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師走一五日

 有り難いことに賞与をいただいた。

 もちろん夏にもあったが,今年就社したばかりだから金額のインパクトは冬の方が強い。あらためて,愛知県に居たときにお世話になった皆様,東京でお世話になった皆様,徳島で迎えてくれた人々に感謝。大学教員に引き戻されたと表現してはいるものの,食べていけるように導いてくれた恩師に本当に感謝感謝である。

 そして,今日は職場の祝賀・忘年会。

 200名もの出席者による大掛かりなものは初めてなので,振舞いもわからないし,目当ての人を発見するのも難しく,結構大変な会だった。

 それでも,人とおしゃべりするのは好きなので,隣り合わせた先生や職員の方とおしゃべりしたり,所属している学部長先生や分属させていただいている学科の先生や学務関係の先生にご挨拶などして,それなりに交流できた。本当はもっとあちこちご挨拶すべきだったが,本当に人捜しが大変だったので,心の中の感謝に代えさせていただいた。

 日頃は独り研究室に閉じこもって,授業の準備したり,雑務を処理したり,プログラムのコード書いたりして過ごしている。だから,非常に限られた人としか日々接していないのだが,200人もの人が集まると,まだ知らない人達が同じ職場に働いていることが分かって,それはそれで嬉しい気持ちになる。

 理事長先生がわざわざまわられて来て,声を掛けてくださる。最後に「本はあるか?」と聞いてくれた。「研究する本がなかったら,また言いなさい」と言い残して次へと去っていく。どっちかというと時間が欲しいという気持ちが強いが,それでも「本があるか?」という質問は,なんて素敵な声掛けだろう。考えてみれば唐突な台詞だが,これもこれで嬉しかった。


 
 帰り際,「りん先生」と呼び止められて,振り返るといつもお世話になっている総務の事務職員さん。「あの私,○○学科の…」と言われて,最初は「???」という感じだったが,「△△の母です」と言われて驚いた。

 「大変お世話になっているみたいで…」とお礼を言われてしまったが,そんなに大したお世話をした記憶がないので,「いえいえどっちかというと,こちらがいろいろ教えてもらっています」と素直に答えるが,何やら話が大きく伝わっている感じで,かなり良いことをした風になっているらしい。とにかく,いつでもウェルカムですとこちらも合わせてお礼をした。

 
 人と人はどこでつながっているのか分からないものだなと単純素朴に思う。そして,どこでどうつながっていくのかも分からないなと思う。

 その可能性に対して常にオープンでいたいという気持ちが強いので,私は特定のグループに留まり続けたり,特定の人ばかりを指名するようなことは,なるべく避けるようにしている。逆にそういう風にされそうになると,少し距離を開けるように振る舞う。お互いのフリーハンドを尊重するためには必要だと思うからである。

 仲間を持った方が強いのは,その通り。でも仲間を尊重しすぎれば,外に対して盲目になる余地を生む。そのことに自覚的であれるかどうか,私たちは常に問われていると思う。

 正直なところ,あまり幸せな生き方ではない。早く年貢を納めろとも言われるし,善くしていただいた人々とも距離をつくって失礼を繰り返すことになる。それでも,いつも心に感謝の念を忘れず,片想いを続けられることにある種の幸せを感じないわけにはいかない。

 私はまた多くの人達とすれ違う。あとは自分なりに挑戦を続けるだけである。

師走一〇日

 師走も上旬が終わり,年内の授業も残りわずか。自転車操業状態が日常化すると,時間は本当にあっという間に過ぎてしまうものである。徳島に越して来たにも関わらず,まだ狭い範囲でしか動けていない。

 それでも職場にも慣れて,学生達にも認知されるようになった。担当している授業の受講生はもちろん,担当はしていないが同じフロアに出入りする他学科の学生達とも少しずつ交流を始めたところである。

 片手間で開発しているiPhoneアプリケーションも7割程度完成してきたので,そこに使うアイコンや画像を興味のある学生達に制作を依頼することにした。せっかく世界リリースするなら,学生達の作品とコラボレーションすると面白いかなと思う。こういうチャンスをつくるのも教員冥利である。

 今年は極めて印象的な年となった。社会的には劇的な政権交代があって,先日の行政刷新会議の事業仕分けは大きなインパクトを国民に与えた。個人的には,二度目の修論を書き終えたと思ったら,慌ただしく大学教員に引き戻され,四国・徳島の地で新しい生活が始まった。

 そうしたあれこれに伴奏するようにTwitterとUSTREAMというインターネットサービスが人々の注目を集め,興味深いコミュニケーション・チャネルとして頭角を現してきた。事業仕分けも,記者会見も,学会発表も,TwitterのつぶやきとUSTREAMの映像中継対象となった。

 技術的可能性だけでいえば,何年も前から可能なことだった。いままで,その可能性を訴えてみてもほとんどなんら反響は返ってこなかった。ところが2009年においては,この年に起こった様々な出来事と連動することで,実践事例が露見,あるいは需要が顕在して,一気に認知されるようになってきたともいえる。

 もちろん,iPhoneという新たなモバイル・デバイスの登場は,この展開が生起するため不可欠であった。iPhoneアプリケーションを開発して感じることは,このデバイス(プラットホーム)が持つ可能性がまだまだたくさんあるということだ。教育現場に限っても,あんな場面,こんな場面で活用したら知的な刺激を増やせるのではないかというアイデアが思い浮かぶ。

 そうやって技術的な可能性に心躍らせる一方で,冷静な自分の声に耳を傾ければ,使い手である私たちの知的態度や水準を確保すべきとの訴えが聞こえてくる。

 興味深い知的な道具を所有し操作するだけでは,単なる時間の浪費に翻る可能性を避けることが難しい。私たちは,学習に対する一定程度の理解を共有した上で,それらを使いこなす必要がある。

 単にこれまでのような教育技術の先鋭化に努力を傾けるだけでなく,専門知識の習得とそこへの回路を切り開く知的なブレイクスルーを個々の教員に期待しなければならない時代へと入っていることを自覚しなければならない。

 その作業は,ツールを開発するようにはいかず,決して生易しい行動ではない。

 ある種の知的圧縮物と対峙し,逃げ出さない忍耐力が必要となる。まして,学習者との実践に繋がる回路は,多様性を帯び,解釈の曖昧さに嫌気がさすかも知れない。だからこそ問題なのは,そのような困難な道筋をバックアップしたりフォローしていく仕組みが十分用意されていないということである。

 というわけで,教育フォルダは,新しいツールにまつわる取り組みを発動させることにした。

 まずiPhoneというデバイスに関して,これを教育で利用できるように技術的なノウハウを蓄積している。

 そして今月25日の夜に,インターネットラジオ放送を予定している。今年を振り返る忘年会企画だ。

 来年2010年は,年間Twitter読書会を企画している。一年間かけて学習に関する本を皆で読む取り組みである。

 課題図書の候補は『メタ認知的アプローチによる学ぶ技術』『人が学ぶということ―認知学習論からの視点』『授業を変える―認知心理学のさらなる挑戦』だが,それぞれ2000円程度,3000円程度,4000円程度とお値段が張ることを考えると,最初の『メタ認知的アプローチによる学ぶ技術』が良いのかなと思っているところである。ただ,本当ならこの分野の王道である『授業を変える―認知心理学のさらなる挑戦』を取り上げて一年間じっくり味わいたいという気持ちが強い。必読ともいえる本がこのような高い値段でしか手に入らないのは,まったくもって不幸なことである…。

 とにかく課題図書は,インターネットラジオでどれにするか吟味しながら決定したい。

 こうした無謀な取り組みは,ゲリラ的であり,実効性がどこまであるのか未知数ともいえる。しかし,少なくない数の人々がすでに正攻法で働き掛け,これからもそれは続いていくわけであるから,バリエーションとしてこのような取り組みが存在しても悪くないと思うのである。重要なのは,多用で多彩な機会づくりと,それに伸るか反るか参加する意志決定なのである。

 「教師が学習に関する専門知識を持つこと」少なくともそれに関する専門書をしっかり一冊読んでみた事の経験は大きい。それを教師全員で達成することが大事だ。一部の研究者や指導主事だけに任せるような態度をとってはならないのである。知的に刺激し合う関係を作ることが大事なのであり,そのためには一冊からでもこうした書物を読み,自分なりに実践との回路をつくっていく作業に取り組まなければならない。

 と考えた2009年の師走。相変わらず遠大な構想を立てて突っ走ろうとする我がサイトなのであった。

 
(追記:結局,2010年に入って,この読書会は始められていない。お恥ずかしい話だが,新年に入って,長考(いろいろな考え事)をしてしまったことと,実は反応がゼロだったこともあって,なんともお粗末な宣言になってしまった。顔を洗って出直してこようと思う…)

私が言えるいくつかのこと

 片隅とは言え,教育の現場で十数年間身を置いた者として,私が言えることを書きとめておきたい。

 1) 私は,学校教育現場という場所を学びの意欲を受け止められる場所にすべきと考えている
 2) そのためには,更なる金銭的投資もやむを得ないと考えている
 3) 特に教育現場を司る立場である教師の知的学習環境を充実させることは重要と考えている

 1) のような場所とは,どのような場所なのか。具体的な要素は細かく存在するが,大雑把に言えば人的,物的,内容的属性のリソースに対する量と質の向上を実現した場所と考えている。そのようなリソースが多様な学びを実現し,支えるのに役立つからであるが,個別の事例は別途説明したい。

 2) 1)を実現するためには金銭的投資を必要とする部分がある。学習に必要な教具など物的リソースの購入,学習を促し,効果的な成果を挙げるための教材コンテンツを開発する資金,もちろん人的リソースにもその仕事に見合う賃金が必要である。一方で,厳しいコストカットやリソースの効率化は必要だが,リソースの充実にキリが無いのと同様に,コストカットにもキリは無く,どちらの場合にも見識を伴った適切な判断と選択が行なわれなければ未来に禍根を残すことになる。

 3) 優先順位を付けるとするならば,現行の人的リソースが持つポテンシャルを引き出すための学習環境整備が最も必要とされるのではないかと考えられる。事実,いま進行中の教育現場を担い司っているのは現職教師の方々である。こうした人的リソースを立て替えたり,入れ替えたりするための新たな人的リソースは存在しない。また,物的,内容的リソースの拡充があっても,人的なリソースの水準によって拡充効果が左右される現実もある。

 以上のことから,私たちが真に力を費やさなければならないのは,教師の資質向上・知的水準向上,そのための教師の知的学習環境の保証だと考えられる。

 これまで,私たち教育研究者は,教師の資質向上の重要性を確認し,各自の努力のもとでそのことへの貢献を続けてきたものの,残念ながら,「教師の知的学習環境の充実の必要性」の意味を広く社会に認知させることには力及んでいなかった。

 そして,確かな裏付けはないが,以下のような可能性があるのではないかと私は懸念している。

 4) 教育技術の先鋭化が,むしろ新しい教師の知的学習環境の導入を遅らせてきた可能性がある
 5) 「指導・助言」行為における主従意識が,知的学習環境の現状によって生成されている可能性がある
 6) 次代に生きる学習者を支援する専門職にふさわしい知的学習環境を教師自身が知らない可能性がある
 7) そのことについて直接的に責任を持つ者はなく,すべては学習者が将来自己負担する可能性がある
 8) それゆえ,私たちは根本的に次代にツケを残し続けている
 9) すでに,教育や学術研究との十分なコミュニケーションを形成していない世論としてツケは顕在化している
 10) ここからの再構築のためには,既存のものへの否定や閑却が伴い,人々を傷つけることがある

 とはいえ,私は1)〜3)についての考えは変わらない。そのために自分の出来ることを,理解を得られるような(あるいは気持ち的にのってくれるような楽しい)形の苗木にまでに育てて,世に送り出していきたいと思う。もちろん,私自身に残された時間でそれを実現できるかは怪しいものだが,結局は自然淘汰の世界の中で仕分けされるわけだから,出来るところまでやってみたいと思うのである。

 少なくとも私はタックスペイヤーに助けられてここまで来たのである。そのことは,私自身がタックスペイヤーになった今でも忘れてはいない。その分は次代の人々のために,片隅の私学の教員だけど,貢献し続けるつもりである。

そのまた先に思いを馳せて

 今日は授業や打ち合わせなどで慌ただしい中,行政刷新委員会では事業仕分け後半2日目の文部科学省パートが行なわれていた。奨学金やら義務教育国庫負担金の話やら,気になるものも多い。前半戦の話題もあって,多くの見学人が詰めかけたというニュースも流れている。

 そして,夕方にはノーベル賞・フィールズ賞受賞者による声明発表や科学者による討論が東京大学で行なわれた。ネット時代らしく,開催の告知が駆け巡り,かなり注目を集めたようだ。私もネット中継でいくらか観ることができた。それにしても,ここのところUSTREAM等のストリーミング・サービスやTwitterは大活躍である。

 日頃から危機意識をチラつかせながら駄文を書いている当「教育らくがき」なら,この勢いに便乗して喚きそうなもの。けれども,ここまで来てしまうと私はもう次のことを考えたくなるので,基本的に静観モードで,すこし茶々入れしてみるくらいの心持ちなのである。

 皆が騒ぐべきことに気がついたならば,また違うことに視線を向けて,物事を見通そうとしなければならない。

 
 気がつかなかったが米国では23日(日本なら24日)にオバマ大統領が「Educate to Innovate」というキャンペーンを始めたというニュースを見つけた。
 別にホワイトハウスが乗り出せば上手くいくなんてちっとも思わないし,大統領が語っている物事がすべて上手くいっているとも思わないが,いかにも演出が上手いじゃないか。こういうワクワク感が日本のノーベル賞学者からもフィールズ賞学者からも出てきていないということに,ちょっとシクシク感を抱くのである。

 ま,とにかく私はいま,ローカルに軸足を置いたネットワークの可能性に興味を強くしている最中なので,あれこれ距離感を測ることで時間が過ぎている。私は基本的にタネはたくさん持っているけれど,蒔いて育てることには弱いので,少なくとも苗まで育てて,一緒に育ててくれる誰かに会いにいく準備をするのが目下の課題である。

 
 というわけで,科学・技術も人文・社会科学も,ますます世間とのコミュニケーションを強めることで,進歩していくことを願うのみである。私は地道に仕込み作業継続…。あ〜,でも毎日の授業は,毎日原稿締切りがあるみたいで大変である。

出来事は気まぐれ

 肌寒い日が多くなり,そういえばもう秋と言っても間違いない頃になったことにあらためて気づく。私の周辺はインフルエンザが猛威を振るっていて,のんきな私もここ数日は学内をマスクして移動するようになったくらいである。

 日々の項目に特段の変化はないが,移り気で変化を好む私だから,あれこれ寄り道はしている。ブログの更新を緩めて,Twitterで頻繁にツイートしてみることもあれば,地元のコミュニティFMに出演してみたりもする。職場のホームページ更新を任されていたことを思い出し,せっかくだから授業とコラボレーションさせてみようと急遽作業に取り組んだりしている。

 そんなことをしているうちに,寝かしたり放ってある宿題や案件に取り組みたい気持ちも湧くだろう…と,毎日の作業場面は慌ただしいのだが,全体的な進行やりくりはおおらかな案配で進めている。

 行政刷新会議における事業仕分けでは,科学研究費を始めとして様々な予算が縮減や廃止といった評価を受け,またその評価議論の乱暴さについてもあれこれ問題視されている。それと平行して,来年度予算で実現しようとしている様々な施策に関する方針も揺れているといった感じ。

 私の仕事の采配ぶりに負けず劣らず,世の中の出来事も気まぐれな調子が続いている。もちろん,溜まったツケを払う段階に来たのだから,苦しくなることは覚悟しなければならない。いろんな意味での債務返済をしながら,教育も学術研究も将来に向けて禍根を残さないような再構築プランを模索しなければならない。

 感情ベースで言えば,貧乏くじを引く立場の人間にとって許せない世の中である。だから私たちは「世知辛さ」ではなく,「優しさ」あるいは「慮り」の気持ちを伴って,この苦境をともに乗り切っていかなければならない。そうでなければ,荒んだ気持ちに押しつぶされてしまった人間が何をしでかすか分からないことを不安に思う,そんな世の中を増幅させかねない。

 なので,私は今週あれこれ考える中で,再び,開き直ることにした(私は事あるごとに開き直っているので珍しいことではない)。様々な問題については意識しつつも,自分に与えられた仕事や職務を楽しむことにした。

 もう少し「素朴」な立ち位置に舞い戻ろうと思う。

今日の事業仕分け

 本日は研究補助金関連を対象とした事業仕分けの議論が行なわれた。

 学術研究の世界のことを,いかに広報したり伝えてこなかったかを痛感する議論。

 学術コミュニケーターっていなかったけ?

 そう思ってしまうのも,日本科学未来館の毛利館長の活躍?があったからだ。

 危機意識があるからか毛利館長自身わざわざ見参。

 そして,バシッと未来館の意義やすでに行なっている努力を突きつけた。

 そしてこの場を利用して,チクチクと文部科学省にも本音を突きつけた。

 こういう人に学術コミュニケータを依頼すべきかも知れない。

 
 東京にいたら,現場に駆けつけたのに…。悔しい…。

私の気持ち

 事業仕分けなどで行なわれた学術関連の論点には,学術研究の納税者へのフィードバックとは何かとか,若手研究者やポスドク問題,学術研究機関としての大学の国際水準とか,地域振興を抱え込ませた大学事業の在り方など,細かく様々な事柄が含まれていたように思う。

 正直なところ,私はどの問題についても当事者性や発言資格に欠けるところがあって,特定の意見を強く持つことが難しい立ち位置にある。そのことが自分でも不甲斐なくて悔しい。

 どうしてこんなことをわざわざ書くかというと…,悔しかったのね,毛利さんの様子を見て。

 毛利さんにカチンと来たのよ,くそぉと思ったのよ。なんであなたは日本科学未来館でそれをやる?

 いや,僕は日本科学未来館好きだし,かつては友の会の会員だったし,毛利さんやった!とも思うよ。

 でも,だから,科研費の議論の場面で,毛利さんみたいに場をグッとつかむ展開に誰もできなかったことに悔しさを感じたのよ。そして,毛利さんが熱いというなら,私だって同じくらい熱く語ってみせるぜ

 と思ったの。身の程知らずにも…。

 同じように思った人,多いでしょ?

 そりゃ,あの場の評価は決定ではなく参考資料になるだけだけど,あれほど世間に訴える絶好の機会はないともいえる。

 あとからバラバラと署名して抗議活動することも大事だけど,相手の誤認や認識不足を現行犯逮捕する様子を国民に見せないとダメだと思うよ。こっちが現行犯逮捕されてでも(わたしゃ本気だ)。

 それを毛利さんはやったんだ。館長として正式に招聘された上で,バシッとやった。

 まったくもって悔しい…。毛利さんは格好いい,でもまったくもって悔しい。

「事業仕分け」は何を意味するのか

 某容疑者の護送の陰に隠れてしまったが,行政刷新会議による「事業仕分け」が11日から9日間の予定で始まり,文部科学省の諸事業も初日から俎上に載せられ議論の的となった。

 その日は疲労で寝込んで見逃してしまったため,肝心の学校ICT化事業に関する議論を見ることができなかったが,断片的な情報を組み合わせたり,評価結果を見たりして,なんとなく想定通りの展開になったのだなと納得している。

 結局,私たちの情報発信に関する力不足が露呈したわけだ。そのことをまともに受け止めなければならない。

 あれこれ眺めていると,議論が低レベルだとか,理解してない人間が議論していて仕様がないとか,結論ありきで議論もへったくれもないとか,いろいろ感想が飛び交っているようだ。その感想を否定するつもりはないが,そんなこと五年も十年も前から想定できた感想なんだから,いまさらそんな感想はないでしょうという気もする。

 少なくとも私たちはチャンスを幾度も逃したのである。

 自慢にもならないが,昨年度の補正予算の第一次募集への応募者がぎりぎりセーフ。
 
 結果的には,学校ICT化全体で言えばアウトを宣告されたわけである。

 妥当な宣言じゃない? 言い分が届かなかったんだから,反省するのはこちらである。

 情報が公開されること。このように事業仕分けの議論が全面公開されることは歓迎すべきことだと思う。

 けれども,こんなことが必要になるところまで来てしまった事態自体に深刻さを考えなければならない。

 本来,こんなことは信頼ある専門家が密室でしっかりやってくれれば良いことだったのである。

 それが不可能になってしまったほど国家の水準が低下していたのだし,それはかなり前から周知の事実。

 そのことに危機感を抱いて動けていただろうか。問題意識を持てていただろうか。

 結局,確定した方法や手続きに甘んじて,適切な運用や決断を怠ったツケが溜まってしまったわけだ。

 公開の場に引っ張り出さなければ刷新ができないとされてしまった専門家の硬直具合を,我が身のことではないかと疑う姿勢があるかどうか問われている。

 自分のことを考えると,本当にため息が出るくらい何もしていない。はぁ…。

 もちろん,概算予算要求に関する最終決定は各省庁にあるわけで,学校ICT化も見直して削った上で残ると思われる。教育の情報化は,学習指導要領にも盛り込まれた事項なのだから,まったくゼロでは整合性上問題も残るからだ。

 しかし,そのICT化の必要性が一般人に(事業仕分け人のような人々にさえ)届いていなかったという事実の方は,もっと重く見た方がいい。いや,それよりも教育関係者にも届いていなかったことの方が深刻か。

 本来ならば早い時期に各都道府県にローカルな教育の情報化エヴァンジェリストとなるような若手研究者を見出し,教育委員会や学校現場と関係づけるようにコーディネイトしていくべきだった。そのようなネットワークの中で,教育実践と教育研究との複層的なネットワークを構築して情報交換を展開すべきだった(もっともその若手を育てられないアカデミズムの構造問題はさらに深刻さを増している)。

 教育の情報化の世界では,限られたメンバーがグループを作って(結果的には)トップダウン式に啓蒙活動をしているのが実態であり,一部の実践者や研究者にほとんどの負担が向けられている。そして,そういう有名グループや研究者の周辺に,ほとんどの教育産業が集っているという構図である。正直なところ,この構図やアプローチには限界があるし,いよいよそれが露見している。

 いま求められているのは,そういう現状の改革なのかも知れない。行政刷新するというならば,実践・研究コミュニティの在り方も刷新していく柔軟さが求められると思う。

 これは失言なんかじゃない。私個人の決意を再確認しているだけである。これまでいただいたご縁やご恩を私なりに活かすには,そういう距離感を確保しなければならないとずっと考えているのである。傍流・逆流研究者の私には,小さなことしかできないとは思うが,自分の居る場所で自分なりに前に進むだけである。

 それにしても,「子どものICT利用実態調査」という調査に関わった人間としては,事業仕分けにおける議論は,いろんな現実を見ることになって悲しい。

 反省することはたくさんあるが,とにかく自分に出来ることを仕込み続けて開花させるしかない。遠回りしすぎて,勢いも何も無い感じだが,チャンスは必ずやって来ると信じて,地道に生きていくしかない。

ラジオ生番組出演・ひとり反省会

 今日は半日お休みをもらって(休暇はたんまり貯っているのだ)コミュニティFMの番組出演をしてきた。天気は雨。こういう日には部屋でラジオを聴くのが優雅だが,今回はしゃべる立場。前日から落ち着かなかった。

 悩みに悩んで決めたはずのリクエスト曲も今朝起きて天気を見たりすると急に自信がなくなってくる。ウケをねらったが裏目に出て,天気と同じ憂鬱になるのも嫌だったので,直前になってアダルト路線(ってなんか違うな…)に切り替えた。

 打ち合わせは,普通に皆さんとおしゃべりできるのだが,直前になって急に緊張してきた。

 いやぁ,生放送は緊張した。電波に乗るとなると,言葉をどうしようか考えちゃっている自分がいる。お相手のパーソナリティHさんからの投げ掛けに,とりあえず口で答えているのだけれど,頭が言う事を変えようと考えた途端に口からの言葉の流れがブチッと変わっちゃうのは悪い癖だなと思う。

 後半はだいぶ緊張も解けてきて,出演を楽しむことができた。とにかく久しぶりのラジオしゃべりだったし,上手にしゃべれたとは思わないが,初めてのラジオ生番組の出演はなんとか無事終了させることができた。

 幾人かの学生達がコミュニティFMで番組を担当するパーソナリティ・アルバイト?をしているみたいだが,よくぞ毎回こなしていると感心してしまう。まあ,定期的にしゃべると分かれば気楽なのかも知れないけれど。

 生放送を収録したCDをもらい,恐る恐るラジオで聴ける状態をチェックする。

 まあ,楽しそうにしゃべってるから良しとするか。

 …,パート2とか言っているが,次回があるのか?

 そのうちこっそり,パート2をPodcastに吹き込むか…

 
 とにかく終わった! 関係者の皆様に感謝感謝。

霜月四日

 11月に入った。光陰矢の如し。仕込み作業は淡々と続いているものの,卵になるには遥かに長い時間がかかりそうである。お金で早期解決することも多いけれど,自分で納得して進むのが私流なので気にせず続けよう。

 ブログを書く間隔は間延びしてしまったが,教育フォルダのTwitterアカウント(edufolder)では不定期ながら教育関連のWeb記事へのリンクを流し続けているので,ご興味があれば気軽にフォローやリストに加えていただければと思う。教育フォルダなりのフィルタリングによって届く情報ゆえ,いつものように距離をとっていただく必要はあるが,それなりに面白いのではないかと思っている。

 iPhoneで遊んでいたのが縁で,地元のコミュニティFMにお呼ばれすることになった。地域と触れ合うきっかけになれば嬉しいので(もちろん,出たがりというのもあるが),喜んで出演をお引き受けした。

 何をしゃべるかは相手をしてくださる方と打ち合わせるので,そのとき考えればいいが,それよりも3曲リクエストを考えなければならないので,それをあれこれ悩んでいる。お昼の番組だから,それなりに元気のよい曲がいいだろうけれど,その手の好みのレパートリーは月並みなものばかりだし…。それを無視して好きなものをお願いするなら,あれもいいし,これもいいし…。ははは,しゃべらないで曲だけお願いしようか。

 むむむ,そうなると,ここを検索して見る人も多くなるのか…。

 
 初めての皆様,いらっしゃいませ。

 教育に関して遠回りしながら無いこと無いこと書いているブログです。

 徳島に引っ越して,仕事も人生も模索しながら過ごしている最中ゆえ,

 あんまり実りあるブログにはなってませんが,そのうち面白くなります。

 合言葉は「こっそりお付き合いください」ですので,皆様もどうぞ

 こっそりお付き合いください。

 番組出演,ちょっと味をしめたらポッドキャストでも再開しようか…。ははは。