教育」カテゴリーアーカイブ

減っていく日本の教育予算

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 日本の教育予算がどうなっているのか。どうもグラフなどで視覚化されていないとダメみたいなのでつくってみた。(教育らくがき20060125の駄文で示した表をグラフ化した。このグラフに関しては再利用や転載は自由にしていただいて構わない。追記20061030:2000年度のポイントを補正後の金額に基づいたものに修正した。)
 フィンランドの教育について講演を聴いたとき,ファンランドの教育予算は年々増加しているというグラフを見せられた。右肩上がりである。日本は右肩下がりである。それが事実の一つ。
 この図を見れば,普通は「教育予算を減らし続けていくような状況が,昨今の教育問題を引き起こしている要因ではないか」と考えないだろうか。無駄な予算を増やして問題が発生しているというなら,競争原理で効率を目指すというのも分かる。しかし,すでに予算は減少中。予算削減したことが悪い結果を生んでいるというのがこの図を見るときの素朴な理解じゃなかろうか。そんな素朴な前提もないままに声の大きい人達の意見で物事が進んでいる。
 ただし,このグラフをご覧になる際には,いくつかの周辺情報も合わせてみなければならないことを肝に銘じておこう。たとえば全体の国家予算はどう変化しているのか。児童生徒と教師の数はどう変化しているのか,などは気になるところではある(そんな注意書きしないで「予算減ってるんだよ〜!日本の教育は危ないよ〜!」と言いふらし回った方がいいのかも知れないが…)。
 
 
Edubudgetfinland
 ちなみにフィンランドセンター所長ヘイッキ・マキパー氏の講演(20061027熊本)で示されたスライドを引用させていただく。教育投資のグラフが右肩上がりなのが分かる。

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全日本教育工学研究協議会

 熊本市内で全日本教育工学研究協議会が開かれているので飛んできた。来週,関西大学で日本教育工学会の大会が予定されていて,同分野の大会が2週連続で行なわれることになる。
 ただこちらの協議会は,現場の先生たちの実践や研究の報告が多い。学校現場の情報教育について考えたいならば,こちらの方が現場の先生たちと情報交換できて勉強になる。昨日はフィンランドの教育に関する講演と現場実践に関するシンポジウムが行なわれた。
 懇親会は高くてパス。その代わり,夜の飲み会に誘われたので,現場の先生や業者の方々と歓談した。こうして全国から地道に頑張っている先生方が集まり,自分たちの実践を蓄積している成果が今後大事になる。
 高校の単位履修不足について報道が相次ぐ。やって来た熊本は問題なしという県だが,全国の多くで問題があるという調査結果も明らかになった。なんで今さらこの問題が大々的に報じられるのか。こんな形で取り上げられたら,この時期に卒業学年の子どもたちが貧乏くじを引くことになる。
 教育再生云々は,マスコミの「不安あおりネタ」探しの対象を教育問題に広げさせたという効果ばかりを生み,再生どころではなくなっていまいか。
 問題を解決することは大事なことであり,それが放置されていたこと事態が問題だと人々は考えるだろう。けれども,もう少し丁寧に結び目をほどかないと,肝心の生徒たちが大きく傷ついてしまう。カタルシスを得るための報道合戦や無責任な批判・責任追及について,私たちは最大限の自制を求められている。

事実を演出しない真実の滑稽さ

 18日に初会合が開かれた教育再生会議。その後の記者会見や委員への取材をもとにした報道記事の様子を見ると,世論やマスコミとの最初のネゴシエーションは失敗に終わったようだ。
 その最たるものとして会議の非公開決定がある。毎日インタラクティブ記事(→該当記事)を参照していただきたいが,座長となった野依氏が「ラ・マンチャの男」のセリフを引用して説明したことが,周囲を煙に巻く行為にも捉えられた。やりとりの全容を知るよしもないが,該当するセリフとそれに続く部分について考えると興味深い。報道記事では野依氏が引用したのは「事実は真実の敵」という部分らしいが,続く部分を読むと,野依氏にとっての真実が「切り取られたもの」であることがよく分かる。
「事実は真実の敵だ。最も憎むべき狂気は、あるがままの人生に折りあいを付けて、あるべき姿の為に闘わぬ事だ。」
 結局,闘わないことを宣言したのね。すくなくとも座長という人が国民とのコミュニケーションに長けている人物ではないということだけははっきりした。早めに別の広報役を立ててこの失態を取り戻さなければならない。もう一つは,週明けのどの時点で初会合の議事記録が公開されるのか次第で,傷口の大きさが変わってくる。
 正直なところ,この会議の議論が質の高いものであるとは思えない。再度確認するように,この会議の役目は空気と闘うことである。上手くポーズがとれるかどうかだ。その意味で,野依氏が「事実は真実の敵」と述べて,非公開としたことは意味があるのだが,その分,記者会見などの公開部分で巧みに振る舞わなければならない。野依氏みたいな学問一徹屋さんでは,そこで観衆の注意を集めるための魅力に欠けるのである(だから,非公開の裏方に徹すべき人である)。
 その論を拡張すれば,教育再生会議自体が前面に出てはいけない。むしろ外部の各種教育的取り組みに対して,お墨付き(力)を与えて動かしていくような存在でなければならない(それがエンジンである)。どうも気がついたら,いろんな教育再生のための取り組みがあちこちで活性化して成果を上げているけど,それは教育再生会議が粛々と刺激を与えていたからだって風にならなければならない。
 誰が17人の連名で出てくる玉虫色の答申文書に期待なんかするものか。そんなものが真実だというなら,結局のところ美しい国は絵空事に過ぎず,額に入れたいだけだった,ということになる。そしてこの調子なら,手続き的にはそうなることは目に見えている。
 「最も憎むべき狂気は、あるがままの人生に折りあいを付けて、あるべき姿の為に闘わぬ事だ。」あるべき姿とは何か。そのことに様々な立場があることは確かである。首相が描くものがあるべき姿かも異論はあるだろう。
 ただ,そうした価値議論の遙か手前に,やるべき事柄はたくさんある。そのやるべき事柄の為に闘わなければならないということを,教育再生会議委員や事務局職員の全員が理解していないと,空気を変えられるものではない。
 それが共有された上で,もう一度,教育再生会議というものが17人の委員で始まったことをうけとめたとき,不安な気持ちと同時に一縷の望みを掛ける私たちがいる。その滑稽さを承知しつつも…。

携帯電話の教育活用セミナー

20061020_keitai 品川の東京コンファレンスセンターで,社団法人日本教育工学振興会主催の「携帯電話の教育活用セミナー」が催された。研究プロジェクトの末席に加わっているので,発表の担当ではないが,出席する。
 教育と携帯電話。この前哨戦は,教育とポケベルという問題で90年代初頭から始まっていた。94年に葉月里緒奈,95年に広末涼子がポケベルをCMの中で印象づけ,料金低減と端末お買い上げ制によって「自分のもの」としての所有欲を満たし始めた。いまは少なき公衆電話が,我が世の春を謳歌していた時代でもある。中高校生が公衆電話のプッシュボタンを高速で押しまくる「あの音」も懐かしい。すでにこの頃,学校に通信端末が入り込む風穴が開いていたのである。
 ポケベルが個人を狙い打ちしてメッセージを送信できる可能性を印象づけた。やがてPHS・携帯の普及によって発信さえ個人の手中に収まると,偏在する発信者と受信者の間で,膨大なメッセージ交換行為が発生しはじめる。
 そして,街中の至る所で小型の電話機に大きな声で話しかける人々の姿があふれ出していき,i-modeに代表されるメールや情報閲覧サービスの普及がで黙々と小型端末を操作する人々を生み出したのはご存知の通りである。
 少なくともそんな流れで10年もの時間が経過した。宣伝文句の真偽はともかく,毎年繰り返される新機能の追加による端末進化が私たちのパーソナルコミュニケーションを変革してきたことが本当だとしたら,すでに10回も変革してきたことになる。もしくは携帯端末の世代に基づけば,第3世代携帯を得ているので,3回の変革を迎えたことになる。
 多く見積もって10回,少なく見積もって3回の変革が起こった経験を踏まえ,教育現場にもそれなりに対応策の蓄積が共有されているだろう,と皆さんは考えられるかも知れない。
 ところがそうでもないのである。教育現場もまた消費者と同じように目まぐるしい変化に眩暈し,メリットとデメリットの見極めさえ定まっていない。どちらかといえばデメリットの方が安定して浮かび上がるため,懸念態度のほうが取りやすい(そうでなければ,キャリアの回し者みたいな風になってしまう)。
 ここにも教育現場を支援するための全般的な環境不整備や支援活動の届かなさの問題が見え隠れするが,まさに今回のセミナーは,教育現場に携帯電話の教育活用のイメージを伝えるための貴重な機会というわけである。
 3年間の研究プロジェクトが推進してきた様々な携帯電話の活用事例の紹介と,事例研究から得られた知見を発表するという内容。全国からたくさんの教育関係者(教委や教育センター含)の皆さんや携帯キャリア企業の皆さんも参加し,熱心に耳を傾けていた。
 今回の発表は小学校段階の実践が中心であったため,中学・高校レベルの事例が乏しく,最後には中高段階への要望も多かった。また「教育活用」という一歩踏み込んだ事例を提案することを目指していたが,実際には携帯電話の学校への持ち込みに対してどう対応すればよいのかという初期段階の問題から,情報や携帯モラル教育等を体系的に実践するためのカリキュラムをどうすればいいのかという根本要望まで,多様であったように思う。
 なにしろ3年のプロジェクトの間にも,機能の追加による端末進化やサービス変化があり,試行錯誤の苦労が必要なくなったり,まったく新たな使い方が提案できたり,追いつかない部分も出ている。具体的な実践のための条件を全く同じに整えることが難しいわけだ。(あの機種ではできて,これでは出来ないとか…)
 セミナー中にも「キッズケータイでなく,教育ケータイが欲しいですね」という言葉が聞かれたが,これは冗談ではなく,教育活用に必要な最低限の入出力や機能や操作性みたいのところを規格化して各社にフォローしてくれないと,学校現場に携帯電話を備品として入れるための道筋が出来ない。
 (要するにパソコンと同じで,「マック」と指定するとアップル社の指名買いになるが,「ウインドウズ」と指定すれば,とりあえずいろんなパソコン会社のものを合い見積りできる。これに倣って「教育ケータイ」と指定すれば全てのキャリアからの見積りがとれるようになれば,導入しやすい。)
 「学校の備品としての携帯電話を教育活用する」というお話がある一方で,すでに生徒や保護者が持っている携帯電話とのやりとりといった活用事例もある。学校に持ち込まれる携帯電話もこの部類のお話。
 今回のセミナーでも多くの同意を得ていたとは思うが,携帯電話の教育活用が定着するためには,日常的な利用に与するような使われ方がなされなければならない。そこで学校と地域・家庭を繋げる手段としての携帯電話の活用事例も紹介された。それはあくまでも連絡の補助ツールであることを自覚して使うという条件。
 こうやって先生自身や子どもたちや保護者など,個人所有の携帯電話を利用することによって問題となるのは,そのためのコスト負担をどう考えるのかということである。
 結局はお金の動きが全てを決めるということになろのだろうか。研究プロジェクトを支援する企業の皆さんにとっても,最終的にはビジネスとして成功しなければ,自分たちの体力が消耗するだけで意味がなくなってしまう。
 そんなわけで,いくつかのアイデアが浮かんでくる。たぶんこれを早くに手をつけたところが市場を制することになるかも知れない。
・「eduケータイ」に関する仕様を策定し,キャリアと協働して展開する。
・フリーダイヤルならぬ「フリーアクセス」サービスによって教育利用にかかる通信料金をゼロ化する。
・「教育通信費補助金」(仮)が通信料金などへと適用可能な課金システムの開発。
などなど
 おっと商売人になってしまった。けれども,こうした基盤整備やアイデアを実現しなければ,本格的な携帯電話の教育活用は遠いと思えるのである。

校内研究会@府中

 東京都府中市の小学校へ出かけた。校内研究として日常的なIT活用について実践研究している学校なのだが,研究助言のお仕事を賜ったので今春から定期的に訪問させていただいている。国政のお話も必要とはいえ息が詰まることばかり。やはり現場での取り組みに接して,真摯に課題を考えることの方が大事だと思う。
 今回は3年生のクラスにおける道徳の授業。一口で道徳といっても,様々な切り口があるし,描かれるイメージもいろいろだと思う。今回は,子どもたちが幸せを感じる出来事やモノなどを持ち寄って,クラスみんなに向けて表現する活動が行なわれた。そんな授業の中で,ITは,映像を映し出すためのパソコンと液晶プロジェクタ。それを操作するプレゼン用リモコン。そして準備段階では,デジカメや写真編集ソフトなどとして活躍した。
 IT活用という観点からすると,シンプルで地味な活用事例ではあったけれども,随所に思い入れが鏤められていて,授業者の先生の人柄も反映された楽しい授業だった。普段当たり前のように周りに居る友達の新たな側面を知ることを通して,わたしやあなたを見直すという心情を育む活動というわけである。
 IT機器を教育実践で活用する。そのためにはIT機器をもっと気軽に使える程度に,整備したり,改良改善してもらったりする必要がある。そこで,どうしても財政レベルの話が絡み出して,その効果のほどを証明しなくちゃならなくなる。
 ところが,そうなると問いかけ方が「IT機器を使用したことで,何が変わったんですか?」となってしまいがち。これでは,変わる点がないのに予算出せるものか,という選択肢に優勢である。
 たとえ授業の中の10分間だけにIT機器が使用された程度の授業でも,そのたった10分間にIT機器を当たり前に使えるという教育環境が実現される意義に対して全面的に肯定する態度を取りたいのである。
 「日常的なIT活用という課題に立ち向かう現場の先生方を励ませる研究成果が出せるといい」という気持ちで研究を進めている先生たちの努力は,地道に進んでいる。
 3年生の子どもたちが紹介してくれた写真や思い出の品々は,とても微笑ましいものだった。私自身が教育実習生として入ったクラスも小学3年生。本当は授業を客観視するのが私の仕事なのだが,子どもたちの活動そのものに見入ってしまった時間だった。

教育時事0927

・0926:学校における教育の情報化の実態等に関する調査結果(追加)
・0926:新文部科学大臣に伊吹文明氏。内閣総理大臣補佐官(教育再生担当)に山谷えり子氏。
・0927:新文部科学大臣記者会見:「美しい日本語が話せず書けないのに、外国語を教えてもだめ。必要は全くない」発言
 文部科学大臣も交代へ。さわやか小坂氏から年季の伊吹氏へ。小坂氏はITへの理解が高かったけれど,伊吹氏はどうなのだろう。そして早速,小学校の英語必修化について持論展開。特定の主張内容はともかく,優先順位をつけて考えるという姿勢はありそうだ。
 それと内閣総理大臣補佐官(教育再生担当)という閣僚ポストが出来て,山谷氏が就いた。官邸の指導力を強めようとする中で,文科相と補佐官が対立する場面も出てくるのだろうか。そうなると,議論は沸騰するだろうが,それで良い結果が出るのか心配。まあ,物事前向きに考えるとしよう。
 ちなみに,文部科学大臣政務官として小渕優子氏。物議を醸した教育改革国民会議を設置した父,故小渕氏の意志を継いで地道に教育行政に携わり続けているご様子。
 というわけで,安倍首相の目指す教育基本法改正(そして改憲)が今政権文部行政の最大焦点になることは必至。その問題に巻き込まれながら,その他個別政策は適切に処理されなくてはならないのだから,アクロバティックな技も飛び出すかも知れない。でもわかんない。やはり官僚組織って難しいらしいし…。
 とにかく前向きに考えよう。

教育の逆再生

 安倍晋三官房長官が自民党の新総裁になったので,臨時国会で指名されれば晴れて(?)この国の総理大臣になる。そんなわけで,あちこちのメディアは安倍氏の言動や著作などについて様々に報じ論じている。
 この頃の私は,これまでとは異なる方向性で学徒としての歩みを進めようとしている最中。メインではやってこなかった統計分析なんかをするためにしこしことパソコン操作していたりする。浮世離れしそうな日々だ。
 ただ,今度の総理予定者は教育問題をメインに据えようとしているらしい。ご本人の著書『美しい国へ』でも最後の章は教育の再生問題に当てているし,政治記事にも教育問題に関する取り組みについて触れるものが多くなっている。
 『美しい国へ』は,教育問題について,イギリスの教育改革の成果を紹介するところから始めて,教育バウチャー制度論等を見ながら,日本の義務教育も構造改革をしなければならないと述べる。そして,指導力不足教師を辞めさせることや私学も学力テストに参加することなどによる競争のもとで,学力向上を考える。かと思ったら,実は学力低下は心配してないと論を切り替え,低下したモラルを心配し,モラル回復には家庭教育が重要だと主張する。そこでジェンダーフリーは良くないとか,ボランティア活動は大切だと述べるのである。最後に,格差社会の問題にも目をやり,格差ゼロはあり得ないが再挑戦可能な社会を実現していくことは大事だと閉めている。
 立ち読みのうろ覚えなので,細部は各自確認していただくとして,だいたいこんな感じの筋書きである。以前,これに週刊ダイヤモンド誌のコラムが,イギリスの教育改革の事実認識が間違っていると噛みついたりした。また,この著書にしても,安倍氏の発言にしても,問題を総花式に並べているに過ぎず,まだまだ詰めが甘いという記事を掲載しているのは,今週号の読売ウィークリー誌である。そこでは教育バウチャー制度について,教育関係者のコメントを扱っている。
 私の感想を代弁してくれている気持ちの良い記事が,今週号(10/16号)のプレジデント誌に掲載されている。特集は食傷気味になっている「大学と出世2006」であるが,それはおいといて。
 神戸大学の加護野忠男氏のコラム「経営時論」は「パロマ事件の根底にある「二つの逆説」」という題目。企業の製品不良問題に関して,なぜこうした問題が起こるのかを考察している。そして加護野氏はそこに二つの逆説が関係しているのではないかというのである。
 一つ目は,製品の品質が向上したことによって不良問題が引き起こされるという逆説である。日本製といえば世界でもトップの製造品質を持つと言われてきた。それ故に出来た製品の使用年数はおのずと長くなっていく。このことが耐久年数を超えているにもかかわらず部品交換や買い換えもせず,そのまま使う風潮を生む。市場で大量に使われ続けている古くなった製品の故障件数が高まってしまうのは,当然の結果という理屈である。
 日本のメーカーは,この情報時代に合わせて従来のアフターサービスの考え方や枠組みを変えなければならなかったにもかかわらず,その製造と製品の品質の高さゆえに必要性に迫られず,その努力を怠ったというわけだ。それが表面化したのが不良問題というわけである。
 二つ目は,厳格なルールによる「現場力の低下」という逆説。様々な問題が起こり,社会の目が厳しくなる中,企業も様々な対応を迫られる。危機管理がしっかりしなければならないといわれれば,危機管理ルールをつくり徹底していく。この調子で,様々なルールができて現場を縛り始める。しかし本来,ルールが厳しすぎると現場は仕事がやりにくい。厳格なルールは,「何もそこまで」ということまでルール化してしまうからだ。実際,厳格なルールを守らなくても仕事が回ることも多いし,守らない方が効率的だったりする。
 そこで,現場は日常的な仕事の中では厳格なルールを守らなくなる。ルールがさらに厳しくなればなるほど守らなくなる程度は高まる。ルールを守らなくなった現場では,仕事をする上で本来守らなければならない最低限のルールさえ守れなくなる。よってすなわち,現場力はどんどん低下してしまい,不良問題へ繋がるというわけだ。
 いや,私の拙いうろ覚え要約よりも,是非プレジデント誌の加護野氏の「経営時論」をお読みいただきたい。そして,私が教育政策について抱いている問題意識が,これに重なるということを理解していただけると思う。
 安倍氏の著書には,ダメ教師は辞めてもらうと鮮やかに述べる文はあれど,教師の専門性を高める環境を創造するとか,教員養成・教師教育の条件整備を手厚くするとか述べる文はない。
 (ちなみにその辺に関しては,雑誌フォーサイト誌(10月号)に教育評論家・森口朗氏「真に意味ある教員免許制度更新制にするために」という記事,教育とコンピュータ誌(10月号)に兵庫教育大学・梶田叡一氏へのインタビュー「教職大学院は制度として定着するか?」などがある。)
 教育問題を政治主題にすることはある一面で歓迎すべき事だが,一方で,行政と現場との距離をさらに引き離すことになりはしないのか。たくさんの通達や方針といったルールが上から示されても,現場は対応しきれていない。対応しきれないけれども,日常が何とか回っている事実が恒常化すると,結局上からのルールも対応しなくてよいようになる。そんな事態に対して国がルールをきつくすればするほど,現場の対応力は落ちるというわけである。
 そして日本の学校教育も,それを支えてきた教師たちも,品質がよすぎたのである。もうとっくにオーバーホール,もしくはフルモデルチェンジしなければならなかった職場環境だったにもかかわらず,そのまま頑張ったのである。頑張ってしまえるくらい人々は教育に力を注いできたのである。考えてもみて欲しい。社会がこんなにも変化しているにもかかわらず,学校の風景はほとんど変わっていない。職員室はあなたが記憶しているそのまんまである。
 こんな風にしたのは誰なのか。いざ学校教育の疲弊が表面化すると,短期間で改革しようだなんてことでうまくいくものだろうか。教育の再生のつもりが,逆再生して古い議論を掘り起こして何になるというのか(追記:もちろん古い問題にもいろいろあるから,掘り起こす必要だってある)。
 もっと現場に近いところに向けて耳を澄ませてみたならば,聞こえる声はもっと違うはずである。私たちは再挑戦のことよりも,いま眼前にしている挑戦にこそ可能性を見ようとしているのであるから。

長月23日目

 秋分の日。出歩くと街では秋祭りが行なわれていた。そこにある公園にはステージがあって,いろんな催しが行なわれる。今夜も屋台が軒を連ねて,踊りやコンサートが展開していた。そういえば,この前はJazzの演奏会もあった。秋らしさも増して,ゆったり過したくなるひととき。
 夕食代わりに屋台の焼きそばと地鶏の串焼きをいただく。この地鶏串焼きはジャンボサイズ。食べ応えもあり,ここはビールが欲しいところなのだが,祝い事もないので,やはり一人きりだと酒に手が伸びないのは相変わらず。不思議なものである。でもおかげで余計な酒代もかからない。
 NHKの番組見てたら,先日放送局にお邪魔したとき待ち時間を過した控え室が画面に映っていた。時は違えど,自分もそこにいたと思うと,不思議な感じがするものだ。きっとミーハー心理が表に出てきているのだと思う。けれども,それだけではなくて,画面の中に映る控え室だけでなく,そこから外側についてまで(見たばかりだから)詳しく思い描けるという体験も,不思議さの一因である。
 つまり,同じ情報量のものを見ても,解釈する側に備わる既有知識によって活性化する記憶や情報の量が異なるという,まあ当たり前のことを明示的に実感できる体験というのは,あらためて不思議なものだと思うのである。
○最近の新聞記事メモ
 ・昨年度児童の校内暴力が最多
 ・昨年度指導力不足教員506人
 ・認可保育所待機児童2万人切る
 ・日の丸・君が代違憲判決に東京都控訴の構え
 ・中川昭一氏を文科相に起用?

政治の季節

 積み残しの宿題に難儀しているこの頃,どうも自民党総裁選の論戦のせいで,いつにも増して教育が政治議論のまな板に乗っているらしい。教育基本法改正のため,外堀を埋める作業がせっせと進んでいるみたいだ。
 ・教員免許の更新制度導入 〜これはもう既定路線だ
 ・学校,教員の評価の仕組み構築 〜学力テスト問題という壁が待っている?
 ・教育バウチャー制度   〜どの学校段階や単位に,どう導入するの?
 ・大学9月入学      〜卒業は?年度の文化と折り合い付くかな?
 決して目新しい項目群ではないけれど,それだけ難題で積み残されてきているということでもある。それにしても,そろそろ教育行政施策が政治議題として真剣に取り上げられるようになってきたのだろうか。それとも,教育基本法から日本国憲法へと続く,改憲のための通過点としてしか考えられていないのだろうか。
 今一度,この国の教育問題を総ざらいして俯瞰出来るようにしないと,個別話題に目を奪われて訳が分からなくなりそうだ。その上で,正直なところ,何も言わずにお金を差し入れて,そっとしておいてくれれば,現場の底力を出せる機会が訪れると思うのに…。(追記:もっとも,こんな風に書くと誤解されるとは思う。今月号の『プレジデント ファミリー』の特集は,とうとう「担任教師の能力判定」というテーマである。何も言うな信用しろとは,言えなくなってきたご時世なのは承知している。)

学習科学研究会

 昨日は,学習科学に関する文献を講読する研究会に参加した。やはり議論や対話のある場で勉強するのは面白いし楽しい。
 学習科学に関する文献は『The Cambridge Handbook of Learning Science』というハンドブック。これを実質3日で読み終えたことになった。英語文献もみんなで読めば怖くないし大変勉強になる。内容豊富な文献で,正直なところ学習科学の様々な立場が入り乱れて語りかけてくるので,舞台裏についてガイドがないと俯瞰図を描くのはなかなか難しいが,それでも得るものは多いと思う。
 なかはらさんのエントリーに「知識統合」と「知識構築」に関する大変興味深い議論が記録されている。私もこの件は,新聞記者のごとく,関心を持って大学ノートにメモを取っていた。
 大雑把な構図の次元ということを断った上で,この「知識統合」と「知識構築」に関する概念の対比は,私を含めて日本の教育実践の世界に引き寄せて考えがちな人々には,「系統主義(系統学習)」と「経験主義(発見学習)」の対比を想起させるのではないだろうか。カリキュラム分野に造詣のある人は,「工学的接近」と「羅生門的接近」の対比を思い浮かべるかも知れない。
 子細な部分についての差異はあれど,大きな問題構図は学習科学の場にも現れていたのだと分かる。そこから,この比較的新しい学問分野を受容する道筋もあるのではないかと思う。
 けれども,日本の文脈から学習科学の知見を眺めると,「日本の教育実践ではすでに日常的にやっている」事柄を学術的に論じているだけではないかと感じるものも多い。現場の教師にとっては,受け継がれてきた教育実践のノウハウを,個別バラバラな子どもたちの現実にどう活かしていくのかということが最大の関心事。一歩手前にあるノウハウの言語化や体系化に関して,その重要性は表面的には理解できるとしても,そこへ戻ってどうこうすることまではしようと思っていない傾向にある。ラーニング・デザインやインストラクショナル・デザインを日本に導入していこうとする際の困難は,そんなところにあったりする。
 しかも,一歩手前の事柄に関して,学習科学だろうとなんだろうと提案を通そうとすれば,おのずとトップダウンの形になる。そして日本の教育現場はトップダウンだと言うことを聞いてくれない場合も多い。(e-Japan戦略と教育の情報化のお話を思い出せば,「違う」とはいえないよね,ねっ。もっとも,この場合は地方自治体が言うこと聞かないのか…。)
 学習科学を導入するメリットは,学習に関する共通言語によって実践を語れるようになるからである。日本の教師たちが受け継いできたものを世界に開くためにも,また世界の知見を日本の現場に持ち込むためにも,そのチャネルは確保することが大事になってくる。これまではともかく,これからは,現場にとっても世界は無視できない。
 日本で学習科学に対する理解を得るためには,日本の教育実践を学習科学の知見で解説していく試みを増やしていく必要があると思う。以前も書いたが,長野県の伊那小学校には優れた総合学習の実践がある。これは学習科学における「知識構築」の立場に近いと思うし,興味深い題材になるはずだ。しかも,伊那小学校の実践は,教科の学習との関連性についても考えるため,「知識構築」と「知識統合」のハイブリッド実践ともいえる。
 駄文の結論は前回と似たようなものだが,日本の教育研究はまだまだ盛り上がる余地があると思ったし,そういう研究の意欲をかき立てるようにしていくのも私たちの役目なのかなと思う。そうそう,教育フォルダの目指すところは本来それでした。初心忘れるべからず。