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再会

 軽妙に書いた(つもりの)駄文はそうでもないが,四六時中,昼夜を問わず試行錯誤を重ねて書いたような文章は,再三見直して書き終わった時点から,もう見たくなくなる。どこまでも満足してないし,もう苦しみたくないし,できるだけ頭から追い出して冷却したいからだ。

 ちょうど半年前,私は人生二度目の修士論文を書き上げようとしているところだった。寝ても覚めても論文執筆がつきまとい,残された時間の中で手持ちの材料を論文として成立させるにはどうすべきか大いに悩んでいた。しかも容赦の無く睡魔が襲う。そんなこんなで出来上がった論文を出し終えると,逃げるように論文を開かなかった。

 昨年度の学会でこういう研究をしますという予告発表をした手前,今年度の学会でこんな結果でしたというご報告をしなければならない。忘却の彼方に押しやった様々な思考を呼び戻すための助走が始まった。

 関連文献を触ったり(まずは物理的接触が大事である),お世話になった先生たちのブログを読んでみたり(自らの不義理を自覚するのも大事である),そして関係する話題を駄文で取り上げて悪態をついてみたりする(自分を鼓舞するにはこの方法が手っ取り早い)。

 そして,昨年の学会発表申し込み時に書いた要旨原稿あたりから,自分の書いたものを見返す。はっはっはっ,何書いてあるのか分からんな。熱に浮かされていると,こういう小難しいものを書いてしまうらしい。これじゃあ,誰も相手にしないかもね。

 七夕である。

 あれから半年経って,私はようやく自分の修士論文の頁を開いた。

 謝辞が長い。

 大好きなものを最後に残したら,時間切れで食べられなかったみたいな出来である。

 ただ,懐かしい友と再会したような気もする。よみがえる東京の日々…。

 さて,頑張って原稿書きましょう。

小さな世界の中で

 人間の知的活動の構造をプラットフォーム・メタファで表現することがある。基礎基本能力によるプラットフォームが形成されており,その上で様々な知的活動(アプリケーション)が動かされているという構図である。

 こういう階層構造的捉え方は単純すぎるので,もう少し動的な部分も加味するためネットワーク・メタファを導入することもあるだろう。メタファの合わせ技を使って,複雑な状況を説明することがしやすくなるかも知れない。

 もし学校教育をプラットフォーム・メタファで考えたとしたら,僕には,アプリケーションにあたる教育内容やカリキュラムにはある程度注目も集まるし,10年毎にバージョンアップしてきた歴史もあるし,動きがあるように思えるのだけども,プラットフォームにあたる部分について,ほとんど代わり映えがしていないように思えてならない。

 さながらWindowsのバージョンアップのように意味もなく更新料を払っている感覚に近い。いつになったら64bit版を主流にするの?みたいな話である。アプリケーション側としては,肥大化するデータの処理のため64bit対応ソフトに変化を迫られているというのに,プラットフォームがいつまでたっても32bit版の遺産を捨てきれずに大胆に変われていないのである。それでいて動かそうとするアプリケーションもデータも,どんどん肥大化していく。

 Windows7になると喜ぶのは結構だが,じゃあ32bit版インストールする?64bit版インストールする?どっち?って選択する段になって,「やっぱり資産があるから32bit版かな」という選択が働いたら,64bit版は何なんだろう?
 

 僕はときどき,教育研究の様々な示唆が,現場の先生方の「本当のポテンシャル」を見失って引き出さず,結果として従来と同じところにエネルギーを注がせ続けて,可能性を摘んでいるんじゃないかと不安になることがある

 確かに日本の学校現場における授業研究を始めとする校内研究の伝統と蓄積は,今日にも引き継がれている部分は大きいし,そうした日本の教師の実直さのおかげで,困難な情勢の中でも日本の学校教育が維持されている。日本の先生方は優秀だと思う。

 一方,海外の教師には,恐ろしいほどムラがあるのかも知れない。国によって,地域によって,学校によって,そして個人個人によって,それぞれ違う考え方で動いている(ように私には見受けられる)。でもそのことを承知の上で,もう少し言及するなら,海外で教師になる人々の多くが大学院を修了するようになっている点は,日本と大きく違っている。(おかげで先生のなり手が見つからず授業が行えない事態が発生しているところもある。)

 日本は,世界でも先駆けて学士教員という水準を実現した国であった。そのことが日本の教育を支えてきたことには違いない。ところが,気がつけば世界はその日本を見習い追い越して,とっくの昔に修士教員の水準へと引き上げた。日本は,自らつくり出したプラットフォームが頑強すぎて?,いまだ変えられずにいる。

 もちろん大学院もつくらせたし,教職大学院も導入した,教員免許更新講習なんてサービスパックまでリリースしたが,どれもこれも根本を変えるものとはなっていない。
 当時の教員養成系関係者を震え上がらせた「在り方懇」は,あるいは変わる機会だったのかも知れないが,若い大学教員には「何ですかそれ?」の昔話になってしまった。あなた達がGPとか呼んでいるものの前段にそういうものがあったんですよ。まあ,使徒襲来みたいな話です。
 

 教師学という領域に関連する論文を編んだ『成長する教師』(1998)という本と,レッスンスタディという角度から教師の学習を扱った『授業の研究 教師の学習』(2008)という新旧2冊は,確かにどちらも学校教育のプラットフォームである教師の仕事について注目した専門書なのだが,世界に対する開かれ方にかなりの違いがあるとも言える。

 この2冊の間には,10年という年月の隔たりしかないように思えるが,インターネットやケータイの普及,世紀の越境と戦争,地球規模の環境問題の顕在化などを経ているとも言える。これらの変化をただの「流行」であると考えるのか「不易」を見直す深刻な課題であると考えるかで,2冊に対する評価はかなり変わってくることになる。

 前者の本が,わりと従来の伝統的な教師世界を対象としてぐりぐりとプラットフォームを論じたのだとすれば,後者の本は,海外で受容された日本の授業研究である「レッスンスタディ」を経由させてプラットフォームを論じたものといえる。もちろん二者択一の話ではない。日本の学校現場におけるプラットフォームの議論を,後者の議論空間にも対応できるように発展させることが重要ではないか?という問いかけである。
 

 大変貧弱な例え話で言うならば,新聞社のことを思い浮かべるとして,日本の五大新聞社(日経,毎日,朝日,読売,産経)やスポーツ紙,地方のローカル紙を思い浮かべるだけでなく,ニューヨーク・タイムズとか,ワシントン・ポストとか,ウォール・ストリート・ジャーナルとか,(倒産しちゃった)シカゴ・トリビューンとか,ピープルとか,ル・モンドとか,ガーディアンとか,インディペンデントとか,そういう世界の新聞のことも思い浮かぶくらいに世界に開かれているのかどうかということである(読めるとか読めないとか,そんなの関係ない)。

 それともこれは,ちょっと世の中の目立つところを見聞きして分かったことが嬉しくて,バカの一つ覚えみたいに「世界ってのは広いんだぜ,おまえも世界に出てみろよ」と自慢話をしている青二才の戯言レベルの問題意識なんだろうか。(例え話だとしても)世界の新聞紙の名前が言えたところで,何が変わるって言うんだ,バカ。

 もしも,私がバカなだけなら,心配することもないなら,それが一番いい。ただ,私には,そのことが「32bit版を使うのが現実的だから64bit版なんか使わない」という選択に似ているように思えるだけである。それでいいならそれでいい。

 フルタイムの大学教員に戻って数ヶ月。早くも半期を終えようとしている。このペースにもう一度慣れるのに,ずいぶん体力的なエネルギーを消費している。こりゃ困った。

 さて,私は受け持った学生たちのポテンシャルを引き出せたのだろうか。そのことが大いに問題だ。私自身が自転車操業だったから,もしかしたら,もっと深められたことも深めきれなかったのかも知れない。私のハイペースに慣れてくれたところで授業が終わってしまうという問題もあるかも知れない。

 すべてを一気にバージョンアップできるとは,もちろん思っていない。今まで高校で50分授業のペースに慣れた大学1年生たちには,90分ノンストップ授業はビックリだろう。専門用語で語られる講義の内容を,先生が理解しているように学生が理解できることもあり得ない。時間をかけてじっくりと付き合わなければならないのはどの学校段階でも同じ。プラットフォームが徐々にバージョンアップしていくのを見守らなければならない。

 これは先生という立場の人たちにとっても同じ。だからこそ,先生たちがどうしたらちゃんとバージョンアップできるのか,もっと真剣に考えなければならないのだけれども,みんながみんな忙しさに浮き足立っていて,結局は従来の範疇を繰り返し先鋭化しているだけに終わっているんじゃないか。そのことが心配なだけである。

知的なS

 私が書きものをすると,とても批判的・好戦的になっているらしく,誰かのことを批判しているんじゃないかとか,結果として貶めるために書いているんじゃないかと受け取られやすい。

 それは仕事に対してもそうらしく,いちいち物事の根底を考えたりするものだから,一緒に仕事がし難いらしいのだ。だから,どこかにお呼ばれしても,大概は長続きしない関係になる。こちらは迷惑かけるのが嫌だし,言われないけど,たぶん周りは迷惑しているのだと思う。

 このもともとの原因は,自分に対して安心を抱かないことからきている。

 私は日本生まれの日本育ちだから,日本の学校教育に支えられてここまで生きてきた。その点では,他の人たちと変わらない。しかし,私の家系は日本人ではないし,国籍も途中までは日本ではなかった。その点では,他の人たちと違っていた。

 20,30年前の日本は,いまほど国際色豊かな国ではなかったし,少し変わったものに対して奇異の目を向けやすい社会だった。その中で,少し変わった名前で生活していれば,いらぬ自意識も生まれやすかったのである。

 いつしか私は,そのことをネガティブに考えるよりも,ポジティブに使いはじめて,いまに至っている。

 人よりも納得するスピードが遅いなら,遅い分だけしっかり考えよう。

 問題がないと思っている部分に,本当に問題が無いかどうか考えよう。

 自分や他人が,特定の主張をすることによって得るのは何か考えよう。

 本当はポテンシャルがあるのに,それがないと考えてしまってないか。

 次代の人たちにとってよかれと思っていることは,本当によいことか。

 etc..

 このブログで様々な駄文を書いたり,論文や原稿を書いたりするときにも,常にそのことは考えるし,他人が何かを論じているときにも,何かが進行しているときにも,常にそのことを考えている。

 その思考を休んだ途端,私は怠惰な人間なので,落とし穴にはまるんじゃないかと不安だからである。

 そして,私は少し大人げないところもあるので,そのことをわりとストレートに出してしまうことが多い。私の指導教官になった人達は,みんなそのことを分かっておられて,誰もが「りんくん,気をつけなさい」とたしなめてくれる。

 基本的に,生身の私は友好的だし,ご一緒にお仕事する人達のことを(人間的に)好きになるタイプなので,そんなに悪いキャラクターではないと自分でも思う。

 それでも,私の場合,好きになった相手のために槍投げたり,ムチをも振るう覚悟を持ちやすいので(逆にそれほどでもない人には愛想笑いで済ますことが多いかも…),どうしてもちゃぶ台ひっくり返しちゃうことになる。知的なSなのかも知れない。なんかちょっといやらしいわ〜。

 私は,自分が年老いていくことで,自身が丸くなっていくだろうということを予感したりする。そうすると怖いのは,自分が若いときに身に付けた経験則みたいなものを判断基準にして,物事を済ませていくようになること。

 そうなることを避ける努力も必要かも知れないが,きっと避けられないだろうから,今のうち自分自身や周りの物事を疑うだけ疑っておきたいと思う。

 そうすることが,何かしら次代の人達に示せる自分なりの在り方なのかなと考えている。それは少なくとも反面教師としてあり得ると思うし,あるいは物事を考える姿勢の別の選択肢としてあれたらいい,そう願うのだ。

原稿書き

 毎日の授業も自転車操業的に慌ただしいのだが,いくつか請け負っている仕事や研究があるので,毎日,平日も休日も関係なくそのことが頭の中をめぐっている。

 ようやく文章にしても良いかなと思えてきたので,(そこに至っていないものも他にたくさんあるが,)そろそろ原稿書きをすることにした。お待たせしているので,急がないとなぁ…。

 それから,某ソフトウェアコンクールの審査の仕事も始まった。いろんな学習ソフトウェアを動かして評価していく。こちらも締め切りがあるから,順番に処理していかないとね。

 職場からは,短期大学部のホームページ更新係の仕事が回ってきた。立派な広報オフィスがあるのになぁ…と思うのだが,周りの思惑を少し泳がせながら,いずれ建設的な大なたを振るうことにしたい。ははは。

 それにしても,相手のある仕事を優先させると,自分の仕事や研究が後手に回るのは,ちょっと寂しいかな。再就職1年目だから,仕方ないけれど。とにかく負けない負けない。頑張りましょう。

 そんなわけで,原稿書きモードへ。

補正予算とNew Education Expo 2009

 来月からは,いよいよ「New Education Expo 2009」も東京・札幌・大阪で開催される。まさに緊急経済対策需要を見込んだ各社の売り込み合戦が激しくなる,その最前線になるだろう。なによりも,このエキスポ全体がビジョンをしっかりと提示したものへと進化できるかが問われている。

New Education Expo 2009
http://apcf.uchida.co.jp/expo/index.cfm

スクール・ウェブ・ジャパン
http://school.uchida.co.jp/

 エキスポをメインで運営する内田洋行は,スクール・ウェブ・ジャパンというサイトを立ち上げて,今回の補正予算の情報などを分かりやすく情報提供してくれている。

 こうした材料を踏まえて,当日のエキスポの場が,参加者,講演のスピーカー,企業・商社など出展者の対話の場になっていくことが必要だろう。そのような対話の結果が,このようなサイトに反映されていくことによって,来年以降のエキスポへのフィードバックとなり,催事自体の進化と業界の未来へとつながっていくはずである。

 補正予算という賽は投げられた。New Education Expoに集うプレイヤーがどう出るかが注目される。

海を越える高校生

 関東圏(東京都内)での新型インフルエンザ感染者が確認されたという。感染した時の苦しみや面倒くささが困りものだし,高齢者や妊婦などにとっては脅威ではあるが,適切に対応して乗り越えるしかないだろう。日頃の健康を気をつけるということを改めて考える機会にしたい。

 さて,インフルエンザ自体のお話は専門家の指示に従うとして,ニュースを聞いて思ったのは,高校生って意外と海外渡航してグローバルに活動をしているのだなぁということ。

 まあ,個人差はあるのだろうけれども,修学旅行先が海外というのも珍しくなくなった時代,高校生も当たり前のように海外渡航する時代になったのかなぁと感慨深く思う。

ゆとり世代

 「教育方法・技術論」といった教職科目を担当し続ける中で,最近の学生たちからのコメントで触れられている,ある風潮について読む度,悲しい気持ちになる。これはいまの職場だけの話ではない,念のため。

 授業で「学習指導要領の変遷」をテーマに扱い,講義をする。その時の授業で必ず,学生のコメント用紙に次のような内容のものが書かれて返ってくるのである。

 曰く,自分たちは周りから「ゆとり世代」と呼ばれている。ある者は,そのことを指して「君たちはゆとり教育の被害者(あるいは犠牲者)だから…」と口にする。あからさまではないにしても,自分たちはネガティブな見方をされている。

 そして学生によって,ある人はそのことを理不尽と思い反論するし,ある人は自分自身でやるせなくなっているし,ある人はすっかり自信を失って軽く自暴自棄なコメントを書いてくる。

 学力や学習意欲の問題は,丁寧に議論する必要があるため,安易な印象論で語るべきではない。ところが,そういう基本的な鉄則が踏まえられないために,キーワードだけ捕まえて人に何かを言ってしまう例が多い。

 学生達のコメントには,人から言われた切ない言葉が具体的に書かれていたりする。そういう言葉を若者に向けて発するのは,個人的には感心しない。

 それにしても「ゆとり世代」という言葉はどこからやって来たのか。

 「ゆとり教育」も正式な用語ではないが,かなり使われているためにある百科事典には掲載されている。(最近公開された「コトバンク」という百科事典サイトを使うと「百科事典マイペディア」で用語採録されているらしいことがわかる。)

 しかし,「ゆとり世代」はwikipediaぐらいにしかない。(ちにみにwikipediaの教育関連項目は,どうも高校教育に強い人が書いたものが多かったりして,内容のまとまり方や深まり方にムラがあるから注意が必要だ。まあ,wikipedia全体の特徴だけど。)

 どうやら,学習指導要領が平成10,11年度に改訂した際に行なった「教育内容の削減」の影響を受けた人たちのことを主に指しているらしい。この改訂が完全実施されるのが平成14年度(小中)と平成15年度(高)なので,その時点から小中高校に通っている人たちを指しているということになる。

 ただし,それ以前の学習指導要領改訂(S52,53とか)でも「ゆとり」の重視は目指されたことがあるし,平成元年改訂(H4,5,6実施)も個性重視と生活科の導入でそのような流れは続いていたのだから,広義に捉えたとき「ゆとり世代」はもっと上の年齢層も含まれるだろう。

 結局,別の世代のことを理解できないことを棚に上げて,レッテルを貼って印象論で片づけようとする行為が,「ゆとり世代」という言葉を生かしてしまっているのだろう。

 時代が移り変わることで,人がある年齢で接する文化は自ずと変わる。接する文化の違う人を理解するのは,いつでも大変なことだ。

 私自身も,とても苦労することが増えた。アニメやマンガの話は,もうほとんど分からなくなっている。自分が新しいと思っていたものが,いまの学生達にとっては二世代も三世代も前のものだったりする。

 最近は,そういう入り口に無理して追いつく必要はないなと思う。だから,あんまり無理して若者を追いかけないで,マイペースで行くことにしている。

 ゆとり世代に対するイメージは,そりゃいろいろあるが,ポジティブにしろ,ネガティブにしろ,最終的には私自身が相手にどう向かい合うかで,相手の態度も決まってくる。

 だから,ここでも「知識」というものを通した誠実な関係を学生達と育めればと思う。前へ進もう。

現在位置 [再スタート宣言]

 「教育らくがき」という教育関連の駄文サイトは,かれこれ13年間の長きにわたって続いてきた。中断も一時的改名もあったが,教育という世界から逃れられない「私」の言葉のやりくりを書き綴る営みは,まだまだ続きそうである。

 教育らくがきは,教育にまつわる事柄について考えることを目的としたサイトとなっている。そのため,思考や議論に対して様々な刺激を加えるための言葉が並ぶ。ここでは,それを「駄文」と称している。

 教育について考えるきっかけをつくろうという純粋な目的のために書かれる文章を「駄文」と称するのには理由がある。一つ目は,書き表された文章の出来が文字通り稚拙であること。二つ目は,書き手である私の見識の低さを棚に上げて書かれる文章であること。三つ目は,教育の議論が前進したなら捨て去るべき文章であるのを願っているためである。

 思考の刺激となるために,基本的には「批判的」な姿勢をとる駄文が多く書かれる。書かれるものだけ取り出せば,この人は何に対しても文句や不満がある人なのだなということになろうし,認識の甘さや見識の低さを読み取ることも可能である。

 教育らくがきに対して(また書き手である私に対して),どのような評価が下されようとも一向に構わないのであるが,それが,思考を停止させることや,議論を前進させないことの理由にはならないと考えるし,むしろ建設的な議論へと結びつけていくことの方が大事だと考えている。私自身は吹けば飛ぶような存在だが,議論すべき問題自体はそうもいかないのである。

 これが,教育らくがきが長らくとってきたスタンスであり,どちらかといえばある種の距離感を保ちながら私自身の日常を通して教育や社会の現実を考え,その思索を切り取って書き綴ってきたわけである。
 あまり万人受けしないのは,どこかしら好戦的で堅苦しい雰囲気があったことと,丁寧な文脈説明を抜きにして思索を書き連ねた長文が多かったためだろう。たとえば,いま書いているこの文章がまさにそれである。

 教育らくがきを再開するにあたって,基本的なスタンスを変えようとは考えていない。しかしながら,もう少しオープンであろうとは思っている。たとえば,もう少し分かりやすく丁寧な解説を書くとか,短く読みやすい小出しの文章を書くとかなど,工夫の仕方はいろいろあるだろう。

 私自身の七転八倒な日々はまた別の場所で展開するとして,ここでは,新生・教育らくがきのスタートである。

声明発表

 全国教育委員会事務局改革推進連絡連携協議会は,4月1日付で声明を発表した。どうやら,すっかりこんがらがってしまったこの国の教育問題の原因を整理した上で,抜本的な改革をすることに本気になるようだ。
 ご存知のように,教育の問題は様々な要素が複雑に絡み合ったり,同じような問題に見えても個別のケースで原因や採るべき対処方法が異なる場合がある。しかし,マスコミを始めとして,人々の問題の捉え方は単純化する傾向にあって,それがまた教育問題の複雑化に拍車をかけるもとともなっていた。

 そこで先の改革推進連絡連携協議会は,教育行政の中間或いは根幹に位置するともいえる教育委員会事務局として,問題の所在を教育制度の側面から整理し,教育委員会事務局自身の問題点を明らかにした。
 この目的は,教育議論の地平をクリアにすることによって,教育委員会事務局が取り組むべき改革を明確にすることである。一方で,何でもかんでも教育委員会事務局のせいだと問題をごっちゃにして批判する世論を牽制する意味合いも大きい。このままでは教育委員会事務局の予算カットや人員削減,果ては廃止論まで具体化しかねない,との危機感が教育委員会事務局側にある。

 そこで声明では,今月96億円をかけて行なわれる全国学力テストへの完全不参加を表明。不足分を地方が補うことを条件に予算残金で,全国都道府県市町村の教育委員会事務局と地域社会との関係など徹底的な教育実態調査を行なうことを決定したとある。
 この機会に一斉に膿を出し,地域の実情を明確にした上で地方自治体毎の教育行政に役立てることを提案している。また国家に対しても,そのような実証的なデータをもとに予算措置を行ない,教育予算自体の増額を求めていく姿勢をハッキリと表している。

 これまで国レベルで描かれた教育施策は,地域社会の実態も踏まえず,また伝達過程における様々なミスコミュニケーションの発生とも相まって,現実の教育をよりよく変化させるのに十分な結果を出せてこなかった。
 21世紀になって,地方分権の時代となり,いよいよこの問題に徹底的なメスを入れる必要があるとの問題意識が,教育委員会事務局や各地域の教育長もしくは首長のもとで醸成された結果,このような声明へとつながったようだ。
 これは現事務局や首長達による統一地方選挙へのパフォーマンスであるという見方もあり,まだまだ予断を許さないが,いずれにしても地方が本気になって教育問題に取り組むことが大事である,ということが形になった声明としては大きく評価できるのではないだろうか。
 今回の声明に対する反応として,全国保護者教育力向上委員会連絡会からも保護者の立場から協力できることを模索したいとのコメントがあったり,教職員取組改善連合などからも前向きに受け止めることが伝えられている。また一部の政府筋は,各レベルにおける緊急会議の必要性を示唆しており,こうした好機を作り出せなかった教育逆再生会議の解散と各省庁が採るべき前向きな対応策などの検討を始める必要があるとの考えが出始めていることを明らかにした。

 平成19年度,やっと教育が良い方向へ動き出すきっかけの年度となりそうだ。

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