月別アーカイブ: 2012年2月

何のためのデジタル教科書

 「デジタル教科書」が話題に上ることがある。教育の情報化に関係するトピックスとしてはホットな話題だとも言える。電子書籍へ注目が集まったことも相乗効果となった。

 デジタル教科書とは何か。

 電子書籍のように、教科書や教材が電子化されたものと想像できる。電子化されると、それはデジタルデータだから、昨今のWebページと同様にマルチメディアで表現され、インタラクティブな構成も可能だ。ネット接続されていれば既存のWebサイトともリンクするからオープンだとも言える。

 要するに、電子書籍やらWebやら動画やらのデジタルな情報資源を、教科書的に利用すればそれはデジタル教科書になるし、教材として使えばデジタル教材とも呼べるだろう。もしもデジタルな情報を記録する側に回って、その時に使ったソフトウェアの道具(ツール)があるなら、それをデジタルノートとか呼ぶことになるかも知れない。

 デジタル教科書とは、その程度のものである。

 他の方々は同意しないかも知れないが、私の考えでは、使い方が呼び方を規定している関係にあるように思う。

 だから、デジタル教科書を解説するときに登場する「指導者用デジタル教科書」と「学習者用デジタル教科書」という分類は、使い方の異なる主体で区別した結果できあがったものである。

 このうち、指導者用デジタル教科書に関しては、指導者の使い方が想定しやすく、実際の商品がすでに存在していたこともあって、カテゴリとしての共通理解は形成されているといってよい。端的には電子黒板(IWB)に映すためのもの、それである。

 ところが、学習者用デジタル教科書に関しては、学習者が教科書をどのように利用するのかハッキリと共有されていたわけでもなく、それをデジタル化して何が起こるのかについても、ほとんど想定がなされていない中で、名前だけが先行して付けられてしまった。

 率直に書けば、学習者用デジタル教科書とは「指導者用デジタル教科書以外」を指し示すために存在するようなものである。

 ところで、学習者用デジタル教科書なるものが成立するためには、その手前に踏まなければならないステップがある。

 学習者用デジタル教科書を動作させる機器(デバイス)が準備されることである。

 もし、使い方が名前を規定している説が正しいのであれば、件のデジタル教科書が動作するデバイスは、学習者の手の届く範囲に存在しなければ学習者用デジタル教科書にはならない。

 現状、デバイスはどの程度学習者の手の届く範囲にあるだろう。

 千差万別といったところである。

 研究事業に関わる学校などには試行的に学習者一人一台のデバイスが用意されているところも出てきてはいるが、ほとんどの学校で学習者が自由に使える状況にないだろう。家庭でのデバイス所有程度も一様ではない。

 このことから現状では、学習者デジタル教科書なるものが全員にまんべんなく使われるのは難しいことがわかる。

 また、学習者用デジタル教科書は動作するデバイスの性能や機能に規定される性質を持つこともわかる。

 こうした様々な制約や要因に強く影響を受け、そのうえ学習者の使い方によって求められる形が異なるであろう学習者デジタル教科書とは、本当に一体何なのか。

 皆さんはすでに、学習者用デジタル教科書と言えそうなものの実例をいくつか目にしている。

 たとえば大学の授業テキスト(教科書)として、電子書籍を使う試みがある。大学生という学習者が講読するために使うのだから、一般的な電子書籍ではあるが学習者用デジタル教科書と呼んでも間違いではない。

 iPhoenやiPad用の学習・教育アプリなどがある。これも教科書かどうかの見解は分かれると思うが、読みもの、ドリルもの、動画観賞ものなど、学習者が使えるものが多数ある。

 一方、国の事業として、児童生徒一人一台のデバイス環境を前提とした学習者用デジタル教科書の開発もなされている。各人にデバイスが確保されていることを前提とできるので、授業における学習者デジタル教科書の活用に期待がかけられている。

 いまのところ、これは実証校の公開授業を参観しない限り、一般の目に触れる機会がほとんどないため、どのようなものであるのかはあまり知られていない。「教育の情報化ビジョン」という文書に学習者用デジタル教科書に関する解説があるが、それを参照しながら開発されているとイメージしてもらう他ない。

 いずれにしても開発中のため、模索は続いている。

 学習者用デジタル教科書は興味深いテーマではあるかも知れないが、個人的には、そこが本丸ではないように思っている。

 どちらかといえば情報活用ツールとしての学習者用デバイスをどうするのかが問題だと思っているのだが、それもどんな機種や機能・性能を持つのかということではなくて、学習に必要ならば(学習者用デバイスやデジタル教科書に限らず)どのようなツールであれ自在に取り入れられるような条件整備こそが大事だと思っている。

 しかし、そうなれば、必然的に「何のためのデジタル教科書か」という問いが浮上する。到達しようとする学習の目標次第では、デジタル教科書なるものである必然性をなんら説明できない場合もある。

 たぶん、21世紀型スキルとかDeSeCoなどの話題と無関係ではないのだろうが、残念ながら、そのような論点を踏まえたデジタル教科書の議論は十分なされていない。
 

高速バスな旅

 自腹出張が続いているので、交通費は節約しなければならない。日程がかなり前からわかっていれば早割りで飛行機のチケットを購入したりもするが、だいたい近くになって予定が確定するので、そういう場合は高速バスを使うことになる。

 徳島−東京間は片道6,000円が最安。でも、4列シートのバスなので、これで隣りに人が座って一夜を過ごすのはきつかった。だから最近は、3列シートのバスに甘えている。これだと8,000円也。2,000円の差額は安くはないが、それくらい贅沢させていただくくらいは働いていると信じよう。

 0泊3日の出張にすれば、宿泊代が浮く。その分を次回の交通費に回せる。どうしても宿泊しなければならない場合は安宿を探すのだが、最近安宿よりもスーバーホテルにはまり、もっぱらスーパーホテルに宿泊している。ポイントカードが貯まるとキャッシュバックもあるし、値段の割りにとても快適に過ごせる部屋なので、これも贅沢承知で続けちゃっている。

 来月も毎週のごとく東京へ出かける。

 徳島に引っ込んで、のんびり地方暮らしをしてフェードアウトするのかなと思ったら、そうは問屋が卸さなかった。確かに税金で勉強させてもらった分だけ恩返ししないと…。

 給料日がきて、一服。自転車操業な日々がまだまだ続く。
 

シンキングツールとの再会

 2012年2月4日に行なわれた関西大学初等部の研究発表会に参加する機会を得た。前日の予定が出張の主目的であり、大阪入りして初めて発表会の開催を知ったので、参加することになったのは偶然だった。

 関西大学初等部は2010年に開校した新しい私立小学校である。この学校では、思考スキルの習得による思考力育成の取り組みを行なっており、そこにシンキングツールとルーブリックと呼ばれるものが導入されている。この実践が注目を集めている。

 この学校と私には直接の縁があるわけではないが、大変お世話になっている関西大学の黒上先生が立ち上げに尽力されていることから、興味を持っていたというわけである。


 
とはいえ、実のところ全く無縁というわけではない。

 米国のシンキングツール実践事例を視察するよう、黒上先生からお使いに出された経験があるからである。米国フロリダ州オーランドにあるShenandoah Elementary Schoolに訪問したのは2005年10月のことだった。

 ところが当時の私は、職場でくるくる空回り。その年のクリスマスイブに辞表を提出して、翌年には東京に引っ越すという人生の転換点を迎えていた。

 せっかくお使いに出かけてお役に立つべきときにお仕事を放棄すことになってしまったというわけである。そんなわけで、シンキングツールは私にとって始まったまま終われなかったテーマとして、なんとなく頭の片隅に残り続けてきた。

 関西大学初等部ができるというニュースとその実践の方向性を聞いて以来、いつかは初等部に訪れたいと思っていたのである。
 (それに東京時代に修士論文でお世話になった先生もその学校でご活躍だと聞いていたので、久し振りにお会いできればとも思っていた。)

 これが神様のいたずらか、ひょっこりそのチャンスが訪れた。

 予定外だったとはいえ、前日の用事が公開授業の参観であったから、そのための準備は万端である。JRで高槻駅へと向かい、とことこと関西大学・高槻ミューズキャンパスへ。

 いやはや、ため息出ちゃうほど立派な建物である。

 しかし、建物以上に先生方の意気込みと実践に目を見張った。まだ4年生までしかおらず、6年制の小学校としては未完成状態、その中で、一つの大きな場所を生み出そうとして必死に頑張られている先生方の姿は迫力があった。

 思考スキル習得と思考力の育成を担う「ミューズ学習」の授業も低学年中学年にも関わらず大変高度な展開を見せていることに素直に驚いた。最初からこうではなかったらしいが、2年程度でここまでくるとは、ミューズ学習の取り組みの可能性を感じた。

 シンキングツールも米国で視察したものを流用するわけではなく、むしろ様々な思考技法の知見を踏まえた上で小学生の学びにあうものを選択して独自に作り上げて活用していた。ポケモンのように、新しい技法を一個一個ゲットしていく形で習得させようというわけである。

 もちろん現在もこの取り組みは試行錯誤を重ねながら作り出している最中。

 だからこそ、今回の公開授業でも「事実」から「まとめ」を起こしたあと「主張」に結びつけていく場面が発生したときに、子ども達が「まとめ」と「主張」をうまく区別できないという問題に直面していた。

 その後、これを分科会の議論のテーマとして掲げ、いろいろな意見が飛び交うことになるのだが、どうも私にはピンと来ない意見も多かった。

 発言しようかどうしようか迷ったが、頭の片隅に残っていた「宿題感」が提出を促していたので、遠慮がちに「アメリカでは、シンキングツールをもっとあっさり使っていた。まとめと主張を迷ったところも、スパッとシンキングツールを使って解決してもいいのではないか」と発言をした。

 ところが、この発言内容が、どうも現場の先生には違和感があったらしい。

 記録をとっていないので正確な受け止めではないかも知れないが、とある女性の先生がこんな感じの発言をした。

 「どなたかアメリカではもっとあっさり…と言われましたが、子ども達が困難に直面して考えようとしている場面で先生が寄り添って一緒に考えてあげていたことがとても良かったと思います。あくまでも子どもが主体的に考えることを大切にしたい…云々」

 当日の発言となんかちょっと違う気もするが、とにかく「あっさり」に対して違和感を感じていたことは明確に表明していたように思う。

 その後も現場の先生方の感想や意見が続くのであるが、私の中ではむくむくと補足をしたい気持ちが大きくなっていた。もはや、いつもの暴走モードである。

 先ほどの先生の発言や思いを否定するつもりはなかった。

 だから、子どもが主体的に考える場面を一緒になって大事にする、それも重要であることを確認した上で、なぜシンキングツールをもっとあっさり使うべきかを、関西大学初等部の関係者でも何でもないのに、かつてのお使い経験だけでとうとうと語り始めた。

 何をしゃべったのか、正直なところあんまり覚えていないが、時間を浪費したために最後に講評をいただく来賓の先生方の発言時間がわずかしか無くなってしまったのは申し訳ないことをしてしまった。


 
 全体シンポジウムは、このミューズ学習を教科の学習へと応用することに関する様々な意見が出されていた。もちろん、思考スキルの習得にフォーカスするという方法自体も議論の対象となった。思考スキルを学んだ成果が教科の学習にも転移するのかどうか。

 たぶん、実践をもっと見たり体験してみないと、シンキングツールをゲットして思考スキルを習得していくことの意味や効果を理解しづらいのかも知れない。

 「あっさり使えば」という私の意見は、もちろん何も考えないで淡々とツールを使えばいいということを言いたかったわけではない。子ども達にだってツールを使うことが腑に落ちなければならないだろうし、それを成立させるためのプロセスは思いの外手間がかかるはずである。日本的な教育との融合にもかなり悩みが多いはずだ。

 だから、正直なところ「あっさり」という言葉に違和感を感じた先生の反応は正しいと思う。きっと、背後に隠れた様々な苦労を直感的に感じたからこそ、先生がもっと子ども達によりそう重要性を指摘したのだろう。そして実際、関大初等部の先生方はその苦労をされていると思う。

 だから、私はもう少ししっくりくる表現を見つけて発言すべきだったのだろう。

 なんとなく、頭の片隅の宿題が大きくなった、そんな関大初等部での参観だった。