連休中の東京出張から引き上げ,徳島に戻る。
東京では研究会の出席やら,いつもの訪問先を巡り、仕事道具や文献資料を集めて、ぶらぶらしながら情報収集。行きは鞄一つで身軽だったが,帰りは荷物が増えて移動が大変である。
懐はすっかり凍りついたので、しばらくは大人しくしたい。
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このところのお出掛けで世間の様子を見た限りでは、大震災はあったものの、その後の日々は何事もなかったように淡々と続いているといった風な感じであった。
ただ、国内の素知らぬふりはともかく、国内の繁栄は相当のコストを覚悟しない限り困難であることは共通了解事項になりつつあるし、日本自体の対外的プレゼンスはますます薄くなっていることにも異論が少ない。
こういう状況で、どちらかといえば底上げを基調として動いてきた日本の学校教育をどのように変えていくべきなのか。いわゆる新しい学力やナントカ型スキルが諸説紹介されているし、あれこれ実践事例も話題にされている。
ところが日本のように可もなく不可もなく教育を低コストで推し進めてきたような学校教育風景から、そうした議論を眺めると、「それは分かってますし実現できますよ、あなたが予算と決定権を与えてくれたらね」みたいな受け止めが現実で、それは矛先を行政や国民に振り替えてもあまり変わらないのである。
その上、この国に一番欠けているのが財源とリーダーシップだと異口同音に大合唱しているのだから、あとは限られ残されたリソースを我先に確保するか、どこからか奪うしかやれることがない。大震災関連のコスト発生は、そうした日本の現実をより分かりやすく露わにさせたともいえる。
個人的な考えでは、可能であれば日本を離れて世界の学校を渡り歩くくらいの感覚で子育てした方が良いと思っている。もっとも親の仕事に絡んで暮らす場所が自由になるわけではないので、高校生や大学生になったら留学をさせることから始めるのが現実的だろう。大震災以降、この選択肢はとりわけ重要だと考えている。
一方で、日本の学校教育に関して諦めるわけにはいかないのも事実。とはいえ、国内経済が衰退していくことを他人事のように眺めながら、学校教育だけ充実させることは難しい。そのことを念頭に起きながら方策を考えなければならない。
もう少し物事を丁寧に追っていく必要があるが,同時にそのスピードを上げなければならないから,なかなか難しくもある。
焦る気持ちはあるけれど,私は時代に漂い流されながらフィールドを渡り歩く人間。なかなか腰を据えて取り組めないのが悔しい。