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暖かくなって

 久し振りにしっとりとした雨の日を迎える。先週末の東京滞在あたりから気温も過ごしやすいものとなり,冬から春の移り変わりが実感されるようになってきた。

 東京で開くiPad/iPhone教育利用の集いの下準備も,日付と会場が確定し,いろんな方に登壇のご協力も得て,なんとか開催できる運びとなった。少しずつ事前登録者も増えているので,舞台あれど客無しということにはならないみたいでホッとしている。

 なるべく黒子として登壇者や参加者を引き立てるように頑張りたい。ただ,なぜ集う必要があるのかという点について趣旨説明など,ある程度責任を持って受け答えしないといけないと思うので,幾多の批判や懐疑はあると思うけれど,誠実に対応していきたい。

 今度の春,徳島にやって来て1年になる。

 賑やかな東京暮らしから一転,のんびりとした土地での生活が始まる。といっても生活の慌ただしさは土地と関係なく続き,あれこれ宿題を積み上げたまま時間が経過した。

 徳島は車社会になっていて,自転車で頑張るのは利便性に限界があるなぁとは思えど,たまに駅前の紀伊国屋へ本を見に行けるので,それで満足としている。

 ただ,たまには都会へ出て刺激を受けることも大事だなと思う。そんなわけで,久し振りに遠出をしようと思って,東京行きの航空チケットを買ったというのが先日の東京滞在の始まりであった。

 歌舞伎は素晴らしかった。

 あちこちで話題が取り上げられているが,東京銀座の歌舞伎座が全面的な建て替えのために休館する。立て替え後の歌舞伎座は,現在の形をしている部分にビルが併設されるようになるらしい。とにかく現在,登録有形文化財に指定されている建物で歌舞伎を見るチャンスは残りわずかだというので,この機会に挑戦した次第である。

 以前,東京に越したばかりの時に,ある方の案内で「能」に連れていってもらったことがあった。面白かったけれど,睡魔との闘いもあって,正直十分味わったとはいえなかった。さらにその後,同じある方の出した宿題で「相撲」を見に行く機会があった。両国国技館で直接見る相撲も面白かった。

 それで,東京は離れてしまったけれど,歌舞伎座で観る歌舞伎に挑戦というわけである。

 歌舞伎座はさよなら公演を続けていたが,二月は十七代中村勘三郎の追善公演ということで,十七代勘三郎が演じて好評だった演目が並んでいるのだそうな。実はそういう前知識もなく,予定と合う夜の部の座席を予約した。値段は張ったが,一緒に一度の体験と思えば。

 そして当日,銀座三越で持ち込みのお弁当買って,寄り道しながら歌舞伎座へと歩いていくと,遠くから見たことある顔が歩いてきた。それがナント,能や相撲に導いてくれたあの方。偶然にも同じ歌舞伎の芝居を観にきたとのこと。いやはや,相手は常連さんとはいえ,なんたる偶然。歌舞伎の芝居が終わってお寿司をご一緒できたのは嬉しかった。

 歌舞伎の芝居自体も素晴らしいものだった。夜の部は「壷坂霊験記」「高坏」「籠釣瓶花街酔醒」という演目。歌舞伎初心者にはどれも分かりやすい内容だったのがよかった。特に「籠釣瓶〜」は勘三郎の演技もよかったけれど,玉三郎の女形演技も本当に素晴らしく,もう一度観たいとさえ思った(もう二月公演は終わったけど)。

 「このタイミングで玉三郎の演技を

東京滞在

 東京に来ている。
 年末年始に帰省したのを除けば、徳島から出る機会がほとんど無くなっていたので、たまにはプライベートで遠出をしようと思い、早割りで安くなっていた東京行きの航空チケットを買った。
 その後、雑誌の特集などで歌舞伎座の建て替えが話題になっていることを知り、せっかくなら登録有形文化財の今の歌舞伎座で歌舞伎を見ようと思い立ち、東京行きの予定に組み込む。その後、iPadが登場したので、教育利用のイベントを開催することを決め、下準備の作業も東京行きの予定に組み込んだ。
 当初ノープランの東京ぶらり旅のつもりだったが、すっかり旅のプランが出来上がってしまった。

 朝、荷物を詰め込んで空港へ。JAL東京行き。JALもあの一件があってからは初利用になるが、なんだかカウンターの人も搭乗員の人も、以前より愛想が良いのは気のせいか?
 羽田から宿へ。宿に荷物を置いて、AppleStore銀座に向かう。お世話になったシアター・コーディネーターさんと面会する。iPadの教育利用やデジタル教科書に関する議論など、コーディネーターさんも高い関心を持っていて、そうした話題で盛り上がった。
 AppleStore銀座シアターの借り方や他のStoreとのイベント連携の方法など、いろいろ興味深い話も聞いた。いろいろな制約の中、ケースバイケースでコーディネートしている苦労も分かった。希望のスケジュールを押さえたければ少なくとも2ヶ月前までにコンタクトを取るべきということだ。
 それから、3月に開催する教育利用のイベントに関心のある方々と準備の集い。威勢よく呼びかけてはみたのだが、東京近くに住んでない人も多く、他の予定があって都合がつかない人も多かったため、今回集まってくださったのは3名となった。私を入れて4名。規模は小さいが準備の集いは開催できたので良かった。
 準備の集いは月島のもんじゃ焼きを食べに行った。鉄板を囲んでiPadと教育の談議。バッテリーの問題で途切れたりもしたが、Ustream中継も行なった。かなり過激なオフレコ話も有ったような無かったような。映像は鉄板ばかりが映っていたが、意外と声が集音されていたのでびっくりだ。

 翌日は古巣の池袋へ。リブロとジュンク堂、それからヤマダ電機に寄った。リブロは改装が終わってキレイになっていた。人文とコンピュータが1階に集められているのは新鮮だったが、入口やガラス張りの近くに本棚があり、本の背表紙などが色あせてしまうのではないかと心配になった。

 そして歌舞伎座へ。

 銀座三越で弁当を買い込み、歌舞伎座へ。まだ時間の余裕があったので、チケットを先に受け取ってから、もう少し銀座をうろつき時間潰し。

 会場直前に再度歌舞伎座へ向かっていたら、お世話になったMさんに途中で遭遇した。私が街角で知人に会うのは滅多に無いし、会っていたとしても声を掛けてもらえないことがほとんどなのだが、その私がMさんに会えたのは驚くべき偶然。なにしろ、私が歌舞伎を観ようと思い立った遠因は、以前にMさんが能へ誘ってくださった出来事があったからである。神様以外にこの再会は仕組めないのじゃないかとさえ思える。


 Mさんも同じ歌舞伎の舞台を観るのだという。というわけで、たっぷりと歌舞伎を堪能した後、一席ご一緒することになった。

 歌舞伎のこと、今のお仕事のこと、教育やら研究やら人生のお話を聞いたり語ったり…。自分のことをいろいろ話したりできて自分に対して率直にものを言ってくれる年上の方は少ない上に、そういう人が近くにいないので、この機会にじっくりおしゃべりできたことはとても有り難かった。



 明日はイチョウとリンゴにご挨拶をして、夕刻徳島へ戻る。なんだかあっという間の東京滞在である。

日本の教育を世界対応させられるか

 iPadの発表をきっかけに電子書籍(電子教科書)に関する議論が賑やかに展開している。
 日本の学校教育における「教育の情報化」の取り組みは,補正予算によってすべり込みで電子黒板を導入できたところと乗り遅れたところとの明暗をそのままに,大幅な縮小を余儀なくされた状況にある。
 
平成22年度の文部科学省予算案を覗くと,従来まで「学校等におけるICT環境の整備・充実」あるいは「情報通信技術を活用した教育・学習の振興」と呼ばれてきた予算枠は,ものの見事に消え去ってしまった。文部科学省内の予算案項目の中でICTに関係するものは「ICTの活用による生涯学習支援事業」だけとなっている。
 昨年末のニュース報道を見ると,川端文部科学大臣が電子黒板のデモを見たという話題を最後に,その後パッタリ文部科学省はICT関連の話題に絡まなくなった。その代わり登場してきたのは,総務省であり,原口総務大臣がデジタル教科書について触れた「原口ビジョン」が報道されたことをご記憶の方もいるだろう。
 このことは,政治的にICTに関連する事項が,総務省管轄に統合され始めたことの現れである。長きに渡った旧政権時代に,ITもしくはICTに関して各省庁に分散したまま省益維持していた状態を,新しい政権が変えようとしているというわけである。
 スクールニューディールあらため「フューチャースクール」(
原口ビジョン)は,日本の国家戦略として「ICT維新ビジョン」の一部として位置づけられ,2015年を目処にデジタル教科書の配布についても言及している(そして私たちがiPadに刺激を受けて電子教科書を注目し始めているのは,これと無縁ではない)。民主党政権の行方は危うさもあるが,もしも踏ん張ってもらえるならばICTに関してドラスティックな変化も期待される。
 一方,教育を所管する文部科学省からは,ICTに関する予算的な権限が取りさらわれた格好になり,今後は総務省との連携において,教育現場にいる教員への研修や教員養成の現場での対応事業を推進していくという形になる。しかし,予算があって動くというこれまでの推進手法を見直さねばならず,教育の情報化を推進してきた省内のグループは,今まで以上に孤軍奮闘を強いられることになる。そのことを理解して応援する必要があるだろう。
 ちなみに,これまでも文部科学省と総務省は「
教育情報化推進協議会」という繋がりをもって連携してきた経緯もあるので,関係者にとってはむしろ役割分担が明確化してやりやすい状況になったのかも知れない。いずれにしても,積極的な推進が今まで以上に求められている。

 2010年2月4日に慶應義塾大学SFC研究所
ネットビジネスイノベーション研究コンソーシアムのキックオフ・シンポジウムが開催された。これもやはりUSTREAMによる中継が行なわれ,この手のイベントとしては大変多くの視聴者を集めた。
 それというのはソフトバンクの孫正義社長が登壇者の一人として名を連ねていたためである。この数日前にはソフトバンクモバイル社の業績発表会があり,そこでもUSTREAMの中継が行なわれ,同時にUSTREAM社への投資も発表されたことが孫氏への熱狂的な注目を集める引き金となったからである。
 その場で孫氏は,日本がどうなるべきかビジョンを語り,1980年代の電子立国という言葉を引き合いに2010年代は情報立国を目指さなければならないと訴えた。
 そして「義務教育×IT」「観光立国×IT」「財政再建×IT」「民主主義×IT」というテーマでIT戦略を打っていくことを提案した。ご覧のように孫氏がトップに掲げたのが「義務教育×IT」(しかも「教育」でなく「義務教育」)となっている点は非常に心強く感ぜられる。
 孫氏は,例えばの話として,1800万人の子どもたち全員に2万円の電子教科書を配布すると3600億円ほどかかり,その後は小学1年生と中学1年生に新機種を提供するとして年400億円になると試算した。初期導入の3600億円は,とあるダム建設の4600億円と比較した上で,どちらに投資することの方が未来の可能性があるのかといったことを指摘し,その後の年400億円は現在の教科書無償給与の予算額とほぼ同程度であると述べて,実現の可能性を描いてみせた。
 もちろん,この試算は多少乱暴であり,仮に電子教科書端末を導入するとなれば,保証・修繕費用など付随的に発生するコストを盛り込まなくてはならない。また,電子教科書端末は単なる書籍ではなく,情報端末であるわけなので,そのための通信費,新たなコンテンツの提供コスト,それを使いこなす教員育成ための教員研修費用,教科書検定体制の見直しとその維持のためのコスト増加などが加算されていく。その負担分配を国と地方と受益者の間でどう振り分けるのか,高度な政治的駆け引きが必要になる。
 まして,これまでの教育の情報化シナリオで動いてきた様々な立場の人々が,新しいビジョンによって参入してくるプレーヤーとの競争を避けるために,これまた水面下での様々な動きを展開することは容易に想像できることであり,教育の情報化はまた再び呪縛に捕らわれて停滞を余儀なくされる可能性も否定できない。

 もう一つ,こうした「日本の教育」という枠組みで眺めるだけで終わらない事態が進行している。それは新興国の台頭という21世紀を象徴する世界動向である。
 特にお隣の中国は,驚異的な発展を遂げており,経済的にも文化的にもますます無視できなくなっている。中国で受け入れられることが物事の優先事項になれば,私たち日本も様々な場面で中国スタンダードを受け入れなくてはならなくなっていく。
 話題を教育におけるICTや情報化に絞れば,日本のメーカーが日本の教育市場を単に囲い込むようなことをしていてもダメな時代になったということである。
 日本のメーカーは中国市場に打って出るか,密接な連携をはかる努力が必要になる。日本の教育市場だけでは,商売が成り立たないからだ。仮に日本の教育市場の囲い込みに成功しても,それが世界スタンダードと異なるようであれば,今度は日本の教育が取り残されることになる。
 よって日本のメーカーには,中国教育市場を果敢に攻めて,世界スタンダードを提供する側にまわる気概が必要である。その場合,同時に日本の教育もそれを支えるという意味においてグローバルな視野に立った教育課程をつくっていく必要がある。
 そもそも学校現場レベルでは,他国籍の子どもたちが一緒に学んだり,他国の学校との交流が展開されたりと,時代に即した現実的な実践が営まれてきたわけだが,国の教育課程が国際化を唱えたのはこうした動きの後追いであったことを考えると,もっと先を見通した教育課程が議論されてしかるべきである。そうしたときに,鍵となるのはアジア・中国といった周辺地域との関係を学校教育レベルに据えていくことではないかと考える。

 考えてもみればおかしな話である。市場で(通信量の支払いが前提であるとしても)100円でパソコンが売られている時代に,教育現場にはどうして低コストのパソコンが大量導入されないのか。昨今では20万円を余裕で切り始めている液晶テレビ,大量導入すればもっと安価に買えるというのに教育現場に導入されないのはなぜか。小学校の普通教室は約26万教室とされているが,小学校へのデジタルカメラ導入数は21万台とされている。いまどきは旧型がたたき売り状態になっているというのに,なぜ学校のデジタルカメラは教室1台にも満たない数しかないのか?
 これは,教育に振り向けるお金の財布を誰が握っているのか。お金を出すことを要請したり,お金が出ると決まったあとのことを担うのが誰なのか。それをしっかり理解して市民や学校教育現場がハッキリと民意を示してこなかったせいである。
 私たちの住んでいる場所の「市町村長」がお金を出す権限を持っている。しかし,このご時世,市町村の予算は少ないから,導入してその後の維持費(数年後の買い替え予算も含む)を背負い込むことになるICT機器を買うのは躊躇われる。だったら福祉とかの予算にお金を当てた方が「市町村長」にとっては非難されない最善の策なのである。だからICT機器は買われない。
 仮にお金を出す英断を下す市町村長がいるとしても,お金を出すのを要望したり,お金が出るとなったあとの仕事をするのは「教育委員会事務局」である。この「教育委員会事務局」は,教育のことは得意だが,ICTのことは苦手な人たちも多い。そのため,要望を出すのが遅くなったり,IT知識の不足で現場のニーズに合ってないものを要望したり,完全に業者任せといったところも出てくる。
 今後,文部科学省から総務省に一括されたことによって,この構図にどんな変化が起こるのかはまだ分からない。しかし,こうした学校教育現場近くの「市町村長」や「教育委員会事務局」の理解の程度や水準によって,せっかくのビジョンが上手く遂行されないことがあっては,誰にとっても不幸である。学校教育現場の先生方も含めて,新しいビジョンに対して前向きな取り組みをしていく努力が必要とされている。
 いよいよ日本の教育を本格的に世界対応させていく機会が巡ってきたのだと思う。

3/28「iPad教育利用の集い」

 この数日,何かに突き動かされるようにイベントを開くための準備を始めた。

 昨日記事にしたiPadというタッチデバイスを教育利用の観点から受け止め考えてみようというイベントである。

 本当は「iPadのようなツールの教育利用を考える集い」とした方が私の真意には合っているのだけれども,何はともあれ,iPadという商品の持つインパクトに興奮している事実もあるので「iPad教育利用の集い」として開こうと思うのである。

 なぜこのようなイベントをする必要があるのか。

 私なりに理由はたくさん並べられる。そして,同じようにiPadに対して何かを思っている人はたくさん居て,私はそれをTwitterやブログやUSTREAMといったネットメディア上に見てしまった。

 この点在している声をただ分散させておくだけでは,またいつものように後追いの状況を作ってしまうだけではないか。そのような危惧とともに,先回りの姿勢を示す出来事を起こさなければならないという気持ちに駆られた。

 大学のような高等教育はいい。教育環境がそういったツールにある程度の親和性を持っているし,大学の先生たちは研究者でもあるから,新しいメディアだ,ツールだと注目して,研究対象としていろいろ試行錯誤するチャンスもある。高等教育段階での教育利用を考える役者はごまんといるわけである。私のようなものが立ち上がらなくても立派に進む。

 しかし,小中高校段階はどうだろう。

 一部の私立学校は独自に新しいツールを導入することを決めて,先進的な教育実践に取り組めるのかも知れない。けれども,この国の多くを占める公立学校の学校教育現場は?この国の学校教育を支えているたくさんの先生方の中にも,新しいツールに対する関心を示している人たちは少なからず居る。けれども,学校単位,あるいは市町村単位で学校教育の在り方が決められている制度の中で,一人一人の先生たちの興味関心は十分拾われるとは言い難い。

 私は,Twitterを始めとしたネットメディア上に発見した一人一人の先生たちの興味や関心の声を拾う試みも,ネットメディアの有効利用になるのではないかと思った。こうした声に応える形のイベントを開くことが大事ではないのかと思えた。

 他でもない,全国の教育現場で日々頑張っている教育関係者の中にいる,新しいツールに関心を寄せ,それが何かを知りたがっており,可能性を模索しようとしている人々,あるいは新しいツールに懐疑的で,それが学校教育の現場に持ち込まれても役に立たないと考え,過度な期待に否定的な人々に対しても,直接iPadが紹介され,教育関係に携わる各分野の人々がどのように展望しているのかという意見を届けるということは,重要だと思われたのである。

 そして,率直に全国からフィードバックを受けることによって,こうした新しいツールが,日本の教育現場に受け入れられるための条件とは何か,変えるべきもの,足りないので加えるべきもの,埋めるべき隙間,望ましい活用方法,考えられる限界を情報交換しておくことで,アップルも,また居合わせてくれる教育関係の人々にも立ち向かうべき課題が明らかになるようにしたいと考えている。

 集いは研究会ではない。どちらかといえばお互いのビジョンを確認し合う場だと思う。

 私たちには,考えにたくさんのズレがあるはずなのに,それをざっくばらんに語り合う場が無い。集いの場がそのような場になるのは難しいとは思うが,少なくとも,きっかけや一つの試みになることを私個人は期待している。

 そういう私個人の思いはともかく,3/28の催し自体は,気楽なものになればいいと思っている。最初の顔合わせみたいなものだから,緊張しすぎても仕方がない。

 iPadの実物がデモされたら,それはそれで嬉しい。しかも全国の先生たちに向けてのデモ。その事実が大事なんだ。そして教育関係の企業や団体の皆さんもタッチデバイス時代の教育の在り方に注視しており,全国の先生方のことを考えているのだということが伝われば,それは心強い2010年度の幕開けになるのではないかと思う。

 私は,日本の学校教育現場が元気になってくれることを望む。

 iPadにその願いのすべてを託しているわけではないから,iPadそのものを売り込むことに加担したいわけではない。むしろ,iPadのようなものを柔軟に受け入れられる先生たちを養成したり支援する環境の実現を望んでいる。だから,今回のような場を企画し準備している。

 この国には,もっと先生たちをバックアップしていく仕組みや動きが必要だ。その形や大きさは様々あるが,今回の催し物の企画も,小さいながらその一つの提案である。

教育ツールとしてiPadをどう考えるか

 アップル社から新しいタッチデバイス(指で画面をタッチすることで操作する機器)である「iPad」が発表されました。発表日から60日ほどで発売予定。つまりこの春から購入して使うことが出来ます。

 すでにiPhoneという携帯電話機と情報端末を掛け合わせたスマートフォンと呼ばれる商品が普及を始めています。これもサイズは小さいながら立派なタッチデバイスの代表ですので,iPadがどのような操作をする機器なのかは,少し試してみればおおよそ見当がつくと思います。

 iPadの教育利用(あるいは教育活用)の可能性を想像する人が多いことは,ネット上の書き込みやTwitterでのツイートの内容を見ることからも伺い知れます。しかし,この可能性はどこまで本物なのか。

 視聴覚教育の歴史を追えば,これまでも様々なデバイス(映写機やOHPやテレビやAV設備等々)が登場するたび教育利用が試みられてきました。コンピュータの時代がやってきて,主役が電子機器になっても同じです。教育用パソコンも形が変わり,性能が進歩し,ネットワークに繋がるなど,その度ごとに繰り返し繰り返し教育での利活用が考えられ,先達によって試行錯誤が繰り返されてきました。

 そして最近は,携帯電話という機器を前にして,とうとう学校教育は排除的な態度も取り始めました。学校教育に落とし込むには,あまりにも商業・消費文化の都合に染まりすぎていることからくる隔たり感というか,扱い難さ。それでいて,教育関係者自身もパーソナルなコミュニケーションツールとして好きに使っているバツの悪さ。「これは学校教育が扱うべき対象物ではない」と閉じてしまう方が全体的に見れば破綻をきたさないで済むと考えて,その道を選択するところも多くなりました。

 度重なる新しいものへの対応,そして,やってきた手に余る代物への拒絶。本当に「教育の情報化」なるものが学校教育の根幹に必要なものなのかという懐疑が堆積したまま,一方で情報モラルは大事ですねと調子を合わせなければならない事態に,私たちは陥っていると考えることは出来ないでしょうか。

 そんな困難な状況にも関わらず,iPadなる新しいデバイスが登場したということに,どれほどの意味や価値があるのか。また新しさだけで化粧したがらくたを押し付けられるのではないか。携帯電話ならば正体は分かるにしても,タッチデバイス?それで教育や学習の何が出来るのか?と訝しく思う人々が出てきても,不思議なことではありません。

 そのことを踏まえつつもなお,今回のiPadには期待できるものがあると考えています。

 iPadは操作するためにiPad本体以外のものを必要としない情報ツール。

 端的にこれだけがこの新しいツールに備わっている可能性です。付け加えて言えば,一枚の板状のタッチスクリーンで本体が構成されていると見なせること。このことが学校教育現場で利用するのに最適であると考えてよい理由です。

 もちろん,充電にはACアダプタやケーブルが必要ですし,デジカメのメモリカードを読み取るにはカードリーダアダプタが別に必要になります。しかし,そのようなオプション利用の場面を差し引いて考えれば,iPadはその一枚のアルミ板のようなタッチスクリーン本体を扱うだけになります。

 これに匹敵するのは,算盤(そろばん)くらいではないでしょうか。

 ノートと鉛筆のメタファを採用したタブレットPC(とスタイラス・ペン)は,メタファの域を脱して魅力を訴える決め手に欠けてしまいました。

 パソコンをペンで操作するメリットはいくつかあれど,おおよその場合でマウス操作との違いが出ず,また,ペンを使って「書く」行為を活かそうとすれば,ノートと鉛筆との違いが曖昧になる。

 さらには,キーボードを使う場面において,ペンを使った操作との一貫性は放って置かれたままになりがち。ペンがPCから糸でブラブラと繋がれて揺れている光景は,スマートとは言い難いものでした。

 また,ネットブックと呼ばれる小型PCとの融合を図ったタイプもありましたが,小型軽量であるメリット以外のデメリットについて改善が図られているとは言えませんでした。

 私はタブレットPCとスタイラスペンというツールにも活躍できる機会があると考えています。しかし,活躍できる機会以外において,日常の道具としてのスマートさがあるかと問われると,私には上記のような光景を率直にお答えする他に考えがありません。

 ネット上に「iPadはわれわれのママにぴったりのデバイスだ!」という記事が掲載されました。iPadに対して多くの批判や失望の意見があり最悪な駄作であるとの指摘があるが,その認識は間違っているのではないかという意見の記事です。曰く「iPadはコンピュータ嫌いな人々のためのコンピュータだ」と。

 私は全面的にこの記事に賛成です。

 それというのも先日,私自身が両親にiPhoneをプレゼントした経験があるからです。多少サイズが小さいという問題点はあれど(高齢者になれば皆さんもその苦労が分かります…),私の「ママ」さえもiPhoneをあれこれ試しながら使いこなし始めたからです。これがiPadであれば,今度は重たいとか支えるの面倒とか言いそうですが,視覚的にはもう少し楽に操作できるのではないかと思われるのです。

 高齢者を引き合いに出すのは,少し卑怯なのかも知れませんが,私はごく普通の人にとっても楽に操作できる点は共通していると思います。あるいは,若いがゆえに物足りなさを感じるのかも知れませんが…。

 少なくとも,学校教育現場で使う道具としての条件は,ミニマム・シンプルな道具であり,物足りない余地が備わっていることです。ミニマム・シンプルであれば,道具としての煩わしさは少なくて済みます。パソコンのようにトラブルを運んでくることも少ないでしょう。物足りない部分は,そこに自分たちの教育・学習活動をつくって差し挟める余地があると考えることができます。

 タブレットPCとスタイラスペンの組み合わせや,他のタッチ式タブレットPCなどと,アップルのiPadが似て非なるものと考えられるのは,ひとえにツールとしてのシンプルさを満たしているかどうか,その違いです。

 その上で,ソフトウェアによって何が出来るのか,使い方・活用の仕方によって何が出来るのか,といったところでの工夫が教育や学習活動にもたらす可能性を決定していくことになると思います。

 iPadというデバイスは,ようやく現れた「教育現場に導入することを真剣に考える価値を持ったツール」だと考えます。

 それを私がもっともらしく言うよりも,遥か前にアラン・ケイという人物が描いたダイナブックというツールのことを思い出していただければ,納得のいくことだと思います。ようやく時代が追いついた,それが2010年なのかも知れません。

考え中…

 新しい年が始まり,さて,新たな心持ちであれやこれやに取り組もうと考えていた。

 けれどもそのまま,長考に入ってしまった。

 実のところ,あまり言葉を紡ぐ心境にはない。

 もちろん,日常の事柄は全自動洗濯機のように進んでいる。表面的には,特別代わり映えもなく行動し,有り難いことに健康に暮らしている。近づく年度末の慌ただしさはあれど,悪い出来事は何もないし,同じくらい良い出来事も特にない。

 いや,正確には良い出来事はあったか…。

 当初の予定通り,iPhoneアプリを全世界にリリースした。目の肥えた日本のユーザーの評価は相変わらず手厳しいが,期待を抱いてくださる人々に成果が届いたことは,開発者冥利に尽きる体験である。

 少数ながらヨーロッパを始めとした各国の人々にダウンロードされていることは,望外の喜びである。いつの日か必ず彼の地へ訪れたいという気持ちが,これで一層強くもなった。

 それは新しい年が始まって早々に体験した良い出来事であった。

 そういう個別的な出来事についてはなんら問題ない。

 むしろ,そうした出来事の総体を見通す視座がどうあるべきなのかが問題なのである。

 世間の多くの出来事がデジャヴュのように映る。

 それはいつか歩んだ迷い道。なのになぜ疑いもなく進むのか。

 疑問を差し挟めば常識知らずはお前だと返されようか。

 もしやそれは,似て非なる希望の途やも知れぬ。

 しかし,その道は誰にとってのそれなのか。

 10年後の身の振り方をどうするかも含めて,いままだ考え中である。

謹賀新年

 明けましておめでとうございます。
この新しい一年もどうぞよろしくお願いいたします。

                 管理人
                 りん

2009年を振り返って

 本年もありがとうございました。よいお年をお迎えください。

 2009年もこども店長と大橋ポニョのぞみちゃんを見守りつつ間もなく去る(まだちょっと時間あるけど…)。ある意味,激動の一年だった。そして,それは2010年以降にも続く変動の始まりに過ぎないということも分かってくる。

 米国初の黒人大統領が就任し,日本では本格的な政権交代が起こった。諸々のニュースを総合すれば,もう何が起こってもおかしくないという事に確信が持てるようになったわけで,そこで正統性や正当性を維持することがどれほど困難であるか強く自覚されなければならなくなっている。

 事業仕分けは,とても印象的なイベントとなった。それに駆動されて起こった出来事や人々の反応は,さらに印象深かった。希望も見えたが,残念な気持ちになる事柄も多かった。

 それでも2009年とは,私たちがもう一度様々なスケッチを描き直すことを可能にするきっかけの年になったと思う。その意味では,悪くない年だった。旧いスケッチを描いた人々には,不満も多かったかも知れないが…。

 私自身は,いろんな人々にお世話になった東京暮らしを終えて,人生初の西日本,四国暮らしを始めた。また異なった世界にポーンと飛び込んだので,ほとんどの事柄がリセット状態。最初からやり直すのは苦ではないが,周りには迷惑をかけるので,人間関係は自然と疎遠になる。そんなこんなでひとりマイペースに過ごしているといったところ。

 いつか映画「となりのトトロ」のサツキとメイの家のような場所で過ごしたいと願っていた人間からすると,俗に言う都落ちをして四国の地に移ったことは,宝くじに当たったようなものであった。すぐ隣に森があるわけではないものの,四国の海と眉山などの自然に囲まれたそこは,住むのにとても心地よい。

 男の独り身は気楽だが,それなりに慌ただしい。準備と授業も追いかけっこしながらの自転車操業状態。自宅よりも研究室に滞在する時間の方が圧倒的に長いが,それができるだけでも幸せだ。

 久しぶりにプログラミングの虫が騒いだのでiPhoneアプリの開発もしていた。来年はモバイル端末に新しい風が吹くことが予想されるので,iPhoneやAndroid,そしてアップル社の新しいタブレット端末を前提として,その先へ繋げるために知るべき良い点と悪い点を洗い出していく必要がある。手を動かしながら,あれこれ考えたりしていた。

 新しい年は,iPhoneアプリのリリースからスタートする。そこから得た反応をもとに教育現場向けのiPhoneアプリの開発に繋げて行く予定だ。研究成果によって社会貢献するのとは逆に,社会貢献の成果を研究に活かせるのかどうか。小さな実験だが,その試みにわくわくしているところである。

 それから長いこと棚上げしていた宿題を片づけなければならない年になると思う。論文執筆も取り組む必要があるだろう。気分屋さんだから,そういう雰囲気をつくれるかどうかが重要。

 2年目になれば,職場の仕事も増えてくる。すでに声掛けが始まっているものもいくつか…。授業準備も初年度の見直しとともに整理して,テキストを書くくらいの気持ちでいかないとなぁ。やりたいことは盛りだくさん。

 来年も慌ただしさは変わらないが,さらに良い年に出来るといい。

ダイヤのプレゼント

 年内の授業も一段落した。出席管理などの雑務は残っているし,宿題は積み上がったままだが,一方で,「時刻表」の世界に引きずり込まれ始めていた。来年リリース予定の時刻表アプリ(ソフト)の作業をしているせいもある。

 東京暮らしをしている最中,街の移動に列車(地下鉄やJR)を頻繁に利用していた。縦横無尽にはり巡らされた東京の路線を乗りこなすのは難しい。路線に慣れても,乗り換えに配慮した時間行動をすることはさらにまた難しい。在京中は,よく遅刻をしたものである。

 いつもの通学列車の選択も悩ましかった。今いる駅から乗換駅へ行くのに利用できる路線が2つあったりすると,どちらのホームへ行けば待たずに乗れるかを判断するのに毎度戸惑った。駅では2つの路線の時刻表を並べて貼ってくれているけれど,現在時刻の確認と2つの時刻表の比較は面倒な作業であることに変わりない。

 それで,東京暮らしは終わったが,iPhoneアプリをつくるなら,かつての自分のために時刻表を比較できるソフトを作ってみようと考えたのであった。おまけ的な試みだが,アプリからの収益を,教育現場にICTを持ち込むための資金に充てようと考えている。


 
 そんなこんなで時刻表アプリの原型が完成したのだが,その設計をするため「時刻表」の先行研究レビューをしているうちに,なんとも奥深い時刻表の世界に魅せられ始めてきたのである(いつもの悪い癖の始まりである…)。

 日本の学術研究論文データベースであるCiNiiで「時刻表」を検索すれば,様々な文献が表示される。時刻表そのものの研究よりも,乗継ぎ系列探索システムの研究であるとか,運行情報提供システムとか,輸送計画設計システムなどの成果が目立つ。あとは都市計画や雑誌の記事・紀行文,エッセイなどが山のように並んでいる感じである。

 時刻表の本質を問うということは,すなわち「列車ダイヤ」の本質を問うこととなる。そうやって『列車ダイヤと運行管理』(交通新聞社)であるとか,『列車ダイヤのひみつ』(成山堂)のような専門家の著作をたぐり寄せたり,『時刻表世界史』(社会評論社)といった世界の時刻表をコレクションした文献などに触れてみた。

 それは情報デザインの実践史を追いかける作業にも思えたし,そうやって時刻とともに生きることを選択し続けていった私たちの「人生のダイヤグラム」に関する歴史の旅のようにも見えたのである。

 もうお気付きかも知れないが,これはカリキュラムの問題と無縁ではないのである。私たちがどこから由来して現在に至り,この踊り場での活動が今後にどのように繋がっていくのかを対象として考えるのが広義のカリキュラム観である。

 私はあれこれのダイヤをわしづかみにして,気の向くままにスジを乗り換えながら旅をしている人間である。一方で,多くの人々は自分に合った/自分の欲したスジをダイヤから選び出したり生成したりして人生を歩む。人は人のスジと交わり,そして追い越して行くこともある。一生交わらないスジだって膨大にある。

 そうか,私はそういうダイヤグラムの世界が好きなのか。あらためて,そんなつまらないことに気がついた。プログラミングが好きなのも,その現れともいえる。もっとも,自分自身のスケジューリングは二の次なのだけれど…。


 
 海外の時刻表を研究するために『トーマスクック・ヨーロッパ鉄道時刻表』も入手した。ロンドンを除けば,まだヨーロッパに行ったことはない。ロンドンからパリに向かうユーロ・スターという列車を眺めて,いつかヨーロッパ鉄道の旅がしたいと夢を見たことはある。

 来年か再来年には,ヨーロッパに出かけてみたいと思う。そのときまでには,自作の時刻表アプリでヨーロッパ鉄道の旅が支援できるように改良できたらと思う。今年のクリスマスプレゼントは,そんな目標(ダイヤ)が出来たことかな。

 ハッピーホリデー!

知の階段

 私たちの仕事は「知の階段」を構成することにある。私はカリキュラム研究という分野に軸足を置きながら,教育工学の知見を用いながら教育研究活動をしているが,カリキュラム研究は知の階段の全体を見通すことを目指した学問だといえる。

 人はそれぞれ知の階段における自ら選んだ踊り場で活躍しているわけだが,その階段がどこから続いてやってきて,どこへ続いていこうとしているのかを強く意識しておくことがカリキュラム・マインドというわけである。

 こうした知の階段に関わる知的な情報環境は,情報機器・技術の進展によって急速に変化してきたことはご存知の通り。その変化をどう解釈すべきか議論はいろいろあり得るが,私は基本的に望ましい方向へと進んでいると思っている。

 ただ,いくつかの懸念材料もなくはない。私たちの視界に刺激や情報をもたらすチャネルの選択が狭まっているのではないかという懸念である。選択肢が少なくなっているというよりも,私たちの選択行動に幅がなくなっていると考える。結果的に選択されないチャネルは淘汰されてしまう。

本の販売2兆円割れ 170誌休刊・書籍少ないヒット作(20091213 asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/1212/TKY200912120271.html

 分かりやすいニュースが流れていた。もちろん,この記事に対しては「1980年代水準に戻っただけでは…」という捉え方もあり,膨れ上がった出版業界が適正な姿ではなかったのではないかという議論もある。1980年代の出版文化が過度に乏しかったという話が無い以上,特に大きな問題ではないともいえる。

 しかし,2009年現在の出版文化や取り巻く社会文化的な水準が,20年30年の月日を蓄積しただけ豊かになったとも聞かない。本当のところ私たちは,知の階段をちゃんと上がってきたのだろうか,それとも降りてきてしまったのだろうか。

 新潮社『フォーサイト』が休刊を発表した。また,毎日新聞社が共同通信に加盟するというニュースも流れた。子ども向け雑誌とはいえ,歴史ある『小学五年生』『小学6年生』,『学習』と『科学』が休刊した。

 日本国内市場を対象とした出版業ではグローバルな時代を生き残ることが難しいという,その具体化が起こっているだけともいえる。けれども,歴史や志があるにも関わらず,経済的に立ち行かないで衰退してしまうもののなんと多いことか。

 一体,いま20代30代の人々は,今後数十年の人生の中で,どんな出版物や雑誌を読んでいくというのだろう。それはインターネットや電子書籍で補い得るものなのだろうか。そもそも,そのようなメディアでさえ,良質な情報をどのようなビジネスモデルで確保していくというのだろう。

 一生懸命に駆け上がっていたと考えていた知の階段,それそのものが同時に沈み続けているとしたら…。上がるスピードの速い人たちが増えているとはいえ,そうでない人々にはいよいよ厳しい時代がやって来る。