月別アーカイブ: 2010年5月

黒ペンと赤ペン

 先日,ニコ生(ネット放送の「ニコニコ生放送」)を見ながら残業をしていた。民主主義2.1というテーマで,東浩紀さんを司会に,鈴木寛文科副大臣も出席して,熟議カケアイが,どのような考えのもとで設けられたのかを解説していた。

 従来まで文科省の官僚が政策を(黒ペンで)作文し,有識者による審議会が(赤ペンで)審議答申するという形であった政策産出プロセスに代えて,国民の有志に黒ペンを一部預ける試みなのだと説明していた。

 熟議カケアイに関わる人間の数はせいぜい数千人。そして書き込まれた無数の意見を整理し政策へとまとめ上げる難しさ。そうした考え得る問題点や不十分さはあるけれども,これまで閉鎖空間で特定の人間によって行なわれていた政策構築を条件付きでオープンにしたことは,その場の出演者全員が評価していた。

 黒ペンを国民の有志に…という表現もあり得るし,赤ペン的な位置づけにあるパプリックコメントに対する黒ペンとしての熟議カケアイという捉え方もできる。また,多くの当事者たちによる政策アイデアのオープンウェアといった考え方もあった。

 いずれにしてもインターネットがベースとなってもたらした民主主義のバージョンアップ(もしくはリビジョンアップ)というのが,その議論のモチーフであった。

 こういうことが議論として可能になったのも,おそらくインターネットがの普及度が高まり,携帯電話によってWebアクセスも可能になり,プログやポッドキャストを経て,ツイッターやストリーミング放送が提供され,利用の敷居が低くなったからだろうと思う。

 実は,こうした何気に浸透してしまったツール達は,事前議論をスルーして日本に持ち込まれて,アーリーアダプタから一般へと運良く広まったもの(あるいは広まりつつあるもの)ばかりである。

 たとえば,もしもツイッターを日本に普及させるべきかを持ち込む前に議論することができたとしよう。果たして私たちは,140文字を制限とした自分のつぶやきメディアに可能性を見出したり,学習や教育に役立つと考えたりして,「導入しよう」と決断をくだしただろうか。

 私は,そういう思考実験をするたび,その結果を,長らく続いている学校教育の情報化議論の滑稽さにつなげて考えてしまうのである。
 

 誤解を恐れずに言えば,事前の議論や審議による教育の情報化政策の形成プロセスが,教育の情報化の道具や機器を生業にしているコミュニティを甘やかす状況の温存に繋がってしまっている。

 たとえばGoogle EarthやYahoo!きっずは,純粋に企業の営為によって生み出され,現場に使いたいと思わせることに成功したサービスである。ニーズに率直に向き合いフィードバックに真摯に応える緊張関係のもとで改良改善されれば,それは事前の議論を必要とはしない。良いものが残り,使えないものは淘汰されるだけである。

 しかし,下手に事前に議論や審議されたものは,いろいろな理屈がヒモづけられる。

 理屈にヒモづけられてしまうと,現場のニーズやフィードバックに素直に向き合えなくなる。

 緊張関係のないところに,道具や機器の進歩や活用技術の向上はあり得ない。

 そうなれば,とりあえず権威的な売り文句をつけたり,売り逃げするような考えが生まれる。

 結果的には,誰も責任を持たない教育の情報化が常態化してしまう。
 

 私は,学校教育と営利企業とのやり取りをもっと自由化すべきと考える。不正が行なわれないような仕掛けを作っておく必要はあるとは思うが,もっと市場のエネルギーを教師のフリーハンド創造に変換できるような回路を設計すべきだと思っている。

 教育市場にかかわる企業人も,教育を担う主要なプレイヤーとして教育コミュニティメンバーのアイデンティティを育むべき時代である。それは国民が政策の黒ペンを持つのと同じで,企業人も教育者としての黒ペンを持ち,同じ教育コミュニティのメンバーとして関わる覚悟を醸成することである。

 だからこそ生まれる緊張感と責任に基づくことで,新しい教育の可能性も開かれるはずだと思うし,すでにそのような取組みをしている人々がいるということを,国民も知らなければならない。出来の悪い業者もたくさん残ってはいるが,新しい教育学習の世界を構築しようとがんばっている業者も生まれている。

 さて,黒ペンを持つその手は,何を生み出すのだろうか。

資料収集開始

 将来的には現場教師が活用できるWebサービスを構築することを前提に,システム周りの構築ノウハウを蓄積することを先行して取り組んできた。いまのところクラウドプログラミングの習得中。これとiPhone/iPadとを組み合わせれば,なかなか面白いことが可能ではないかと考えている。

 学校教育の情報化に関する懇談会やデジタル教科書教材協議会など,それなりの発言パワーを持っている人々による正統な取組みが展開しているし,ネットを活用した公の声を拾う試みもようやく活用され始めているが,どうも私には縁もなければ反りも合わないようなので,むしろ面白い具体例をもって問いかけることしかないと思う。

 Google方式のようにベータ版でも面白いものを出していきながら研究し育てていくのも,片方の手に持つべきアプローチとしてしっかり援用していかなくてはならない。

 そうしたシステム開発に正当性を与えるための根拠を固める研究が必要であり,その研究をどう焦点化すべきなのか考え続けてきたが,ようやく自分で納得できる筋書きも見えてきたので,資料や文献を集めることを始めた。

 納得のいく調査課題を目標に据えるのは,簡単なことではない。まして,特別な仲間と組んでいない人間にとっては,他人が承認しない分だけ,明確さに欠ける自己承認の基準に照らさなくてはならない難しさがある。少なくとも私の場合,他者への論評を積み重ねることによって自分なりの納得解を探索しているので,そうした自分の見解との整合性を合わせる手間がかかる。

 地道な調査の始まりである。ベタな対象に落ち着いたなと思うが,これまで書いてきた学位論文や自分の興味関心に任せて関わってきた様々な取組みやご縁をすべてまるっと絡めて考えることができる。というのはちょっと言い過ぎだが,結局,やりたかったことはそういうことなのだと思う。

 ゆくゆくは全国調査につなげたいが,とりあえず今住んでいる四国や中国地方など西の方から進めたい。

 先日,教員採用試験についての相談をしに学生がやってきた。いろんな地域を受験するのだが,関東の方に出す願書の内容について,どうすれば良いのか悩んでいるらしい。自己PRの書き方をどうするのかといったこと。

 まあ,採用試験は知識技能を評価する側面は当然としても,つまりは恋愛と同じなのだから,相手を自分に惚れさせるにはどうするかを考えれば良いんじゃないかと勝手なことを話していた。それが本当かどうかは置いとくとして,それがどんなものとしても本人が自己PRとは何かを感得しないままでは,宙に浮いたような文章しか書けないだろう。

 女子学生だったから,人が人間のどこを見るのかについて,自分の場合に置き換えた話をすれば,すぐにも十を知る。女の子は,男の子よりも人を見る目が厳しいから,それをそのまま試験官の目だと思えば,すべきことは分かってくる。
 

 関東を受験するというので,自分の東京暮らしのことなど話した。ぜひ若いときに住んでみて,他にもいろんな土地を体験しておくのがいいと話した。

 若いとき,僕が欲しかった言葉をかける。僕にはそれを言う義務がある。

 来週からは1年生達の面談が始まったり,委員会活動を始めたり,そういえば,某コンクールのお仕事もそろそろ始まる。来月は東京出張。ぼちぼちiPadの集いも関西でやりたいなぁとも思う。

 

学びへの視野

 授業や研究の仕込みのために文献をひっくり返している。

 学校での「学び」あるいは学習というものが,方々で論じられたり語られているのを見るにつけ,「こんなにも学習に関するの知見というものは共有されていなかったのか…」と感じることが多くなった。

 これがプロパーな世界に生きている人間のダメなところなのかも知れない。世間からズレてしまった自分の認識や常識を見直し続けるのは,なかなか大変なことなのだと思う。

 ネット上で話題になった記事が幾つかある。

 20100203「学校の授業を19世紀(工業化社会)型から21世紀(情報化社会)型に変えてしまうTime To Know」(TechCrunch)

 20100430「なぜいま「21世紀型スキル」の教育が必要なのか? – インテルに聞く」(マイコミ)

 つい最近もこんな記事が公開された。

 20100508「「21世紀型スキル」とは何か」(教育家庭新聞)

 こうした記事が書かれ,話題にされているのを見ると,いま求められているスキルの全体像が変わっているとみんなが気にしていて,そのことをある程度認めているか,認める空気があるんじゃないかと感じる。

 ただ,どんな前提を下敷きにこうした話題を受容しているのか,一様ではない。

 もしかしたら,過去や現在まで進行してきた学校教育は水で洗い流すように消して,空いたところに,何か新しい21世紀型の学習というものが置き換えられなければならないという考えで受け止めているかも知れない。

 今後,私たちの行動や決断のレベルでドラスティックなものを要求される場面がないとは言わないが,これまでの学校教育や学習の在り方を捨て去って転換しなければならないという考え方は,あまり妥当な考えではないと思う。

 ところが,専門家同士でさえ,どうも誰かが「新しい学び」だの「21世紀スキル」だの「情報知識社会における新しいツールの導入を」とぶち上げると,「それは現場にそぐわない」とか「ごまかし言葉である」とか「誰かに踊らされてる」とか,拒否反応に近い意見まで飛び出してくる。売り言葉に買い言葉は,正直うんざりだ。

 今までやって来たことを足場に,新しい流れが生まれたならきっちりフォローしていくこと。

 この単純なことが,いままでの学校教育で出来ていなかったのであれば,それを素直に反省し,責め立てずに新しい道を一緒に模索していけばよいことである。どうも,そのことが私たちに一番欠けているようだ。

 学習のメタファー(学習の喩え)に関するとても有名な論文がある。

 Sfard, A. (1998). On the two metaphors for learning and the danger of choosing one. Educational Researcher, 27(2), 4-13.

 英語論文(ちなみにヘブライ語版もあるそうな)ではあるが,学習に関して大きく2つメタファーがあることを整理した部分は,あちこちでも紹介されている。「獲得メタファー」と「参加メタファー」の2つである。

 ただ,Sfard女史が論ずる重要な主張は,こうしたメタファー(喩え)による学習の捉え方だと対立構図(獲得メタファーよりも参加メタファーの方が良さそうだったりする)に陥りやすいけど,何か一通りのメタファーを選んで全体を捉えるようなことは危険だから止めましょうということである。
 

 この論文は,教育や学習を論じたり語ったりすることは大概の人間に出来る事ではあるが,論じたり語ろうとする自身の言葉に対して,どう向き合ったり,距離を置いたり,紡ぎ直したりするのか,その態度や作法について個々人が自覚的でなければならないことを示唆しているように私には思われるのである。

 ただ,日本の場合,一度作り出された世論のうねりのようなものは恐ろしい。

 特に感情や感覚をベースにしたものは,どこか一方的に特定の見方をかき消してしまう力を持ってしまう。

 そうなると,どうしても戦闘姿勢に陥ってしまうのも無理はないのかも知れない。

 本当は,平成20年度学習指導要領を検討していた教育課程部会の審議まとめの話や,構成主義の学習論についても書こうかと思ったのだけれど,相変わらず時間切れ。

 そうやって没になったブログのエントリーがたくさんある。

 ああ,やっぱり歳をとればとるほど,使える時間が短くなるようだ。

 さて,続きは授業で語るとしよう…。

地方で起こっていること

 四国での生活も2年目に突入。何もしない間に時間だけが過ぎてしまっているが,とりあえず元気に過ごせている。

 最近,地元の愛知県の名古屋市で,市長と議会の衝突が話題となった。それ以前から,各地には名物知事や首長が登場し,地方からの改革と称した動きが活発化していたが,とうとう首長と議会の問題にまで改革の触手が届いてきたというわけである。

 2000年に入ってからの一連の行政改革の動きと教育改革との関係性を理解するためには,どうしても行財政に関わる理解が必要になっていたし,教育基本法の改正といった一大事もあったので,教育法規に対する理解も深めなければならない時代となった。

 けれども,この10年の間に,教育行財政に関する議論や教育法規に関する理解が高まって,学校教育現場にその成果が届いたというような話はほとんど聞かない。

 どちらかといえば相変わらず「振り回されて疲れました」「ほっといてください」という今どきな声が現場からあがっているようにも見受けられる。だからといって,学校教育現場に関わる人間もまた行財政や法規に関する知見を踏まえたというわけではなさそうだ。

 昨年,堀和郎/柳林信彦『教育委員会制度再生の条件』(筑波大学出版会2009.6/3900円+税)という研究書が出版された。

 学校教育現場に最も近い教育行政組織でありながら,その内実は見えにくく,その必要性も疑われ続けてきたのが教育委員会であるが,そこに調査のメスを入れて実証的に分析して見せたのが上記の本である。

 すでに一般向けの書物として古山明男氏の『変えよう! 日本の学校システム』(平凡社2006.6/1600円+税)が,教育委員会とそこに置かれた事務局およびその長である教育長の存在について紹介するなどして,複雑な権限分散システムが前向きな教育改革の取組みを阻む元凶になっていることなど一部で話題になった。(ちなみに古山氏は「熟議カケアイ」サイトで積極的に書き込みなどして活躍されている。)

 先の書は,教育長の存在が,教育委員会もしくは教育改革の進展にどう寄与しているのか,という興味深い問題設定を行ない,データにもとづいた分析を試みている。その他にも教育委員会の運用実態であるとか,首長との関係性に焦点を当てた分析も用意されている。

 ちなみにこの研究で,教育長の態度志向パターンを3つに分類しているところが興味深い。曰く,「問題解決志向」「首長一体志向」「自己利益志向」である。もちろん,この他にも交流パターンや職務遂行パターンなどの変数が加わって分析が試みられている。

 こうした研究成果が注目されることや,否応なく突き進むこの国の地方分権化の流れを考えれば,私たち国民もしくは市民がもっとも注視し,影響力を行使しなければならない対象が「地方」に存在することは明らかである。

 ところが実際には,この「地方」というものがほとんど省みられてこなかった。

 都会に軸足を置くような大マスコミを中心とする報道・言論の世界では,地方の問題は見える現象を紹介するくらいが関の山で,その問題解決のために必要なローカル情報はほとんど取り上げられない。地方においても,地方新聞といったローカルマスコミが元気なところでない限り,自分たちの住む土地の行政がどうなっているのかは,ほとんど知られていないのが実際ではなかろうか。

 こうした状況を変え始めたのは,タレント知事や名物首長の存在と活動であったと思う。乱暴な言動や派手な演出が話題になることも多いが,おかげで地方の在り方に光が当たり始めた。そうした様々な出来事から考えても,「地方」を動かすことが物事を動かす出発点であることは間違いなさそうだ。

 今後,どのような教育的議論・取組を行なう際にも,国家と地方自治の関係を行財政・法規の視点から大雑把にでも理解していくことが重要である。現場では,これまで校長・副校長・教頭レベルで求められていたような知識であるが,今後は一般の教職員もこうした知識を深めていなければ,高まる市民の知的水準に追随できなくなる。

 昨今は教育法規に関して『図解・表解 教育法規』(教育開発研究所)といった見やすい資料が発売されているが,『教育法規便覧』(学陽書房)くらいの範囲が見渡せる情報に触れておくと良いかも知れない。

 地方自治に関する文献は様々あるが,村松岐夫氏の『テキストブック地方自治 第2版』(東洋経済新報社2010)は版が新しく,「教育」についても一章分設けている点から,最もおすすめの概論書である。同様な文献として佐々木信夫氏の『現代地方自治』(学陽書房2009)も地方自治の内側を掘り起こしながら簡潔に整理している良書だと思う。

 地方自治の仕組みについて理解を深めたならば,あとはお金の動きを追いかけるのが最も効率的である。これらのテキストで地方財政の関する解説を読み,たとえば『図解 自治体財政はやわかり』(学陽書房)にような概説書を覗くことから始めると,国の財政と地方の財政との関係などが少し見えてくるし,教育にだけお金が回らない仕組みも少し見えてくる。

 名古屋で巻き起こっている議論のあるべき決着の形は,正直なところ私には分からない。現在の首長と議会の仕組みが,首長に有利というものもあれば,議会が議決権を持っているから首長劣勢だと考える人もいる。

 けれどもどちらも市民の代表者。日本がとった「二元代表制」の仕組みがあって,それを生かしているのか殺しているのかが問われていたりする。首長が暴走してもダメだし,議員があぐらをかいていてもダメ。どちらも住民の意思を汲み取り動いてもらわなければ,損をするのは市民である。

 同じことが教育の分野でも起こっているのだろう。権限が分散した事情は複雑で理不尽だったかも知れないが,いずれも教育に奉仕する立場のはずである。もっと前向きに取り組んで欲しいが,あるいはそのためには私たち市民あるいは国民がそう仕向けるための圧力をしっかりとかけていく必要があるのかも知れない。

 そのためにも「地方」という足下へのルートを開けておく必要がある。

ブログへ帰ろう

 ゴールデンウィークもあっという間に過ぎた。天気の良い日に遠出(but 歩き)をしたが,夕刻の肌寒い風をもろに受けたためか,残りの数日は頭痛に悩まされて家に引きこもり。まどろむ意識の中で読書をしながら過ごした。

 休みの日には,ネットも通常よりはお休みモード。

 Twitterチェックは意外と時間を取られがちだったから,半日や丸一日見ないとそれなりに気楽である。賑やかなツイートの中で自分のつぶやきを記録するのも相乗効果の楽しさがあるが,同時に何とも言えない落ちつか無さもあって,じっくり本を読んで考えを紡ぐには邪魔にもなり得る。それに,世間の話題を見逃しても,特別私の生活に支障はない…。

 というわけで,GWのお休みモードをそのまま延長するのがよいかも知れない。まあ,つぶやきたいときにツイートすればいいという基本原理に立ち戻るだけなので,何も変わりはしないけれど,少しはブログに帰ってこようと思うのである。