事実を演出しない真実の滑稽さ

 18日に初会合が開かれた教育再生会議。その後の記者会見や委員への取材をもとにした報道記事の様子を見ると,世論やマスコミとの最初のネゴシエーションは失敗に終わったようだ。
 その最たるものとして会議の非公開決定がある。毎日インタラクティブ記事(→該当記事)を参照していただきたいが,座長となった野依氏が「ラ・マンチャの男」のセリフを引用して説明したことが,周囲を煙に巻く行為にも捉えられた。やりとりの全容を知るよしもないが,該当するセリフとそれに続く部分について考えると興味深い。報道記事では野依氏が引用したのは「事実は真実の敵」という部分らしいが,続く部分を読むと,野依氏にとっての真実が「切り取られたもの」であることがよく分かる。
「事実は真実の敵だ。最も憎むべき狂気は、あるがままの人生に折りあいを付けて、あるべき姿の為に闘わぬ事だ。」
 結局,闘わないことを宣言したのね。すくなくとも座長という人が国民とのコミュニケーションに長けている人物ではないということだけははっきりした。早めに別の広報役を立ててこの失態を取り戻さなければならない。もう一つは,週明けのどの時点で初会合の議事記録が公開されるのか次第で,傷口の大きさが変わってくる。
 正直なところ,この会議の議論が質の高いものであるとは思えない。再度確認するように,この会議の役目は空気と闘うことである。上手くポーズがとれるかどうかだ。その意味で,野依氏が「事実は真実の敵」と述べて,非公開としたことは意味があるのだが,その分,記者会見などの公開部分で巧みに振る舞わなければならない。野依氏みたいな学問一徹屋さんでは,そこで観衆の注意を集めるための魅力に欠けるのである(だから,非公開の裏方に徹すべき人である)。
 その論を拡張すれば,教育再生会議自体が前面に出てはいけない。むしろ外部の各種教育的取り組みに対して,お墨付き(力)を与えて動かしていくような存在でなければならない(それがエンジンである)。どうも気がついたら,いろんな教育再生のための取り組みがあちこちで活性化して成果を上げているけど,それは教育再生会議が粛々と刺激を与えていたからだって風にならなければならない。
 誰が17人の連名で出てくる玉虫色の答申文書に期待なんかするものか。そんなものが真実だというなら,結局のところ美しい国は絵空事に過ぎず,額に入れたいだけだった,ということになる。そしてこの調子なら,手続き的にはそうなることは目に見えている。
 「最も憎むべき狂気は、あるがままの人生に折りあいを付けて、あるべき姿の為に闘わぬ事だ。」あるべき姿とは何か。そのことに様々な立場があることは確かである。首相が描くものがあるべき姿かも異論はあるだろう。
 ただ,そうした価値議論の遙か手前に,やるべき事柄はたくさんある。そのやるべき事柄の為に闘わなければならないということを,教育再生会議委員や事務局職員の全員が理解していないと,空気を変えられるものではない。
 それが共有された上で,もう一度,教育再生会議というものが17人の委員で始まったことをうけとめたとき,不安な気持ちと同時に一縷の望みを掛ける私たちがいる。その滑稽さを承知しつつも…。