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出来事は気まぐれ

 肌寒い日が多くなり,そういえばもう秋と言っても間違いない頃になったことにあらためて気づく。私の周辺はインフルエンザが猛威を振るっていて,のんきな私もここ数日は学内をマスクして移動するようになったくらいである。

 日々の項目に特段の変化はないが,移り気で変化を好む私だから,あれこれ寄り道はしている。ブログの更新を緩めて,Twitterで頻繁にツイートしてみることもあれば,地元のコミュニティFMに出演してみたりもする。職場のホームページ更新を任されていたことを思い出し,せっかくだから授業とコラボレーションさせてみようと急遽作業に取り組んだりしている。

 そんなことをしているうちに,寝かしたり放ってある宿題や案件に取り組みたい気持ちも湧くだろう…と,毎日の作業場面は慌ただしいのだが,全体的な進行やりくりはおおらかな案配で進めている。

 行政刷新会議における事業仕分けでは,科学研究費を始めとして様々な予算が縮減や廃止といった評価を受け,またその評価議論の乱暴さについてもあれこれ問題視されている。それと平行して,来年度予算で実現しようとしている様々な施策に関する方針も揺れているといった感じ。

 私の仕事の采配ぶりに負けず劣らず,世の中の出来事も気まぐれな調子が続いている。もちろん,溜まったツケを払う段階に来たのだから,苦しくなることは覚悟しなければならない。いろんな意味での債務返済をしながら,教育も学術研究も将来に向けて禍根を残さないような再構築プランを模索しなければならない。

 感情ベースで言えば,貧乏くじを引く立場の人間にとって許せない世の中である。だから私たちは「世知辛さ」ではなく,「優しさ」あるいは「慮り」の気持ちを伴って,この苦境をともに乗り切っていかなければならない。そうでなければ,荒んだ気持ちに押しつぶされてしまった人間が何をしでかすか分からないことを不安に思う,そんな世の中を増幅させかねない。

 なので,私は今週あれこれ考える中で,再び,開き直ることにした(私は事あるごとに開き直っているので珍しいことではない)。様々な問題については意識しつつも,自分に与えられた仕事や職務を楽しむことにした。

 もう少し「素朴」な立ち位置に舞い戻ろうと思う。

今日の事業仕分け

 本日は研究補助金関連を対象とした事業仕分けの議論が行なわれた。

 学術研究の世界のことを,いかに広報したり伝えてこなかったかを痛感する議論。

 学術コミュニケーターっていなかったけ?

 そう思ってしまうのも,日本科学未来館の毛利館長の活躍?があったからだ。

 危機意識があるからか毛利館長自身わざわざ見参。

 そして,バシッと未来館の意義やすでに行なっている努力を突きつけた。

 そしてこの場を利用して,チクチクと文部科学省にも本音を突きつけた。

 こういう人に学術コミュニケータを依頼すべきかも知れない。

 
 東京にいたら,現場に駆けつけたのに…。悔しい…。

私の気持ち

 事業仕分けなどで行なわれた学術関連の論点には,学術研究の納税者へのフィードバックとは何かとか,若手研究者やポスドク問題,学術研究機関としての大学の国際水準とか,地域振興を抱え込ませた大学事業の在り方など,細かく様々な事柄が含まれていたように思う。

 正直なところ,私はどの問題についても当事者性や発言資格に欠けるところがあって,特定の意見を強く持つことが難しい立ち位置にある。そのことが自分でも不甲斐なくて悔しい。

 どうしてこんなことをわざわざ書くかというと…,悔しかったのね,毛利さんの様子を見て。

 毛利さんにカチンと来たのよ,くそぉと思ったのよ。なんであなたは日本科学未来館でそれをやる?

 いや,僕は日本科学未来館好きだし,かつては友の会の会員だったし,毛利さんやった!とも思うよ。

 でも,だから,科研費の議論の場面で,毛利さんみたいに場をグッとつかむ展開に誰もできなかったことに悔しさを感じたのよ。そして,毛利さんが熱いというなら,私だって同じくらい熱く語ってみせるぜ

 と思ったの。身の程知らずにも…。

 同じように思った人,多いでしょ?

 そりゃ,あの場の評価は決定ではなく参考資料になるだけだけど,あれほど世間に訴える絶好の機会はないともいえる。

 あとからバラバラと署名して抗議活動することも大事だけど,相手の誤認や認識不足を現行犯逮捕する様子を国民に見せないとダメだと思うよ。こっちが現行犯逮捕されてでも(わたしゃ本気だ)。

 それを毛利さんはやったんだ。館長として正式に招聘された上で,バシッとやった。

 まったくもって悔しい…。毛利さんは格好いい,でもまったくもって悔しい。

ラジオ生番組出演・ひとり反省会

 今日は半日お休みをもらって(休暇はたんまり貯っているのだ)コミュニティFMの番組出演をしてきた。天気は雨。こういう日には部屋でラジオを聴くのが優雅だが,今回はしゃべる立場。前日から落ち着かなかった。

 悩みに悩んで決めたはずのリクエスト曲も今朝起きて天気を見たりすると急に自信がなくなってくる。ウケをねらったが裏目に出て,天気と同じ憂鬱になるのも嫌だったので,直前になってアダルト路線(ってなんか違うな…)に切り替えた。

 打ち合わせは,普通に皆さんとおしゃべりできるのだが,直前になって急に緊張してきた。

 いやぁ,生放送は緊張した。電波に乗るとなると,言葉をどうしようか考えちゃっている自分がいる。お相手のパーソナリティHさんからの投げ掛けに,とりあえず口で答えているのだけれど,頭が言う事を変えようと考えた途端に口からの言葉の流れがブチッと変わっちゃうのは悪い癖だなと思う。

 後半はだいぶ緊張も解けてきて,出演を楽しむことができた。とにかく久しぶりのラジオしゃべりだったし,上手にしゃべれたとは思わないが,初めてのラジオ生番組の出演はなんとか無事終了させることができた。

 幾人かの学生達がコミュニティFMで番組を担当するパーソナリティ・アルバイト?をしているみたいだが,よくぞ毎回こなしていると感心してしまう。まあ,定期的にしゃべると分かれば気楽なのかも知れないけれど。

 生放送を収録したCDをもらい,恐る恐るラジオで聴ける状態をチェックする。

 まあ,楽しそうにしゃべってるから良しとするか。

 …,パート2とか言っているが,次回があるのか?

 そのうちこっそり,パート2をPodcastに吹き込むか…

 
 とにかく終わった! 関係者の皆様に感謝感謝。

線の先の雲

 長らくブログを書かないと,実家が心配するので久しぶりに更新をしよう。

 この前の連休中,疲れがたまっていたせいだろうか,背中の筋肉痛がひどくなり長い頭痛が続いた。そんなこともあり,駄文やつぶやきの頻度を緩め,あらためて自分の周辺について考えていたのである。

 多くの研究者が「科研が書けん」と科研費申請書の作成で試行錯誤している最中,私は「果敢に書かん」と決めたかどうかは定かでないが,申請するための材料がない以上は書けないので,日々の授業と先のことを考えながら手近でやっている仕込み作業を黙々と続けていた。

 残りの時間をどこにフォーカスしていこうか。

 出発点はどこだったのかとたぐり寄せれば,子ども好きという自分に原点回帰する。

 次代を担う子ども達のために生きて死ぬこと。そこに帰着するのだろう。

 そのために学ぶべきことは多いと感じた。大学院へ進んだのは,そのためだった。

 それから小学校の教員になろうと,ずっとそう考えていた。
 
 
 残念ながら,そうはならなかった。

 このご時世,そうならなかった方が良かっただろうとあなたは言うかも知れない。

 そういう問題ではなく,私が何に思いを捧げてきたのかという点が大事なのである。

 救われてるのは,教員養成や教師教育の分野で同様な想いを持つ人々と関われること。

 唯一そのことだけが,私を大学につなぎ止めている。


 
 四国は徳島の地に引っ越しての生活が始まった。

 「地方」というものの善し悪しを少しずつ体感しながら,未来に思いをはせる。

 東京で暮らし始めてわかったことは,東京もローカルでしかないということだった。

 なのに,東京のローカルと四国のローカルに違いを感じる,それは一体何なのか。

 
 もちろんここには世界と通じる視点が欠けている。

 なぜ私たちは日本国内(あるいは日本語圏内)に閉じた思考に留まってしまうのか。

 あるいは,その閉じ方にローカルの差違が現れるということなのか。

 
 この場所にやってきたのも,ご縁があってのこと。

 喧騒を離れて,自分なりに考えを巡らしたい。
 

  
 先日は四国・愛媛に入試業務で出張。初めて松山に訪れた。

 確かY先生の故郷が愛媛だと聞いたことがあるが,それ以上根掘り菜掘り聞くこともしなかったので,ほとんど予備知識もない。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の舞台となった場所で,年末にはNHKのドラマが始まるとか,道後温泉という場所があるという程度の知識でバスに飛び乗った。

 徳島と比べて街が賑やかだった。商業施設や小売店舗が集まり賑やかなアーケードを中心とした街の配置が成り立っているおかげだろう。とはいえ,地元の人たちには都会だという意識はないようで,ここも次第に沈みゆく地方の一つでしかない雰囲気を醸し出す。

 旅先でひとりのんびり歩くといろいろなことを考える。泊まりの夜に真っ暗な東雲神社,帰り際に道後温泉や坂の上の雲ミュージアムを足早に訪れたりもした。かつての若者が立身出世のために上京し,国を動かしていく物語。それがいま,グローバルな時空を舞台に展開し,全世界を動かす物語として語られているのだろうか。しかし,それは単に情報ノードとして接続することを意味しているのだろうか。

 日本最古の温泉につかりながら,未来のことなど考える。贅沢だ。

学会参加サポートアプリの可能性

   

 9月19日から21日まで東京大学本郷キャンパスで日本教育工学会が開催される。私も昨年の発表の決着を付ける必要もあるので発表をする予定である。

 その準備もしなければならずノロノロと取り組んだりしているが,やはりどうしても現実逃避という悪い癖が抜けない。最近はプログラミングを復習したりしていることは,先日も書いた通りである。

 何をプログラミングしていたのかというと練習課題のつもりで「日本教育工学会・大会参加サポートアプリ」というものをつくってみた。ご覧のようなガイドアプリである。

 まあ,こんなのWebを見れば済むことでしょ,というのが現実。でも本当は,現在時刻と連動して,同時進行している発表が一覧できたり,予め聞きたい発表をマークしておいて,自動的にナビゲーションしてくれるような機能とか,発表に関するメモを記録する機能とかを組み込むと便利かなと思っている。

 いや,iPhone上で学会発表一覧を眺めると,意外とタイトルを見入ってしまうのは自分だけ?とにかくいつもの調子で手元で学会の内容を確認できるのは,なかなか新鮮な感じがするのである。最近は大会原稿集をCD-ROMで配布するようになってきたのでありがたいが,モバイル機器向けのWebサイトやアプリもあったら嬉しい。(誰がそんなコスト払うねん!という突っ込みはまったくその通りです,ははは…)

 残念ながら,このアプリは当日までには間に合わず。用意できたデータは一部だけだし,デザインもやっつけだし,プログラミングの最適化もしていないので,しばらく使うと遅くなってくる。まあ,本当に見かけデモレベル。それでもしっかりiPhone上で動いております。さすがに当日には間に合わないのでアプリ配信の予定はありません。あしからず。

 まあ,ここでご紹介するにとどめて,このノウハウは次なる研究に注ぐことにします。

 おっと学会発表の準備をしなきゃ…,あ,明日の授業の準備も忘れてた。う〜ん。

ツールを扱う日常が学校にあること

 カメラ付きiPod touchのもつ爆発力は,実は,Appleが得意とする教育市場において可能性が眠っている。

 高等教育におけるMacBookなどのノートパソコン普及が高まっていることは,すでによく知られている。ネットブックの登場もは価格面で,それを押し広げる可能性を持っている(もっともネットブックを大学の勉強のために多くの学生が手にしたという話題はまだ聞いたことが無い…)。情報伝達の道具でいえば,学生が個別に持っている携帯電話の普及率の方が高いであろう。

 しかし,カメラ付きiPod touchのようなモバイル端末は,まったく異なる利便性を提供するツールとなり得る。それは,学生自前の携帯電話回線に頼ることなく無線LAN通信が可能で,ノートブックやネットブックのようにフタを開く手間なく情報を引き出すことが出来る。さらに写真や映像の記録機能が,講義における活動を広げる可能性を付与する。

 こう考えると,学内(あるいは無線LANのある場所)における学生達のサポートツールとして有用である。

 小・中・高校教育ではどうだろうか。

 情報活用能力や情報モラルの育成は,小中高の教育において重要課題となっている。そのためのツールとして,教室にパソコンと電子黒板(電子情報ボード),やがて子ども達一人一人に扱ってもらうためのキッズパソコン(ネットブック)が目論まれている。

 ところが,もっとも身近な情報ツールである携帯電話の扱いは混乱している。
 
 小学生の携帯電話普及率は低く留まっているとはいえ,利用開始のタイミングは家庭の事情によってバラバラ。このことが,子ども達の中に携帯電話への習熟度の差違を生み出し,必然的に教え合いの機会を生成する。

 このとき,子ども達独自の教え合いの場と学校における情報教育の場がうまく噛み合うことが期待されるが,さきほど指摘したように子ども達の携帯利用開始時期がバラバラということは,五月雨式に子ども達が携帯電話との関わりを始めるということであり,授業としての情報教育という考え方では個々の子ども達への適切な介入が間に合わない可能性を孕んでいるのである。

 これに対処する一つの方法として考えられるのは,学校側が子ども達に向けて携帯電話に匹敵するツールを提供することである。その具体的なものとして「iPhone」があると考えている。Google携帯でももちろん構わない。

 しかし,iPhoneもまた携帯電話である。そして携帯電話を学校が提供することは難しい。そこには携帯電話回線の契約や料金が関係してくるためである。

 そこでこの困難な部分を取り除いた「カメラ付きiPod touch」が重要な存在となってくるのである。

 カメラ付きであることの利点は,初等中等教育の実態を理解している人々には釈迦に説法ではあるが,児童・生徒が自ら撮影した写真や動画を教材とすることに,大きな可能性があるからである。

 カメラ付きiPod touchの有用性は,携帯電話の主要な機能を再現できることにある。

 メールの送受信,Webへのアクセス,カメラ,録音,音楽プレイヤー,地図,その他アプリを導入することが出来る。こうした機能をもつ「ツールを触れる日常が学校にある」という事実を作り出すこと以外に,学校教育が情報教育をごく普通のこととして扱う日を迎えるのは難しいと考えている。

 「ツールを扱う日常が学校にある」 このことが大事である。

 iPod touchならば電話回線を使用しないため,通信は(近隣の家からの無線LANが及ばない限りで)学校のネットワークの範疇でコントロールできる。必要であればiPod touchにある「機能制限」設定を使用してもいい。

 携帯電話とは違って電話回線料金の問題は発生しない。少なくとも学校のネットワーク整備は済んでいるのだから,通信料金の問題はクリアしているはずである。

 利用形態は,学校ごとに異なっていてもよいと思う。学校の備品として,クラス単位,授業単位で使う形でもよいし,全校児童に一つずつ提供し,6年生が卒業したら新1年生がそのiPod touchを引き継ぐ形に設計してもいい。地方毎に事情が異なるのであるから,可能な形で入り込めばよい。

 自分たちが使うものであることを意識できれば,物の大切さや丁寧に扱うことの大事さも,教育のメニューとして加えてしまうことが出来る。いつも端末ばかり気にしているような子ども達に,人が話しているときはちゃんと人の顔を見て話すことや,目の前で端末をいじられたらどんな気持ちになるのかを演じさせて考えさせるのもいい。

 機器や情報との接し方を指導できる機会を学校の中に作り出すこと。情報教育だけを日常から遊離させないためには,そうした次元の取り組みも大事なのである。

 私は,学校や教育がもっとリッチであっても良いと思っている。

 新しい校舎になった学校も増えてきてはいるが,ほとんどの学校は大人たちが過ごしたあの当時の学校の様子をほとんどそのままに維持している。

 どこか別の場所に出かけた際,その土地にある保育所や幼稚園を見かけることはあるだろうか。

 少し薄暗く,かなり長い歴史がありそうで,園舎も教室のロッカーも壁も薄汚れている。そんな環境で,元気な園児が走り回っているという風景。

 財源問題は確かに大きな問題である。それは別に論じていくべきだ。

 しかし,そのことが教育をリッチにしないことの理由にはならない。

 リッチにするための選択肢はたくさんある。

 私はその一つとして「カメラ付きiPod touch」のようなツールを学校へ入れることを推したい。

 あなたにとって教育をリッチにするためのオススメは何だろうか。

 
 (追記:もちろん「リッチ」という言葉に物質的な意味だけを込めているわけではない。それによって学びの機会や深まりが豊か・リッチになるということをむしろ念頭に置いている。)

もうワカモノではない

 なんて残念な気持ちになるニュースが続くのだろうと思う。テレビやパソコンを消せば何事もない時間が過ぎるとはいえ,世間に流れているあの話題この話題を眼にすると気分はすぐれない。

 芸能人と麻薬の問題はやたら目に付いた。そういう怪しい業界なのだと理解はしているが,その無自覚さに呆れる。そして悲しいのは,どちらも「子の親」になった者の起こした事件だということ。芸能人であるがゆえに「恥ずかしさ」も吹っ飛んでしまっていたのだろうか。

 もちろん,すべての出来事は小さな出来事の積み重ねで起こるのだから,個人的な出来事や状況が少しずつ本人達を追い詰めたのだろうと思う。どこかに踏みとどまるべきポイントがあったのだろうけれども,それさえも目まぐるしく一瞬一瞬が過ぎゆく中で捉えられなかったのだろう。

 結果的には,残念な出来事として私たちの目の前に現れてしまった。

 ちなみに,逃走劇を演じた彼女は,私と同い年である。

 そのことも私に空しい気持ちを運んでくる。

 自分の役目を粛々と演じていくことだけ。

 そのことだけが私たちの手もとに残る。

 けれども,それを自覚することが一番難しい。

補助金はある

 テレビ東京のニュース番組「ワールド・ビジネス・サテライト(WBS)」のコーナーに内田洋行社長である柏原孝氏が登場した(7/17)。同系列のBSジャパンというチャネルで放送する「小谷真生子のKANDAN」という番組を予告するコーナーのため,インタビューの一部を切り出した映像が流れたわけである。

 そのWBSで流れたインタビュー部分で,柏原社長は地方の教育格差に懸念を持っているとして,それは地方財政の問題だと指摘する。その流れの中で,地方財政にばらつきがあることが問題で,国からは教育費が地方交付金という形で地方に渡されることを説明した。しかし,「お使いになるのは地方でお決めになる」ため,教育事業の差が出てくる可能性があるのだとする。

 これは全く正しい説明と指摘なのだが,この次あたりから怪しくなっている。

 「以前は,あの,ま,補助金という時代がありまして…そのときには,まあその,そのお金でこれを買わなければならないという風になってましたから,その時にはずいぶんとそういう教育設備の普及が進みました」

 小谷キャスターが,「また改めてそういう方向に変えるべきとお考えですか?」と訪ねると,柏原社長は「そういう部分があると…もっと,あの,公平感,あるいはスピード,こういうものが,まあ,是正されると思います」と返している。

 長いインタビューの一部分を切り出したのだから,編集が加わって,もともとの意味や文脈が落ちてしまっている可能性があるが,それにしてもこのような誤解を招くような伝わり方を容認するのはよくない。まして,この分野でイニシアチブをとっている内田洋行としては,厳密に言えば,抗議するか,訂正させるべきである。

 「補助金という時代がありまして…」という部分で生まれるのは,「いまの時代は補助金がない」ような誤解である。これは正しくない。

 むしろこの教育の情報化分野に関して言えば,ずっと補助金は出続けていたのであり,それを出し続けていた文部科学省や財務省の関係者の苦労は,もっと喧伝されて良いはずである。

 ただし「全額補助」ではない。だから,柏原社長が(いつそんな事実があったのか短時間で調べた範囲では発見できなかったのだが)かつて全額補助した時期があったという記憶に基づいてしゃべっているのだとすれば,かつては全額補助時代があったということを話していた文脈かも知れない。

 それでも,現在でも「2分の1補助」は存在しているし,最初に指摘した地方交付金部分で,残りの2分の1も補助してもらえるようになったのだから,本来ならば,そのことをもっと主張して地方財政責任者やそれを監視する市民に対してアピールすべきだったのではないか。

 インタビュー本編でそのような主張もなされていたのかも知れないが,それならば,なおさら地上波における番宣コーナーでの短い引用が引き起こす誤解に対して懸念を抱き,抗議するか,もっと別の方法でアピールすべきである。

 国民は,国の予算となると,とても大ざっぱな理解しか持っていない。

 なぜ定額給付金は,予算案が可決したら,てんやわんやはあったけれども,地方自治体が動き出して給付が実現したのか。

 一方,同じように予算案が可決したのに,学校ICT化(情報機器導入)に対する予算は,どうして地方ごとに格差があったり,そのうち使われたかどうかも分からなくなるのか。

 前者は「全額補助」だった。後者は「半分補助・半分交付金」だったりする。

 そのことの違いが何を意味するのか,誰も話題にしない。

 整備されないのは「補助金がないからだって,内田洋行の社長がテレビで話してたよ」と誤解した誰かが言って,「ああそうなんだ,まったく国はどうして教育にお金使わないのかね」って嘆いて終わる。

 ちょっと待ってよ。

 補助金はあるし,しかも実質的には「全額補助相当」である。

 いま現実に起こっていることを,ちゃんと知らせないとダメである。

 文部科学省は,申請締め切りを8月21日までに延ばした。

 まだ申請していない各地方の教育委員会事務局の担当者は,一生懸命に申請の準備をしているだろうか。そういうところを人々がもっと鼓舞しないといけない。

 そのためには,正しい情報と正しい理解が実現されなければならない。もうマスコミに振り回されてやられちゃいましたというのは無しにして欲しい。

新しい扉と繋がる相手

 お腹が空いたので近くのラーメン屋で夕食を食べながら,地元の新聞に目を通した。5月末に可決された緊急経済対策補正予算で地方に配分される地域活性化交付金について,6月中に予算化したのは徳島県の24ある市町村のうち2市とのこと。その他は9月までの議会で予算化される予定という。予算が本格的に使われるのは秋以降らしい。

 GoogleがウェブブラウザChromeを足がかりにパソコンのOS提供に乗り出すという情報が駆け抜けている。先日の駄文で,学校教育をプラットフォーム・メタファーで考えたばかりだったので,このニュースは背筋に寒気を走らせるものだ。

 アプリケーションが世界対応することにある程度成功したところで,プラットフォームをそれに合わせて置き換えてしまおうという転倒したように見える試みは,もしも学校教育に当てはめて考えるならば,優秀な人材を外部世界から取り込んでくることを意味している。

 つまり,日本の学校教育だから日本人の教師が支えるという当たり前に信じられてきた構成が,世界に対応する学校教育のために世界の優秀な人材を取り入れて支えていくという構成に変わっていくことである。

 すでに看護や介護の世界では,海外の人材を受け入れることが現実の問題として進行している。日本語や日本文化の壁は,以前問題として立ちはだかっているが,日本語が堪能な外国人はたくさんいるし,日本人よりも日本文化を愛している外国人もたくさんいる事実を踏まえると,壁の問題も乗り越えられない壁ではないことは自ずと了解される。つまり,学校教育の世界に,海外の人材が流入してくることも,非現実的な話ではないということだ。

 世界的な視野で今後の持続可能な学校教育プラットフォームの在り方を考えたとき,単純には2つの方向性があると思う。コストをかけて独自のプラットフォームを維持して世界と繋がっていくこと。あるいは,コストをかけないで世界のデファクト・プラットフォームに委ねてしまうこと。

 前者は,教育制度や学校現場を自国のリソース(資源)でしっかりと支えていく在り方で,世界の動向を踏まえて教育内容などを臨機応変に対応していく必要がある。すべてを自前で用意するだけコストもかかる。

 後者は,自国のリソース(資源)にこだわらず,世界に流通している教材や人材なども積極的に活用して,学校教育自体を世界市場に乗せてしまうことである。その度,かけるコストに見合ったリソースを世界から手に入れられる。

 ちなみに,日本の学校教育は,コストをかけずに独自プラットフォームを維持してきたのではないか。そのような手法が,従来までは通用していたかも知れないが,今後も通用するとは言えない時代に変わりつつあるということである。

 いま,小学校の「外国語活動」の取り組みが話題になっている。これが実質的には「英語活動」となっていることもご存知の通りである。しかし,BRICsというキーワードで知られる新興国の存在が日増しに強くなる中,本当に英語でよいのかという疑問もくすぶり続ける。

 たとえば,なぜお隣りの中国語や韓国語ではないのか。そのような疑問と議論は,継続的に取り出されなければならない事柄である。中国と台湾と日本の関係という三角関係の問題を考えたとき,あるいは韓国と北朝鮮と日本という三角関係の問題を考えたとき,さらには,お互いの国がますます人材を流動させるようになったときに,自国の学校教育の現場をどのラインにおいて開き,また閉じていくのか。そのことの想像力が問われているということである。

 非正規教員(という用語は本来正式には存在しないが…)の割合が高まっているということは,日本の学校教育はコストをかけないことを意味している。この方向性を維持していくなら,やがて語学指導講師として関わっている外国人講師の存在を入り口として,外国人の非正規教員の採用の事例が増えていく可能性も否定できない。

 日本が経済的な優位を維持できなくなり教育職員の人件費の補助に更なるメスが入ったとき,さらに少子化による学校教育全体の存在縮小によって投入されるコストの削減を余儀なくされたとき,あるところで(校内研究のもとで教育を先鋭化していく努力に代表される)現場教師たちの熱意は破裂し,それによって支えられていた「日本の学校教育」は委ねられる者を失ってしまうかも知れない。

 その先に繋がっている相手とは誰なのか。あるいは,そうなる前に繋がれるべき相手とは誰なのか。

 世界と繋がって活躍している教育研究者はあちこちに居るはずなのだが,そこからの声をもっと日本の学校教育とその現場を考えるために活かしきれていないことが悔やまれる。