新年度が始まって…

新年度に入って何度もエントリーを書きかけていたのだが、下書きのまま公開せずに終わっていた。この文章もどうなるのかわからないが、懲りずに書き出してみている。

多分、昔よりも公開することに躊躇い迷うことが多くなったのだろう。基本的には独り言であるはずなのだが、誰かは読んでいるだろうことは自明で、そして昔はそのことに無頓着でいられた。けれども、今は恩義を感じる人も多くなって、その人達に誤解を与えることに不安を感じることが多くなってしまったのかも知れない。浅はかなままでは、たとえそれが私一人の言動であっても、周囲に迷惑をかけてしまう、場合によってはそのつもりがなくても相手を否定してしまう結果となる、なんかそういう人生の時期に否応なく至っているということである。

実は私の指先にはiPadがある。この文章も慣れないローマ字入力を駆使して打ち込んでいるというわけである。音をひとまとまりのキーとして入力するリズムにこだわっていた人間としては、フリック入力をあらかじめ用意してくれなかったことは腹立たしい(それに全角スペースを入力させてくれないのも煩わしい)が、一枚板のこのデバイスをチェアに座って操作する喜びを差し出されてしまっては、もう引き下がってローマ字に慣れるしかない。幸い、変換はストレスがない。

思いを巡らせていた通り、このデバイスには様々な可能性を感じられると同時に、その形態からくる限界があることがわかってきた。それについて、Appleがどこにとりあえずの着地点を定め、おそらく今後の様子をみて変えようとしているのかも感じ取れた。なるほどAppleの作品成果としての面白さがここにはある。

iPadは極めてオールディーズなデバイスだと思われる。本当の意味での未来のデバイスではない。そのことは、私のような古い価値観にもコミットしている人間にとって、とてもホッと出来るものでもある。あれもこれも何でも、という訳ではないということである。

もちろん、iPadは新しいツールである。こんな形に仕上げられたツールは無かった。だから、少しはお祭り気分で楽しむのも悪くないと思うのである。

ただ、これもすでに知られているように、iPadにはいろいろな縛りもある。私たちがよく知るパソコンに比べれば、出来ることが圧倒的に限られている。私は、もしも人々がこれまでの延長線上でこうした形のデバイスを求めているのなら、いずれiPadは通り過ぎて、Android端末が私たちを取り巻き支えてくれると思っている。だからiPadから吸収出来るものがあるなら今にうちに吸収すべきと思っている(この前の催しもそういう考えに基づいている)。

どうなるのか、それを決めるのは市場である。

個人的には、iPadの底辺に横たわっている世界観を大事にしたいと思う。

Macで仕事をすると様々なソフトが動き、支援をしてくれる。しかし、同時にあれこれに気を配り始めると集中が疎かにもなる。メールが届けば音が鳴るし、TwitterのタイムラインもRSSの通知も気にはなる。文献や情報の検索は掘れば掘るほどに切りが無くなり、いつしか調べている主題がすり替わっていたりもする。出来た人間が使う道具としてならともかく、そうでない人には混沌を運んでくる道具になりかねないのではないか。

iPadがそうならないとは言わないが、思うにこのデバイスはそれぞれのシチュエーションに意識をもっと焦点化させる専用機的な性格が織り込まれていると思う。次期iPhone OS4のプレビューイベントで披露されたマルチタスク機能を見ても、その辺を意図的か無意図的かわからないが堅持していることに、私は好感を抱くのである。

夢見たようなデバイスを実際に操作できる時代を迎えて、私は少し舵とる方向を変えていかなくてはならないと改めて思う。まだこうしたツールを教育で使う時代は始まっていない。一方で誠実にそのために研究を積み重ねる努力がなされている。一方で商業的にこうしたデバイスを盛り上げる動きが盛んになっていく。一方で政治的な文脈の中で経済刺激策的に論じられている。一方で教育現場には連綿と続く日々の困難な営みが待ち受けている。

今一度、その接合点を追いかけてみたいと思う。