「生活」とは何なのか

 先日,賞与をいただいた。

 その名前に値することをしているのかどうかは,いまいちピンとはこないが,毎日職場に通う継続性に対して与えられているのだと素直に納得しておきたい。

 もっとも,iPadやら何やらの先行投資が多すぎて,大半はその支払いに消えていく。そして,学会費やら家賃やら税金やら借金やらを払うと,ほぼ消滅する。

 それでもわずかに余裕が出来るから,久し振りに夏用スラックスを買ったり,生活雑貨を買い込んだりした。相変わらず本や雑誌も買った。

 けれども最近,本をじっくり読む余裕が失われた。

 調べものの文献資料を「漁る」ことや「掘る」ことはする。ネット検索も組み合わせて,情報を集めては記録していく。ネタ帳に書き込まれて使われる機会を待つものや,授業のレジュメ資料として紹介されていくものもある。

 けれども,じっくり対峙することが確実に少なくなっている。

 特定の理由があるわけではない。強いてあげれば,自己管理能力の無さに他ならない。とはいえ,新しい環境への適応作業がまだ続いているという事実も否定できない。

 新しい職場の2年目。初年に比べれば授業は楽なはずと思いきや,細かな変数が変わってしまって,調整の必要な授業が多かった。教職科目と情報科目を5種類も同時並行するのは,私みたいな人間には骨の折れる仕事である。

 その上,自分の関心テーマを追いかけようというのだから,時間的にはかなりきつくなる。「生活」部分はかなり放ったらかしである。

 そして,あらためて「生活」とは何なのか疑問が立ち上る。

 選挙の投票日が間近に迫り,すでに期日前投票も始まって,選挙戦は白熱している。「国民の皆さんの生活のために」と叫ばれるときの「生活」とは何なのかと思うことも多い。

 円やドルが強い時代は終わり,元が強くなりつつある新しい世界が始まっている。いわゆるグローバル社会に突入した今,日本で生活するということにどんな変化を強いられるのか私たちはまだ自覚的(事態の理解を踏まえて対処しようとする)ではない。

 医療も教育も優先できない生活とは何なのかと思う。家賃と食費と光熱費を払えれば御の字,むしろ税金を支払うために,そうした生活費に回すことさえ出来ない人たちもいる。税金すら払えない人もいる。

 同じ「生活」という言葉でも,まったく異なる世界が広がっている。

 以前の私は,働き口もないまま本当の意味で底辺に落ちる可能性があった。どちらかといえば,そちらの可能性の方が大きかった。

 だというのに,今こうして職に就いてお給料をいただける状況に置いてもらっている。そのことをやはり感謝せずにはいられない。

 ただ,また慌ただしい日々を過ごす中で,なかなか形にできない様々なアイデアや意気込みが宙ぶらりんになっていることを,苦々しくも思う。

 恩返しは,賞与がいくらあっても足りないものである。