。略して「デジ教研Live」である。

 「みんなのデジタル教科書教育研究会」(以下,デジ教研)は,立場を問わずデジタル教科書が入り込む教育について関心のある人々が集って意見交換や議論を共有する目的で始まった。会費は無料の有志集団である。

 一方,企業・団体が集まって立ち上げられたのが「デジタル教科書教材協議会」(DiTT:ディット)という民間組織である。そちらは法人会員のみのいわゆる業界団体だ。設立シンポジウムは世間の注目を集めたし,今後様々な動きを見せるのだろうけれども,個人が関わることを前提にはしていない。

 デジ教研は,「デジタル教科書」というテーマを,関心のある人たちの手もとに引き寄せて,私たちも考えていこうという思いを形にしたものだと,私は理解している。

 Twitterやメール(メーリングリスト),掲示板を使ったやりとりが少しずつ始まっており,興味深い意見も交わされている。

 願わくは,会が賑やかに継続していくことを期待しているのだが,私自身の経験上,文字ベースのコミュニケーションには山あり谷あり,次第に勢いが衰えて,疎遠気味になる事例も珍しくない。

 たとえば,早い時期にあるテーマの議論が済んでいると,会の新参者が同じテーマを議論する際に「すでにそのテーマは扱いました」とか「アーカイブに議論がまとめてあるから読んどいて」みたいな対応を受けてしまいがちだ。

 議論がまとめてあるのは有り難い話だが,会の趣旨である意見交換や議論を共有したことにはならないのではないか。単に情報を共有することだけでなく,一緒に考えていく経験(端的に言えば時間)を共有することも必要なのだと思う。

 (もっともそれを曲解すると国会や審議会の審議みたいに「○時間審議したから十分」という身も蓋もない根拠に使われることになるけれど…)

 そういう場合,会の活動を活発化させるアイデアとしては,会報を定期的に発行するとか,集会や研究会を開くとか,イベントを開催するとか,そういう類の活動刺激をつくっていくことである。

 デジ教研は全国にメンバーが散らばっているので,どこかに集まることは難しいし,普段から文字ベースでコミュニケーションしているのだから,いまさら会報を出すのも新鮮みがない。

 というわけで,だったらUstream番組を定期的につくっていくことで,声のコミュニケーションを取り入れてはどうだろうかと思った次第である。Twitterと縁の深いUstreamを使わない手はない。発想は安易だが,よいアイデアだと思った。

 発起人の片山さんなどに投げかけたら,好感触だったので,さっさと日にちを決めて実験放送を実行することにした。それが7月31日だったというわけである。

 デジ教研Liveは,当初Skypeの会議通話を使って,複数の人たちと会話しながら,その音声をUstreamで放送する予定だった。私は技術調整係として,Skypeをホストし,Ustreamに流す仕事をすればいいだろうと考えていた。

 ところが,いざ会議通話を使ってみると,たった3人の会話さえうまく交わせないことがわかった。マシンの非力さか,回線の細さか,理由は様々だろうが,当初の予定通りにはできなくなった。

 Ustreamへの送出は私が担当していることもあって,私がSkypeでいろんな人の話を聞くというスタイルで進むことになった。

 第一部は,「みんなのデジタル教科書教育研究会」発起人である片山さんとおしゃべりをした。デジタル教科書が話題になってきたいきさつや会の紹介を目的としたものである。
 片山さんは,新潟の小学校の先生であり,地域の情報教育の研究にも尽力されている現場のエキスパート。そんな片山さんが呼びかけをした会だから,現場の先生方のメンバーも多いことが特徴だ。そこに様々な分野のメンバーが加わって,会の幅が広がっている。

 第二部第三部は,山形の大学に勤められているスットコさんにいろいろ話を聞いた。情報技術と教育の関わりについて長らく追いかけられている経験からデジタル教科書と教育の関係についてや,ご自身の取り組みも含めておしゃべりいただいた。
 スットコさんは,コンピュータネットワークを活かした教育を注視している研究者であると同時に,Twitterからは電子楽器やVJといったデジタル・カルチャーの実践者としての顔も見える。

 第四部は,再び片山さんにご登場願って,感想を聞いたり,補助教材の実際について解説いただいたりした。こうした現場の様子を語っていただくことも大事かなと思う。

 一旦,放送はここで終わる事にしたのだが,放送前から手伝ってくださると約束していた方がいたので,その方を待って,強引に第五部をスタートした。

 第五部は,山梨で公立図書館の館長さん(指定管理者館長が正式なのかな?)をされている丸山さんにご登場いただいた。図書館の立場から見たデジタル教科書や教育の情報化に関しておしゃべりしていただいた。
 教育現場と関係しながら,また違った角度からのお話は興味深いものであり,丸山さん自身が開発者という経験をお持ちで,知のエコシステムといった大きな枠組みに関する議論につなげて考えられていたりと,刺激的な話題が多かった。お疲れのところ申し訳なかったけれど,ご登場いただけたのは幸運だった。

 というわけで,実験放送のつもりが,一晩にお三方のお話をお伺いすることができ,しかもリアルタイムで30名程度の聴取者とTwitterのコメントにも恵まれ,大成功の内に幕を閉じた。

 こうやって,いろんな人たちの声を素直に伺ってみるだけでも,今までの議論をもう一度振り返ったり考え直したりできるし,もしかしたら新しい視点を得られるかもしれない。デジ教研Liveの可能性はいろいろ広がっているように思えた。

 どうしてもこれまでデジタル教科書は,ソフトバンクの孫正義さんとか,慶應義塾大学の中村伊知哉さんとか,それから,蔭山英男さんや藤原和博さんといった有名どころの人々ばかりが発信している話が話題になりがちであった。

 けれども,現場に近いところの人々の発信する話の方が,もっと現実的だし,もっと面白かったりするし,もっと刺激的だったりする。

 デジ教研Liveの活動は,デジタル教科書に対する人々の声を引き出す,とても大事な取り組みの一つになるように思う。私もできる限りお手伝いしたい。

 デジ教研Liveは,有志が多元的に展開する取り組みなので,もし「私も誰かの話を伺って放送してみたい」と思ったなら,会のUstチャネルを借りて実践することができる。

 そうした活動にも関心がある人は,「みんなのデジタル教科書教育研究会」に参加して挑戦してみてはいかがだろうか。

 個人的には,どこかの小学生や中学生も会に参加してくれて,デジタル教科書に関する調べ学習の中でインタビューを放送してくれても面白いなと思う。