月別アーカイブ: 2007年5月

DSを買った

 駄文が硬直化して,遠回りできていないことは分かっている。面白味が感じられない。政局を気にすることも大事とはいえ,どうしても嘆き節になる。そういう調子は,もう閑却してしまおう。駄文らしくない。
 だからといって楽しい話題があるわけでもない。先日,ニンテンドーDSを買ったという話題が明るいかどうか…。京都府の中学校がDSを使った英単語学習の効果として,中学三年生の語彙が4割前後増したと報告した。それに触発されたわけではないのだが,そろそろこのデバイスを触れてみたかった。
 ははは,なるほどなぁ。ゲーム&ウォッチを思い出した。大人の手には付属のスタイラスペンは短いが,周辺メーカーがいろいろなオプションを販売しているので,持ちやすいペンを別に購入すればいい。それにしてもペン入力の親しみやすさは体験すると気持ちいい。
 改めてDS向けにリリースされているソフトの種類に驚く。プラットホームとしての出来の良さ(二画面やペン入力,無線LAN内蔵など)もさることながら,その普及率の高さが単なるゲーム機以上の可能性をもたらしているのだろう。

 DSは買ってみたものの,幸い,ゲームをしてみたいという衝動は起こっていない。とっくの昔にTVゲームは卒業したファミコン第一世代。興味はパソコンやインターネットに移ったし,それさえ不健康だと思うようになったから,やはり私はアナログな人間だと思う。
 パソコンなんてね,道具としてちゃっちゃと動いて,人間の邪魔をしないことが大事。シンプルな道具性を,気持ちよさを伴って提供できるかどうかが問われるのだと思う。そういう意味ではDSってなかなかシンプルだし,手書きの気持ちよさを活かせる面白いデバイスである。

財政制度等審議会 資料

 文部科学省に,中央教育審議会のような審議会がいろいろあるように,他の省庁にも,いろんな審議会がある。教育に対してケチなばっかりで,ちっともいい顔してくれない財務省には,財政制度等審議会というものがある。
 2007年5月21日の財政制度等審議会 財政制度分科会 財政構造改革部会で配布された資料「文教予算関係説明資料」は,財務省側のスタンスから見た文教予算の大変興味深い資料である。
 財務省主計局は,開口一番「単に対GDP比のみをもって教育予算を国際比較するのは不適切」と斬ったかと思えば,続けて「生徒一人当たりの公教育費支出や,一人当たりの教職員数が大幅に充実したにもかかわらず教育を巡る状況が深刻化していることが,真の問題」と断言し,「教育予算の額を伸ばせば,あるいは教員の数を増やせば教育が良くなるということではなく,教育予算のメリハリ付けを徹底し,予算の中身の充実,助成・配分方法の見直しが重要」と予防線を張り巡らすのである。
 いやはや,サイフを握っている人はいつでも強気である。

 財務省の人々の根性は,これはこれで真っ当で,決して潤沢とはいえない(むしろ破綻状態にも近いという見方もあるような)財政状況のもと,国家(限りなく自分たち官僚制度とイコールなのだろうが)を維持するため努力しているわけだ。ある意味,立場に忠実に働いていらっしゃるのだと思う。
 それでも文教予算に対して,このような敵対的ともいえる方針を貫くのは,もとはといえば教育に対して本気で金出す気のない政治家連中が作り上げた財政構造にある。そして,今回の教育再生云々の動きが政権の最優先課題と言われているにもかかわらず,各方面からホラ吹き呼ばわり・文句タラタラなのは,文教予算軽視の財政構造を変えようと本気で闘いもせず,ほったらかしにしているからに他ならない。
 要するに今回の財政制度等審議会・配付資料は,そういう現政権の最優先課題のハリボテぶりを示す証左であり,教育再生云々の議論が目くらまし,ミスディレクションに使われていることを再確認させる。
 改めて,お金に始まりお金に終わることが世間の常識だと痛感する。

 財務省主計局の言い分は,金勘定の上ではなるほど精緻で理屈に合う話ではあるが,教育論的には極めて横暴な議論である。たとえば苅谷剛彦氏が提示した「標準法の世界とパーヘッド世界」(関連駄文)に関する議論を考えてみても,一人当たりの教育予算や教員数が数値上増加したからといって,全国隅々に存在する公教育を(たとえ減らすにしても)維持し,かつ充実させることは簡単なことではない。その「真の問題」とやらの難しさを,彼らは(書いていながら)分かっちゃいないのである(だって,それが仕事じゃないし…)。
 役人は,自分の思いや考えで文章や資料を作成はしない。だから,こういう資料が配付され公表されるというのは,それがこの国の方向性として合意を得ているからである。
 あなたが,この財務省の資料を見たり,この資料にもとづく新聞記事を見て「財務省って酷いなぁ」と思ったとしても,それは感想のレベルとしてはよいとしても,本気でそんなことを考えたりしてはいけない。
 文教予算,つまり教育予算にお金を回さないのは,私たち国民がそう認めてきたからであり,総理大臣以下,閣僚や政治家たちを通して,官僚にそうさせてきたからである。
 もしもそれを変えたければ,私たちは基本に戻って望ましいと思う選択をする他ない。

東京大学大学院にいらっしゃい

 東京大学大学院学際情報学府では5月19日(土)に入試説明会を開催します(告知ページ)。私も昨年,この説明会に参加して慌ただしく受験準備をした思い出があります。
 東京大学に入るのとは少し違って,東京大学大学院ですので,研究に対する強い意欲をお持ちの方に対して,門戸は広く開かれていると思います。ご興味のある方は,是非お越しください。
 特に来年度から新しい学舎「福武ホール」の利用が始まり,学際情報学府の大学院生にとって利用しやすい居場所ができることになります。新しい施設で大学院生活をスタートさせるチャンスです。

 学際情報学府は,理系文系分野が「情報学」というキーワードで繋がれた学際的な研究科です。文理それぞれに自らの領域を深めている人たちもいれば,学際的領域で広い視野を取り込んだ研究を進めている人たちもいます。
 それゆえ,学際情報学府について知るためには,どんな先生方がいて,それぞれの研究室がどんな研究に関心を持っているのかを知る必要があります。説明会プログラム最後にある「学環・学府めぐり」では,研究室単位で教官と大学院生が皆様に取り組んでいることを知ってもらえるように簡単なプレゼンを準備しています。気軽に覗いていただければと思います。

 ちなみに私が所属しているのは文化・人間情報学コースの山内(祐平)研究室です。山内研究室と連携している研究室として中原(淳)研究室もあります。所属メンバーの研究テーマは多様ですが,「教育」や「学習」というキーワードに少しでも関係しそうであれば,ご一緒できる可能性があると思います。
 この機会に東京大学大学院にいらっしゃいませ。

能鑑賞

 能鑑賞に誘われた。テレビのチャネルを変える過程でチラッと見るのを除けば,能を見た経験はなかったので,今回能に接するよいチャンスをもらったことになる。
 少々遅刻をしてたどり着いた国立能楽堂は千駄ケ谷駅の近くにある。本日の演目は狂言「飛越」と能「須磨源氏」だそうだ。
 能というと独特なテンポでセリフをまわしていくうえに,眠たくなるというイメージがある。実際,途中何度か意識を失った。いやはや,昔の人はあれだけ間延びしたようなセリフを聞いて内容がわかったんだろうか。
 けれども、実は能は途中で眠ってもよいのだという。もともとこの世とあの世が混ざり合うような内容のもので,あの独自な調子も,実は観ている者をそうした世の往復へ誘うためだという(私の理解が正しければ…)。
 そんなわけで,存分にトリップしながら能を楽しませていただいた。どちらかというと途中から観た狂言の方が面白そうではあった。楽器も何もないセリフだけの短い演目である分,その調子が面白く感じられた。

 今回の能鑑賞は海外からの来賓の観光に便乗したもの。英国ブライトン大学のAvril Loveless教授が,札幌で行われる日本教育工学会研究会で特別講演をするために来日している。
 以前からいろんな先生方が「アブリルさん」「アブリルさん」とブログに書いたり口にしていたので,そういう方がいらっしゃるのはわかっていたが,英国まで出かけた1月にも会うことはなかったので,今回初めてお会いすることになった。とてもほっそりとして優しそうな英国女性。私の拙い英語にも笑顔で接してくださった。
 今回の観光や講演の通訳には関西大学大学院の岸さんが活躍されている。英語も堪能だが,「アラビア語の通訳ならもっとできます」という強者である。学会などでよくお会いするようになったが,その才能の欠片でもわけて欲しいと思う。
 能の「序破急」の構成について岸さんが英語でいろいろ説明するのに難儀する中で,「破」の部分に対するアブリルさんの理解がパッと明るくなったのは面白い状況だった。同じワールドにおける異なるディメンションの混在がもたらす「破」の状況設定について,日本の映画を理解するのにも興味深い解釈を得たみたいだった。
 さまざまな言語におけるライティングの論旨展開について,英語は直線で日本語は螺旋だという有名な対比があるが,それにも通じるものがあるのだろう。

 能は長さが約80分で,物語は大変シンプルである。シンプルゆえに意識は遠のくが,その遠のきこそに能の神髄があり,そして演目が終わり舞台から演者が誰もいなくなった「無」によって完結するところなどは,「シンプル」という片仮名語を使うことを拒む,むしろ「洗練」された日本芸能文化の極みを見るべきなのだろう。
 また機会があったら行きたいと思った。

企業と付き合う

 東京に出てきて,自分を取り巻く状況で変ったことはいろいろある。分かりやすいところでは,いくつかの企業とお仕事をするようになったことである。その事には,メリットもあれば,デメリットもある。今のところ深刻なデメリットはない。むしろ今後の教育世界を考えれば,教育のことを考えてくれる企業と関係することは,とても大事なことだと思う。

 「教育或いは学校は,企業と関係を関係を持たない」ことが定常状態か理想だと考えられている節が,社会通念みたいなところにある。組織目的の違いもあって相容れない部分は多いし,日本の様々な法律が「特定の」何かのためにする活動やら何やらを禁じていることもあって,学校が営利を目的とする私企業と距離を置いているのは確かである。
 けれども現実に,教育や学校は深く社会に根ざしているがゆえに,企業との関係を古くから維持してきたことは明白である。私立学校の中には,その設立から企業が深く関わっているものもある。公立学校も対価を払い,教科書や学校の備品は一般の私企業から供給してもらっている。それぞれの家庭は,必要と判断して自費で私塾に子どもを通わせているところもあろう。
 もし教育に企業が関わらないのであれば,私たちは今日普通に運営している教育活動を実現することはできない。まずはその大前提について再認識をしたい。

 その上で,なぜ私たちは,企業が教育の領域に関わることに一瞬の抵抗感や違和感を抱くのだろう。その心性は,どんな事柄を原因として成り立っているのだろう。
 教育に対し企業が関わることが必須であるのに,そのことに戸惑いを感じるとしたら,それは実際の「関わり方とその目的」に何かしら不安を感じるからかも知れない。適正に関わる分には問題とならないのに,場合によって不安を抱くとすれば,それは教育の本来的な目的から外れた「関わり方」や「関わりの目的」の可能性を心配するからではないだろうか。
 そもそも企業が活動するフィールドは資本主義原理を基盤としている。企業活動の目的は,株式会社の場合であれば,利益を上げて出資者に配当することである。もちろん単に念じていてもお金は入ってこないため,企業は活動の目的やら内容を明確化して,それに従って実際の経済活動することを通して利益を上げる必要がある。
 企業の経済活動は,特定の株主や社員の利益を目的とした「営利」活動と見なされる。一方,たとえば義務教育であれば,全ての国民が無償で等しく受ける権利を持つものという「非営利・平等」さが前提とされている。教育の世界では「特定の誰かが得をしちゃいけない」という理念が根強いわけである。このことが,教育における企業との関係性を遠く隔てる元凶になっている。
 けれども,教育も企業も社会の構成主体である以上,関係を持たないわけにはいかない。そもそも営利活動と非営利・平等とが共存できないわけではない。両者の目的が互いに脅かされない限りにおいて,組織形態の違いを超えた連携はむしろ妥当な社会活動として奨励されるべきである。それが私たちの住む「社会」という場である。今日,企業の社会貢献活動が重要視されているのも,その事を再認識した現れである。
 そのような共存において「互いの目的が阻害されない」ためにも,教育の側は企業の活動を幅広く観察しかつ注意深く吟味し,適切なサジェスチョンを与える術を持つべきである。また企業側も教育活動の本質を理解した上で,教育そのものに不利益が生じないよう活動を律する倫理を持たなくてはならない。
 そのような緊張関係のもとで初めて,教育と企業の連携という言葉は意味を持ちうるし,それぞれの不安や抵抗感を取り除くことが可能になるのだと考えられる。

 前職で複数業者とやりとりをする仕事をしたことがある。業者とのつきあい方は難しい。だから,緊張感を持って臨まなければならないと心掛けていた。もちろん緩急はあったにしても,相手の提案内容に対しては別案の可能性を問いかけたり,こちらも勉強して業者の知らない情報を提供することで,お互いにダレないようにした思い出がある。

 先般行なわれた全国学力・学習状況調査に2つの業者が関わったことは,ここでもご紹介した。私はそれを糾弾するために紹介したわけではない。そこに2つの企業が関わっていることを知っておくことが大事だと思ったからである。それはそれらの企業に対して緊張感を持ってもらうためであるとともに,私たち自身が緊張感を持つために大事だと思うからである。
 今回の例だけをとって,私企業に個人情報が流れるという懸念を大きく取り上げ問題にしようとしているところもある。その取り上げ方はある意味で悪くない。互いに緊張感を持つための一つの方途になるからだ。けれども,この取り上げ方はミスディレクションを起こしてしまう意味で悪く働く。こうした企業が教育に大きく貢献している真っ当な部分を,まったく見ないまま評価を下し,そのくせサジェスチョンも対案も出さず,何もしない「ダラけた」態度に荷担するからである。
 「20世紀まではそうした態度でも通用した」と譲るにしても,今日は21世紀である。山積みの問題が悪影響を顕在化させ,世代間での利益格差も顕著になってきた時代において,こういうダラけた態度はもっとも害多きものである。
 だからこそ教育に関わる人間は,短絡的な思考に陥ることなく,自分自身の手足や頭を使って物事を見極めていく努力を怠ってはならないのである。

 私が企業の方々と仕事をするようになって,得たメリットは企業側の努力が見えるようになったことである。そこで展開するジレンマについても知るようになった。もちろん「そりゃ違うでしょ」と感じる瞬間が無い訳じゃなく,それは職業柄当然なので,それも含めて教育の目的に沿うようサジェストしていくことが私の役目だと思う。
 一方のデメリットは,駄文を書くときに配慮すべき事柄が増えたかなということである。好き勝手に書き続けている駄文であり,場合によっては過激なときもあるが,いくらかは配慮しながら書いてきたつもりである。それが,知り得た事柄について今まで以上に配慮しながら書くようになったのかも知れない。あんまり変ってないかも知れ無いけど…。
 いずれにしても,私がお会いしている方々は,それぞれが真っ当に努力し,企業活動を通して教育に貢献しようとされている。その個々人に対して,私は私なりに緊張感を持って接することが求められているのだなと考えて関わっている。
 それゆえに私自身は,自分が必要とされなくなれば関係を終わらせることについて異論はないし,仮に直接的に仕事をしなくなっても,間接的には社会の構成員の仲間として連携していくことは変らないと思っている。
 だからこそ,緊張感は絶えず持っていたいし,今後も自分のできる範囲のことで誠実に付き合えればと思うのである。まあ,振られたら傷心旅行にでも出かければいいさ。

御礼

 ポッドキャストのリスナー数が1000人を超えました。実数ではないにしても,このマイナーサイトにとって延べ1000人なんて数字は非常に大きいです。まずは怖いもの聞きたさでクリックしていただいた皆様に感謝。
 ポッドキャストの今後の展開は未定ですが,いつかは研究にもつなげられるように発展させたいです。学術研究と現場をつなげる一つのメディアになると面白いかも知れませんね。某○EATで採用してくれないかな。

新規性はどこに

 ゼミ発表が近いが準備がなかなか進まない。現実逃避行為だけ捗ってしまう。現場教師の支援につながる研究を組み立てたいものの,めぼしい部分には先行成果もあって,新規性を得るのは難しい。
 論文作成の基本が頭で分かっていても,いざ実際に取組むとなると苦労は桁違いである。手順として先行研究を漁るわけだが,すればするほど憂鬱になる。自分が思いつきそうなことは,すでに人が思いついているものだ。そう簡単に新しい課題が設定できるわけでもない。
 自分の問題意識をもっと絞り込んで焦点化していくことが迫られる。残された細かな問題に新しい課題を設定していくことで新規性を得るしかないか。あるいは,まったくちゃぶ台をひっくり返すか。さすがにちゃぶ台返しは修士でやるべきでないか。
 とりあえず自分の関心の原点に戻ってみることにする。迷ったら最初に戻ろう。

 やるべき事柄が右肩上がりで増加している。何事も挑戦と経験だと思う悪い癖のせい。落ち着け自分。

教育らくがきPodcast No.007

第7回は教育改革関連3法案などのお話。
ナントほぼ1年ぶりのポッドキャストですか。いやはやいろんなことが変化した1年でした。私も晴れて大学院生になりましたしね。そして昨年には教育基本法も改正されてしまいました。いま3法案なるものが審議されています。
久し振りの収録は,まあとにかくテキトーにやっていますので,いつも通り,こっそりお楽しみください。
← krp007_20070506.m4a (3.1MB)

皐月2日目

 GWの前半は実家に帰省。必要な書類や蔵書を東京に持っていく準備をした。休むときは休もうということで,それ以外の時間はボーッと実家で過ごした。本当にボーッとした。そしてちょっと買い物した。
 蔵書分散問題はしばらく悩み続けそうだ。大学に図書館があるとはいうものの,使いでのある文献は取り合い状態だったりもするし,手持ちに常備できる利便性には敵わない。もっとも「本に振り回されてる」と言ったのは,蔵書に埋もれて見るに堪えない部屋の惨状を呆れる母親。本当のことはいつでも耳が痛い。

 前の職場から同窓会報が送られてきていた。依頼されて書いた原稿が掲載されている。私もすっかり過去の人扱い。辞めて,東京で大学院生をしているなんて,卒業生達が読んだらビックリしているに違いない。サプライズ,サプライズ。
 もはや教え子達と再会する機会はないが,同じ時代に生きている限り,元気で頑張っていて欲しいと思う。それが教育に携わる人間が最後に拠り所とする心情だ。

 段ボールでいくらかの蔵書を郵送し,手持ちであれこれ抱えて東京に戻った。GWの平日だから名古屋の地下鉄は学校帰りの学生で溢れ,新幹線の到着した東京駅には明日からの連休後半に帰省する人々の人集り,山手線は会社帰りの人々でごった返していた。どれにも属さずに土地を移動するのは不思議な気分になる。
 いくつもの現実を眺め,それぞれに想像をめぐらし,生き方の多様性を尊重していくこと。そこには厳しさと同時に生きやすさがあらねばならないと思う。私たちの携わる教育はそれを指向しているだろうか。それに耐えうる施策を打ち出しているのだろうか。税源移譲に代表される地方分権の流れの中で,その事は共有されているだろうか。あるいは共有できるのだろうか。
 自分が取組むべき事柄の前提をどこに設定すべきか。迷いに迷うGWである。