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平成二十三年葉月二十二日

 先週末は東京近辺を無計画滞在していた。

 某推進事業の有識者会議なるものが東京であって,それが終わった翌日は東京大学行って調べ物したり,その翌日は横浜を散策してICTを活用した実践研究会のイベントを覗いたりした。

 そもそもあれこれ見聞を拡げて,ものを考える仕事がしたかったので,こんな風に過ごせるのは幸せである。

 しかし,現実はそう優雅にいかず,悩ましいこと目白押しといったところだ。

 ある電化製品に不具合があって修理を必要としている。

 修理を依頼するも,修理のできる人間がいつまで経っても来ない。

 不具合がある事は,企業の窓口に何度も伝えている。

 なのにいつまで経っても不具合をどうにかしてくれそうな人が来ない。

 納得できないまま不具合のある電化製品をだましだまし使う。

 諸外国ならありそうなエピソードだけれど,日本のこと。

 そういう状態におかれれば,誰しも企業を信頼しなくなる。

 窓口に文句を言っている私は,ただ修理してもらいたくて語気を強めているだけなのに,相手にとってはクレーマーになるのだろうか。

 たぶん,誰もが自分の仕事をそつなくこなしているのだろう。

 その結果として物事が解決しなくても,物事の解決が自分の仕事の目標でない限りは,そのことに責任はない。

 それもそうだなと思う。

 私はそんな仕事を選ばなかったけれど,そういう仕事が世の中にあって,そういう仕事でがっぽり稼げる(かどうかは定かじゃないけど…)のだから,そういう仕事ぶりをしている人達を非難しても,私ばかりが気疲れするだけである。

 だから私に出来る事は,そういう企業の商品を買わない選択肢を喧伝するくらいしかない。それとて,本当に必要なこととも思わない。気が向いたからやるのに近い。

 ご縁というのは,双方の想いが重なり合って育まれるものである。

 それが期待できないのであれば,さよならするのが一番である。

 まあ,この国は,新世代や新規開拓よりも旧世代や既得権益のようなものを大事にするお国柄であるから,単に想いのベクトルが違うだけなのだと思う。

 その方が魅力的だから。

 それが魅力的だと思えるモノサシで世界を見ていても,自分が生きている間は問題ないから,そりゃそういう風になるだろう。

 だから,研究者みたいな集団が,新しいものに対する価値や魅力を高く見せられていないということにも大いに問題があると思う。

 もっとそういうことに貢献できるよう動かないといけないなと考えている。
 

平成二十三年葉月十七日

お盆とはいえ落ち着かないのは毎年のこと。徳島に住んでいると阿波踊りもあって街全体が慌ただしい雰囲気になってしまう。

明日からまた東京出張。フューチャースクールの有識者会議というやつがあるためだ。少しばかり発表しなければならないが、他校の研究者の皆さんと意見交換できるのは楽しみである。

現場を覗きに行く機会も限られているので、私自身はこうした事業に関わる歴史的な経過を追いかけてまとめようかと思っている。手に入る情報は少ないものの流れを描けたらと思う。

さて、明日のために寝ないと…。

あれから四半世紀

 私が学校という空間でパソコンに触れたのは,中学校のマイコンクラブだった。それは1984年頃のこと。そういえば日本教育工学会もそれくらいに設立である。

 能天気な中学生にとって,臨時教育審議会なるものが行なわれて「情報化への対応」なるものが答申されたことなど無関係な世界ではあったが,断片的に伝わってくる「コンピュータ教育萌芽」の息吹は,憧れとして心に焼き付くことになった。

 国が教育用コンピュータなどのハードウェア整備に予算を出し始めた頃は,ちょうど高校生から大学受験,浪人などして慌ただしく,その後,教育用ソフトウェアなどの予算が出されていた時には教育学部生としてのほほんと日常を過ごしていたので,国の動きなんてほとんど知らずに生きた。

 残念ながら私の被教育経験の中にパソコンが活用されたことはほとんどない。パソコン関連の知識はすべて自学であったし,難しいことは専門家が昔から考えてくれているだろうと信じていた。まして,昔で言うノンポリ大学生に国の仕組みや政治・行政が分かるわけなかった。

 てっきりコンピュータ教育も専門家が考えてくれていて,私は不幸にも触れられなかったけれど,すぐ後の後輩たちは恵まれたコンピュータ教育を受けられる世の中になるのだと素朴に思っていた。

 インテリジェントスクール,100校プロジェクト,こねっとプランだとかの名前が聞こえてくると,私のあずかり知らぬところで着実に物事は進展しているのだと信じないわけにはいかなかった。

 けれども,その後少しずつ分かってきたことは,私が見ている限りのこと以外には何も起こってはいなかったということであった。

 古い文献資料を掘り起こしていくと,たくさんの言説が豊かに広がっていて,まるで教育全体が情報化による豊かな学びの創造に賛同し,着実に変革が進もうとしているように思えるのであるが,残念ながら現実には少ないパソコン教室でたまに行う特別な授業といった状況は今も続いている。

 四半世紀が過ぎて,新しい道具を取り入れることにまだ四苦八苦している。

 何のご縁か,総務省と文部科学省の事業に関わる立場に立った。学校現場近くで見守るだけの仕事だ。願わくは自分が見てきた現実をもっと前進させることにお役に立ちたいと思うのだが,この立場に立ってみて初めて見えてくる難しい事情もある。

 とはいえ,私が関わる事業を今どこかで四半世紀前の私と同じまなざしで見ている後輩がいると思うと,もっと頑張らなければならないかなと思う。

 後輩が四半世紀後に「いまだ新しい道具を取り入れるのに四苦八苦している」と繰り返して書くことがないように物事がもっと進むよう発言していこうと思う。
 

平成二十三年葉月八日

 気がつくと八月。ようやく前期の成績処理も終えて、溜まっている宿題を次のコマに進められる。

 日々は慌ただしいのだけど、自分の仕事ぶりは見事に空回りしながら、スローモーな進み具合に気持ちはグッタリして、その上、夏の暑さで身体もグッタリしていた。

 何かこう、上手くできていないことが積み重なっていることが、自分でよく分かっているだけに、心がギシギシしたり、トゲトゲしくなってしまっている自分がいる。

 一段落したところで、もう一度余裕を取り戻してみよう。

手書き入力機能付きブラウザ

 この文章はiPad上で手書き入力している。

 そうなると有名になった7notesというアプリを使っていると考える人も多いかも知れないが、今回使用しているのは「mazec web client」という新しいアプリである。

 7notesはそれ自体で文章入力をするアプリとして閉じた構造になっているアプリで、手書き入力もそのアプリを使っている限りで有効なのであった。

 優秀な手書き機能が他の場面で使えないというのは大変もったいない。しかし、iPadのセキュリティ構造上、文字入力機能を自由にシステムには追加できない。これが可能なAndroid端末ではmazec for Androidとして手書き機能が単独で発表されたところである。

 そこでなんとかiOS上で汎用的に手書き機能を活用できないかという要望に応えるものとして開発されたであろうアプリが、mazec web clientというわけである。

 何が出来るのかというと、これはwebブラウザなので、Webサイトが見られる。そして、Webサイトの入力欄に文字を入力することができるというわけである。

 このことが意味するのは、Webページになっているものなら手書き入力機能が使えるということである。ブログやTwitterもWebページからアクセスすれば手書き入力が可能だ。

 Webページを上手に設計、デザインすれば面白い使い方が可能になるかも知れない。