このところマイクロソフトがおかしい。ん?おかしいのは昔からだし,そういうおかしさに嫌気がさしてWindowsから距離を取ってきたのもあったが,それはそれで,そんなのがマイクロソフト・ウェイだと思えば済んでいた。
ところが,このところマイクロソフトはビル・ゲイツの引退というわかりやすいニュース以外にも,肝心の主力製品であるWindowsやらMS-Office製品の次期バージョンに関して,雲行きの怪しいニュースが飛び込んでいるのである。そうなると憎たらしい相手とはいえ,元気のない姿を見るにつけ,「ちょっと大丈夫?」と思わず心配してしまうのである。
それはたとえば,次期製品Office2007のリリースを(これも延期されてそうなったのだが)2006年10月を予定していたのに再度延期で2007年の早い時期にと変更になったしまったこと。ドラスティックな操作体系の見直しをして,人々を不安にしているだけに,あるいはこれは嬉しいニュースなのかも知れないが,そんな調子で大丈夫なのか?と思う。
そしてもう一つはWindows Vista。次世代OS製品としてかなり前から開発が続けられているものだ。本来であれば,2003年にリリースされているべきだったとも言われるが,現在は2007年初めにリリース予定されている。
こういう新しいOS製品は,盛り込まれる予定の様々な目玉技術というものを何年も前から事前にプレゼンテーションして,いろんなソフトを開発する他社の技術者に理解してもらって活用してもらおうと準備する。Windows Vistaも2003年あたりから「今度の新しいWindowsは,こんなに凄い技術が搭載されて,素晴らしいパソコン環境になります!」とたくさんのアドバルーンを上げていた。もちろんその時点で完成していないものもあるが,その実現を見越して,パソコンソフト業界は勉強を続け,自分たちのソフトで最新技術を使えるように準備するのである。
ところが,派手なアドバルーンを上手く実現できる場合もあれば,風呂敷を広げすぎて実現困難で挫折という技術もあり,これがなかなか大変なのだ。
問題なのは,Windows Vistaというのが「次世代OS」という事を強調しすぎて,結構無理難題をたくさん抱えていたことである。そして先日,この新時代のOSで一番の目玉技術と考えられていた「WinFS」という技術プロジェクトが,ひっそりと中止宣言して大問題になっているのである。
私はWindowsの技術者ではないので,正確なことは書けないが,要するに「WinFS」技術は,「Windowsをデータベースにしちゃいましょ」っていう技術なのである。
パソコンがある程度便利になってきて,そしてインターネットからたくさんの情報を得られるようにもなってきて,たくさんのデータを管理する時代になっている。皆さんの使う頻度や程度がどうあれ,パソコンでは無数の情報が管理されているのである。そういうのを細かく見ていくと,重複した情報というかデータが存在したりする。編集しているうちにたくさんのバリエーションが増えたワープロファイルとか,住所管理ソフトとか,メールソフトとかいろんなソフトで管理している知り合いの住所とか。とにかくコンピュータの中を調べていくと,似たようなデータがいっぱい。
そこで「Windows自体がデータベースになっちゃえば,こういう重複したり似たりしているデータを整理して,効率的に使えるんじゃない?」と考えた技術者がいて,その基礎技術として頑張っていたのがWinFSである。
もしWinFSってのが実現すると,Windowsで動くソフト全部,データベースの機能を使えて,しかもソフトの違いにかかわらずお互いの情報を効率的に利用できるので,「ワードファイルと一太郎ファイルが混ざってダメじゃん」ということを心配しなくてもよくなるのである(ちょっと嘘ついてるけど…)。
だから,ソフト開発をしている技術者の皆さんにとって「WinFS」って技術こそWindows Vistaの肝であり,それが実現するんだったら,Windows万々歳,という感じだったのである(まあ,そこまで脳天気な開発者はいないけど)。
ところが,先に書いたように,この「WinFS」がひっそりと中止宣言。正式発表ではなく,マイクロソフト開発者のブログで,「計画を変更します」と説明する形で明らかになった。
この「ブログで明らかになった」というところがマイクロソフトにおける不穏な空気を醸し出しているところで,もしかしてこれはWindows Vistaそのものの開発やリリースに関しても,何か悪いニュースが控えているのではないかという憶測にも繋がってしまうのである。少しでも世間のショックを和らげるための工作が展開しているような気もするのだ。
Windows Vistaのベータ版についても,ベータ版といいながらまだまだ完成の域には達しておらず,開発現場では大変な努力が展開しているらしいことも伺える。これが経営サイドと開発サイドの乖離という事態を示しているのではないことを祈ってあげたいが,もしそうだとすれば,巷でいわれているソニーのような状態になって,もしかしたらマイクロソフトに大きな陰りがやってくる可能性も否定できない。
WindowsやOfficeが新しくなることで,完成度が高いか低いかのいずれにしても,振り回されてしまうのはいつも消費者,エンドユーザーだということ。距離を取っている人間としても,ちょっと気になる空気である。
月別アーカイブ: 2006年6月
水無月30日目
結局,出来た原稿を大幅に書き換えることにして,やっと脱稿。こんな短い原稿に数日費やしてしまった。テーマが漠然として何を書けばいいのか不明な上に,全く打合せがなかったのだから仕方ないか。せっかくだからイラストも図の中に押し込んで使うことにした。チェックしたあと,メールで送信した。
朝5時に少しばかり英語文献を読み進める。粗く訳出しようかと思ったけれど,今日も明日も研究関連のお仕事で,そんなのんきなこと出来そうにない。受験出願〆切も近く,いよいよせっぱ詰まってきた。まずいなこれは。というわけで,寝ないで朝6時までチマチマ英語読んでいたけれど,さすがに一睡もしないのは身体がきっと拒否するので,少しだけ寝よう。
実家に業務連絡。まあ,大丈夫です。ご心配なく。おやすみぃ。
水無月28日目
原稿もあと一歩だが,せっかく描いたイラストを没にすることになった。まあ,これだけじゃ図にならないからなぁ…。なので,ここに貼っておこう。かわいいでしょ?(こんなイラストが出てくる原稿たぁ,どういう原稿だ?という鋭いツッコミは次回に…)
軟禁状態なので,これといって新しい話題は無し。そうそう,過去の駄文に関連して2つ。杉並師範館を取り上げながら日本の教育事情の記事を掲載したニューヨークタイムズの記事に対して,杉並師範館側が抗議を行なったとのこと(たかさん,ありがとうございます)。Web記事を無料閲覧することはもうできないが,抗議文は記事を引用して事実との違いを指摘している。グローバル時代,海外ニュースメディアに対しても抗議しなければならなくなった。
もう一つ。過去の駄文でよく検索参照されるのが「exCampus meets MacOSX」というエントリー。小生意気な筆致で書いたのが自分で読んでも鼻につくが,有り難いことに開発者の方々にコメントもらったりして恐縮ものであった。で,昨日気がついたのは,コメントをもらっていたことを忘れたまま,先週ご本人と初めて会っていたこと。ああ,気がついてたら失礼を詫びたのに…。でもまた会えるでしょう。
今夜こそ,次の仕事に移りたい。
水無月27日目
結構,ToDo項目が溜まっている。昨日のうちに片付けようと思った原稿が難産。やはり紙に定着する文章を書くとなると,すっかり思考が堅苦しくなってしまう。いかんいかん。イラスト描いて挿入してみよっと。
久しぶりに食材買いに出かけた。デパ地下にベーグルが売られていた。前から食べたかったので,3ついただく。夜食に黒こしょう入りのベーグルをパクつく。もちもちしていてなかなか美味しい。ベーグルといえば,ニューヨークというイメージ。ニューヨークといえば,いつも思い出すのはターキーのサンドイッチである。最初,店のおじさんが「Do you want heros?」と聞いてきて,「ヒーロー?…なんじゃそりゃ?」と思った。困った顔していると,パンを見せてきた。そのとき初めてサンドイッチのパンをそう言うのだと知った。懐かしい。
連日蒸し暑い。室内で熱中症にでもなりそうな勢いである。水分補給を心掛けないと。でも今日は誘惑に負けて,クーラーを使ってしまった。だって,仕事はかどらないんだもん。
学会スライドはオンラインでどう?
Web2.0のセミナーに参加したもんだから,ちょっとWeb2.0サービス馬鹿になってみている。いろんなサービスがある中で,今回紹介したいと思ったのは,Webベースのオフィススイート「Zoho」。それもこのたびプレゼンテーションのサービスがリリースされたというのでさわってみた。
初めての皆さんに「Webベースのオフィススイート」というのが何かを説明しておこう。パソコンを使って何か仕事をするという場合,パソコンにワープロソフトや表計算ソフトというものを購入して(もしくは最初から用意されていて),このソフトを使いこなすことが必要だった。その事務用ソフトで一番有名なのが「マイクロソフトオフィス」というセットで,ワープロと表計算とスライドまたデータベースなどに使うソフトがまとめられている。このような事務用ソフトのセットを「オフィススイート」と呼んでいる。
それで,今まではCDやDVDの形で販売されていたソフトを導入して使用するというスタイルが一般的だったのだが,インターネットが普及するとネットでソフトを提供しようという事になってきた。「オンラインソフト」とか「フリーソフト」とか呼ばれるものがそれで,無料で使える場合が多いので導入事例も増えてきた。この場合のオフィススイートで有名なのが「オープン・オフィス.org」というセットである。マイクロソフトオフィスと同程度のものが無料で手にはいるのだ。
しかし,これは単に配付手段がCDやDVDからインターネットに変わっただけ。Web2.0の世界は,インターネットというネットワークの特性をソフトそのものに活かそうとする試みをする。
それはソフトを入手して導入するという手間を省き,すべてをWebブラウザー(閲覧ソフト)の画面の中で済ませてしまおうという試みなのである。ソフトそのものはインターネット上に存在し,作成したファイルを保存する場所もインターネット上。こうすることで,Webブラウザの動くパソコンならどのパソコンでも,登録した会員IDとパスワードを入力することで,いつものソフトとファイルを編集することができるのである。
少しイメージしにくいかも知れないが,こんな風にインターネットに接続されている状態で使用するソフトのことを「webアプリケーション(またはwebサービス)」などと呼び,webアプリケーションで提供されているオフィススイートの一つが「Zoho」というソフトなのである。もちろんこれ以外にもgoogleなどが同じようなwebアプリケーションを提供している(WritelyとかGoogle Spreadsheetとか)。
さて,ソフトやファイルがインターネット上にあるって,一体どんなメリットがあるんだろうか。それにそういうwebアプリケーションって,いままでのソフトと同じように使えるのだろうか。
実のところ,ワープロとか表計算とかではそれほどメリットを享受するとも思えない。私たちの職場環境は,ローカルネットワークが用意されているだろうし,ワープロ文書も表ファイルもファイルサーバ経由で共有すれば済むことである。わざわざwebアプリケーションに切り替えて使う必然性が薄い。
ところが,インターネット上にファイルを保存し,誰か不特定多数と共有することがとても必要になるソフトがある。それはプレゼンテーションソフトだ。発表スライドを不特定の聴衆に配付したり閲覧してもらう場合には,インターネット上に保存して公開できれば都合がいい。とはいえ,これまでだと,発表用のスライドファイルをどこかのサーバーにアップして,そのURLを知らせて…なんていう手間が厄介だった。スライドに修正が入った場合には厄介を繰り返すことになる。
しかしプレゼンテーションソフトがwebアプリケーションとしてインターネット上で使え,それをファイル保存したら公開されるようにすれば,スライド内容を簡単に共有できるようになる。これは嬉しいかも知れない。
学会発表の会場がインターネット接続を確保するか,自分でPHS使って接続確保すれば,発表に使用できるし,まして聴衆側も同じスライドをその場で共有できる(パソコン持ってりゃの話だけど)。これがうまくいけば,当日スライドを紙に印刷する量も減らせるだろうし,スクリーンをデジタルカメラで撮影する滑稽な自分ともお別れできるじゃないか。
というわけで,「Zoho Show」という新しいプレゼンテーションwebアプリケーションが登場したようなので,試してみてもいいかも。幸い,ちゃんと日本語表示できるようだし。派手なアニメーションはないとしても本来プレゼンはパラパラアニメなのだ。枚数で頑張ろう。あとは中身だな,うん。
Web2.0で創る
BEATセミナーに参加。Web2.0で創る『みんながちょっとずつ頭がよくなる世界』というテーマで,Web2.0の世界の発想を教育に活かせる点があるなら探ってみようという場であった。
Web2.0についてはあれこれ雑誌でも紹介されていたので,ティム・オライリー氏の定義とか云々は置いておくとして,それでどんなことができるのかを朝一プログラミングでつくって見せちゃう事例には感心した。東京大学研究員である久松慎一さんの講演は,既存のサービスの紹介だけでなく,Web2.0の基礎技術の活用事例もあったので興味深かった。
それからネットユーザーのサイト利用動向を視聴率の観点で調査した結果について消費行動との関係でWeb2.0的なものを分析する話もあった。かつてはテレビ視聴率も集計していたニールセンのグループ会社であるネットレイティングスの社長である萩原雅之さんによれば,広告マーケティングも消費者の「サーチ」行動と「シェア」行動を意識しなければならなくなったということらしい。
また実際にWeb2.0的な活動をしている「百式」というサイトの管理人である田口元さんは,Web2.0をブログ界隈で言われている解釈で明解に紹介した。要するにWeb2.0というのは「○○はイケている」と同じような「格付け」概念なのだと。なんとなく2.0と言えば人が集まってくるし,かといって2.0について人々が考えるものは必ずしも完全一致しない,しかも2.0を自称する人って大概そうじゃないというような特徴の類似が「2.0」と「イケてる」にはあるんじゃないかと,実際の事例をあげて指摘するのである。それで田口さんがクルッとまとめて定義したのは
「いかに”2.0っぽいね”と格付けされるよう適切なコミュニケーション手法をとれるか」
ということ。「コミュニケーション手法」という観点から考えるというのは,技術的な観点ではなくて,多分に人文的というか教育的というか…。その辺から今日の話題がさらに膨らむのかなと期待を抱かせるものだった。
ところがそう簡単じゃなかったというのが今回の結論だった。どうも教育的なるものは1.0的なのか,0.いくつなのか。2.0とはかなりの隔たりというか,溝があるようなのである。結局,2.0は「Why not?」の世界だから,高く格付けされたければ適切なコミュニケーション手法をとればいいじゃん,うまくいくように頑張って,ダメなら仕方ないんじゃない?という感じなのである。片やフロアというか,教育界隈の人々は,積極的に相手に影響を与えたいと考えるから,ダメなら仕方ないのが許せない(?)という立場。
最後のまとめで,大きな溝をうまく跳び越える手段があれば,2.0的なものと教育とで面白いことができそうだと予感が示されたのであるけれども,そうなると既存の学校や教育の枠組みでというわけにはいかないのではないかということも会場の多くの人たちが同意していたと思う。
その後,懇親会。いつものようにテーマ絡みの雑談から青山豆腐工房と記号論の話題まで,縦横無尽におしゃべりが続き,メモの大事さを再確認してお開きとなった。
日本と英国の情報化
今日は上智大学でブリティッシュ・カウンシルとJAPETなどが主催する「教育情報化セミナー日英編」に出席した。この頃,周りの先生方が英国へ視察に出かけているのだが,私は貧乏人らしく日本で英国(UK)事情を勉強することにした。
東京と大阪(26日)で開催。UKの教育技能省(DfES)テクノロジーグループと教育工学通信協会(Becta)からお二人の担当者が来日し,UKの教育の情報化事情をお話ししてくれた。実はどちらもラストネームはマクレーンさん。でも親戚でも何でもないらしい。
DfESのケビン・マクレーンさんは,英国政府とDfESがどんな取り組みをしてきたのか紹介してくれた。現場への情報機器導入といった次元の話はほとんどなかった。英国政府は学習経験の充実のために環境整備を当然行なってきており,教師という専門家がテクノロジーを使うことも当然のことといった前提。今後は,学習者やその親御さんたちが24時間いつでも情報やサービスにアクセスできる個別的な環境を整備していくことが主眼のようである。
もちろん現場レベルにおいては,電子ボードの活用や柔軟なカリキュラムの開発や共有にまだまだ課題が残されているようだ。しかし,少なくとも国レベルでは,ダイナミックな学習経験に結びつけるためのテクノロジー施策をどんどん打っていくようだ。「This is not about technology — it is about learning.」当然といえば当然すぎる言葉がスライドに映し出されて,そのためにリソースを使っていくことに何の迷いもない英国の取り組みに,あらためて感心した次第である。
Bectaのニール・マクレーンさんは,Bectaという組織の紹介とICTを活用した現場の現状や今後について紹介してくれた。Bectaというのは日本で言うところのメディア教育開発センターなのかな。いや,もっと現場に関与して技術提供したりICT活用を支援する活動を行なっているような組織だから教育情報ナショナルセンターの方が近いか。ニールさんの発表はICTの活用が学習効果や成績にも好影響を与えているということに触れていたけれども,実のところこの効果のほどは劇的とはいえず,日本のそれとどっこいどっこいという感じではあった。
けれども,ここでもそんな後ろ向きな発想は出てこない。仮にわずかでも全体的には好影響を与えていると調査結果が出ている以上,何が違いを生むのかを真摯に捉え,それを伸ばしていこうという前向きな態度なのである。そしてインフラ,コンテンツ,実施方式の変遷を示しながら,それらの課題に対応したテクノロジーの提供と学習の場における組織デザインそのものの変革を目指すのである。たとえば「self-review framework」というICT活用と組織デザインに関する規準と基準のような枠組みを用意して,学習者のための教育成果改善へと役立てようとしている。これをWebベースで記録していき,共有化する仕組みも用意しているらしい。
ニールさんの最後のスライドを引用してみようと思う。英国においてICTに関するポリシーがどんな方向性を持っているのか,7つ示されている。日本語訳によると「教師主→学習者主」「固定→流動」「個々のデータ→データ蓄積」「コンテンツ→サービス」「まとまりのない管理,カリキュラム,評価→学習向上と個別化に焦点を置いた学習プラットフォーム」「周辺→本質」「’よい教材の一部’→’強力な解決手段’」 こうしたポリシーの方向性に基づいて,迷いなくストレートに取り組んでいるという印象であった。
午後にはパネルディスカッションが予定されていて大変興味があったが,別件で小学校現場の研究助言する仕事があるので,ここまで。英語版の資料をもらって上智大学を後にした。ちなみにニールさんのスライドは検索したらインターネット上に似たようなものがあったので,興味のある方は,そちらを(ニール・マクレーンさんのスライド)。公開を意図したものかはわからないので,とりあえず感謝しながら参照するようにしましょう。何事も感謝の気持ち大事。
午後は日本の学校現場におけるIT活用の取り組みについて。今回は2年生の国語の時間で,デジタル教科書とタッチパネル機能付きプラズマディスプレイを利用した授業を見せてもらった。そのようなツールがごく当たり前に使えるようになることは,とても大事だと思った。一方で,授業を構成し作り上げる基本的な取り組みが今まで以上に重要視されてくることも見えてくる。視覚的な効果が強ければ強いほど,本来の授業が何を狙おうとしていたのかが置いてきぼりにされてしまうことに気がつかなくなってしまう危険性。
午前中にケビン・マクレーンさんが提示した言葉「This is not about technology — it is about learning.」をもう一度思い返してみるならば,どんなに便利なツールがやって来ても,やはり根幹である授業の設計や授業中の発問などといった部分を極めていくという試みは変わらず大事である。むしろこうしたテクノロジーを活用しなければならない時代だからこそより一層大事になるのだということに自覚的でありたい。
というわけで,午前中に聞いたことを午後に受け売りでご披露して,私の小さな日英の架け橋活動は幕を閉じたのであった。その後は反省会。授業担当してくれた若き男先生に講評で辛辣なことばかり言ってしまったので,本当はとても素敵で楽しい授業だったといっぱいいっぱい褒めて励ました。
教育学部を出て十何年,友人たちの多くが現場で活躍している。彼らに直接報いることができない分,こういう機会に現場の先生のお役に立ちたいと思っている。そのためにピエロになれというならば,僕は喜んでそうする覚悟なのである。そんなことを思い出しながら,現場の先生たちとのひとときを過ごしていた。
教育基本法
第164回通常国会が閉会した。教育基本法の改正案が提出されながら,期限切れという理由で決着しなかった。改正について賛成の立場も反対の立場も,議論や改正案が中途半端状態であったことを考えると,決着しなかったことにホッとしているのかも知れない。
改正案なるものが示されて,書店にはそれに関する関連書が並び始めた。国会会期の行方と共に,駆け込みで改正案が可決されてしまうのではないかという懸念により,教育基本法改正自体は注目を集めた。けれども,この国の教育を現実的によくするため教育基本法改正が最優先であると信じる人は少なかったろうし,そもそも教育基本法自体についての認識も十分だったとはいえない。
教育にかかわる仕事に携わっていても,畑が違えば「ど素人」同然。私自身,駄文だから気楽に書くのもありかとは思うが,教育基本法の改正に関して準備もなく深入りすれば,痛い目に遭うこともよく承知している。何しろ基本法である。現場であれこれと試してガッテンするタイプの話じゃない。
本来ならば,6月2日New Education Expoで中教審の会長でもある鳥居泰彦氏が講演した教育基本法改正舞台裏の話をご紹介すべきだと思う。けれども,長い紹介をするための心の勢いがないので,その代わり,簡単に書くと,教育基本法改正案で考えられていることは,愛国心云々だけではなく,占領時代を断ち切り,この時代にあった法律へバージョンアップすることらしいのだ。そこで鳥居氏が最初に紹介したのが,法律としての「部分修正」なのか「全部改正」なのか「新法制定」なのかという法律を改正する際の方法論であった。そして内閣法制局との丁々発止?のやりとりを披露したのである。
実は,今回書きたいことは,この鳥居氏の講演でも指摘されていた「教育基本法」の前文の前文?についてである。皆さんは巷の教育基本法改正関連本をご覧になったことがあるだろうか。あるいは教育関係の方々は,三省堂か学陽書房なりの『教育六法』をお持ちだろうか。そこに記載されている教育基本法をご覧いただきたい。一般的には次のように始まっている。
—–(a)
教育基本法 (昭和二二年三月三一日 法律第二五号)
われらは,さきに,日本国憲法を確定し,民主的で…(以下略)
水無月21日目
ダンボール6箱分の援軍来たる。「おまえたちも上京したのか」,繁繁と眺めた。無作為に手にした『ポストモダンの思想的根拠』(ナカニシヤ出版2005.7)の偶然開いたページから読み始める。この手の本の誘惑に負けてる自分。
今日は午前中にお仕事。小雨の天気だったが,帰りには傘の必要はなくなった。「雨男ですか?」と冗談で言われる。そんなつもりはなかったものの,上京してからの東京の天気は不安定。もしかして不安なオーラがそうさせてますか。いかんいかん。カラッと脳天気に過ごすことを心の誓う。
ところが帰宅後,夏風邪の兆候。汗と寒気が同時に襲ってきている。これは注意しないと…頭痛が酷いと作業がストップしてしまう。しっかり食べて,休息必要。何かスタミナのつくものを食べに行こう。
#ポッドキャストを登録してくださる皆様,ありがとうございます。更新はそのうちに。それまではPodcastアーカイブスにてお楽しみください。
ゼロ・トレランス
実家で取っている朝日新聞夕刊に「ゼロ・トレランス」をテーマとした3人の見識者私論が掲載された。リンクからウィキペディアの解説をご覧になれば概要が掴めると思うが,要するに徹底した管理と規則違反に対する懲罰の姿勢を貫くことを基本とした指導方式のことである。ドラマ「女王の教室」の風景は,戯画化したゼロトレランス方式の模様なのかも知れない。もちろん冗談である。
教員組織が意識を共有したうえで一体となり,首尾一貫した指導方針に則って足並みをそろえるということが,今のご時世難しくなっている。それを上意下達によって蘇らせようとした試みを「ゼロ・トレランス方式」と呼ぶわけだが,銃や麻薬に蝕まれる危機に直面しているアメリカで試みられたそれを,日本の文脈に引き寄せたとき,また受け入れられ方も異なるのだろう。
「頑固じじいや業突ばばあがいなくなったことが世間の秩序を乱した」と唄ったのはさだまさしだったが,価値観を相対化したり多様化するのに長けていること自体は誇ってもよいことだと思う。ところが,その広がりに追いつくどころか,すっかり取り残されてしまったのが少し前の日本の学校だったし,おかげで同時代に対峙できる教育指導の理念を現場で醸成させる機会を逸してしまったのであるから,いまや宿題の分量を決めるのにも保護者の顔色をうかがう始末だ。親の方が教師に対してよっぽど「ゼロ・トレランス(不寛容)」なのである。
さてと,なんだかんだと名古屋に長居している。ダンボール6箱の書籍を郵便局まで運んで,東京に送る。本ばっかりに頼っても仕方ないが,本に拠らないのも困った話で,少なくとも独り者の話し相手としては必要不可欠なのである。明日戻ろう。