新しい年が始まり,さて,新たな心持ちであれやこれやに取り組もうと考えていた。
けれどもそのまま,長考に入ってしまった。
実のところ,あまり言葉を紡ぐ心境にはない。
もちろん,日常の事柄は全自動洗濯機のように進んでいる。表面的には,特別代わり映えもなく行動し,有り難いことに健康に暮らしている。近づく年度末の慌ただしさはあれど,悪い出来事は何もないし,同じくらい良い出来事も特にない。
いや,正確には良い出来事はあったか…。
当初の予定通り,iPhoneアプリを全世界にリリースした。目の肥えた日本のユーザーの評価は相変わらず手厳しいが,期待を抱いてくださる人々に成果が届いたことは,開発者冥利に尽きる体験である。
少数ながらヨーロッパを始めとした各国の人々にダウンロードされていることは,望外の喜びである。いつの日か必ず彼の地へ訪れたいという気持ちが,これで一層強くもなった。
それは新しい年が始まって早々に体験した良い出来事であった。
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そういう個別的な出来事についてはなんら問題ない。
むしろ,そうした出来事の総体を見通す視座がどうあるべきなのかが問題なのである。
世間の多くの出来事がデジャヴュのように映る。
それはいつか歩んだ迷い道。なのになぜ疑いもなく進むのか。
疑問を差し挟めば常識知らずはお前だと返されようか。
もしやそれは,似て非なる希望の途やも知れぬ。
しかし,その道は誰にとってのそれなのか。
10年後の身の振り方をどうするかも含めて,いままだ考え中である。