月別アーカイブ: 2007年4月

トニーはいつ叫んだのか

 ゴールデンウェーク突入。慌ただしさに任せて始まった2007年度も,ちょっとホッとする時間の到来である。ここで調子を崩してしまうか,態勢を整えられるかが人によって別れてしまう。うまく乗り越えたいところだ。もっとも宿題や課題も山積みなので,あんまり休めないけど…。

 書店にぶらり。阿部菜穂子『イギリス「教育改革」の教訓』(岩波ブックレット2007.4/480円+税)(→amazon)を手にした。イギリスの教育に関する新しい動向を含んだ参考文献として良い一冊だ。手軽に入手できるのもいい。
 本の内容の基調は,サッチャー保守党政権から(そしてメジャー保守党政権)のイギリス教育改革が,ブレア労働党政権へと続く今日までにもたらした変化とその副作用に関して報告するというものだ。イギリスにとって改革は必要だったのだが,その改革によって逼迫した教育現場の実態を見据えるフェーズに入っているということである。
 サッチャーやブレアの名の残し方を羨ましく思ったのか,どこかの国の総理大臣は,イギリスの教育改革を真似させるように動いているようだ。しかし,長らくほったらかしでロクなリソースを与えられてこなかった文部科学省は人手が足らずにてんてこ舞いだし,我こそ船頭だと思っている17人を集めた教育再生会議は当然の如く船山にのぼってしまった。内閣府は手持ちの調査統計データ等を使って援護射撃してるようにも見えるが,実はわざと誤射して気に入らないところをねらい撃ちという感じだ。この人達全員,名前は残せても尊敬されないんだろうな。
 よって本書は,イギリスの教育改革の今を知らせるとともに,それを真似ようとする日本の教育改革に対して,再考を促すものとなっている。
 イギリスの教育関係者がフィンランドの教育に注目して目指そうとしているというのは少し驚きだった。本の結末としてフィンランドの教育から学ぼうという落とし方には新鮮味が無く少々残念ではあったが,かつて自由に教育を行なっていた歴史のあるイギリスでさえ,フィンランドを意識しているという事実は重く受け止めるべきなのかも知れない。

 ところで,この本でもブレア政権が重要課題として述べた「エデュケーション,エデュケーション,エデュケーション」という言葉について触れている。
 (1)「一九九七年五月に発足したブレア労働党政権は,教育を最重視してサッチャー教育改革を引き継いだ。ブレア首相が就任時,「(政権の重要課題は)エデュケーション,エデュケーション,エデュケーション(教育,教育,そして教育)」と述べたことはよく知られている。」(阿部菜穂子『イギリス「教育改革」の教訓』8頁)
 いま手元にある文献で似たような部分を引用しよう。
 (2)「二期目を迎えたブレア政権,その重要な公約としてブレア首相は教育改革に取り組むことを宣言していた。演説会場では「教育!教育!そして教育!」と三度声を張りあげてくり返し,教育問題の改革こそが二十一世紀イギリスの最重要課題であることを強調していたのである。」(小林章夫『教育とは』13頁)
 (3)「ブレアーは,演説で自らの政策の重点を「エヂュケーション,エヂュケーョン,エヂュケーション!」と語り,「政策のトップに教育をかかげた最初の首相」となった。」(佐貫浩『イギリスの教育改革と日本』191頁)
 (4)「1997年に保守党に代わって労働党政権が樹立された。首相になったのは,オックスフォード大学出身の,まだ43歳という若きブレアであった。ブレアは総選挙中に「新しい労働党の重要政策は三つある。教育,教育,教育である」と何度も述べ,教育が最優先課題であることを強調していた。」(二宮皓『世界の学校』99頁)
 4つほどあげたが,どれもハッキリとした発言場所を明らかにしているとはいえない。これ以外の資料がパッと揃わないので恐縮だが,Webで検索してみても芳しい情報は得られない。
 ただ,Wikipediaには次のような記述があった。
 (5)「At the 1996 Labour Party conference, Blair stated that his three top priorities on coming to office were “education, education and education”.」(Wikipedia項目「Tony Blair」より)
 就任前という点で(4)と(5)の記述には整合性を見つけられる。しかし,もともと信頼性の疑わしいWikipediaである。一次ソースがないかを探すべきだろう。この駄文を書いている深夜で調べられるのはWebくらいなものなので,労働党とイギリス首相官邸(10 Downing Street)のホームページ等を確認してみる。
 残念ながら労働党に関しては1997年頃の記録を公式ページから見つけることはできなかった。1997年となるとインターネットも普及し始めて間もない頃であるから,情報が乏しいのは仕方ない。
 一方,首相就任時やそれ以降で「education, education, education」と叫んだスピーチ記録があるかどうかを探してみたが,Webに掲載されている範囲でのスピーチ記録にその文言を見つけることはできなかった。未収録演説があるのかどうかは定かではないが,感触としては首相スピーチがこの文言の初登場の場ではなさそうな気がする。
 というわけで,トニー・ブレアの有名な「education, education, and education」は,言葉自体は知られているが,いつ叫ばれたものであるかは,実のところみんな曖昧だったりするのである。
(追記20070429)まったく分からないというわけでもない。Web検索をして見つかる周辺証拠的には1996年10月1日の党大会スピーチでこの言葉が発せられたのではないかと推察される。たとえばこのBBC資料にはそう引用されている。

調査の穴

 4月24日は「全国学力・学習状況調査」の実施日である。新聞報道によれば全国3万2756校の小中学校が参加するという。これは対象となる3万3104校の98.95%にあたるらしい。
 思うに私たちのテスト嫌いは筋金入り。ん?もしかしたら私たちは逆説的にはテストが大好きなのか。よい点数を取る事への飽くなき執念。そんな私たちだから長い年月テストを止めなければならなかったのかも知れない。
 テストや調査で「よい成績を出したい」心理。言い換えれば「ありのままを出せない」病。匿名性を好む特性がこんなところにも表れているのだろうか。

 京都市教委が,パソコンを使った教科指導の実態調査において,指導できる100%となった過去の実績を継続させるために,回答内容を回答者に見直しさせたというニュースも報道された。
 朝日新聞社asahi.comの記事に掲載された京都市教委情報化推進総合センター担当者のコメントは唖然とする。曰く「文科省の趣旨に沿ったアンケート結果を求めるためには必要な指示だった。違和感があるかどうかは個人の受け止め方の問題だ」と。
 この担当者の置かれたシチュエーションを想像するのは容易い。けれども,「現状調査」の趣旨と「文科省が推進する教育の情報化」の趣旨とは,別物であるはずなのにこの言い訳である。
 メディアに突っ込まれても,とりあえずそれっぽくコメントしておけばのど元過ぎれば熱さを忘れるとでも思っているのだろう。むしろ,思っているんじゃなくて,脊椎でそう動くようになっているのであろう。こういう人々を追い詰めても,最後に出てくるのは「何も考えてませんでした」という白けた結末である(脊椎で動いてるんだから,そりゃそうだ)。

 全国学力・学習状況調査については,小学校6年生と中学校3年生の全員が受ける「全数調査(悉皆調査)」である必然性がないとよく言われる。
 私たちも統計学の授業でそのように習うし,実際,これほどの大予算を掛けて得られる成果はないことは明らかである。
 それでも全数調査をするのは,それが純粋な研究調査ではなく,行政調査だからである。もうちょっといえば,ここにも政治の季節が到来しているというだけである。理屈ではないということ。
 衆議院教育再生特別委員会でも,民間委託に関する質問などやりとりが行なわれて,直接的ではないがこの問題に関する様々な思惑や疑惑が見え隠れしている。他の分野に比べればマシではないかと思うのだがどうだろう。
 とにかく試験前夜の今夜は,あちらもこちらも関係者はピリピリしている。何事もなく終わることを祈ろう。
 そして,大事なのは終わった後なのだということを,誰もが意識しなければならない。

学部の授業

 月曜日は教育学部の授業に出席する。職業研究者をやってた人間がなんでまた学部の授業聞いているのか,呆れられるかも知れない。しかしまぁ,知識はぐるぐる世代交代しているから,無駄なことでもない。
 それに長らく教育界に携わっていて,素朴に思っていた謎を解明するためもある。いったい東京大学教育学部ではどんな教育学の授業をしているのか,という謎。大した謎じゃないかも知れないが,素朴に受けてみたかった。

 念願叶ってモグリで受講する。なるほど,こんな感じか。授業の雰囲気自体は他の大学と大きく違うということはなさそうだ。わりと普通っぽい。
 扱う内容も,もの凄いぶっ飛んでるかというと学部の授業なのでそんなこともない。ただ,やはり受講生の知的基礎体力の水準が高いからだろうか。言葉の細かい説明をする場面があまりない。先生方もごく普通に語れる感じなのは,微妙だけどちょっと違うところかも知れない。
 そんなわけで,復習のために学部授業を聞いていた。

 唯一履修手続きをした「放送とメディアリテラシー」という講義は,某公共放送のMさんが担当している授業。私の肩書きが先生から学生に変わっちゃった意地悪なシチュエーションを利用して,せっかくの機会なので学校放送の仕事を学ばせていただくことにした。Mさん,最初ちょっと嫌そうだった…^_^;
 今日は音響デザインについて。私たちは視覚情報をたくさん受けていて,重要な判断も多くは視覚にもとづくと考えがちである。けれども,実際にはかなり聴覚情報に頼っているのだということを教授いただいた。
 演劇に少しかじっていた経験からも,その指摘には同意できる。舞台は音先行でないと動かないことがあるからだ。
 授業では,音響がない映像と音響処理後の完成映像を比較することで,音響の大事さを実感できた。事実をよりリアリティをもって伝えるには,いくらかの再構成をしなければならない。こうした表現手法は,拡大していくとメディアとはなんぞやという大きな問題につながっていく予見が授業でも示されるのであるが,それはまた次回以降となる。

 宿題いっぱい…頑張らないと。

メディアとともに

 メディア関係の私的記録を2つほど。

 2月に西オーストラリア州・パースという街の周辺でメディアスタディ関連の学校視察を行なった。そのとき訪れた一校がOrange Grove Primary Schoolであった。
 この学校はポッドキャストを学習に積極的に取り入れていることで豪州内でも有名。定期的にポッドキャストの番組を子ども達が制作をして世界に発信している
 3月分であるエピソード11では静止画像入りのポッドキャストにも取り組んでいて,その回に私たち視察団の代表である中川一史先生がゲスト出演している。
 4月分エピソード12ではビデオポッドキャストにもチャレンジしていて,ますます活発のようだ。

 Intel教育支援プログラムについては以前ご紹介した。そのプログラムに関わる関係者による「MTクラブ」という集まりがあるのだが,そのフォーラムの様子がWebサイトに紹介された
 いままで教育支援プログラムは,どちらかというとインテル社が独り相撲しているように見えて,内部の活動はベールに包まれていた。
 今回の「MTクラブ活動報告」によって,このプログラムが実際の教育現場にどのように入り込んでいて,どんなネットワークを形成しているのか,その一端や雰囲気を知ってもらえるのではないか。
 実際,西洋の香りばかりするインテル教育支援プログラムのWebページ群の中,今回のページでやっと日本の教育現場の香りがするようになった気がしないだろうか。
 そしてこのガヤガヤ感に誘われて,もっといろんな方々にインテル教育支援プログラムと関わり合っていただきたいと思う。まさに「寄ってらっしゃい,見てらっしゃい」なのだ。
 唯一の問題点があるとすれば,わたくし林向達が最後に現れて,お恥ずかしい姿を晒していることか。今回の写真はどこかのマッドサイエンティストみたいな笑みである。やはり私は表に顔出すべき人間ではない。
 まあ,その部分は見て見ぬふりしていただいて,ぜひ日本におけるプログラムの利用や活用を盛り上げるのにご協力いただければと思うのである。

『最新教育基本用語2007年度』

 小学館から『最新教育基本用語』の2007年度版が発刊されていた。教育界の『現代用語の基礎知識』として継続的に発刊が続いていることは喜ばしいことである。教育関係者は手に取るべきである。
 最近の教育改革に関する解説も収録されているし,年表も有り難い。今回は巻末特集として「検証 平成の教育改革」という論考が編まれている。
 逆にもっと過去の出来事に関してはざっくりと切り捨てているので,他の出版社の『教育六法』はどうしても必要になるだろう。このシリーズの最初の版では昭和全体をカバーした年表もついていたし,学習指導要領の変遷についても紹介していただけに,そうした不易の部分が継承されないのは残念である。それも商売上,仕方ない選択なのだろう。

 「平成の教育改革」という特集を眺めると,あの神戸の事件から10年経ったことが分かる。事件の当事者に共感を覚えると答えた同年齢もいた,その世代も24歳ぐらいで多くは社会人になっているわけである。いつの間にやらである。
 教育研究の世界は,いよいよ混沌としてしまったと思う。個人の規範意識は,崩れたとはいわないまでも大きく質を変えている。複雑化する社会に対応するため教育に必要とされるリソースは莫大なのに公的な教育資金は減少の一途。単純にすぎる構図を描くマスコミに扇動された世論によって教育現場は振り回されっぱなしになった。
 結果的に,この国の公教育で起こったことは何かといえば,「教育の機会均等」の原則が,許容範囲を超えて崩壊してしまったことである。いろいろなものを教育に組み入れてきたとはいえ,日本はまだこの原則を放棄していないにも関わらずである。
 言葉と現実がこんなに乖離してしまったところで,言葉や言語を基盤とする学問世界が空回りするのも当然である。学問の細分化は必然的ともいえる。範囲限定のちっちゃいビジョンが乱立して,第三者にはますます理解不能となる。
 そして教育の学問や研究の成果を軽視する行為が何の躊躇いもなく実践される。その最たる例が「教育再生会議」であることは誰の目にも明らかである。「船頭多くして船山に上る」という諺の通りになっている。

 過ちや失敗の克服は,不断のコミュニケーション努力しか途はない。とはいえ,コミュニケーションほど人間にとって最大の難問はない。慮ることや自省することの域にコミュニケーション水準を持って行くことは,実のところかなり大変なことなのだと感じる。
 なんだか,平成を振り返って,また変な感慨にふけってしまった。

卯月14日目

 講義の第1週が終わる。金曜には学生っぽいアフターの時間を過ごしてみたりと,賑やかな一週間だった。来週は授業も本題に入り出して,いよいよ濃い日々が始まろうかというところである。
 テキストや参考図書が示され,いくつかは購入済み(積まれて読書待ち含む)であった。けれど,遠く実家方面の蔵書群に残してきたものもあり,いつ取りに行こうか悩ましい。そんなこと考えながら,部屋に散らかった文献を分野ごとに整理する作業をしていた。

 「学習科学」に関する参考文献を今一度おさらいしようと思う。と同時に「カリキュラム研究」に関しても見直しをする必要がある。授業研究やカリキュラム開発あたりの話は,どうも放っておくと某K先生あたりの成果に寄り掛かり気味になる傾向が周辺にはあるので,自分なりにバランスを取れるようにしたい。
 まあ,学習科学分野に関しても何か(日本の)文献はないかと眺めてみると,放送大学テキストのシリーズがずらずらと上がってきてしまうという寡占状態みたいなものがある。
 波多野,大浦,大島『学習科学』2004
 三宅なほみ『学習科学とテクノロジ』2003
 稲垣,鈴木,亀田『認知過程研究』2002
 波多野,永野,大浦『教授・学習過程論』2002
 大島,野島,波多野『教授・学習過程論』2006
 波多野,稲垣『発達と教育の心理学的基盤』2005
 これに米国学術研究推進会議編著による『授業を変える』(原題 How People Learn)北大路書房2002であるとか,わりと定番が決まっている。
 そうか,そう考えれば,攻めやすいのかも知れない。それぞれ断片的にしか読まなかったところがあるので,もう少し丁寧に読み返してみたい。

 心理学(特に認知心理学や学習科学)への理解を深めていくことによって教授学習という教育の営みを考えていこうというアプローチになる。文系寄りでやって来た頭を多少なりとも理系寄りに切り替える必要がある。
 佐伯,宮崎,佐藤,石黒『心理学と教育実践の間で』(東京大学出版会1998.9)は,この切り替え作業を若干は助けてくれるのかも知れない。これも読み直したい本の一冊か…。
 あとは「統計学」に正面切って挑むことになる。独学我流の限界(と書くと法則化運動っぽいな)を感じていたところだから,この機会に学び直せるのは嬉しい。でもたぶん道のり険しい。

 平成17年度教育課程実施状況調査の結果が公表された。新聞報道では「学力改善の方向」とかいう風に報道されている。
 経年変化を1回前との比較でしか見られない分析結果に対して評価的なコメントはできるはずもなく,慎重に見守るというほかない。全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の実施も近く,それについての議論喧しいが,データを継続的に取り続けることの大切さは事前に実感し難いものである。

卯月11日目

 大学院生活が始まって一週間。講義は今週からなので3日受けたところ。おおよその時間割も見えてきたので,あちこちにお知らせをしないと…。結局,平日はほぼ毎日大学に出かけることになる。
 最初から駆け足調子でスタートしたのが,そのまま続いている感じ。たぶん,これを下げることなくペースアップしていくことになるんだろうなと思う。この4月中にうまくペースに乗っかることが大事なのだろう。
 そのうえキャンパスのあちこちで授業が開かれるので,移動するのも大変。散歩している分には気にならなかったが,授業の移動のためとなると急に距離が遠く感じられる。体力も大事みたいだ。