投稿者「rin」のアーカイブ

葉月九日

 仕事ついでにしばし里帰り。のんびり過ごせばよいのだが,実家に戻ると「のんびり」というよりは「だらけ」てしまうので,実家に戻るのは気持ちよくない。こもりがちになるし,あっという間に時間が過ぎるのも難点だ。

 それでも,世間には里帰りできない人もいると考えれば,集中講義のおかげで強制的に里帰りできるのは有り難い。まあ,できるだけ,だらけないようにしよう。ぼちぼち徳島に戻るべき頃だが,天候がすぐれないので様子を見ながら移動日を決める。

 最近は,少しずつ歴史を気にして学んでいる。

 私自身が曖昧なアイデンティティの上に生きているので,若いうちは勢いだけで物事を考えても理屈として正しければ問題ないと思っていたが,歳をとるにつれて何を拠り所にすればよいのか見えなくなってきてしまった。

 結局,歴史との対話を通して,先を見通すしかないのかなと。

 とはいえ,歴史を勉強する余裕もない,目まぐるしい毎日が過ぎる。

 あまり大きなことを考えず,せっかく田舎に越したのだから,

 あとはしがない大学教員として静かに暮らそうか。

 それが分相応なのかなとも思う。

 ああ,だらけるとマイナス思考だ。温泉でも行って生き返りたい…。

もうワカモノではない

 なんて残念な気持ちになるニュースが続くのだろうと思う。テレビやパソコンを消せば何事もない時間が過ぎるとはいえ,世間に流れているあの話題この話題を眼にすると気分はすぐれない。

 芸能人と麻薬の問題はやたら目に付いた。そういう怪しい業界なのだと理解はしているが,その無自覚さに呆れる。そして悲しいのは,どちらも「子の親」になった者の起こした事件だということ。芸能人であるがゆえに「恥ずかしさ」も吹っ飛んでしまっていたのだろうか。

 もちろん,すべての出来事は小さな出来事の積み重ねで起こるのだから,個人的な出来事や状況が少しずつ本人達を追い詰めたのだろうと思う。どこかに踏みとどまるべきポイントがあったのだろうけれども,それさえも目まぐるしく一瞬一瞬が過ぎゆく中で捉えられなかったのだろう。

 結果的には,残念な出来事として私たちの目の前に現れてしまった。

 ちなみに,逃走劇を演じた彼女は,私と同い年である。

 そのことも私に空しい気持ちを運んでくる。

 自分の役目を粛々と演じていくことだけ。

 そのことだけが私たちの手もとに残る。

 けれども,それを自覚することが一番難しい。

葉月七日

 集中講義「カリキュラム論」が無事終了した。

 半期を通して取り組むのも悪くないが,短期間集中して取り組むのもやり甲斐がある。

 学生達の感想も「あっという間だった」「合宿みたいだった」と達成感に満ちていた。

 カリキュラム研究の成果そのものを勉強するよりも,それらを下敷きに学習指導案や
評価規準表をつくる課題に取り組むことを軸とした授業であった。

 もちろん各教科教育法のように専門内容の指導は出来ないが,どのように授業を構成
していくかを意識しながら課題に取り組む。

 集中だから質問があればじっくりと相談することが出来る。学生達が考えた指導案を
叩き台に,一緒にアイデアを膨らませていく作業は,なかなか楽しい。

 授業最後のコメントに「夢に出てくるほど印象に残りました」と書いてあったのには
笑った。それほど苦しめていたのかも知れない。

 「カリキュラム論,やってみると私が思っていたのとは違って,とても範囲が広いもの
でした。ひとことでカリキュラム論といってもいろいろな方向から授業のやり方を考えて
いく深い学問なんだという印象をうけました。」

 そのことが伝わったのであれば,今回の講義も大成功である。

 来年の夏も楽しみだ。

NHKはパロディにご執心

アルクメデス
http://www.nhk.or.jp/medes/

 NHKには良いことをしている人もいれば悪いことをしている人もいたりする。まあ,悪いことには災いが降ってくるので,思う存分苦しんでいただいて,良いことをしている部分や楽しい挑戦は応援したいものである。まあ,受信料不払いされない程度に。

 NHKは「番組たまご」という枠で,いろいろな番組企画を挑戦しているが,今夜もまた変な番組を放送していた。いかにも制作効率の悪そうな変なパロディ・バラエティ・クイズ番組「アルクメデス」である。

 私は,この手のまじめにばかばかしいのが好きだが,思うにこのパロディが通じるのは30代以上なのではないかと思うと,ちょっと悲しさも感じる。「連想ゲーム」を知ってる世代って…。

葉月三日

 名古屋で集中講義が始まる。

 猛暑の中を駆け抜ける4日間は,意外なほどあっという間に終わる。

 縦横無尽に多分野の知見を紹介し,「カリキュラム論」を展開する。

 毎年,新しい内容を入れ込もうとするが,大概オーバーフローする。

 4日間に半期分の情報量や作業をそのまま課すことは難しい。

 知識が染み込む時間が絶対的に足りない。

 だから,浸透率を上げるための工夫があれこれと必要になる。

 私自身の力量不足もあり,十分な質や量を提供できていない。

 それとも,高望みしすぎなのだろうか…。

 山積する課題に立ち止まるのではなく,解決に向けて前進すること。

 その姿勢を養うために必要な事柄は,私自身がそのことに対して

 真摯に向き合う姿勢を維持することより他はない。

 毎年の集中講義は,そのことを確認する貴重な機会となっている。

文月三一日

 なんとか採点と成績処理作業が終わった。要領の良い皆さんは,日頃から受講記録や課題達成を点数化して,計算式に放り込んだら自動的に成績が付くようにされているのかも知れない。
  
 私も大ざっぱな計算式は描いてあるのだが,なにせ授業も試験も生ものみたいに考える人間なので,毎回最後になってから計算式を最適化するのに時間をかける要領の悪さがある。

 結局,職場で夜を明かして成績をつけ,学部学科ごとに分かれたフロッピーディスク内に入力していく地道な作業を終えた。後期からは学内ネット上で入力できるようになるらしいが,昨年度からそう言われ続けているとかいないとか…。物事を推し進めるのも阻むのも,最後にゃ人間。そして私は睡眠時間が欲しい。

 八月がやって来る。

 夏は,毎年恒例のカリキュラム論の集中講義がある。

 今年度で七年目だ。

 この七年の間に,仕事に悩み,仕事を辞め,単身上京し,学業に励み,再び職を得て,いまに至る。

 すべてを無くす覚悟で退職したのに,唯一残っていたのが「夏の集中講義」だった。

 都会で困ったときに「非常勤講師」という肩書きが我が身を助けた。

 そしてこの七年間,夏になると見慣れた場所でいつもの授業が始まる。

 そんな変わらぬ場所があることのどれほど有り難いことか。

 今年も八月がやって来る。

文月二八日

 採点の日々。試験の出来はすなわち自分の授業の成果ゆえ,自らの力不足を糾弾されるが如く。誰も慰めてはくれないので,現実逃避しながら孤独な作業を続ける。続けてたら用事一つ忘れた。

Young Japanese Women Vie for a Once-Scorned Job(NYT:登録必要)
http://www.nytimes.com/2009/07/28/business/global/28hostess.html

 不況下で日本の若い女の子達がホステスを志望しているというニューヨークタイムズのレポート記事。age嬢文化の紹介も兼ねていると思うが,諸外国の人々の眼にはどんな風に写るのだろうか。

Nyt_20080727
(公開当日は自由閲覧できるのだが,翌日からは登録者のみへの公開になるしくみ…)

 民主党のマニフェストや政策集がインターネット上でも公開。教育関係で大胆な政策を掲げているが,実行は厳しいかも知れない。たとえば企業が内部留保の何パーセントかを文教寄付すれば税制優遇される,というような仕組みを作らないと,地方の財政によって成り立つ学校教育のリッチ化は難しいと思う。

 教員養成が6年制になることは長期的に望ましいが,教員免許開放制との整合性の問題,実務家教員の確保とそれによる教員養成現場の高齢化,そして教員養成系大学学部の再編論の再燃など,教員養成現場のドタバタは続きそうだ。

 教育委員会制度の抜本的見直しの詳細が分からない以上,まったく予測は描けない。文部科学省,首長,都道府県教育委員会事務局,市町村教育委員会事務局が仲良くねじって分け合った権限を,どこか一ヶ所に集約した場合のブレーキをどうするのか。監視する組織を作るというが,監視する組織の監視は誰がするのかというお馴染の問題はすぐに表面化するだろう。改革はともかく日常的な運営の場合,権限監視型よりもバランス調整型の方が日本には合っていると思うのだが…。

 それもこれも結局,自民党があぐらをかきすぎて,手を抜いたのが全部悪いのであって,ここまで来ちゃった以上は,何が起こっても驚かないようにしよう。

やめちゃうの?

教員免許更新制度廃止も 「民主政権」日教組に配慮
http://sankei.jp.msn.com/politics/election/090726/elc0907260134001-n1.htm

 教育らくがきを書いていると,現状や現行制度を批判的に見る立場をとることを入口にすることが多いので,それが私自身の政治的態度と見なされることが多いのかも知れない。ただ,実際には節操が無いだけなので,周りと共有する確たるビジョンが無い以上,状況の中の実際性や現実性を勘案しているに過ぎない。私がここの文章を「駄文」と称しているのは,そういう意味を込めている。

 民主党が政権をとったら,教員免許更新制度の廃止に動きそうなのだという。

 皆さんは,どう思われるだろうか。
 
 教員免許更新講習の準備に関わった人たちの気持ちを考えると複雑な気持ちになる。一方で,現実的に更新講習のコストパフォーマンスを考えると,遅かれ早かれ違う形に変わらざるを得ない。果たして,どうなるのか。

 全国の更新講習関係者は声を上げるのだろうか。それとも,行方を静観するだけになるのか。

 廃止になり,更新講習が打ち切られれば,そこで雇われた人たちの職がなくなることになる。

 そうやって振り回されてしまう人々の声を代弁してくれる人はいるのだろうか。

 教師が学ぶ機会をつくることは,全面的に肯定されるべきである。その実現方法をもっと洗練すべきなのだろう。限りあるリソースをどのように集中させるのか。地方の教育委員会事務局や教育センターが,現行の努力を踏まえて,どのように現在の世界に対応するのかビジョンを共有しないといけない。

 政治家は法律と制度を変えようとしている。

 私たちは教師文化を変えていく覚悟が必要である。

 
 それでも,現実はいつも厳しい。やりたいことは出来ないことが多い。そこからどう選択して行動するのかは,それぞれの構え次第である。

環日本海諸国図

 地図の世界は奥深く,いまだにイノベーションが起こっている領域でもある。衛星写真を用いてつくられた仮想地球儀を操作できる「グーグル・アース」の登場は衝撃的だったし,ジオタグ技術による様々なマップ・サービスは,ますます私たちの生活を楽しませてくれている。

 何年か前に乗った新幹線だったか飛行機だったかの機内誌のコラムに「環日本海諸国図」という地図が紹介されていた。大変印象深い記事だった。私たち日本に住む人間が認識している日本の地政学的な位置づけとはまったく違う認識をもたらすものだった。「逆さ日本地図」とも呼ばれている名前の通り,単に地図をひっくり返しただけのものにも関わらず…。

Kannihonkai_map

 ネット上検索すると富山県が独自に作成した地図があって,使用するには許諾の必要がある云々と少々煩わしい。それでも,富山県が自分たちの地理的位置を重要だと読み取りたくなるのも自然なくらい,国内都市の重心の捉え方に転換を迫る地図だと思う。

 休日の朝のテレビ番組で,国際空港政策の問題を取り上げ,日本の空港政策の破綻と韓国の仁川国際空港の台頭を報じていたが,それもこの地図を見ればさもありなんという感じである。アジア諸国やヨーロッパへのアクセスを考えると仁川国際空港は絶妙な場所にあるようにも見える。

 先日送られてきた日本教育工学会研究報告集には,教師の資質能力基準に関する研究報告が載っていて,米国の基準であるINTASCのカテゴリーの一つである「ディスポジション」について論じていた。INTASCというのは教師の資質能力について「10個の原理」それぞれを3つのカテゴリー「知識(ナレッジ)」「姿勢(ディスポジション)」「行動(パフォーマンス)」で構成した基準である。

 これを踏まえると,環日本海諸国図のようなものを「知識」として理解しておくことは重要であるけれども,おそらく私たちに求められているのはこの日本海諸国図に対してどのような「姿勢」をとるのかということだと思われる。「構え」と言い換えてもいい。その上で教育実践としてどのように「行動」するのかということへと繋がっていくのだろう。

 それは教師に限らず,私たち日本国民が,こういう知識や認識を前提とした姿勢や構えで生活できているのかと問われているのだと思う。

 逆さ日本地図が表している日本の地政学的な存在感を,肌で感じるようになることも必要なのかも知れない。

特集「子ども危機」

週刊ダイヤモンド 7月25日号「子ども危機」
http://dw.diamond.ne.jp/contents/2009/0725/index.html

 来週には最新号が書店に並んでしまうが,7月25日号では「子ども危機」という特集が組まれ,週刊ダイヤモンドらしい視点からネットの危険,教育の後進性,少子化・育児問題,出産と小児医療の現実,子どもの貧困問題を扱っている。

 週刊ダイヤモンドの特集読むと気が重たくなるのは,そういう切り口だからか,そういう現実が本当に深刻だからか,雰囲気に引っ張られないように立ち止まって考えてみる。

 問題が一気に解決する手だてはない。だとすれば,どの部分から良い兆候が見えたら全体の雰囲気に波及するのかを考えるのが順当な手続きである。

 ところが優先順位のつけ方は人それぞれ。そのどれも一理あるのだから,結局のところ意思決定に政治が必要になる。つまりこの場合の「政治」というのは,端的に言えば,やってみてもいいかと思わせるくらいにハッタリをかますことである。

 米国教育研究学会(AERA)はWebサイトに「Research Points」というコーナーを用意して,政治行政などの意思決定の立場にある人々に対して,学会としての研究動向やポイントを示すようになっている。この数年は更新されていないが,少なくとも研究者側からの情報発信は明確にされている。

 日本でも研究動向をまとめた論文は存在するが,こういう形で発進することを前提としたものではないし,学会のWebサイトに掲げられているわけでもない。表立って特定の立場に肩入れしないのが日本の学術研究の倫理みたいなところもあるので,これは文化の違いみたいなものだ。研究者集団には研究によるそれなりの根拠があるにも関わらず,ハッタリをかますことが出来ていないということ。そして,マスコミが主導権を握って読者視聴者が喜びそうな言説や世間的に名前を知られた人々の主張が選択的に流布されているのが実情である。

 その意味で,週刊ダイヤモンドの特集記事も,問題の選択や情報の編集権はすべて記者や編集部にあって,その客観性や妥当性がどの辺にあるのかを見定めるのは,読者にはほとんど無理である。

 このあたりの問題から取り組むことが正しい優先順位になるのかどうか。正直なところ,確証はないし,得られるものでもないのである。ただそれでも,課題の分かりやすさから言えば,ここから改善するのならやってもいいかなと思わせるのに見合うのかも知れない。

 財源問題は悩ましい問題には違いない。この国に寄付文化が根付いていないし,企業は組織の持続成長を優先して社員に還元しない傾向にあるから,政治行政の側から保証をしなければならないのは仕方ないとも思える。日本は教育福祉関係予算をずっと低い水準で押さえ込んできたわけだが,ぼちぼちバランス配分を切り替えるときが来ているのかも知れない。