教育現場にコンピュータを整備する歴史の中で,1986年に通産省(現在の経済産業省)と文部省(現在の文部科学省)が共に管轄する団体として設立したのがCEC(コンピュータ教育開発センター)である。
このCECは「100校プロジェクト」であるとか「Eスクエア」という名称の事業を展開し,その成果を世に問うてきた。そうした成果報告会が継続されて,「教育の情報化」推進フォーラムとなっているわけである。
—
今回,企画内容に「21世紀型コミュニケーション力」とか「一人一台の情報端末」とか「デジタル教科書」とかのキーワードが並んでいたので参加することにした。
相変わらず,直前まで宿も確保せず,ふらっとお忍び感覚で出かける。
もっともTwitterでは全開で中継をしていたので,私が東京のお台場に居ることは世界中が知るところになっているわけで,おかげでいろんな人から声も掛けていただけた。
—
学校現場からの実践報告は,様々な取組みから勉強させてもらうことが出来た。教育の情報化推進のためには,こうした細かい事例の蓄積も大事である。個別の善し悪しも,時間が許す限りじっくり検討できればなおよいと思う。
—
事業報告「21世紀型コミュニケーション力の育成」は,なかなか興味深い内容だった。
昨今「コミュニケーション力が大事」と盛んに言われているが,具体的にどのような力をつけるのか,どのように指導するのか,といったことが整理されていたとはいえなかった。
報告された事業は,学習指導要領にある言語活動の中に21世紀型コミュニケーション力が含まれるであろうという考えのもとで,小学校から中学校にかけてつけるべき能力を整理し,指導指針を示そうという試みである。
21世紀型コミュニケーション力とはどのようなものか。
今回の報告は「交流」「対話」「討論」「説得・納得」という段階に整理することで指導を組み立てようとしている。
個人的には多少,段階のネーミングに落ち着かないが,,整理した内容自体は子どもたちの実態を踏まえたオーソドックスな内容であり,また義務教育段階が押さえるべきコミュニケーション力としても妥当なものと感じた。
しかし,何が「21世紀型」なのかは,残念ながら明確ではない。
たとえば,最後の段階である「説得・納得」には「相手を説き伏せる」という文言が含まれているが,これでは20世紀型と言われても違和感が無い。より妥当性の高い説明や理解を求めるという一種の正解主義的なアプローチと勘違いする危険も残る。
発刊された報告書には,この点についての理論的な検討はほとんど記述されておらず,基本的には学習指導要領にもとづく理論構築に終始している。
何が21世紀型なのかは様々な議論があるが,たとえば教育心理学の世界では「知識構築型アーギュメント」という用語が登場している。
捉え方によっては,知識構築型アーギュメントもより妥当な提案を求めているだけとも見れなくはないが,「共同体にとって価値のあるアイデアを産出し,継続的に改善すること」という定義からすれば,協調的なレベルを最終段階で(再度)重視することだと考えられなくもない。
ただ,義務教育段階を対象とする限り,21世紀型で特徴的なことを明確に言語活動の指導事項として起こすことは難しい。それは中等教育段階に期待されるところであろう。
—
報告「児童生徒一人一台の情報端末による教育に向けて」は,東日本地域におけるフューチャースクール推進事業の成果にもとづいたものである。
東日本地域の事業推進体制は,研究者チームによる全体会が事業と研究をしっかりと掌握しているため,早くから実践事例を集約し整理するなどの成果を発信している。
この点について西日本地域は異なる体制のため,事業と研究を事業者(シンクタンク)が担っており,研究者は助言を伝える役割でしかない。それぞれの実証現場で得られた知見を十分発信することができない歯がゆさがある。
(私がTwitterやブログでゲリラ的に情報発信しているのは,それではダメだという考えにもとづいている。)
東日本地域の体制と情報発信は評価に値するし,敬意を表する。
報告内容は,実践を「創造」「考えや意見の共有」「協同」「提示」「情報収集」「習熟」「コミュニケーション」の7種類の活用法に整理したり,一人一台環境の具体事例の紹介であった。
一人一台環境で取り組みたいこと,つけたい学力とは何か。またこうした環境を導入する際には,劇的な変化を目指すのではなく,新しい取組みをそっと付け加えるのだということも重要であると指摘された。
—
総括パネルディスカッション「デジタル教科書のゆくえ」は,話題になっているデジタル教科書に関する動向を扱ったもの。
登壇者は,デジタル教科書に関する企業の協議会の発起人やiPadの教育利用に関する新書を書いた塾業界人,そしてデジタル教科書を開発している教科書会社の企業人の3人。
協議会発起人は,このテーマでだいぶ有名になった人で,あちこちで講演している内容とか『教育と医学』誌に書かれていた原稿とほぼ同じ。
塾業界人も,新書の内容と塾で取り組んだことの報告。iPadあるいはデジタル教科書はツールでしかないという主張は大いに賛同できるところである。
教科書会社の人は,現在開発が進行しているデジタル教科書についてや,様々な調査などを踏まえて学習の在り方やカリキュラム開発の重要性を指摘。
基本的に,三者三様の主張や報告は,それ自体異論もないし,デジタル教科書議論を追いかけてきた人間からすると新しくもない。
その後,司会者の味のある進行でフロアからの意見もたっぷりと拾うことになった。
—
さて,最初は大人しくして聴くことだけに専念しようかと考えていたのだが,やはり出てくる質問や質疑の拡散具合を聴いていて,どうしても我慢できずに発言することにしてしまった。
このままだと「様々な議論がありますが…」的なまとめで終わりかねない。
「デジタル教科書のゆくえ」と銘打ってはいるが,そのことの本当の意味を考えた上で全体の位置づけを把握してデジタル教科書を議論せず,デジタル教科書そのものだけに目を奪われては短絡的である。
三人の登壇者の発言を拾い直して,この問題がある特定のデバイスを学校教育に導入することの問題ではなく,新しい教育に取り組むための仕組みが学校教育制度に欠けているということの問題として理解することを投げ掛けた(つもり)。
これだけ社会や世界における学びが多様化しているというのに,そこから最も遠ざけられ学校教育に捕らわれた形になっているのは,他ならぬ教員である。
デジタル教科書の導入は,確かに学校教育に大きなインパクトを与え,その波風の中で教員にも新しい物事との出会いをもたらす意味で重要だとは思う。しかし,それはデジタル教科書に限った特徴ではない。デジタル教科書よりも他のものを選択した方がよい場合だってある。
どんなものだって教育的な可能性を感じたのならば,まず取り入れて試してみて知見を積み上げていくことの自由が,なぜ日本の学校現場は保証されないのであろうか。
遠い将来に,新たなツールの教育の可能性が注目されたときに,私たちはそれについてもデジタル教科書と同じように議論を繰り返してばかりで,可能性に近づくことが難しくなるのだろうか。
いまはたまたまデジタル教科書の議論になってはいるけれども,ここで私たちが考えなければならないのは,新しいツールを活用するような新しい教育に対応するための試行錯誤の自由を専門職としての教員が獲得できるように,教育の諸制度をデザインし直すことの必要性であり,そのためのコンセンサスを得ることである。
いま現職の多くを占める比較的上の世代は,あと数十年のうちに現場からいなくなってしまう。そのとき,残された下の世代が新しい取組みにも柔軟に対応できるよう,いまから置き土産のように準備しておかなくてはならない。
これは現職の教員の問題ではない。将来の教員の問題なのである。
—
というようなことを話したのかどうなのか…。自分が発言したわりには忘れっぽいこともあって,だいぶ話が膨らんじゃったのかも知れないが,とにかく,こんな調子のことをしゃべったと思う。
幸い,司会のAK先生の最後のまとめが素晴らしかったので,私の中途半端な演説の記憶は聴衆の心の中からキレイに洗い流されただろうからホッとしている。
—
そのあとはマイタウンマップコンクールの授賞式を見学してから,一人で東京の街に繰り出し,唐揚げ食べたり,ジュンク堂に捕らわれたりしていた。
なかなか楽しい東京滞在だった。