広田照幸氏がインターネットに登場。こうした論考や記事が少しずつとはいえオンラインで読める時代がやってきたのだなぁと感慨深い。「いまさら遅いっ!けしからん!」と言わず,気鋭の先生方のお話を聴きますか。
NB online「広田教授の教育も,教育改革もけしからん」
ちなみに,苅谷剛彦氏のコラムも別のところで連載中である。
webちくま「この国の教育にいま,起きていること」
情報教育の分野に強い堀田達也氏のインタビュー記事も最近公開された。
ニコニコ45分「堀田先生インタビュー」
—
毎日新聞社の「教育」記事ページは,いろんなコラムや連載記事が読めるので人気があるが,この秋にマイクロソフトとの提携が解消される様子。新しいサイトに刷新される可能性が強い。
過去の記事は,そのまま移行して読めると予想しているが,何があるのかわからないのがインターネットの世界。情報はいとも簡単に消失するので,保存しておきたい記事は,今のうち確認しておこう。
月別アーカイブ: 2007年6月
道徳ってなんだ?
情報モラルに関する議論を考えるとき,対である日常モラルについても考えるべきなのだが,これを閑却してしまうことが多い。つまり道徳の授業をイメージして,了解したような感覚に浸って済ましてしまうのだ。
Yahoo!ニュースの意識調査「日本の教育が最初に取り戻すべきものは?」は,誰が答えているのか母集団がわからないという欠点はあるものの,世間の考えの一端を覗ける。学力やゆとり,教師の指導力などの選択肢の中,現時点で一位は「道徳」だという。
道徳を取り戻す?それはなんだろう。
—
このような意識調査アンケートで「道徳」を選んだ人たちの心理を想像してみると,いつの世にも嘆かわしく取り上げられるモラル低下や一般常識に対する無知,人々の横暴さに対する懸念を抱いているのではないか。
しかし,こういうものは日本の教育が取り戻すべきものなのか?と改めて問われたら,私はその具体的な取り戻し方や戻したときの様子を想像し難い。今以上に道徳的な教育とは何なのだろう。
—
たぶん人々が求めているのは,「道徳」的であるというよりも「謙虚」であることみたいなものではないだろうか。他者の尊重は,道徳のお題目の一つではあるが,それを意識的にも無意識的にも実践できるようになるには,どうしたらよいだろう。まさか,従来の道徳授業を拡充したり,なんとかノートの配布で事足りると思っている人はいまい。
直接的な解答にはならないかもしれないが,「道徳」をいったん捨てる必要があるかもしれない。そのかわりに「哲学」を深めてみてはどうだろう。物事に対する畏敬の念や自己への懐疑などは,日本の教育で暗黙に学ぶような事柄であった。それを哲学という形式知として触れさせてみるなら,教育に繰り込む方法は見えやすい。
—
そうなったらなったで,教育に取り戻すべきものは?という問いに対して「教師の指導力」と答えたくなる衝動は,ますます増えていくということになるかもしれない。
教師の指導力ってなんだ?そういう安易なキーワードに対する問い掛けができるかどうか。それが哲学だし,やはりこの国には,そういう素養を深める動きがまだ弱い。
どうなるのだろう
20日に教育改革関連3法が成立した。主に教師と学校と教育委員会に関する事柄で大きな変化が予想されているが,成立した枠組みの中で,最適解を求めていく試行錯誤が始まるのだろう。教育予算に何らかのプラスがあることを祈ろう。
母校から伝わってくる残念なニュース。複雑な気持ちが交錯する。端的にはショックである。
7月に発表などの宿題が集中している。あれこれやらなければ…。
学校図書館格差
今日のNHKニュースで学校図書館の問題が取り上げられていた。異なる自治体の小学校を取り上げ,一方は120万円ほどの潤沢な図書整備費で蔵書数の豊かな小学校,一方は国の基準の3割にも満たない蔵書数の小学校を紹介していた。
この蔵書数の違いが,授業における調べ学習に大きな影響を与える。同じ日本に住む子ども達にもかかわらず,蔵書の少ない小学校の子どもは「もう少し本があったら…」とインタビューに答えている。ニュース映像は,この問題の深刻さを分かりやすく見せていた。
—
このニュースを読み解く際には,いくつかのレイヤーが考えられる。学校図書館の蔵書数や図書整備の不備という問題と,それによる学習活動への影響の問題。さらに図書整備費に関して,自治体の財政格差の問題と補助金と交付金という予算配分の在り方。もっと広げれば,お馴染みの教育行政における国と地方自治の在り方も関係する。
何より,昨今の教育問題の奇妙な語り難さについても,このニュースから垣間見える。時を経て,文部科学省(旧文部省)を頂点とする教育のピラミッド行政から,地方分権によるピラミッドの分断化へ。教育問題の根源は国による行政のまずさだと吐き捨てれば批判の態をなしていた時代も終わった。
このニュースでは,文部科学省は図書整備費を増額したり,教育委員会・教育長は学校に直接予算配分する必要性を訴えたりする。何者が配分される図書整備費を消し去ってしまうのか。もはや,当事者達の中にその犯人が居らず,ただただ,その場所と時期に居合わせたことによる必然による結果に過ぎない。
もしも原因とされるものを探すとすれば,過去にさかのぼるしかない。
—
教育に関わろうとするならば,過去の歴史に学び,常に未来を指向して行動しなければならないと思う。それは必然的に未知の挑戦をすることでもある。それゆえ,過去の歴史に学ぶのだと思う。
私たちが政治家を信用しなくなったのは,彼らが過去の歴史に学んだようには見えないからである。あるいは,彼らが学んでいるものが,私たちと共有できるものではないから,ともいえる。
教育再生会議が批判されるのは,臨教審,国民会議の歴史を振り返ることも学ぶこともせず,中央教育審議会以上に都合よく利用できるお墨付き生成装置として機能している体たらくにある。
そこに私たちは自分たち自身を見てしまうのである。きっと私たちはそこに責任転嫁するだろう,そのことが分かっているからこそ,そんな分かりやすい責任転嫁先を作ってくれるなと,私たちは責任転嫁的に怒っているのである。
—
今回のニュースに関しては,全国学校図書館協議会にページに情報がある。参照されたし。
They are watching us.
今日はNEW EDUCATION EXPO2007に出席した。教育をテーマとした展示・セミナーの催事としては国内最大規模のものだと思う。今年は東京会場と大阪会場が予定され,東京会場が無事お開きとなった。
様々な企業の製品展示となると,どうしても学校管理者や教育委員会関係者といった層へのアピールが強くなりがちだ。しかし,その展示にしても,またセミナー類等は,是非とも現場でふつ〜に働く教師の皆さんに触れて見て欲しいものばかりだ。本来ならば,こうしたEXPOの場にやって来て,教育機器の最新動向を知ることも自己研修の1つとして正当に評価されるべきである。
—
今年はご縁を頂いて,最終日最終時間帯のセッションの1つに登壇させていただくことになった。頼まれると「NO」とは言えないことを見透かされて,役者の一人として「バトルセッション・これならできる!普段着のICT活用」というテーマの一部分を語ることになったのである。
本来であれば,ICT活用は整備されたICT環境のもとで,校内研修や勉強会を開き,活用ノウハウを共有しなければならないということをシンプルに語るだけでよかった。
ところが語っているうちに火が付いて,「この国の教員をバックアップするしくみはあまりに乏しい」と話を膨らませちゃったから,さあ大変。どうも熱く語っているうちに「New Education Expoに来ているのは毎回一部の人達。来てない人達にこそ届くべきだ」とかなんとか,主催者を苦笑いさせてたらしい。
ああ,やらかしてしまいました。
—
そんなことがあると「人の心を扇動(アジテイション)することを安易に行なってはならない」と少し自己反省。周りをその気にさせることは悪ではない。とはいえ,研究者という立場を取るのであれば,それは研究成果をもって代えなければならないと肝に銘じるのも倫理の1つ。
今回はバトルセッションの登壇であるから,登壇者としてのパフォーマンスだと,聴衆に割り切ってもらうしかない。
セッションが終わり,幾人かの方々からご挨拶を頂いた。意外と好意を持って受け止められたみたいだった。皆様に感謝しつつ,またここから自分なりの模索を始めるしかない。
—
今後,地方主体の時代が本格化する中で,全国の教師をバックアップするしくみはどう保証されるのか,まるっきり展望は示されていない。もちろんすでに国立教育政策研究所が中心となって提供しているものがあるにはある。けれども,ご覧頂ければ分かるが,魂込めて生きた情報提供活動を維持しているとはいえない。先輩諸氏には悪いが,カリキュラムというものを単純なデータベースのみでしか捉えられていない,本質理解への努力を欠いた造形物に終わっていると思う。終わっていないというなら,動き続けて欲しいものだ。
私たち大人は,若い世代や子ども達から常にその言動を見られているのだと,意識しなければならないと思う。最近は,どこぞの会議の人間も似たような言葉を語っているが,そう言う自分たちの言動の矛盾や不整合こそ批判の対象として見られていることに,もっと自覚的になっていただきたいものだ。そうやって私たちは信任を得られなくなってきているのだから。
彼ら(子ども達)は私たちのことを見ている。ほとんどが大人ばかりのEXPOの場で,そのことを考えることは,案外大事なことではないのかと思った。
水無月8日目
なかなか更新もできず(いや実際には何度も試みようとしていくつも下書きを書き出していたけれども書き上げるには至らず),日付はいつの間にか6月。有り難いことに,賑やかな毎日を過ごせている。
大学院生ゆえに履修すべき単位もあって,今年1年はそれが結構ある。そして今週はゼミでの定期研究発表の担当。先行研究のレビューが宿題だったので,その進捗を報告しなければならなかった。さらに院生として研究プロジェクトを手伝うものと,研究者の端くれとして共同研究する仕事の定例会など,「賑やか」との表現に値する日々なのである。
—
それにしても先行研究のレビューをやり始めて,この10数年に起こった研究環境の劇的変化に正直,面食らっている。いやはや世界は変りました。
10年前に教育学の修士論文を書いたときには,先行研究や文献検索は図書館に出かけて,図書索引カードをめくるか,ぼちぼちweb化された検索端末で検索をするくらい。それも大概は書籍単位までで,論文単位での検索方法は統一されていなかった。だから大学図書館の理想は,蔵書が1カ所にまとめられていて,よく整理された書棚の前を闊歩して,資料を渉猟できることだった。資料との出会いさえロマンスになりうる,そんな世界の延長線上だった。
その後,webはさらに普及し,googleの登場で象徴される検索の時代が到来。私たちが当時ERICでかろうじて体感した論文検索の世界が,とうとう日本でもCiNiiによって可能になったのである。
キーワード打ち込んだら関連する論文タイトルがずらずら出てくる。このなんてことはなさそうな作業は,理系畑の人々にとってはともかく,文系畑にとっては衝撃的である。なにしろ,公開処理された論文はPDFファイルとしてそのまま表示され,図書館いらずになってしまった。大学図書館のスペースに蔵書を集める苦労をせずとも,webのボタンから中身を確認できるようにするだけでよいのである。資料との出会いはマッチングシステムでもたらされる,そんな世界になった。
そのことで先行研究をさらう作業が飛躍的に楽になったかというと,そういう面もある一方で,検索して出てくる何千件ものタイトルを1つ1つ精査なり吟味していく作業が必要になってきた。キーワードによる検索は必ずしも万全ではないし,無関係なものや分野違いも含まれる。注意深い検討が必要だ。
それでも,手作業で探していた時代に比べれば,情報収集量は格段に多いし,それだけ過去の財産に光が当たる可能性も高まるのだから,喜ばしいことだと思う。
—
というわけで,この数週間はその検索結果とにらめっこする日々もあったし,いろいろな行事に関わったり,お仕事の会議に出かけたり,小学校にもお邪魔したりと,駄文を書いている余裕がほとんど無かったというわけである。
—
今日のお仕事では,日本の情報教育の黎明期を支えられた先生方と一緒になった。70代のお二人は,すでに第一線を退かれてはいたが,とてもお元気で,20年前の情報教育や学習ソフトウェアの思い出話をいろいろ語ってくださった。「あのときはFM-TOWNSでやってたんですよ,ははは」と懐かしい商品名がちらほら出てきて,私自身も記憶を巻き戻すことになった。
今日の教育界は,そうした上の世代の方々の目にはどう映っているのだろうかと,こんな機会に考える。あなたならどんな風に想像するだろうか。
そして私が歳をとったとき,この世界をどう見るのだろう。私も「パソコンの文字は細かくて困る…」なんて嘆いているだろうか。「自分の努力もまんざら悪くなかった」と思えているだろうか。
「若い人達に頑張ってもらわなきゃ」,70代のお二人は,にこやかにそんな風なことをおっしゃった。そう言われて,たまに自分が同じセリフを口にしていることを少し反省した。とにかくやるだけやろう。
—
明日は内田洋行が主催しているNEW EDUCATION EXPOに出かける。去年は初めて父親と一緒に参加したという印象深いEXPOだが,今年はなぜか企画に登壇することになってしまった。こういうことで恩返しや貢献が出来るのであれば,断る理由がない。(あ,でも生活費稼ぐためにも仕事大歓迎か!感謝感謝!)
かくして,私の徒然な日々は周りの皆様のおかげで本当に賑やかに進行中であり,もうちょっとそれぞれが形になったらあれこれ駄文も書き連ねようと思っている。