第6回は教育図書の古本屋さんのお話。
東京には神田の古本屋街がありますが,教育の本を探すなら少し違う場所にあるこのお店に出かけることも必要です。今回の教育らくがきポットキャストは,東京に移ってからの初収録。
※「ヤマノヰ本店」さんのアクセントって,本の店って意味だとちょっと違うかもね。それはとんだ御愛敬ということで…(^_^;
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月別アーカイブ: 2006年5月
東京人…
なれそうにないなぁ…,忘れっぽいから。(^_^;
毎回,川口探検隊する人です,私は。
所得格差が学力格差?
読売新聞Web記事「学力の差、「親の所得が影響」75%…本社全国世論調査」のような内容は,「〜との意識を多くの人が持っている」という記事の書き方からもわかるように,あくまでも意識調査である。
本当に所得格差は学力格差へと連関するのかについては,いろいろ調査があり,条件によってはそうとはいえないこともある。たとえば日本全国どこでもその現象があるわけではない,とか。けれども,全国報道でそんな論が取り上げられると,人々の意識は自身の周辺実態とは別にそのように染まってしまうものかも知れない。
子どもの学力や学習意欲が向上するための家庭内条件とは何か。そんなことを考える長い長い土日を過ごして,必ずしも所得だけが全てではないとあらためて思った。ブルデューを始めとして論じられる経済資本と文化資本の関係も確かに働いているとは思うものの,それは単に個々の家庭の所得という形ではなく,社会全体が教育施策に費やす程度も変数になるだろうし,あるいはそれに値する経済活動からの効果のようなものも無視できないかも知れない。いずれにしても,単純でないことだけは確か。
また,たくさんの人たちに出会った。初対面ながらも気さくに迎えていただいたことに感謝。私の場合,笑顔と度胸が資本です。
卑劣な脅迫
長野県知事・田中康夫氏は,県内あちこちで「車座集会」というものを開いて地域の人たちの声を聞く活動をしている。その開催をよく思わない人がいるらしく,「集会を開いたら小学校・幼稚園・保育園児を1人ずつ殺す」という脅迫状が届いたらしい(毎日新聞記事)。
脅迫状なんてものは,そもそもが卑劣なのだが,子どもの命を奪うことをネタにしたものは卑劣この上ない。政治的な抗議といえば,自決することをもって相手を脅すというのがあって,それはそのくらいの覚悟を持って抗議していることを表すためだとイメージしていた。それを自分は安全地帯に隠れて,子どもの命を奪うことで代えようとするなんて,主義主張はどうあれ,そこまで腐りきっていることに,呆れを通り越して怒りを覚える。
たとえ世界の戦争地区や飢餓地域に比べて,日本の子ども達は生きることにおいて幸せだと,何やら言い訳めいたへ理屈が捻り出されたとしても,人の勝手な行動によって命が奪われるなんてことは許し難い。
便利な映像検索
動画共有サービスが注目を集めているが,放送局が映像ライブラリを構築して提供するサービスは以前からあった。たとえば英国BBCによる映像ライブラリ「BBC Motion Gallery」が有名である。どうやら最近は各国の放送局と契約して映像ソースを得ているようだ。我が国NHKもハイビジョン映像を提供している。
動画共有サービスと映像ライブラリサービスは,それぞれ長所もあれば短所もある。前者は不特定多数によるお手軽な映像登録が出来る反面,登録の際のキーワードの付け方といったルールがないため映像整理という観点ではエレガントとはいえないし,そもそもクオリティも千差万別である。後者は有料サービスであるとか,内容も限定されているといった不便さがあるとはいえ,映像はしっかり管理されているし,クオリティもある程度保証されているというメリットがある。
考えようによっては補完関係にあるといえなくもない。ただ,そういう甘い関係はあまり長くは続かないのかも知れない。
ところで,BBC Motion Galleryから告知メールが届いた。Mac OS X用のウィジェットをリリースしたというお知らせ。この「ウィジェット」というのは,デスクトップから簡単に呼び出せる小道具みたいなソフトのことで,カレンダーとか計算機とか,インターネット検索の小窓みたいなものなどが様々に用意されているというもの。このウィジェットの一つとして,BBC Motion Galleryの映像を検索することができる検索ウィジェットが出たというわけだ。
もちろんWebブラウザを使ってBBC Motion Galleryホームページから検索することが出来るのであるが,わざわざWebブラウザを立ち上げるまでもなく,検索ウィジェットをひょいと呼び出して検索できるのは便利だ。しかも検索結果から映像を選択して再生ボタンを押すとQuickTime Playerが直接立ち上がり,サンプル映像を見ることが出来る。Webブラウザ不要だ。
試しに「school」と入力して検索したら,1946年当時の日本の教科書,小学校,男の子の朗読の映像が出てきた。その他にもschoolで引っかかる映像が並んでいるといった次第なのだ。あまりの手軽さにちょっと感動してしまった。
そういえばニュースによると,東京大学でNHKアーカイブスが自由に使えるようになるとか。受信料を払ってきた一般の人たちにも早く届ける術を用意しないとまた怒り買うと思うんだけど,とにかくそういう試みがうまくいって,NHKアーカイブスも手軽に検索利用できるようになればいいなと思うのであった,っていつになることやら…。
皐月24日目
午前中に研究助言の仕事。ようやく企業プロジェクトの進め方が見えたきたところ。複数の人間が関わる以上,工程があって進むわけだが,各工程間のコミュニケーションが実際にどう展開するのかを探らなければならず,助言の捉えられ方というところにも細心の注意を払う必要があるのだなと感じた。
午後は駄文書きをしながら過ごす。たまに英語の勉強。脳みそが柔らかいうちにもっと英単語を覚えておくべきだった。そしてまた駄文を書きながら,いまだ心が落ち着かず,焦って空回りする自分を内省する。どこを向いていたのか,どこを向きたいのか。何を達したのか,何を達したいのか。最後の最後まで職場で空回りしていた勢いが,まだ止められないでいるのかも知れない。9年間の空回りを1,2ヶ月で止めるのは難しいのか…。新しいペースを早く固めないといけない。
件のMLは,あれ以来,返信するタイミングを失ったまま。というのも,いい感じでちょっとした議論や情報交換が起こっているところなので,私が出て行く幕ではない感じ。返信しない不義理を申し訳なくは思うが,せっかくいい感じなんだから,しばらくは放っておこう。
さてと,もう少し仕事の考え事してから,眠るとするか。
発信無し状態の意味
とあるML(メーリングリスト)で久しぶりに発言メールを発信した。MLでよく起こりうる特定人物の空回りシチュエーションに対して,疑問と提案をするメールであった。そう受け取るかどうかは人それぞれという微妙な内容だが,まあ,余計なお節介をしてみたわけである。
で,ML上で返ってきた反応に対して,今度は私からのメールを発信すべきだと思うが,少し意地悪な私は私の考えをこちらに先に書いてしまおうと思うのである。その意図するところを理解してもらえれば有り難いが,決してふざけているわけではなく,いろんな意味でお互いが望む結果に近づくことが出来るのではないかという可能性を期待しての選択であることを信じていただきたい。たぶん名前を検索して,ここにもたどり着いてくださっていると思うので,こちらで説明できることは,こちらでやってしまおうと思う。
今回私が何を疑問に感じ提案をしたかというと,このところMLで,ある人の発信が量・内容とも一方的になっており,そのことが気になったので,MLの発信スタイルとしていかがなものかと疑問を呈し,もう少し工夫されたらどうかと提案したのである。ありがちなシチュエーションに,余計なお節介。多くの皆さんにも経験があり,ピンと来るものだと思う。
MLというものに人々が何を期待して登録をしているのか,あるいは実際にどのように活用しているのか,様々だと思う。MLの設置目的や規模,運営の仕方もいろいろだ。だから,その使い方というものに唯一の正解はないし,別の言い方をすれば,様々な目的と利用実態が共存できるという特徴がMLにはある,とも言える。
MLの「正しい使い方」がこうだから,あなたのそれは間違っていると指摘したかったわけではない。けれども,あなたが期待している反応を得るためには,MLへの発信スタイルに調整を加えた方がよいのではないか。そうでない状態を続けている状況を眺めていると,少し気の毒になる気持ちも出てくるし,そしていよいよ気の毒な気持ちを通り越して,どうしてアプローチを変える努力をされないで他者の反応ばかり期待されるのか懐疑的になってくるし,そろそろ不快にも感じ始めたのである。
その方は,とても律儀な方なので,こういった反応について丁寧に心理分析を加えて,変化への拒否反応であること等の可能性を指摘してくれるのだけれども,それもまた,私にとってはあんまり嬉しくない話である。また,私の過去の発言から,ああこの人は大学関係者だったのかと判明すると,「学会」とか「圧力」みたいな言葉と憶測も出てくるに至って,なんか研究の世界ってそんなに「権威ぶってる?」と,とても悲しい気分にもなる。というか,思うにそんな指摘や憶測は一般的に失礼である。
ただ,もう「一般的に」という言葉がどこかへ吹っ飛んじゃったようなメディアであることは,先に「様々な目的と利用実態が共存できる」という特徴から考えてもあり得る話なので,嬉しくない話も悲しい気分も「そりゃアンタの勝手な感情だ」となってやりにくい。だから,ML上で直接このことを指摘するのは避けることになる。それは私が提起した事柄とは違う話でもあるからだ。
600名以上の登録者を集めているMLに私が登録していられるのは何故か。600名もいれば,異なる考え方で相容れないだけでなく,関係を持つことすら拒まれる相手もいるかも知れない。それでも同じMLに登録できるのは,実はMLが情報発信するために繋がっているメディアだからではなく,情報発信が無い状態で繋がっていられるメディアだからであると考えられる。
立場を変えて表現しただけに思えるかも知れないが,この観点は大事なのである。当然「情報発信がない」は「情報発信がある」という可能状態を前提にしている。つまり表裏一体の関係。そのどちらの状態が定常的になるのか,あるいはどんな周期で波がやってくるのかは,もちろんML毎に異なる。
私にとってML登録者の過半数が,仮に性格的にも思想的にも,まして生理的にも相容れなかったとしても,MLで「発信しない」状態があるからこそ共存できるのである。また「発信する」状態があっても,それは許せる頻度や程度であり,「発信しない」状態に戻ることを前提するからこそ登録を継続することが出来る。それがMLの特性に対する「一つ」の理解である。
だから,この「一つ」の理解からすれば,もしも長期的に連続的に何かを情報発信したいということになれば,他に適したメディアが存在するし,それらを組み合わせて利用し,MLの使い方を調整した方がより望ましいのではないかという提案も可能である。そしてそう提案してみた。
実のところ,私がMLで返信をしていないのは,たまたまタイミングがそうなっただけだが,一方で意図的に時間を置くためもある。もちろん,「意図的」と書くと相手が不快に感じることもあるだろう。誠実さが足りないと思われるかも知れないし,自分を優勢にするための作為があると思われて変に敵意を持たれてしまうかも知れない。だから余計な感情を生みたくなければ,本来は「書かなくても(発信しないでも)いい」話である。それでもそう書いたのは,私がすぐに返信しないことで起こる出来事を見ていただきたいということでもある。
私が1通発言したことでご本人から返ってきたメール数は6通。追補や自己レスもあるとはいえ,もう少し落ち着いて返信をいただければ数通で済むと思う。
しばらくして,オーディエンスの中から幾人かの方が自分の考えを披露された。私とはまた異なるバランス感覚でご意見を表明されているので,MLにはいろんな人々が登録しているのだということをあらためて確認できる。
つまりこういう事なのである。もしも自分の投げかけた話題についてオーディエンスの中から発言して欲しいならば,オーディエンスを意識した「内容」を発信し,参加する「間」を用意する(発信しないで待つ)ことも,一つの方法だということ。待ってもダメなときはある。ならば,もう少し内容を工夫して,間を開けてから再度投げかければいい。相手に余裕を与え,自分にも余裕を与えるということが有効なときもある,ということである。
もしも対話というものをMLに期待するというならば,そうした発信の工夫をする作法も心得たい。それだけのことだ。
しかし,再度確認すれば,それは「私の考え」であり,また「必ずうまくいくやり方」というわけでもない。だから,連続的に発言して,オーディエンスに対して発言を促すという方法も「有り」だし,発言を継続することでいつしか重い腰を上げて相手をしてくれる人を待ち続けるというアプローチが「成功する」かもしれない。
だから,私がご本人に聞きたかったことは簡単で,「私なりに上手いやり方があると思いますが,あなたはそのやり方をとる余裕がありますか。それとも従来通りのやり方に固執して連続的な発言を続けられるのですか」ということなのだ。
「ご意見了解した。それも一考に値する工夫なので,やってみよう」となれば,私にとってはハッピーだし,もしかしたら相手にとってもハッピーになるかも知れない。それが私の一番の目標。
「ご意見は拝聴した。でも私は連続発言が効果的と考えるので続ける」ということで,現状に変化が見られないのであれば,それは仕方ない。私がそれを了解して,私の側で対処することを考えるまでのことである。気にしないように努めるとか,メールソフトの機能を活用するとか,ML自体を退会するとか,選択肢はまだ残っている。それでもとりあえずハッピーになる。
私にしてみると,ハッピーでないのは,話がこじれることである。私は相手を非難したいわけでも攻撃したいわけでもない。まして相手の発言を阻止したり排除したいというわけでは決してない。単に,私が自分の行動をどうするか決めるために情報を得たかっただけである。
ただ,そのためにはいろいろな関門をくぐらなければならない。「逃げるためじゃないのか」とか「きっと問題意識が薄い人間なんだ」とか「発言が邪魔になったんだ」とか「圧力があって潰そうとしている」とか「この程度も我慢できない人なんだ」とか「底浅っ!」とか,きっと様々に心理分析されたり,推測されたりするんだろう。過去の発言をさかのぼったり,インターネットで検索して,私がどんな人間でどんな考えをしているのか詮索されたりもするだろう。もしやりとりがうまくいかなければ,どちらかが捨て台詞を書くか,そのままフェードアウトして気まずい空気のままで喧嘩別れをするかも知れない。それらはどれも,あまりハッピーな事とはいえない。
ただ,必要があれば,私は悪者を引き受けても構わない。このまま返信しないでMLが穏やかに進むならば,「返信しなかった輩」として評価されても何も困らない。MLが多様性のもとにあるメディアというならば,私の今回の役柄が「卑怯な奴」だったとしても何の不思議もないのである。問題は,そういう結末を,別の機会に持ち出そうとして話をややこしくすることである(それが必要な場合もあるとは思うが…)。
「律儀なあなた」と「卑怯なわたし」がオーディエンスの前で仲良く手を取り合って事態解決という構図は,具体的にどんな形のことを指すのか正直イメージが難しい。もしかしたら,振り上げた拳を下ろすことなく,先に幕を下ろすことの方が良い場合だってある。そしてもっと大事だと考える事の方へエネルギーを注いだ方が生産的ではないだろうか。
それが私がいま考えていることだし,そうなるかどうかは別として,その可能性について相手にも了解しておいて欲しいと思うのである。もっとも,ここに書いてあることを相手が読むのかどうか,読んだからといって了承するかどうか,了承しても実行するかどうかはまったくわからない。どっちにしても意地悪な私は,ちょっと違った方法を使って事態を再利用している。どちらかといえばオーディエンス志向の行動原理を持つ人間なのであった。小泉さんみたいに劇場型でごめんね。
雨の四谷
前の職場からお客様。久しぶりに夕食とお酒をご一緒した。このところお酒を飲む機会がほとんど無かったので,思いの外酔ってしまった。東京・四谷にある小さなお店で大将や隣の客も巻き込んで賑やかに過ごした。
ポッドキャスティングがなかなか再開できないが,また準備をしたいと思う。ポッドキャスティング繋がりで気になる記事「ポッド・キャスティング,番組単位での許諾が可能に—JASRACの活動報告より」。著作権許諾の方法に選択肢が増えるのはいいことだ。まだ詳細を見ていないので,CDの曲をそのまま流せるのかどうかはわからないが,可能になれば,あとは金額の問題かな。
それから,YouTubeネタを書いていて,「ブッシュ大統領が夕食会で披露したジョークを見てみたいなぁ」と思ったら,都合よくその出来事自体を取り上げたコラムが掲載された。クリントン元大統領がつくったショートムービーまで紹介されていて,ちょっと嬉しかった。楽しむ限りにおいては,小難しい心配は吹っ飛んじゃうんだけど。
本当のタグがない情報群
Googleという検索サイトの関連本が書店の一角を賑やかにしているが,世界トップであるこの検索サービスも日本での利用率はYahoo!に負けているというのは面白い。まあ,ソフトバンクによってほぼ日本的なサービスセンスを見せるYahoo!が日本の消費者ハートにしっくりくるのも当然だし,Googleはどうしてもサービスのローカライズ作業が目立ってしまうので取っ付きにくさが入り込む。
検索サービスと共に今話題なのは,ストレージサービス。特に動画をプールしてシェアするサービスが人気だ。たとえば「YouTube」とか「MySpace」とか「Google Video」である。特にYouTubeは外国のサービスながら,日本のユーザーからの利用時間が米国ユーザーを凌ぐと話題になった。映像系なら言語の違いはなんのそのといったところか。
動画サービスというジャンルで言えば,「iFilm」とかも知られている。あとはご存知のように動画プレイヤーソフトで有名な「Real」,ポータブルプレイヤーiPodと共にお馴染み「iTunes Music Store」を始めとして,多くのサイトで動画配信が展開している。「GyaO」は無料放送で注目を集めた。
各大学が講義内容を動画配信し始めるということも珍しくなくなってきた。もう数年すれば,それが大学の評価をする際の項目として意識的に取り込まれてくることだろう。無意識的にはすでに評価されているのかも知れない。
Nさんのブログで紹介されていたように,諸外国の映像情報の整備の成果がちらほら出ているようだ。フランスでは国立視聴覚研究所(INA)が「Archives pour tous」というテレビ・ラジオ番組の映像と音声データのアーカイブを公開した。いまは亡きブルデューの姿も見られる。
BBCが検索サービスに「The BBC Audio & Video search [“university”検索結果]」を付け加えたのも最近の動き[BBC記事]。もっとも素材データそのものは英国内でしか見られないように制限されている。BBCはもともと「BBC Motion Gallery」というサービスを展開しており,映像素材の公開には積極的であったし,どうもオンライン上で新展開を予定しているらしい[関連記事]。
こういう動きに関連して,動画映像データの配信といったリッチコンテンツをインターネット上でやりとりする動きは活発化したもののコスト負担をどうするのかという問題が議論されてもいる[関連記事]。それからBBCの動きに触発されてか(まあNHKはことある毎にBBCを取り上げて意識しているのは確かだけど),「NHKアーカイブス」に関してネット公開をするようにすべきであるという声もあちこちから強まっているようだ。どこかの記事で竹中大臣もそれが可能となるような法整備に意欲的な発言をしていたように記憶している。
で,前振りが長くなかったが,とあるページにリンクがあったのでYouTubeに登録された映像を見たのだ。YouTubeは初めてではない。このブログでもマルチタッチインターフェースをご紹介するのに利用した。けれども,こういう洗濯物をぶち込むような状態になりやすいサービスには用がない限り近づかないという癖がついているので,正直なところ気にはしててもほとんど利用していない。
だから,こうしてたまにリンクをたどって見る程度になるのだが,そこでやっぱり驚いた。遠慮無くテレビ映像が登録されて公開されている。いや,別にそういう映像自体は従来までも隠れたサイトにたくさんあったことは知っている。けれどもそれは感覚的にはゴミの山の中にビデオテープが捨てられているという感覚にも近く,たまたま拾って見ちゃった感でまだ許せた。
けれどもYouTubeにしてもどこにしても,これらはシェア(共有)が前提で,登録ユーザーから登録日時,視聴数までカウントして,検索されるようにストックされているのである。それは魅力的なツールだとは思うし,自分にも映像公開のニーズが発生したときには活用することになるだろう事は予想できる。だから,ここでわざとらしく「驚い」ちゃっているのは,「とりあえず登録しちゃえ,面白いから」という透けて見える動機でたくさんの映像が登録されちゃっていることなのである。
要するに私が懸念しているのは,そういう動機や調子のもとで登録されていく映像には,まともな背景情報がまったく付与されない傾向があるということである。もちろん著作者権利への想像力のなさを嘆くのもそうなのだが,それは専門家に頑張ってもらうとして,教育の問題に引っ張ってくれば,情報にタグ情報を適切につけるということが,どれだけ大切なことなのかをもっと意識すべきだということなのである。
悲しいかな,インターネットは接触できる情報を増やしたものの,情報絶対量があるラインから増えなくなるという対数曲線みたいな性質がある。こうなってしまうと,実は知りたいことがほとんど得られないという状態で固定してしまうのである。
もしも同時代の事柄に関しての情報なら,自分の知識が不足分を補うかも知れない。途切れた検索の糸を記憶の断片で繋げていけるかも知れない。でも,何十年後に情報を検索した人間には,そういう予備知識や周辺情報がないかも知れない。そうなると,ある情報に関する検索の糸は,いとも簡単に切れてしまいかねない。
だから,映像一つ登録するにも,それが「どこで」「いつ」収録されたものなのかぐらいはタグ情報で付け加えないと,あとで苦労するのは私たちの子ども達やその他の世界の人々(他者)なのである。そうでないと,登録日なんかの情報があるので,それが収録日や映像そのものの中身の日時と「イコール」なのかどうなのかで悩まないといけなくなる。
そういう配慮や想像力もなく,どんどん映像が登録されていく勢いに「驚く」し,まあ,この「オマエのものはオレのもの,オレのものはオレのもの」というジャイアン的アメリカの著作権利意識のうえに成り立つサービスが,最終的にみんなをハッピーにするならそれでもいいのかも知れない。けれども,教育という文脈にとっては問題だけ残された感じがしてなんだかいや〜な気分なのである。
TOEFL
TOEFLを受験することにした。TOEFLといえば留学予定者が受験することで有名な英語試験のことである。長らくその名は聞いていたものの,縁遠きものとして追いやっていたが,とうとう取り組む時期がきたとは…。
毎度,何の準備もしないで「ぶっつけ本番」というのが我ながら呆れるが,思い立ったものは仕様がない。試験について調べて,申し込みをし,受験勉強をしている次第である。ちょっと泣きそうである。
TOEFLは世界のあちこちで受験できる。そして時代に沿うように試験方式や内容も進化し多様化している。それを象徴するのが,ペーパーテスト(PBT),コンピュータテスト(CBT)という2つの試験方法だ。いまや指定の試験会場に設置されているコンピュータの画面上で試験を受験するコンピュータテスト方式が主流だが,世界の様々な条件に対応するためにペーパーテスト方式も残されている。この2つは方式だけでなく点数計算法も異なるのだが,比較のための換算方法があるといった風なのである。
で,実はTOEFLはここ数年でさらに進化をしており,次世代コンピュータテスト(iBT)というものへ移行している。次世代方式では,スピーキングの試験が新たに導入されるとして注目を集めている。試験実施国によってiBTへの移行時期は異なるが,いよいよ日本も2006年6月に開始するようだ。
って,来月じゃんか,おい。ということは今月でCBTが終わって,来月からはiBTしか受験できないということになる。なんか「共通一次試験」から「センター試験」に変わるみたいな話だが(なつかし〜),TOEFLの変化は大きい。
受験手続き自体はとても簡単。コンピュータテスト会場施設は大都市に用意されている(でも名古屋にはなかった)ので,最寄りの会場の試験日程の中から都合のよい日を予約すればいい。そのままクレジットカード決済で試験の申し込み手続きが完了する。140ドル也。試験日程は,ほぼ毎日。さすがは世界規模で多数の受験者をさばく試験である。ただし,同じ人は毎月1回ずつしか受験できない。同月内に複数回の受験は認められていない。
ちなみに,ペーパーテストはあらかじめ日程が決まっているので確認する必要がある。もっとも,余程の理由がない限りは,コンピュータテストで受験するのが当たり前になっているようだ。
申し込みの簡便さの一方で,試験の内容はなかなか手強い。4時間の試験時間に,「リスニング」「文法」「英作文」「英文読解」の問題をこなす。iBTになると文法が「スピーキング」に置き換わる(文法は英作文などでカバーする)。ほぼ満遍なく英語の力が試されるということになる。それから出題形式に慣れる必要があるだろう。初めての人は,そういうところにも気をつける必要がある。なにしろ時間制限内に,コンピュータ操作を求められるのだから,使い方に勘違いがあると点数にも響く。なにしろ問題進行は一方通行がほとんど。後戻りで修正が難しい。
たぶん,目も当てられない点数になろうかとは思うが,新たな試みはまだまだ続く。