新しい扉と繋がる相手

 お腹が空いたので近くのラーメン屋で夕食を食べながら,地元の新聞に目を通した。5月末に可決された緊急経済対策補正予算で地方に配分される地域活性化交付金について,6月中に予算化したのは徳島県の24ある市町村のうち2市とのこと。その他は9月までの議会で予算化される予定という。予算が本格的に使われるのは秋以降らしい。

 GoogleがウェブブラウザChromeを足がかりにパソコンのOS提供に乗り出すという情報が駆け抜けている。先日の駄文で,学校教育をプラットフォーム・メタファーで考えたばかりだったので,このニュースは背筋に寒気を走らせるものだ。

 アプリケーションが世界対応することにある程度成功したところで,プラットフォームをそれに合わせて置き換えてしまおうという転倒したように見える試みは,もしも学校教育に当てはめて考えるならば,優秀な人材を外部世界から取り込んでくることを意味している。

 つまり,日本の学校教育だから日本人の教師が支えるという当たり前に信じられてきた構成が,世界に対応する学校教育のために世界の優秀な人材を取り入れて支えていくという構成に変わっていくことである。

 すでに看護や介護の世界では,海外の人材を受け入れることが現実の問題として進行している。日本語や日本文化の壁は,以前問題として立ちはだかっているが,日本語が堪能な外国人はたくさんいるし,日本人よりも日本文化を愛している外国人もたくさんいる事実を踏まえると,壁の問題も乗り越えられない壁ではないことは自ずと了解される。つまり,学校教育の世界に,海外の人材が流入してくることも,非現実的な話ではないということだ。

 世界的な視野で今後の持続可能な学校教育プラットフォームの在り方を考えたとき,単純には2つの方向性があると思う。コストをかけて独自のプラットフォームを維持して世界と繋がっていくこと。あるいは,コストをかけないで世界のデファクト・プラットフォームに委ねてしまうこと。

 前者は,教育制度や学校現場を自国のリソース(資源)でしっかりと支えていく在り方で,世界の動向を踏まえて教育内容などを臨機応変に対応していく必要がある。すべてを自前で用意するだけコストもかかる。

 後者は,自国のリソース(資源)にこだわらず,世界に流通している教材や人材なども積極的に活用して,学校教育自体を世界市場に乗せてしまうことである。その度,かけるコストに見合ったリソースを世界から手に入れられる。

 ちなみに,日本の学校教育は,コストをかけずに独自プラットフォームを維持してきたのではないか。そのような手法が,従来までは通用していたかも知れないが,今後も通用するとは言えない時代に変わりつつあるということである。

 いま,小学校の「外国語活動」の取り組みが話題になっている。これが実質的には「英語活動」となっていることもご存知の通りである。しかし,BRICsというキーワードで知られる新興国の存在が日増しに強くなる中,本当に英語でよいのかという疑問もくすぶり続ける。

 たとえば,なぜお隣りの中国語や韓国語ではないのか。そのような疑問と議論は,継続的に取り出されなければならない事柄である。中国と台湾と日本の関係という三角関係の問題を考えたとき,あるいは韓国と北朝鮮と日本という三角関係の問題を考えたとき,さらには,お互いの国がますます人材を流動させるようになったときに,自国の学校教育の現場をどのラインにおいて開き,また閉じていくのか。そのことの想像力が問われているということである。

 非正規教員(という用語は本来正式には存在しないが…)の割合が高まっているということは,日本の学校教育はコストをかけないことを意味している。この方向性を維持していくなら,やがて語学指導講師として関わっている外国人講師の存在を入り口として,外国人の非正規教員の採用の事例が増えていく可能性も否定できない。

 日本が経済的な優位を維持できなくなり教育職員の人件費の補助に更なるメスが入ったとき,さらに少子化による学校教育全体の存在縮小によって投入されるコストの削減を余儀なくされたとき,あるところで(校内研究のもとで教育を先鋭化していく努力に代表される)現場教師たちの熱意は破裂し,それによって支えられていた「日本の学校教育」は委ねられる者を失ってしまうかも知れない。

 その先に繋がっている相手とは誰なのか。あるいは,そうなる前に繋がれるべき相手とは誰なのか。

 世界と繋がって活躍している教育研究者はあちこちに居るはずなのだが,そこからの声をもっと日本の学校教育とその現場を考えるために活かしきれていないことが悔やまれる。