私が言えるいくつかのこと

 片隅とは言え,教育の現場で十数年間身を置いた者として,私が言えることを書きとめておきたい。

 1) 私は,学校教育現場という場所を学びの意欲を受け止められる場所にすべきと考えている
 2) そのためには,更なる金銭的投資もやむを得ないと考えている
 3) 特に教育現場を司る立場である教師の知的学習環境を充実させることは重要と考えている

 1) のような場所とは,どのような場所なのか。具体的な要素は細かく存在するが,大雑把に言えば人的,物的,内容的属性のリソースに対する量と質の向上を実現した場所と考えている。そのようなリソースが多様な学びを実現し,支えるのに役立つからであるが,個別の事例は別途説明したい。

 2) 1)を実現するためには金銭的投資を必要とする部分がある。学習に必要な教具など物的リソースの購入,学習を促し,効果的な成果を挙げるための教材コンテンツを開発する資金,もちろん人的リソースにもその仕事に見合う賃金が必要である。一方で,厳しいコストカットやリソースの効率化は必要だが,リソースの充実にキリが無いのと同様に,コストカットにもキリは無く,どちらの場合にも見識を伴った適切な判断と選択が行なわれなければ未来に禍根を残すことになる。

 3) 優先順位を付けるとするならば,現行の人的リソースが持つポテンシャルを引き出すための学習環境整備が最も必要とされるのではないかと考えられる。事実,いま進行中の教育現場を担い司っているのは現職教師の方々である。こうした人的リソースを立て替えたり,入れ替えたりするための新たな人的リソースは存在しない。また,物的,内容的リソースの拡充があっても,人的なリソースの水準によって拡充効果が左右される現実もある。

 以上のことから,私たちが真に力を費やさなければならないのは,教師の資質向上・知的水準向上,そのための教師の知的学習環境の保証だと考えられる。

 これまで,私たち教育研究者は,教師の資質向上の重要性を確認し,各自の努力のもとでそのことへの貢献を続けてきたものの,残念ながら,「教師の知的学習環境の充実の必要性」の意味を広く社会に認知させることには力及んでいなかった。

 そして,確かな裏付けはないが,以下のような可能性があるのではないかと私は懸念している。

 4) 教育技術の先鋭化が,むしろ新しい教師の知的学習環境の導入を遅らせてきた可能性がある
 5) 「指導・助言」行為における主従意識が,知的学習環境の現状によって生成されている可能性がある
 6) 次代に生きる学習者を支援する専門職にふさわしい知的学習環境を教師自身が知らない可能性がある
 7) そのことについて直接的に責任を持つ者はなく,すべては学習者が将来自己負担する可能性がある
 8) それゆえ,私たちは根本的に次代にツケを残し続けている
 9) すでに,教育や学術研究との十分なコミュニケーションを形成していない世論としてツケは顕在化している
 10) ここからの再構築のためには,既存のものへの否定や閑却が伴い,人々を傷つけることがある

 とはいえ,私は1)〜3)についての考えは変わらない。そのために自分の出来ることを,理解を得られるような(あるいは気持ち的にのってくれるような楽しい)形の苗木にまでに育てて,世に送り出していきたいと思う。もちろん,私自身に残された時間でそれを実現できるかは怪しいものだが,結局は自然淘汰の世界の中で仕分けされるわけだから,出来るところまでやってみたいと思うのである。

 少なくとも私はタックスペイヤーに助けられてここまで来たのである。そのことは,私自身がタックスペイヤーになった今でも忘れてはいない。その分は次代の人々のために,片隅の私学の教員だけど,貢献し続けるつもりである。