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教育と情報の歴史探訪へ

 もう少しで小学校におけるフューチャースクールが終わりを迎える。

 何か教師支援に関することでコツコツ調査研究でも始めようかと思い,教員研修の関していくつかの教育センターに連絡を入れながら資料を集め始めた年の夏,とあるメールが届いたことから私の教育情報化めぐりがスタートした。

 それまでも教育の情報化は関心事ではあったけれども,外野に立っていたこともあって,直接的ではなく間接的に動向を把握していた程度だった。それは誰か偉い人が関与して取り組むもので,私のような外野は話題になることを眺めてやじを飛ばすのが関の山だった。

 ところが巡り合わせとは面白いもので,東京暮らしが終わって徳島に引っ込んだと思ったら,国の仕事に関わることになり,県外へとお出かけすることも多くなった。行政の仕組みを理解しなければならない場面も増え,そのための術を自分で探さなければならなかった。

 大きな事業の末端に関わり始めただけではあったが,教育の情報化に関する仕組みに直接関与する立場になって,あらためて過去の教育の情報化を振り返ろうとしたとき,その情報へのアクセスが極めて難しいことを思い知った。

 話題だけが先行し,その取組みが後に何を残して,どう積み上がっているのかを知るための資料は限られていた。この界隈は文部科学省だけが関わるわけではない,総務省はもちろん,かつては経産省も関わっていた(省庁再編前のことだ)。それらの取組みを加味して教育情報化を理解するためのまとまった手がかりは皆無と思われる。

 乗りかかった船というべきか,人一倍そういう事柄への関心が強いこともあり,教育情報化の歴史探訪を本格的に始めることにした。

 そんなわけで,流儀知らずをいいことに,あちこちに顔を出してはあれこれ質問などして勉強。まだ掘り起こしは足りないものの,少しずつ過去の流れのようなものが見えてきたりもした。

 ようやくフューチャースクール推進事業も区切りがつき,私自身の役目は解かれた。少しばかり文部科学省で始めたアルバイトの仕事が残っているが,そのことも含めていよいよ歴史探訪の本格作業を始めていきたいと考えている。まずは過去の文献を探しに行こう。

 そのまえに,一つ片付けておきたい仕事がある。デジタル教科書なるものに対する混乱状態をほぐすための情報整理作業である。これも資料をあれこれひっくり返して取り組みたいと思う。

シンキングツールとの再会

 2012年2月4日に行なわれた関西大学初等部の研究発表会に参加する機会を得た。前日の予定が出張の主目的であり、大阪入りして初めて発表会の開催を知ったので、参加することになったのは偶然だった。

 関西大学初等部は2010年に開校した新しい私立小学校である。この学校では、思考スキルの習得による思考力育成の取り組みを行なっており、そこにシンキングツールとルーブリックと呼ばれるものが導入されている。この実践が注目を集めている。

 この学校と私には直接の縁があるわけではないが、大変お世話になっている関西大学の黒上先生が立ち上げに尽力されていることから、興味を持っていたというわけである。


 
とはいえ、実のところ全く無縁というわけではない。

 米国のシンキングツール実践事例を視察するよう、黒上先生からお使いに出された経験があるからである。米国フロリダ州オーランドにあるShenandoah Elementary Schoolに訪問したのは2005年10月のことだった。

 ところが当時の私は、職場でくるくる空回り。その年のクリスマスイブに辞表を提出して、翌年には東京に引っ越すという人生の転換点を迎えていた。

 せっかくお使いに出かけてお役に立つべきときにお仕事を放棄すことになってしまったというわけである。そんなわけで、シンキングツールは私にとって始まったまま終われなかったテーマとして、なんとなく頭の片隅に残り続けてきた。

 関西大学初等部ができるというニュースとその実践の方向性を聞いて以来、いつかは初等部に訪れたいと思っていたのである。
 (それに東京時代に修士論文でお世話になった先生もその学校でご活躍だと聞いていたので、久し振りにお会いできればとも思っていた。)

 これが神様のいたずらか、ひょっこりそのチャンスが訪れた。

 予定外だったとはいえ、前日の用事が公開授業の参観であったから、そのための準備は万端である。JRで高槻駅へと向かい、とことこと関西大学・高槻ミューズキャンパスへ。

 いやはや、ため息出ちゃうほど立派な建物である。

 しかし、建物以上に先生方の意気込みと実践に目を見張った。まだ4年生までしかおらず、6年制の小学校としては未完成状態、その中で、一つの大きな場所を生み出そうとして必死に頑張られている先生方の姿は迫力があった。

 思考スキル習得と思考力の育成を担う「ミューズ学習」の授業も低学年中学年にも関わらず大変高度な展開を見せていることに素直に驚いた。最初からこうではなかったらしいが、2年程度でここまでくるとは、ミューズ学習の取り組みの可能性を感じた。

 シンキングツールも米国で視察したものを流用するわけではなく、むしろ様々な思考技法の知見を踏まえた上で小学生の学びにあうものを選択して独自に作り上げて活用していた。ポケモンのように、新しい技法を一個一個ゲットしていく形で習得させようというわけである。

 もちろん現在もこの取り組みは試行錯誤を重ねながら作り出している最中。

 だからこそ、今回の公開授業でも「事実」から「まとめ」を起こしたあと「主張」に結びつけていく場面が発生したときに、子ども達が「まとめ」と「主張」をうまく区別できないという問題に直面していた。

 その後、これを分科会の議論のテーマとして掲げ、いろいろな意見が飛び交うことになるのだが、どうも私にはピンと来ない意見も多かった。

 発言しようかどうしようか迷ったが、頭の片隅に残っていた「宿題感」が提出を促していたので、遠慮がちに「アメリカでは、シンキングツールをもっとあっさり使っていた。まとめと主張を迷ったところも、スパッとシンキングツールを使って解決してもいいのではないか」と発言をした。

 ところが、この発言内容が、どうも現場の先生には違和感があったらしい。

 記録をとっていないので正確な受け止めではないかも知れないが、とある女性の先生がこんな感じの発言をした。

 「どなたかアメリカではもっとあっさり…と言われましたが、子ども達が困難に直面して考えようとしている場面で先生が寄り添って一緒に考えてあげていたことがとても良かったと思います。あくまでも子どもが主体的に考えることを大切にしたい…云々」

 当日の発言となんかちょっと違う気もするが、とにかく「あっさり」に対して違和感を感じていたことは明確に表明していたように思う。

 その後も現場の先生方の感想や意見が続くのであるが、私の中ではむくむくと補足をしたい気持ちが大きくなっていた。もはや、いつもの暴走モードである。

 先ほどの先生の発言や思いを否定するつもりはなかった。

 だから、子どもが主体的に考える場面を一緒になって大事にする、それも重要であることを確認した上で、なぜシンキングツールをもっとあっさり使うべきかを、関西大学初等部の関係者でも何でもないのに、かつてのお使い経験だけでとうとうと語り始めた。

 何をしゃべったのか、正直なところあんまり覚えていないが、時間を浪費したために最後に講評をいただく来賓の先生方の発言時間がわずかしか無くなってしまったのは申し訳ないことをしてしまった。


 
 全体シンポジウムは、このミューズ学習を教科の学習へと応用することに関する様々な意見が出されていた。もちろん、思考スキルの習得にフォーカスするという方法自体も議論の対象となった。思考スキルを学んだ成果が教科の学習にも転移するのかどうか。

 たぶん、実践をもっと見たり体験してみないと、シンキングツールをゲットして思考スキルを習得していくことの意味や効果を理解しづらいのかも知れない。

 「あっさり使えば」という私の意見は、もちろん何も考えないで淡々とツールを使えばいいということを言いたかったわけではない。子ども達にだってツールを使うことが腑に落ちなければならないだろうし、それを成立させるためのプロセスは思いの外手間がかかるはずである。日本的な教育との融合にもかなり悩みが多いはずだ。

 だから、正直なところ「あっさり」という言葉に違和感を感じた先生の反応は正しいと思う。きっと、背後に隠れた様々な苦労を直感的に感じたからこそ、先生がもっと子ども達によりそう重要性を指摘したのだろう。そして実際、関大初等部の先生方はその苦労をされていると思う。

 だから、私はもう少ししっくりくる表現を見つけて発言すべきだったのだろう。

 なんとなく、頭の片隅の宿題が大きくなった、そんな関大初等部での参観だった。

Jobsを超えて

 Apple社創業者であり,NeXT社やPixar社をつくった人物としても名を刻まれる Steve Jobs氏が2011年10月5日にこの世を去った。

 私の気持ちは「寂しくなる」というもの。

 でも正直なところ,彼については憧れの人ということではなく,むしろ自分と似たような考えをする人だなという共感できる人として,時代をともにしたと思っている。

 もちろん,Jobs氏の行動力や決断力といった偉大な特質を私は持っていないから,彼のようにはなれないけれど,考えていることは共有できるという点で仲間だと思う。

 だから「寂しい」と思う。

 彼は厳しい人だが,茶目っ気のある人だ。

 そんな人物だから愛されもする。まあ,ずるい人だと思う ^_^

 でも,そんなもんかな。

 自分が信ずることをやるってことは,まあ,ずるいことなんだから。

 というわけで,Jobsを超えて,残された時間を自分なりに生きよう。
 

911

 日本の私たちが8月に特別な時間を過ごすように,米国も9月のこの日を迎えた。時が過ぎ,あの日は歴史の彼方に向かってどんどん遠ざかるけれど,21世紀の最初に起こった事件も私たちは常に思い起こす必要があるだろう。

 いま,私たちは日本の教育にデジタル・情報機器を持ち込むことを本格化させようとしているし,私自身もその仕事に関わっている。

 なぜ,そのことが重要な意味を持ち得るのか。

 その理由の一つは,私たちの「歴史の語り」が取り得る様態の中で,情報機器,特にインターネットは不可欠であるというものだ。

 米国のINTERNET ARCHIVEが公開しているこのSep. 11特集ページを見ても分かるように,過去の情報とそれを伝えた媒体が私たちの歴史の一角を形成している。

 つまり,私たちが自分たち自身の存在を歴史性を踏まえて誠実に語りうるように自らの社会を構成していくためには,教育の現場にこうした媒体(先に述べたデジタル・情報技術)をしっかりと根付かせていくことは必要不可欠なのである。

 付け加えて言えば,それは自らの歴史というだけでなく,関係性の中で,他者の歴史と向かい合うためにも必要であるし,また,こうした考え方を正しく認識するなら,従来の印刷技術による書物といった媒体もこれまでと同様に重視されなくてはならない(つまり,アナログとデジタルを排他関係に持ち込むような捉え方は意味が無い)ことも了解されなくてはならない。

 過去にアクセスするための手段や身体性を現在において堅持しつつ,ともに未来に開かれた社会を構築していくことを了解し合えるプラットフォームに立たなくては,残りの21世紀とその先の未来に希望を渡していくことができないのではないか。

 私は,翌年訪れたグラウンド・ゼロの光景を思い出しながら,今年もそんな風に考えてみたりする。

暖かくなって

 久し振りにしっとりとした雨の日を迎える。先週末の東京滞在あたりから気温も過ごしやすいものとなり,冬から春の移り変わりが実感されるようになってきた。

 東京で開くiPad/iPhone教育利用の集いの下準備も,日付と会場が確定し,いろんな方に登壇のご協力も得て,なんとか開催できる運びとなった。少しずつ事前登録者も増えているので,舞台あれど客無しということにはならないみたいでホッとしている。

 なるべく黒子として登壇者や参加者を引き立てるように頑張りたい。ただ,なぜ集う必要があるのかという点について趣旨説明など,ある程度責任を持って受け答えしないといけないと思うので,幾多の批判や懐疑はあると思うけれど,誠実に対応していきたい。

 今度の春,徳島にやって来て1年になる。

 賑やかな東京暮らしから一転,のんびりとした土地での生活が始まる。といっても生活の慌ただしさは土地と関係なく続き,あれこれ宿題を積み上げたまま時間が経過した。

 徳島は車社会になっていて,自転車で頑張るのは利便性に限界があるなぁとは思えど,たまに駅前の紀伊国屋へ本を見に行けるので,それで満足としている。

 ただ,たまには都会へ出て刺激を受けることも大事だなと思う。そんなわけで,久し振りに遠出をしようと思って,東京行きの航空チケットを買ったというのが先日の東京滞在の始まりであった。

 歌舞伎は素晴らしかった。

 あちこちで話題が取り上げられているが,東京銀座の歌舞伎座が全面的な建て替えのために休館する。立て替え後の歌舞伎座は,現在の形をしている部分にビルが併設されるようになるらしい。とにかく現在,登録有形文化財に指定されている建物で歌舞伎を見るチャンスは残りわずかだというので,この機会に挑戦した次第である。

 以前,東京に越したばかりの時に,ある方の案内で「能」に連れていってもらったことがあった。面白かったけれど,睡魔との闘いもあって,正直十分味わったとはいえなかった。さらにその後,同じある方の出した宿題で「相撲」を見に行く機会があった。両国国技館で直接見る相撲も面白かった。

 それで,東京は離れてしまったけれど,歌舞伎座で観る歌舞伎に挑戦というわけである。

 歌舞伎座はさよなら公演を続けていたが,二月は十七代中村勘三郎の追善公演ということで,十七代勘三郎が演じて好評だった演目が並んでいるのだそうな。実はそういう前知識もなく,予定と合う夜の部の座席を予約した。値段は張ったが,一緒に一度の体験と思えば。

 そして当日,銀座三越で持ち込みのお弁当買って,寄り道しながら歌舞伎座へと歩いていくと,遠くから見たことある顔が歩いてきた。それがナント,能や相撲に導いてくれたあの方。偶然にも同じ歌舞伎の芝居を観にきたとのこと。いやはや,相手は常連さんとはいえ,なんたる偶然。歌舞伎の芝居が終わってお寿司をご一緒できたのは嬉しかった。

 歌舞伎の芝居自体も素晴らしいものだった。夜の部は「壷坂霊験記」「高坏」「籠釣瓶花街酔醒」という演目。歌舞伎初心者にはどれも分かりやすい内容だったのがよかった。特に「籠釣瓶〜」は勘三郎の演技もよかったけれど,玉三郎の女形演技も本当に素晴らしく,もう一度観たいとさえ思った(もう二月公演は終わったけど)。

 「このタイミングで玉三郎の演技を

あの日

 今年も繰り返すことになるが,書き記そう。

 あの日,第一報を聞いたのはFMラジオからだった。

 いったい何が起こったのか。

 多くの死傷者が出た。

 遠い国の出来事。情報を得ようとネットにアクセスする。

 いまでもCNNのホームページの変化は記憶に残る。

 殺到するアクセスに対応するため,真っ白な背景に最小限の写真とリード。

 21世紀はテロから始まった世紀である。

 その日以来,世界は路頭に迷った。

 一年後,グラウンド・ゼロを訪れた。

 好奇心だけではない。

 訪れなければ画面の中だけで済ませてしまう気がした。

 少なくともネットの先にあったその場所を目指した。

 そのことにどれほどの意味があったのか。

 それでも,当時の僕は,そこへ行きたかった。

 今年もまたあの日がやってきた。

 犠牲になった人々への想いと,これからの私たちの歩み。

 思い返してみたい。

最後のUTカフェ

 東京大学のキャンパス内には,いくつもの飲食店がある。私が在籍していた大学院は出来たばかりの福武ホールという建物にあったが,そこにもUTカフェ(UT Cafe BERTHOLLET Rouge)という飲食店があった。

 東京大学のカフェと名付けられたこともあってメニューは本格的である。正直,貧乏大学院生にとっては,少々値の張る内容のため,すぐ隣にありながらも自分で利用するのは特別な時だけだった。

 それでも,ゼミの後の食事会やイベント事のパーティーの席,何かの機会に複数の人間で利用することは幾度もあった。大変贅沢な料理を堪能できたのは幸せだった。

 仕事に就いた今も(就いていた昔も),自分での食事は貧相なものばかりなので,UTカフェのメニューは想い出深い。特に「ポムフリ」というフライドポテトの味は絶品だ。そのことを研究室のブログに書いたりもした。その評判を聞きつけた地下鉄の広報誌が取材に来て,ポムフリが記事になったくらいの絶品メニューである。

 大学内で飲食店を営むということは,どれだけ大変なのだろう。

 特に,新規開店したお店の立ち上げ時期は,何も蓄積がなく,すべてが初めてという条件の中だけに,無事に通常営業するということが難題だったのかも知れない。

 その女性店長さんは,いつも黒いシンプルなユニフォームを着て,朝の開店準備を始める。スタッフが前日分のゴミ出しや店内のテーブルや食器の準備などして,店長さんは地下にある食材庫から必要な食材をせっせと運ぶ。段ボールはいつも重たそうだ。階段を上がってくる店長さんを見かけた時には,ドアなどを開けてあげる。

 お店は赤門のすぐ横。お客は観光に来た人々だったり,キャンパスに散歩しに来る近所の人だったり。お昼のランチタイムは,学内の女性職員さん達がどっと押し寄せる。東大の近辺にはOLさん向けの飲食店が少ないのだ。ある意味,UTカフェは,東大の若い女性職員さん達にとってランチタイムの救世主的なお店となった。

 小さい厨房で店長さんは休む暇なく調理を続ける。スタッフの皆さんもフル回転だ。ランチタイムのUTカフェは,ほぼ女性専用だと考えた方がいい。それくらい賑やかな異空間だった。

 そんな慌ただしい時間を過ぎると,ようやくカフェらしいゆったりとした時間が流れ始める。やがて辺りが暗くなり,夜へと迷い込むと,UTカフェには,たまに静けさが訪れたりする。学内に残っているのは,残業中の先生方か職員さんか,大学院生くらいだ。

 たまに通り過ぎる時に店内からしゃべり声が聞こえる。店長さんやスタッフさん達の憩いの時間といったところだろうか。閉店時間の夜9時半まで。そんな雰囲気でお客の来店を待つ。

 そろそろ閉店時間。看板をしまい,閉店の準備。今日も何度,一階のお店と地下2階の食材庫とを往復しただろう。そんなことを考えながら明日の準備と仕込みが始まる。

 10時を過ぎて,スタッフが帰ったあとも,店長さんは一人薄暗くなった店内の奥にある厨房で作業をしている。実際,どんな作業をしていたのか,ただお店の前を通り過ぎるだけの僕には分からないけれども,毎晩のように次の日お店が開くよう努力されていたことだけはわかる。

 そうやって,東京大学に新しくできたカフェは,最初の一年間を乗り切り,2回目の春を迎えた。

 特別な時にポムフリとビールを飲みに行くだけだったけれども,居場所はお隣さんみたいな場所だったので,店長さんともたまに挨拶をしていた。

 春になり,東京大学を離れることになった最後の日,僕はUTカフェに寄って,店長さんにお礼を言うことにした。何しろ,年間を通してこんなに贅沢な食環境にいたのは人生で初めてだったし,ポムフリの味には感動していたので,どうしても感謝の言葉を伝えたかった。

 「店長さん,こんにちは」
 「あ,こんにちは」
 「あの,この度,東京大学を離れることになりまして…」
 「ああ,そうなんですか」
 「はい,で,この一年美味しい料理をありがとうございました」
 「いえいえ,で,どちらへ行かれるんですか?」
 「はい,徳島へ飛びます」
 「そうですか,頑張ってください」
 「ありがとうございます。店長さんも大変でしょうが頑張ってください」
 「あ,実は…私も離れることになって」
 「え?」
 「今月までなんです」
 「あ〜,そうですか,じゃ本店か,別の支店に…」
 「いえ,別のところへ…」
 「そうなんですか〜,それはまた…,本当にお疲れさまでした」
 「ありがとうございます」

 そんな店長さんからの意外な返事を聞きながらも,本当にその一年間のお仕事の大変さを想像して,僕は心の中で大きな表彰状をあげたくなってしまった。

 2年目からのUTカフェは,営業時間をずらして,夜の8時には閉店することになったらしい。一年目の夜の静けさを考えれば当然の変更かも知れない。90分早く終えれば,それだけ次の日の準備も仕込みも早く取り掛かれる。そうやって,UTカフェはいまも賑やかに営業しているのだろう。

 夜遅くまで頑張っていたあの店長さんのその後はもちろん知らないが,きっとまた頑張られているに違いない。そんな店長さんが私にとっては想い出深い。

 賑やかなUTカフェの裏側の小さな物語である。

母校60周年

 大学の歴史は奥深く,制度成立の歴史も興味深いものがあるが,昭和24年(西暦1949年)に日本で新制大学がスタートしたことは,何かの機会に聞いたことがあるかも知れない。

 というのも今年2009年は,多くの(国公立)大学が60周年記念と銘打って,大なり小なり記念の取り組みをしているので,大学教育に関わった人ならば,そういう便りや話題に触れたりしているのではないかと思うからである。あちこちの大学ホームページもこれを機にリニューアルしているようだ。

 私の母校・信州大学も,そのような記念行事等を展開している。

 ホームページを覗いたら「卒業生メッセージ大募集」とあって,各学部出身のOG/OBが書き込みをしているようだ。

 まだ十分メッセージが集まっているとはいえず,それほど投稿が掲載されていない…。「時代」としての大学は各個人にとって大きいものの,「機関」としての大学がいかに学生から遠いのかが,如実に分かってしまうところがこういう企画の悲しいところである。ええ,卒業生を大事にしない日頃の行いへの皮肉である(ははは…)。

 ただ,嬉しいことも発見した。

 教員養成フレンドシップ事業の一つ「信大YOU遊世間(ワールド)」という活動に対して,「信州大学功労賞」が贈られたというのである。

 活動内容は変わってしまっているのだけれども,私自身がこの活動の前身である「YOU遊サタデー」の立ち上げメンバーだったこともあり,ネーミングにその痕跡を感じるというだけで後輩達が行なっている現在の「信大YOU遊世間(ワールド)」に親近感を抱く。ただホームページによれば,「今年で16年目を迎えた学生主体の地域貢献活動…」とあるから,私たちが立ち上げたときからをカウントしていると考えてよさそうだ。

 ようやく大学から公式に評価されたというわけである。これに関わった学生の数は16年でどれくらいになるだろう。もちろんこの活動が続いたのはひとえに16年も学生達を引っ張ってくれた土井進先生(写真左)の功労があってのことだ。そしてこれに関わったすべての人たちの協力があってのことだ。

 あれから16年である。まったく…。

 さて,みんな,自分自身の定期点検は終わった?これからまだまだ走り続けますよ。

 どんな道を歩んでいようが,僕らは仲間だし,そしてこれからもそれぞれの志を持って歩んでいこう。そうすることが何よりも自身やお互いに対する功労賞だと思う。