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忘れっぽさの功罪

 褒められたことではないとお叱りを受けそうだが,私は「忘れっぽい」。忘れっぽさにも程度が様々あるので,可愛げのあるものから罪作りなものまで,ひと括りには出来ないが,ちょっとマイナスなイメージはあると思う。なにしろ忘れちゃうんだから,記憶からのマイナス作用にも見えるし。
 実際,忘れっぽいと,困る場面が多い。学校の勉強に関してはかなり参った。細かい知識が頭に留まらないのである。だから,暗記ものの代表格である歴史事象の年号記憶は,右から左。「鳴くよウグイス」が平安京だったか平城京だったかも,忘れちゃってるわけだ。
 英単語に関してはポロッポロッ,ポロッポロッ忘れていく。いま調べたばかりの単語も「あれ?なんだっけ」である。Webの英文を読む時には,Google辞書や英辞郎サマサマである。辞書引きが,もうちょっと語形変化に柔軟に対応してくれると有り難いけど…。
 これだと,わたくしバカちんになってしまうので(実際そうかも知れないが…),忘れない物事もあるのだと一応釘を刺しておきたい。けれども,大方忘れっぽいのは,そういう細かいことに関心が薄いということなのだと思う。たぶん大雑把でプラグマティックな人なんだ,私は。
 一方で,忘れっぽいのは,悪いことばかりではない。私にとっては,繰り返し勉強しなければならないという必然を生み出したことで大いに意味がある。結局,記憶に定着させるには,本質から理解しなければならなくなったということだ。だから,習得にやたらと時間がかかる。「記憶」する場面で「理解」しようとしているのだから,そりゃそうだ。
 ただ,そうなると今度は,表面的な具体事象が大したことに思えなくなってくる弊害もある。いくらか背景や構図,構造や仕組みが見えると,類推から落とし所も見えてきたりする。そうするとまどろっこしい部分を省きたくなるのだ。それやって,大失敗したことも数多いし,最近では歳もとってきたから,まどろっこしさも大事だなと思うけれど…。
 とにかく,知識を得るという場合に,表層的な記号の獲得と状況依存した意味の理解という大きく2つにわける考え方があるが,私の場合,後者を迂回したい質なのだと思う(ちなみに迂回することと,達成することとは違う意味なので,私の場合,忘れっぽいのはどっちでも変わらないのだと思う,ははは)。
 非効率この上ないのはさて置くとして,毎度新たに学び直すというのは,主に時間の経過のおかげで,新たな発見をもたらす良い側面もある。自分の書いた手紙や文章も少し時間を置いて読み直したりすると良いように,時間を置いてから知識に再訪するのは新たな解釈や深い理解を生む良い効果をもたらしてくれる。
 あるいは間違った理解から,より妥当な理解に近づいた学び直しが出来る場合もある。そう思うと,一度,どばぁ〜と物事を忘れ去ってみるのも悪くない。俗にいう「リセット」である。
 どっちにしても関心が薄かったり,向け忘れたりすると,物事忘れるらしい(関心を向け「忘れた」ってのは,単なる間抜けだというお話なのだが…)。それには功罪あるということなのだ。 
 で最近,久しぶりにプログラミングの勉強をし直しているのである。前からMacOS Xでプログラミングしてみたいと思って,ちょこちょこ文献を揃えたり,ドキュメントを参照していた。集めながら斜め読みしている時は,トンチンカンに思えたのだが,間を置いてから改めて読んでみると,なるほど分かりやすい。
 これはプログラミングのことだけじゃなくて,学術文献読む時にも,先入観を持たないことがスムーズな理解につながることがある。それは表層をなでているだけなのかも知れないし,もしかしたらスッと理解に至っているのかも知れない。まあ,結局どっちでもいいのかも知れない,私って奴は。

ネット社会系ドラマ

 名古屋の実家に寄ったのは,父親との打ち合わせのため。それと録画していたNHKのネット社会系番組3部作をゲットするためでもあった。早く東京でHDレコーダー買えよ!って突っ込まれそうだ。
 情報教育の分野で話題となっていた番組で,その人気ぶりに再放送も繰り返され,DVDにまでなっている。なのに,私は今日の今日までこの3部作を見られていなかった。そして先日,見てないことを叱られたので,これは何としても録画した番組を実家からゲットしなければならなくなった。
 3部作(将来増えるかも知れない)は,もともとNHK教育で放送されていた「体験!メディアのABC」という番組の延長で制作された番組。ネット社会にまつわるミニドラマを見ながら,NHK解説委員の中谷日出氏とアシスタントの女の子の対話を通して,メディアとの付き合い方を考えていくという番組スタイルである。
 1つ目,「ネット社会の道しるべ」は,「特集!メディアのABC」として上記の番組の特別編として放送されたもの。「架空請求と個人情報」「電子メール」「掲示板」に関するトラブルのミニドラマ3本と解説で構成されている。
 2つ目,「ケータイ社会の落とし穴」は,携帯電話に焦点を当てた番組として放送されたもの。「メールへの頼りすぎ(依存と誤解)」「迷惑メール(騙しメールと架空請求)」のミニドラマ2本と解説で構成されている。
 3つ目,「ブログ社会の落とし穴」は,待望のブログに関する番組。「ブログデビュー(個人情報と悪意のあるブログ読者の存在)」「盲目的なブログ発信の危険性(虚偽情報の発信と著作権侵害)」のミニドラマ2本と解説で構成されている。それから俳優・堀田龍也氏の演技を見ることもできる。
 こうやって問題をドラマ化して分かりやすく見せるのは,考える材料として重宝する。実際,評判通り3部作のミニドラマ群はよく出来ていて,様々な問題を手際よく盛り込んでいる。
 (ちなみにネット社会や周辺の人々をドラマ化する手法に関して,ネット上でいくらか語られていたことを記憶している。一番近いところでは「電車男」の映像化に関して,あちこちで文章が書かれていた。そこでは不特定多数のネット住人をどう描くかという議論もあったように思う。田中美里が出演したドラマ「WITH LOVE」とか,あるいは映画「ユー・ガッタ・メール」とかに見られるメール・コミュニケーションの映像化もだいぶ定型化しているが,今後どんな映像表現が出てくるか,また楽しみである。)
 2004年に@ニフティがウイルス問題への啓蒙のために開設していたキャンペーンサイト「ウイルスの恐怖展」でも,「メールウイルスの恐怖篇」「不正侵入の恐怖篇」「フィッシングの恐怖篇」という3本のミニドラマを公開していた。これも教材としては,なかなか役立つ。教育向けではないので,少々脚色が大げさなのだが,案内役として役所広司氏が登場するし,ストーリー構成が良いものもあるので,ぜひご覧になっていただきたい。(現在保管されているサイトはこちら
 ああそうだ,まったく別件で情報モラル関連のシナリオを書かなければならないことを思い出した。駄文の最後はお仕事に続くパターンが最近多いなぁ…。

思い出の「教育学」講義

 水原克敏編著『学校を考えるっておもしろい!! 教養としての教育学 〜TAと共に授業を創る〜』(東北大学出版会2006.7)は,教育学のテキストとしてはカラフルで若々しい雰囲気を盛り込んだテキストだ。
 内容は書名の通り。TA学生と共に創った教養教育・教育学の授業記録である。単に講義内容を再録しただけでなく,受講生立ちとの質疑応答はもちろん,感想コメントやディスカッションの様子などもTA学生の会話によって紹介されていく。講義で用いられた図や写真等の資料も豊富で,教養の教育学を勉強するには入りやすい。
 マンガや会話といった形式を採用すると,読み手や(この場合)学生の視線の高さを意識しながら内容を展開できる。入門書でこうした形式が多い。たとえばよくある誤解を登場人物にあえて提示させて,誤解を解くことでより望ましい知識を印象づけようとするパターンは基本であろう。また登場人物を複数用意し,役割分担させる場合もある。
 こうやってコミュニケーション過程を明示させることで学習負担を軽減させて理解を促す方法は,言ってしまえば手っ取り早さを期待しているところもある。昔だと「本との対話をしろ」って言われて,何かを読み取るかどうかは本人の努力次第だった。親切な入門書は,内容のポイントを乗せたり,議論ポイントや小質問を用意したりして,コミュニケーションの生成を助けようとした。マンガや会話を使って,コミュニケーション自体を描くものも出てきた。そこからメタコミュニケーションを期待する場合もあれば,オルタナティブなコミュニケーションを導くものなど分岐する。
 本書が楽しいのは,教育学講義の担当経験がある者として,自分の講義を思い出すからである。そういえばこんなことも扱ったなぁ…と。一方で,TA学生さんたちとのコラボレーションができることをうらやましくも思う。私はこれの縮小版を一人で切り盛りしていたのであるから,元気でした(いまも元気のつもりだけど…)。

情報教育セミナー2006

 今日明日と日本科学未来舘の7階で「情報教育セミナー2006」が催されている。今日はパネルディスカッションに登壇して,いま部屋の戻ったところ。今から名古屋へ出かけて,明日からは集中講義。
 セミナーのことは詳しくはまた後で書くとして,今日の点数は75点かな。そんなに高くはないだろうと突っ込みはいりそうだが,とりあえず全体進行を妨げたりする失敗はしなかったから,それだけでもホッとした。残りの25点は,自分の気持ちが焦っていたことだが,端からはそうでも無かったらしい。
 今日は,記念すべき日本科学未来舘デビューである。嬉しかったので,早速「友の会」に入会した。また機会があったらちょくちょく来ようと思う。これもまたあとで。

よこはま教師塾

 なかはらさんところのブログから。「よこはま教師塾」というのができるらしい。杉並師範館と似て,地方自治体単位のローカルな教師養成の取り組みである(ただし,免許付与機関では無い)。
 こうした取り組みが,かつて教師を志したものの今は一般社会人である人々にとって,教壇への再挑戦機会になるのは,とてもいい事だと思う。個人的には心惹かれるし。
 とはいえ,教員養成学部出身者で,かつ応援者のつもりの私としては,各都道府県にある教員養成大学・学部がこうしたニーズに何も出来ずに来てしまったことを苦々しく思う。
 なんだったんだ?あの「在り方懇」ってやつは?一部都道府県の教育学部統廃合問題とやらで将来を考えたかと思ったら,名称変更程度で嵐が過ぎた。そして教職大学院は,いまだによく理解が得られていない。それでもって,とうとう教員免許が医師免許を差し置いて更新制になっちゃった。何しているんだろう,この国の教員養成は。
 自治体からこういう形で三行半のようなものを突きつけられる前に,もっと地域に根ざして活性化(単純素朴に元気にするようなものでいい)に貢献するような教員養成をつくらないと,日本の教育から覇気が消えるばかりだ。

国語に関する世論調査

 文化庁からは平成17年度「国語に関する世論調査」の結果が公表されていた。変わりゆく日本語のいまを知るには面白い資料である。質問概要の「8. どんな語に「お」を付けるか」は,いろんな言葉を自分でも考えてみたりする。
 「お」を付けるか付けないかの判断基準はいろいろある。日本語の語感から判断する場合もあるし,状況に照らして判断する場合もある。おおよそ「お」を付けるにふさわしくない語であった場合,たとえば接客業における誤った使用があったときなど,使用者が若いと「勉強不足だ」と思う場合もあるし,そうでなかったとしたら「度が過ぎてしまってるよ」と違和感を覚えるわけだ。
 ただ,相変わらずの私的な見解で恐縮だが,こういう間違った使用法に遭遇した場合でも日本的な文化だと,客商売である以上「文法的な正しさよりも背後の馬鹿丁寧さが大事」という状況的なものを汲み取ってしまう余地が大きいのではないかなと思う。つまり,間違った使用法が「へりくだった自分」を明示する記号として働く(もしくは,そう解釈される)のではないだろうか。「言葉の誤使用するほどの馬鹿者の私が,お客様を接客させていただきます」という風な構図をそこに描く効果を発揮してしまうのである。
 至極ストレートに考えれば,「そんな馬鹿には接客して欲しくないわい」となるところだが,そうでないところが日本文化の奥ゆかしさというか,曖昧さというか…。とりあえず「お」付けときゃいいか,という実際的な事情が開けっ広げになった(奥ゆかしくなくなった)ご時世には,残念ながらそういう曖昧さの予定調和は成立しなくなっているけれども。
 私の日本語も,相当変な調子で形成されてきたので,あまり偉そうなことは言えない。もう少し日本語の勉強もしないといけない。

学校における教育の情報化の実態等に関する調査結果

 文部科学省から平成18年3月時点の「学校における教育の情報化の実態等に関する調査結果」が発表された。2005年度までの教育の情報化の成果がこれで判明したわけだ。
(追記:そうそう,文部科学省Webサイトがデザインリニューアルされた。どうだろう,見やすくなったかな。慣れたところでの変更だから,なんとも甲乙付け難い。)

日本と英国の情報化

 今日は上智大学でブリティッシュ・カウンシルとJAPETなどが主催する「教育情報化セミナー日英編」に出席した。この頃,周りの先生方が英国へ視察に出かけているのだが,私は貧乏人らしく日本で英国(UK)事情を勉強することにした。
 東京と大阪(26日)で開催。UKの教育技能省(DfES)テクノロジーグループと教育工学通信協会(Becta)からお二人の担当者が来日し,UKの教育の情報化事情をお話ししてくれた。実はどちらもラストネームはマクレーンさん。でも親戚でも何でもないらしい。
 DfESのケビン・マクレーンさんは,英国政府とDfESがどんな取り組みをしてきたのか紹介してくれた。現場への情報機器導入といった次元の話はほとんどなかった。英国政府は学習経験の充実のために環境整備を当然行なってきており,教師という専門家がテクノロジーを使うことも当然のことといった前提。今後は,学習者やその親御さんたちが24時間いつでも情報やサービスにアクセスできる個別的な環境を整備していくことが主眼のようである。
 もちろん現場レベルにおいては,電子ボードの活用や柔軟なカリキュラムの開発や共有にまだまだ課題が残されているようだ。しかし,少なくとも国レベルでは,ダイナミックな学習経験に結びつけるためのテクノロジー施策をどんどん打っていくようだ。「This is not about technology — it is about learning.」当然といえば当然すぎる言葉がスライドに映し出されて,そのためにリソースを使っていくことに何の迷いもない英国の取り組みに,あらためて感心した次第である。
 Bectaのニール・マクレーンさんは,Bectaという組織の紹介とICTを活用した現場の現状や今後について紹介してくれた。Bectaというのは日本で言うところのメディア教育開発センターなのかな。いや,もっと現場に関与して技術提供したりICT活用を支援する活動を行なっているような組織だから教育情報ナショナルセンターの方が近いか。ニールさんの発表はICTの活用が学習効果や成績にも好影響を与えているということに触れていたけれども,実のところこの効果のほどは劇的とはいえず,日本のそれとどっこいどっこいという感じではあった。
 けれども,ここでもそんな後ろ向きな発想は出てこない。仮にわずかでも全体的には好影響を与えていると調査結果が出ている以上,何が違いを生むのかを真摯に捉え,それを伸ばしていこうという前向きな態度なのである。そしてインフラ,コンテンツ,実施方式の変遷を示しながら,それらの課題に対応したテクノロジーの提供と学習の場における組織デザインそのものの変革を目指すのである。たとえば「self-review framework」というICT活用と組織デザインに関する規準と基準のような枠組みを用意して,学習者のための教育成果改善へと役立てようとしている。これをWebベースで記録していき,共有化する仕組みも用意しているらしい。
 ニールさんの最後のスライドを引用してみようと思う。英国においてICTに関するポリシーがどんな方向性を持っているのか,7つ示されている。日本語訳によると「教師主→学習者主」「固定→流動」「個々のデータ→データ蓄積」「コンテンツ→サービス」「まとまりのない管理,カリキュラム,評価→学習向上と個別化に焦点を置いた学習プラットフォーム」「周辺→本質」「’よい教材の一部’→’強力な解決手段’」 こうしたポリシーの方向性に基づいて,迷いなくストレートに取り組んでいるという印象であった。
 午後にはパネルディスカッションが予定されていて大変興味があったが,別件で小学校現場の研究助言する仕事があるので,ここまで。英語版の資料をもらって上智大学を後にした。ちなみにニールさんのスライドは検索したらインターネット上に似たようなものがあったので,興味のある方は,そちらを(ニール・マクレーンさんのスライド)。公開を意図したものかはわからないので,とりあえず感謝しながら参照するようにしましょう。何事も感謝の気持ち大事。
 午後は日本の学校現場におけるIT活用の取り組みについて。今回は2年生の国語の時間で,デジタル教科書とタッチパネル機能付きプラズマディスプレイを利用した授業を見せてもらった。そのようなツールがごく当たり前に使えるようになることは,とても大事だと思った。一方で,授業を構成し作り上げる基本的な取り組みが今まで以上に重要視されてくることも見えてくる。視覚的な効果が強ければ強いほど,本来の授業が何を狙おうとしていたのかが置いてきぼりにされてしまうことに気がつかなくなってしまう危険性。
 午前中にケビン・マクレーンさんが提示した言葉「This is not about technology — it is about learning.」をもう一度思い返してみるならば,どんなに便利なツールがやって来ても,やはり根幹である授業の設計や授業中の発問などといった部分を極めていくという試みは変わらず大事である。むしろこうしたテクノロジーを活用しなければならない時代だからこそより一層大事になるのだということに自覚的でありたい。
 というわけで,午前中に聞いたことを午後に受け売りでご披露して,私の小さな日英の架け橋活動は幕を閉じたのであった。その後は反省会。授業担当してくれた若き男先生に講評で辛辣なことばかり言ってしまったので,本当はとても素敵で楽しい授業だったといっぱいいっぱい褒めて励ました。
 教育学部を出て十何年,友人たちの多くが現場で活躍している。彼らに直接報いることができない分,こういう機会に現場の先生のお役に立ちたいと思っている。そのためにピエロになれというならば,僕は喜んでそうする覚悟なのである。そんなことを思い出しながら,現場の先生たちとのひとときを過ごしていた。

教育基本法

 第164回通常国会が閉会した。教育基本法の改正案が提出されながら,期限切れという理由で決着しなかった。改正について賛成の立場も反対の立場も,議論や改正案が中途半端状態であったことを考えると,決着しなかったことにホッとしているのかも知れない。
 改正案なるものが示されて,書店にはそれに関する関連書が並び始めた。国会会期の行方と共に,駆け込みで改正案が可決されてしまうのではないかという懸念により,教育基本法改正自体は注目を集めた。けれども,この国の教育を現実的によくするため教育基本法改正が最優先であると信じる人は少なかったろうし,そもそも教育基本法自体についての認識も十分だったとはいえない。
 教育にかかわる仕事に携わっていても,畑が違えば「ど素人」同然。私自身,駄文だから気楽に書くのもありかとは思うが,教育基本法の改正に関して準備もなく深入りすれば,痛い目に遭うこともよく承知している。何しろ基本法である。現場であれこれと試してガッテンするタイプの話じゃない。
 本来ならば,6月2日New Education Expoで中教審の会長でもある鳥居泰彦氏が講演した教育基本法改正舞台裏の話をご紹介すべきだと思う。けれども,長い紹介をするための心の勢いがないので,その代わり,簡単に書くと,教育基本法改正案で考えられていることは,愛国心云々だけではなく,占領時代を断ち切り,この時代にあった法律へバージョンアップすることらしいのだ。そこで鳥居氏が最初に紹介したのが,法律としての「部分修正」なのか「全部改正」なのか「新法制定」なのかという法律を改正する際の方法論であった。そして内閣法制局との丁々発止?のやりとりを披露したのである。
 実は,今回書きたいことは,この鳥居氏の講演でも指摘されていた「教育基本法」の前文の前文?についてである。皆さんは巷の教育基本法改正関連本をご覧になったことがあるだろうか。あるいは教育関係の方々は,三省堂か学陽書房なりの『教育六法』をお持ちだろうか。そこに記載されている教育基本法をご覧いただきたい。一般的には次のように始まっている。
—–(a)
教育基本法 (昭和二二年三月三一日 法律第二五号)
 われらは,さきに,日本国憲法を確定し,民主的で…(以下略)