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季節はめぐり

 まだ何も見られていないのだろう。その向こう側にあるいくつかの要素は,おそらくその姿形を現わすまでに幾多もの出来事を要するのではないかと覚悟はしている。

 込み入ったこの時期を過ぎれば、不必要な見当違いを犯すこともないだろう。

 物事には両面あるのだから、うまく付き合っていくには、悪い面を上手に避け,善い面を慈しむことでうまくバランスするしかない。

 物事の後始末に関していえば、それはとても難しいものであるとは思う。

 私自身、場をかき回しては、とっ散らかった状態を片付けることなく放置することがある。おそらく後始末をする側に立ってみれば迷惑この上ないのだろう。

 講演や会議の場で好き勝手な発言や行動をして悦に入っている私には、そういう人々の苦労は全く見えていない。たぶん何とかなるのだろう、そんな漠然とした期待と無責任を混ぜ合わせながら、次から次へと動き回るだけなのだ。

 それでも、ときどき私は人に聞いてみる。私ってうまくやっているのでしょうか、と。でもそんな他力本願な質問を、まじめにとり合ってくれる奇特な人はもういない。私はその人の子どもでも教え子でもないのだ。ましてアドバイスに足る人物でもない。そんなものは自分で答えを見つけなさいと愛想笑いが返ってくるだけである。

 仕方がないので、相変わらずゴーイング・マイ・ウェイのまま。

 誰かを不幸にしないための決断は、不意に訪れる。

 そのときのために、いつも過去・現在・未来のことを考え続けておかなければならない。そうやって、季節はめぐり、また今日がやって来る。

 

情報過多と発信減少

 先日,FS&LI事業の公開授業が行なわれたので,担当研究者として出席し講評めいたものを担当した。

 小学校の先生方は準備などで大変な日々を送られていたわけだが,私なんぞは準備もせずに当日の様子を振り返るというだけだった。

 担当している小学校の担当の先生は,この分野のエキスパートといってよい方だから,情報化の何たるかを先生方に説く労力から私自身は解放されている。

 その分だけ,事業そのものへとまなざしを振り向けて,何かできることはないかと動き回っている点が他の実証校や担当研究者と違ってるのかも知れない。

 そうした問題意識から様々な情報や知見を縦横無尽に漁る日々を過ごすようになっているのだが,そうした状況がかなり重荷になってきたように思う。

 願わくは,その成果を吐き出したいと思うのだが,私自身は情報発信をする場合に閉じ篭もる時間が必要で,搾り出すかのごとく文章を書きつづるので,落ち着かない状況で粘る余裕がないとパタリと言葉が出てこなくなってしまう。

 もう少し乱暴・粗雑に書いてよいならば,こんな風な駄文を書くことはできるとしても,この頃は知り得たことを不用意に書くと何かを踏んづけちゃう立場にいることも分かってきたので,それが文字を打つ手を鈍らせてもいる。

 その上,Twitterで時々の衝動をさえずっているのだから,ますますまとまった文章を書くための勢いというものが殺がれているといった案配だ。

 本当のところ,語りたいことや発信したいことは山のようにあって,それを言い表すのに私が文章を紡ぐスピード感ではまったくダメなのであった。

 かといってUSTREAMで独り言として語り始めると,ら旋階段を延々とのぼるがごとく話が続いてしまい,気がつけば6時間といったことになりがちだ。

 誰かと夜を徹しての教育の情報化トークライブでもしないと,ため込んでいる情報も思索も表に出す機会を逸してしまうのではないかと心配になっている。

 ともかく,何かの形で発信をしなければと考えている。

 同時に最近は,ものごとを変えることが難しいということをますます痛感するようになっている。なにしろ文化的なものを変えなければならないことにもつながるため,来年度から変わるなんてスパンでは到底ない。

 いや,それは前々から分かっていたこと。私の世代も含めて上が退場しない限り,変化への抵抗は強まりこそすれ弱まることはないだろう。学習指導要領を殺したり,著作権法にフェアユースの考え方を持ち込むなどのドラスティックな事態が起きない限り,学校教育は最も学び難い場として取り残されるだろう。そんなこともわかっている。

 問題は,そのことを真剣に考える機会や余裕がほとんどの人にないことである。

 気がつけば今年も2ヶ月を切った。世界には取り組まなければならないことが山積みで,自分たちが拠って立つ場所をひっくり返すことに時間を費やそうと考える余地はありそうもない。

 話したい人と話したいことを話すための機会も余裕もない世の中で,どうして物事がうまくいき得るといえるのだろう。

 なんか,そのことがとても私の気持ちを萎えさせていて,向かうべき方向性を考えあぐねる日々を送る原因にもなっている。

 もう少し自腹を切って,あちこち押し掛けてみるしかないかな。

平成二十三年葉月二十二日

 先週末は東京近辺を無計画滞在していた。

 某推進事業の有識者会議なるものが東京であって,それが終わった翌日は東京大学行って調べ物したり,その翌日は横浜を散策してICTを活用した実践研究会のイベントを覗いたりした。

 そもそもあれこれ見聞を拡げて,ものを考える仕事がしたかったので,こんな風に過ごせるのは幸せである。

 しかし,現実はそう優雅にいかず,悩ましいこと目白押しといったところだ。

 ある電化製品に不具合があって修理を必要としている。

 修理を依頼するも,修理のできる人間がいつまで経っても来ない。

 不具合がある事は,企業の窓口に何度も伝えている。

 なのにいつまで経っても不具合をどうにかしてくれそうな人が来ない。

 納得できないまま不具合のある電化製品をだましだまし使う。

 諸外国ならありそうなエピソードだけれど,日本のこと。

 そういう状態におかれれば,誰しも企業を信頼しなくなる。

 窓口に文句を言っている私は,ただ修理してもらいたくて語気を強めているだけなのに,相手にとってはクレーマーになるのだろうか。

 たぶん,誰もが自分の仕事をそつなくこなしているのだろう。

 その結果として物事が解決しなくても,物事の解決が自分の仕事の目標でない限りは,そのことに責任はない。

 それもそうだなと思う。

 私はそんな仕事を選ばなかったけれど,そういう仕事が世の中にあって,そういう仕事でがっぽり稼げる(かどうかは定かじゃないけど…)のだから,そういう仕事ぶりをしている人達を非難しても,私ばかりが気疲れするだけである。

 だから私に出来る事は,そういう企業の商品を買わない選択肢を喧伝するくらいしかない。それとて,本当に必要なこととも思わない。気が向いたからやるのに近い。

 ご縁というのは,双方の想いが重なり合って育まれるものである。

 それが期待できないのであれば,さよならするのが一番である。

 まあ,この国は,新世代や新規開拓よりも旧世代や既得権益のようなものを大事にするお国柄であるから,単に想いのベクトルが違うだけなのだと思う。

 その方が魅力的だから。

 それが魅力的だと思えるモノサシで世界を見ていても,自分が生きている間は問題ないから,そりゃそういう風になるだろう。

 だから,研究者みたいな集団が,新しいものに対する価値や魅力を高く見せられていないということにも大いに問題があると思う。

 もっとそういうことに貢献できるよう動かないといけないなと考えている。
 

日本人としての生き方を考える

 5月15日に講演というか、発表というか、20分間しゃべる機会をいただいた。

 聴衆の属性が不明だったので、話す内容をどうしようか当日まで悩み続けていたが、私の問題意識をストレートにぶつけることに決めて、20分に詰め込むことになった。

 正直なところ、20分という時間では、軽めの話題を浅く紹介しても足りないことは分かっていた。だから最初はウケ狙い企画で済まそうとも考えていた。あるいは、フューチャースクールのことを写真で紹介して終わるくらいがちょうどよい。

 もしも、リクエストが明確であったならば、それに沿って話すのだが、依頼趣旨が不明瞭だと、私なりに語るべきことを語る以外に興味が無いので、結果的に聴衆の聞きたいこととはズレが起こってしまう。

 特に私の話は、既存の価値観の問い直しを含めた議論を基底としているので、実用的な話を聞きたい側には難しいと受け取られるらしい。

 また来月、今度は一般の方も混ざった聴衆の前でフューチャースクールのことをしゃべる機会を与えられたので、依頼に沿ってしゃべろうと思う。

 けれども最近は、311大震災に関係して出てくる様々な事象を見るにつけ、とてもやるせない気分になることが多い。

 特に原発事故問題に関連して、日本と世界との関係に関わる動きには、失望の連続である。

 自分も含めて国内に閉じた生き方をしていることに、とても苛立ちを感じる。国際的な視野で物事を取り組んでこなかったことが、情けなくもなる。

 会社公用語を「英語」にした日本企業があるなんて話題が物珍しく語られたのはここ数年でしかない。

 それほど日本人の国際意識というのは遅れているというか、ズレていた。

 そして、今回の震災に関わって、マスコミ報道における国内外のまなざしの違い、事故に対応する企業や政府の言動の理不尽さ、あるいはネットの情報から浮かび上がる様々な意識の相違など…。

 学校教育のカリキュラムを考える人間として、あまりにも無残な現実を見るにつけ、従来の学校教育に「甘さ」みたいなものがあったのではないかと思わざるを得なくなってきている。

 その「甘さ」とは、怠けていた部分があるというよりは、根本的に何かが欠落していて、そもそも想定していなかったから取り組めてもいなかったという類いのものだと思う。正直言って、現場の先生たちは怠けてはいない。どちらかといえば、死に物狂いでやっている。

 問題は、従来よしとされた努力のベクトルが、本当に現代においても妥当なのかどうか、だれもその根本的な価値観を疑わずに、伝統の上に屋上屋を重ねてきたことこそ問われなければならないということである。

 情報時代のカリキュラムを考える。

 このテーマについて、いよいよ真剣に考えなければならないと思う。

GWが終わって

 あまり考えを発信する気分にもならず、こちらのブログは停滞気味。

 内省的な思索がよどみがちなときは、あまりジタバタせずに何も考えない時間を確保することが大事だと思っている。

 この頃、プログラミング作業に没頭しているのは、考えないようにするためでもある。アプリの動作を設計している間は、ツイッターもニュース報道もたまにしか見ないで済むし、機械的な整合性を考えるだけなので気が楽だ。

 GWの連休は帰省もして、本当にのんびりと暮らした。

 半ばリセット状態になって、あらためて自分の立ち位置を考えたとき、教育学を学んでいた自分をどこかに置いてきたことに気がついた。

 価値相対化が進んだ時代に、どこかしら規範学的な教育学が存在感を弱くしていた事実はあれど、だからこそ教育学的な思考が逆に必要とされていると言えなくもない。

 カリキュラム研究は教育学の中の学際的分野としてどこか中空に置かれているが、それでも全体を見渡すために強い思考を伴って展開するものとして必要とされている。漂うような立ち位置は、実際のところ捕らえ所が無くて敬遠されがちなのだが、そういう媒介的なところが好きだから仕方ない。

 5/15にとある会でしゃべることになった。

 久し振りにカリキュラム研究者としての立場で語ろうかなと考えている。

 温故知新になれば、それでいいかなと思う。

事業推進者の協働性

 これから書く駄文は,多少内省的であることと,結論は最初から決まっているということもあるので,こちらのブログに書くことにした。

 あらかじめ明確にしておきたいが,これから書くテーマに関して結論は決まっている。「他人に頼らず自分で物事を進めていく必要がある」ということ。その結論に私は納得して物事に取り組んでいくつもりである。

 しかしながら,この結論に至る手前に,いくつも「言いたいこと」が発生する余地がある。そのことに無頓着でいたいとは,これっぽっちも思わないのである。本来であれば,それら苦言をどこかに収めるための説明や納得解がなくてはならない。その説明がたとえ理屈に見合わないとしても,人心とは何かしらの言及を求めるものだから。

 そして,もう一つハッキリさせておきたいのは,この文章は,特定の人達を非難・批判するがために書こうとしているものではない。そう読み取ることの方が簡単なのかも知れないが,私が書こうとしているのは個々人の資質の問題ではなく,個人が置かれてしまっている状況や立ち位置のことであり,それが孕む問題性の方である。

 残念ながら,結論は決まっている。私はその上で,いずれ行動を起こすつもりではあるけれど,その前に事態が動くことも期待している。しかし,現時点においては,内部的というよりも,むしろ外部的な理由によって現状を納得して前進するしかない。

 「物事は理想通りに事を運ぶのが難しい」

 少なくとも状況は,言外にそうしたメッセージを強く発している。

 「フューチャースクール推進事業」に私自身が関わり始めていることは,りんラボブログにも書いている通りである。

 周りのお役に立てるならば,大小は関係ないと考えているが,それでも国の事業に関与できることを誇りに思うし,私に出来る範囲で尽力したいと思う。

 しかも今回の事業は「フューチャースクール」という名称にもあるように,将来に繋がる学校教育の在り方を模索していこうという創造的な取組みである。教育の情報化の歴史の積み重ねを踏まえて,全学校に展開する契機となるよう,関わる私たち自身の在り方も含めてモデルのデザインを描いていかなくてはならないと思う。

 全国に散らばる10校の小学校が実証校となり,モデルを作り出す役目を託されたわけで,この10校は重要な使命を負った,いわば運命共同体。それは単に学校関係者だけではなく,教育委員会,事業者,行政,そして研究者も含めて,事業に関わる者全員が使命を共有・理解していなければならない。

 そのために何が必要だろうか。

 私は「声掛け」だと思っている。

 これから一緒にやっていこう,という声掛けが必要なのだと思う。私たちはそこから,人の想いや本気を読み取ろうとする。そして,同じくそこから,私たちの対話が始まるのではないか。

 誰がどんな風にどういうタイミングでどれだけの声掛けをするのか。

 そうした文脈から私たちは大いに相手の心理を読み取ろうとする。

 「あ〜,この人は,私たちのこと気にしてくれてるんだ」
 「おっ,結構気合い入って,意志が固そうだ」
 「この人の描く夢に,自分の運命を託してもいいかも」

 言葉がもっともでも,タイミングを逃せば,説教を聞かされているのと同じになってしまう。気持ちが伝わらなければ,声にはならず,単なる空しい言葉になる。

 フューチャースクール推進事業は,総務省(国)と,そこで行なわれる研究会があって,中間に請負事業者があって,選定された都道府県の地方公共団体・教育委員会,学校・家庭(地域),そして研究者がある。

 つまり,実証現場を直接統括するのは請け負った事業者であり,総務省や研究会は事業者を介して間接的に動向を確認するという形になっている。

 私の場合,実証校となった学校の先生との繋がりがきっかけで,事業者からの依頼を受け,この事業に関わることになった。総務省や研究会とは直接接触はない。必要な情報は総務省Webサイトで確認するか,事業者から説明を得ることになる。

 当然といえば当然であり,制度的に考えて理不尽な点は何もない。

 総務省や研究会が考えていることは,事業者がメッセンジャーとなって,学校の先生や研究者に伝えてくれるのだろう。だから,現場の私たちは,事業者としっかり打ち合わせながら事業を進めていけばいい。そう納得していた。

 ところが,私は地区の最初の協議会で行なわれた総務省の研究会報告を聞いて驚いた。研究会から学校や研究者へのメッセージが何もなかったからである。

 事業者は,資料を作成してくれた上で,研究会を傍聴した内容を3点にまとめて報告してくれた。報告内容としては十分なものだった。

 「それだけですか?」と私が聞くと,さらに西日本地域の実証計画に対して研究会メンバーが指摘した事柄を紹介してくれた。

 少し間が空く。

 「あの,関わる研究者に対して,何か伝達事項とか,議論とかありませんでしたか?」と聞いてみた。

 「それはありませんでした」

 「…」

 そんなものかなと思った。各校の独自性を発揮した実証事業の展開を尊重しているのかなとも思えた。任されたのだと思えば,それはそれで嬉しい。けれども,一緒にやっていこうという最初のタイミングで「声掛け」がないのは寂しくもあった。

 後日,驚いたのはこの記事だった。

 「ICT活用の成果をすべての学校に」(教育とICT Online)

 総務省の研究会の座長がインタビューに応えていた。しかも私たちがかかわる事業に関して,いろいろ語っている。

 広く国民に理解を得る機会としては,良い記事だ。この世界の第一人者である先生が語っている内容も,私は共鳴できるし,そのために尽力したいと思わせるものだった。

 けれども,何か欠けてやしないだろうか。

 我々は運命共同体として,協働してこの事業にあたる関係ではないのだろうか。どうしてこのタイミングで,この方法で,事業の目指すビジョンを知ることになるのか。

 情報を共有し,お互いの存在を認め合い,共に学んでいこうという協働教育の理念実現のために力を合わせる者同士だというのに…。私たち自身の情報共有が乏しく,お互いの存在が見えなくて,どうして共に事業推進していこうとできるのだろう。

 こうした状況は,回避できるはずのものだと思う。

 繰り返すが,結論は決まっている。

 「物事は理想通りに事を運ぶのが難しい」
 「他人に頼らず自分で物事を進めていく必要がある」

 そんな屁理屈みたいな非難・批判をするなら,改善する策を自ら提案して解決していくのが筋だ,というのはよく分かっている。そのための行動を起こすつもりではあるけれど,それもモデルづくりに役立つ形で行なえるようにアレンジが必要だと考えている。その上で,動くつもりだ。

 そもそも,こういう不必要な感情的もつれ合いの要素は,各人が配慮の念を持って仕事に取り組めば回避可能なことであった。

 私も事業者に対して,研究会の場でメッセージをもらえるように予めお願いをしなかったことは責められるべきだし,事業者も総務省・研究会と各都道府県の現場を繋ぐパイプ役として深い部分での情報の取得と提供を試みるべきだった,総務省やその研究会にしても,全国10校の実証校関係者に対して,まずは協力してくれたことを深く感謝し,どういう理念のもとで一緒に取り組んでいくのかを声掛けすべきだった。

 
 もちろん,その必要を感じない人達もいるかも知れない。

 そんな些細なことをことさら問題にする神経がどうかしているのかもしれない。

 けれどもフューチャースクールは,いろんな人々が関わり,将来的には全国展開する目標のもと動いているのであるから,幾重もの配慮が必要なのだと思う。

 仮に政治情勢的な理由で頓挫することが危ぶまれようとも,細かい配慮を諦める理由にはならないと思う。

 教育は人なり

 もしこの言葉を本当に踏まえるつもりがあるなら,私たちはもう少し謙虚に丁寧に深い配慮を持ってことに当たるべきである。

本読みの憂鬱

 集中講義が始まった。今年は40名弱の受講生と一緒に「カリキュラム論」をつくっていくことになる。

 学習指導要領も新しくなって来年度から本格実施が始まるし,指導要録に関しても評価観点が再整理されたので,そうした話も踏まえて,教育をわ〜っと考える4日間である。

 そのための文献資料を読むついでに,あれこれ気になる本に現実逃避のために手を出しているが,なぜか日頃じっくり読む余裕をつくっていないことを深く反省する気持ちが湧いてくる。本を読まないと思考の筋力が衰える。そのことが分かるからだろう。

 でも,「研究者は本じゃなくて,論文を読まないとダメ。本は古い沈殿物が固まったものでしかないし,所詮随筆でしかない」とかなんとか言う声を聞いたことがある。

 それを聞いたときの私は,コテコテの人文系で本ばっかり読んでいた頃だったので驚いたものだったが,なるほど理系はそんな世界かと納得したりもした。

 いまは,どっちも読めればいいなと思う。

 けれど,人文系の本を読み漁るという行為には,混沌を練り歩くようなところがあり,それが思考の筋力を鍛えるように思われる。それはとても大事な作業じゃないかと改めて考えている。そうした鍛練みたいなものがないと,読めるものしか読まないという悪い癖がつく。

 理系の人たちが理路整然と形式に沿った論文を好むのは,書かれた内容を余計な負荷なく読み取ることを可能にし,学術成果の連鎖を繋いでいくのに必要だからである。それも大事なのだけれど,そんなのに慣れすぎると,読む方は何も苦労を強いられないから,読めるものしか読めなくなる懸念が大きい。

 いざ論文ではない本や文章を読む際に,字面から読み取れる情報だけで解釈を試みようとして,本人としては精緻にやっているつもりでも,えらく外してしまっている事例も見受けられる。申し訳ないが,少し滑稽に見えたりする。

 「書かれたものが全て。だから,書かれた文面でのみ理解をするべき」

 というような考えもあるとは思う。けれど,本読みはそういう合理的な読みだけでテキストを解釈しない。

 本読みは,テキストと対面する際に,その向こう側の書き手の思考を覗こうとする。作者の在不在を論じるような文学理論は,私にはよくわからないのでさて置くとして,簡単に言えば,行間から透けて見える書き手の思考の筋道を追いかけようとする,そういう素朴な読書心理のことである。

 ところが,行間が何だかわからない人がいる。

 書き手の心理を追いかけるような思索の負荷を愉しまない人もいる。

 書き手が言外に言いたいことを受け取らない読み手がいる。

 困ったことに,影響力のある人たちに,その傾向が目立つようになっている。

 読めるものしか読まないし,書き手の思考もお構いなしだ。

 なんてことだろうと思う。

 要するに,そういう人たちは,私と同じく本を「じっくり読む余裕」を確保できていないのだろうと思う。だから,思考の筋力がどこか凝り固まっているかも知れない。

 人には,脳が重要だと思っていない情報に関してフィルタリングしてしまい一種の盲点を作り出す「スコトーマの原理」というものが働いているという。

 私自身にも同様に何かしらの盲点が存在し,あるいは重大な見落としをしているのかも知れない。だから他者とのコミュニケーションが噛み合っていないのは,そうしたスコトーマの原理の働き方が他者と異なっていたりするせいかもしれない。

 仕方のない部分も残るとは思うが,私自身はそうした盲点を少しでも小さくできるよう努力はしたいし,そのためには,もっと本を読むことが大事かなと思う。

事が始まる前に

 本来,今の段階でも私が何かを発してはいけなくなっていると思うのだが,この段階で何も書き置くことなく事態に突入するのは,建前は正しくても,私らしくないと思えるので,書くことにする。
 

 明日から「ある仕事」の関わりを始める。

 その仕事を依頼してくれた皆さんとお会いすることになっているのであり,私の中では,そこが実質的な立場の切り替え機会になる。

 その仕事に関する情報を明確に発することができるかどうかは,関係者の皆さんに確認して,許される範囲で試みたいと考えている。

 その範囲がどの程度かは定かでないにしても,一つハッキリしていることは,私の立ち位置が変わるということである。

 具体的には,いつもの調子で気楽に批評を加えるだけでは済まないということになる。当事者の一人になるわけであるから,第三者的に振る舞えないのは当然である。

 そして私は,そのお仕事をできるだけ批判に耐え得るようアドバイスして,内部補強する形で「守る」ことを目指さなくてはならない。それが可能なのかどうかはやってみなければ分からないが,努力はしたい。

 たぶん問題山積なのだろうと思う。

 こうした仕事に満足の行く部分がわずかでもあれば幸せな方で,あとからあとから非難や批判が積み重ねられて辛いことの方が普通なのだろう。

 なので,私は,最初から別の目標を立てることにしようと思う。

 考えていることは漠然としたものばかり幾つもあるといった感じだが,顕在的な大きな目標よりも,潜在的な隙間の問題を拾い集めて考えていこうと思っている。たとえば,仕事にかかわる人たちのコミュニケーションの問題に焦点を当てるだけでも,いろんな問いが浮かび上がりそうだ。

 他の人たちが注視してくれるところは,私が気にしても仕方ないので,私は私なりのスタンスでその仕事を捉えて,内外に還元していこうと思っている。もちろん,仕事における本来の役目を全うするのは当然。

 その仕事に関わるのは私一人だけではない。多くの人たちが関わっている。その中で,足並みを揃えなければならない部分は多い。

 そのことが,私自身の中の葛藤としてどう生起するのかしないのか分からないが,そのこともちゃんと考えて成果に反映させていければなと思うのである。

 私がここに書き置きたかったのは,確かに私の立場は大きく変わるし,それゆえに私の言動が変わって見えるところもあるかも知れないが,私は私であるし,制約や関係性の中でも私なりの試みを展開したいという意気込みである。それを忘れないように記しておきたかったのである。

 私から失礼やご迷惑をおかけしている皆様も多いけれども,そのような状況と,私の生来の不徳のせい。どうかご容赦を。

 そして,これから起こることをこっそりとお楽しみいただきたいとも思う。

デジタル教科書議論のために

 明日(27日),民間の「デジタル教科書教材協議会」が設立され,そのシンポジウムが開催される。有力者や有識者が集う教育の情報化推進の動きだけに,これまでのものとは注目度が違う。

 これと連動するように「みんなのデジタル教科書教育研究会」という有志による会も結成され,こうした動きに関心のある人々同士で垣根のない情報交換する活動を展開し始めている。

 明後日(28日)には,文部科学省「学校教育の情報化に関する懇談会」の第8回が開催され,先に示された「教育の情報化ビジョン骨子(案)」に関する討議を行なう予定である。

 その他にも,総務省の動きIT戦略本部の新IT戦略などが平行している。

 電子書籍やデジタル教科書の動向について自分なりに追いかけてきた私にしてみると,こうした動きは歓迎すべき側面と憂慮すべき側面の両方があって,注意しながら様子を見ている。

 気になったり,考えていることは,次のようなことである。

 ・これまでの教育の情報化に関する取り組みの到達点と残した課題についての整理がないか,少なくとも共有されないまま議論がスタートしている。(先行事例との継続性の無さ)

 ・校務の情報化や学習の情報化などの取り組みに優先順位を付けて,取り組みやすいところから順次目標達成していくべきなのに,児童生徒による活用や学力向上目的の利用というハードルの高いところに注力して足踏みをしてきたことを忘れて,児童生徒用のデジタル教科書を優先して考えている。(優勢順位付けの無さ)

 ・今後ますます,地方の教育行政のあり方が,学校教育に光としても影としても差してくる。問題は,地方の現状と展望に照らして,いかなる学校教育および教育の情報化を具現化するかであり,それを可能にする国家的な施策とは何かを明らかにしなければならないがビジョン素案にはそうした視点が欠けている。(国と地方との乖離)

 ・デジタル教科書のハードウェア要件を絞り込むといった議論は,「デジタル教科書問題」という全体テーマのイメージを共有する手段として意義はあるが,現実的には意味がないこと。(ミスディレクション効果)

 ・道具や教材教具はまず提供されてから善し悪しを磨き上げていくものであり,こうも事前に盛り上がるのは,端的に教育的な理由以外の要素が多く混在しているからである。こうした複雑な問題を見通すための情報提供が少ない。(議論吟味のための情報の無さ)

 etc…

 日本の学校教育は,日本自体が世界の中で相対的に沈下していくのに引っ張られる形で沈んでいるのだと思う。しかも国内で地域間格差が生じながら。

 デジタル教科書は,学習指導要領や検定教科書によって保たれてきた全国一律の教育水準と機会提供という看板を降ろしたところで本格的に普及していく教育・学習のツールになると考えられる。

 それはつまり,地域(とそこでの教育)にとってICTや情報化とは何かがはっきりしてこなければならないこととも関連している。

 もちろん,デジタル教科書を推進する理由の一つには,経済活性化のために文教市場をもっと拓きたいという人々の思惑もある。それがナショナルブランドやメーカーによって占められるものか,地方の商業にも果実を落とすことになるのかはデザイン次第だ。

 いずれにしても地域にとって何かしらのメリットをもたらさない限りは,デジタル教科書も教育の情報化も,学校教育に根付いていかないだろう。それが結局は,日本国民をさらに世界から取り残す結果を招くことにもなる。

 日本人は何をとるのか,その具体的到達目標が明確にされないまま,とりあえず21世紀の学びは大事ねという曖昧な総論賛成状態では,また十年後にリセット状態から教育の情報化を議論することになるのだろう。

 デジタル教科書議論が,お互いの腹を割って,教育のため,商売のため,地方のため,政局のためという構成要素を明らかにしながら,それでもなお,共通のプラットフォームで議論する努力のもと展開していくことを願う。

「生活」とは何なのか

 先日,賞与をいただいた。

 その名前に値することをしているのかどうかは,いまいちピンとはこないが,毎日職場に通う継続性に対して与えられているのだと素直に納得しておきたい。

 もっとも,iPadやら何やらの先行投資が多すぎて,大半はその支払いに消えていく。そして,学会費やら家賃やら税金やら借金やらを払うと,ほぼ消滅する。

 それでもわずかに余裕が出来るから,久し振りに夏用スラックスを買ったり,生活雑貨を買い込んだりした。相変わらず本や雑誌も買った。

 けれども最近,本をじっくり読む余裕が失われた。

 調べものの文献資料を「漁る」ことや「掘る」ことはする。ネット検索も組み合わせて,情報を集めては記録していく。ネタ帳に書き込まれて使われる機会を待つものや,授業のレジュメ資料として紹介されていくものもある。

 けれども,じっくり対峙することが確実に少なくなっている。

 特定の理由があるわけではない。強いてあげれば,自己管理能力の無さに他ならない。とはいえ,新しい環境への適応作業がまだ続いているという事実も否定できない。

 新しい職場の2年目。初年に比べれば授業は楽なはずと思いきや,細かな変数が変わってしまって,調整の必要な授業が多かった。教職科目と情報科目を5種類も同時並行するのは,私みたいな人間には骨の折れる仕事である。

 その上,自分の関心テーマを追いかけようというのだから,時間的にはかなりきつくなる。「生活」部分はかなり放ったらかしである。

 そして,あらためて「生活」とは何なのか疑問が立ち上る。

 選挙の投票日が間近に迫り,すでに期日前投票も始まって,選挙戦は白熱している。「国民の皆さんの生活のために」と叫ばれるときの「生活」とは何なのかと思うことも多い。

 円やドルが強い時代は終わり,元が強くなりつつある新しい世界が始まっている。いわゆるグローバル社会に突入した今,日本で生活するということにどんな変化を強いられるのか私たちはまだ自覚的(事態の理解を踏まえて対処しようとする)ではない。

 医療も教育も優先できない生活とは何なのかと思う。家賃と食費と光熱費を払えれば御の字,むしろ税金を支払うために,そうした生活費に回すことさえ出来ない人たちもいる。税金すら払えない人もいる。

 同じ「生活」という言葉でも,まったく異なる世界が広がっている。

 以前の私は,働き口もないまま本当の意味で底辺に落ちる可能性があった。どちらかといえば,そちらの可能性の方が大きかった。

 だというのに,今こうして職に就いてお給料をいただける状況に置いてもらっている。そのことをやはり感謝せずにはいられない。

 ただ,また慌ただしい日々を過ごす中で,なかなか形にできない様々なアイデアや意気込みが宙ぶらりんになっていることを,苦々しくも思う。

 恩返しは,賞与がいくらあっても足りないものである。