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統制と管理と自由と懐と

 ここしばらく,英国出張後の整理をかねて,イギリスの教育制度について復習していた。かなり昔に学んだ知識は,目まぐるしいイギリス教育改革のおかげで,すっかり役立たずになっていた。
 幸い,英国のオンラインリソースは充実しているので,最新情報はWebを通じてあれこれ入手できる。けれども,昔の知識からのすりあわせをしながら理解するとなると,英語だけでは少々辛い。日本語の文献をあれこれ漁って,付き合わせながら一個一個流れを押えていかないと…。日本語訳も人によってまちまちだし。
 イギリス教育に関する日本語文献としては,基本的に文部科学省の「諸外国の教育の動き」シリーズが頼りになる。それ以外だと,最近書店で見かけたのが,清田夏代『現代イギリスの教育行政改革』(勁草書房2005.10)とかあったが,これは教育行政バリバリの専門書で,教育制度を知るにはあまり手軽じゃない。読み物的なら,小林章夫『教育とは −イギリスの学校からまなぶ』(NTT出版2005.8)とか,佐貫浩『イギリスの教育改革と日本』(高文研2002.8)あたりが手頃だろう。あとは教育関係の大学テキストなどに世界の教育比較として一章割り当てられているものがある。
 ただ,今年に入っても教育改革の動きは慌ただしく,11歳と14歳で受けている各ステージ最終テストの受験時期をずらすことができる仕組みを試そうとしたり,義務教育の対象年齢を18歳に引き上げるため動き出したとか,ここ数日では新たな共通カリキュラムの試案が公開されたりしている。印刷文献だと,どうしてもこういう動きに追いつけきれない。私なんか,もう頭痛の連続である。
 こんなイギリスの教育を眺めていると変な既視感がつきまとう。ん?そうか,今の日本の教育改革はこの慌ただしさを真似ようとしているのか。ブレア政権が教育を政策の最優先事項にしたことも,地方教育当局(LEA)を縮小して国家介入を強めたことも,ナショナル・カリキュラムとナショナル・テストによる国家による目標管理体制なども,いまの安倍政権下で展開しているあれこれにリンクが張れそうである。もっともその下手な焼き直しが各方面から批判を浴びているけれども…。
 イギリスの教育を理解するには,イギリスの政治を大雑把でも把握しておく必要がある。1979〜1997年の保守党政権期を経て,1997年から今日に至る労働党ブレア政権の流れ。そしてイギリスの伝統などを考えると,単純に制度の仕組みだけを捉えて善し悪しを論じることができないことが分かる。そういう意味では,私自身もいくつかの駄文に反省を加えなくてはならない。
 梶間みどり氏が『教育の比較社会学』(学文社2004.1)に書いたイギリス教育改革に関する論考は,次のように3つの転換をイギリス国家に見ている。第1が,かつての「福祉国家」から「自立型国家」への転換。第2が,「官僚主導型の行政経営」から「受益者主導型の行政経営や政策の重点化」。そして第3が,「評価国家」への転換である。
 このことによって何がどうなっているのか。前出文献で佐貫氏が書いているのは,次のようなことである。教育価値を国家が評価主体としてコントロールすることによって目標管理システムが国家的な規模で展開しているが,一方で,個別学校や教師への統制的な命令が必要とはされていない,と(199頁要約)。
 つまり佐貫氏は,イギリスの国家介入は,評価管理であり,統制管理ではないということ。ゆえに,国家介入によって,学校現場の自由が制限されることは,日本と比較すれば少ないというのである。
 これは逆に言えば,評価をもとに自由を有効活用できなければ,仕組み自体が破綻することを意味している。そのための支援も合わせて措置されていることも重要なのだが,イギリスでこの仕組みが妥当なのは,もともと国民の意識が高いという文化的な背景が大きく貢献しているように思う。もし仕組みを日本に持ち込んだとしても,これだけの政治的問題や役所の不祥事を何もせずに忘却のもと放置できる国では,導入すら難しいのだろう。
 ブレア氏が英国首相就任の前年である1996年労働党大会の演説で,政策の優先課題3つを「エデュケーション,エデュケーション,エデュケーション」としたことは,あまりに有名。教育改革の荒っぽさはあるが,その効果は現れてきている。そして何よりも,教育予算を増加させ続けてきた。対GDP比においても就任当初から数年は減少していたが,2000年以降はこちらも増加の一途である。
 もちろん,最終的な問題は予算の「使い方」あるいは「使わせ方」である。日本の教育予算が少ないことは,どこかの失言政治家が存在すること以上に世界の恥である。百歩といわず千歩も万歩も譲ったとして,少ない教育予算をやりくりすることは仕方ないことだと信じ込んだとしても,それを効果的に使うことに関して,日本は下手くそである。
 教育委員会制度の抜本的見直しが,これに関する一つの適切な解法なのかどうかは,もう少し議論の行方を見なければならない。だけれども,そんな手にさえ可能性をみたいと思う心理を抱くのは,あまりに変わらなさすぎる日本の教育にうんざりしているせいなのかも知れない。願わくは,そんな感情ベースの判断はしたくはないけれども。

教員1人1台時代のICT活用フォーラム

 節分の日,JAPET主催の情報教育対応教員研修全国セミナーが東京で催されたので出席した。今回のセミナーテーマは「教員1人1台時代のICT活用」で,2010年までに教員用パソコンが整備されることを見据えたものだった。
 さて,関係者には馴染みのことかも知れないが,これからは馬鹿丁寧に説明することを心掛けようと思うので,あえてゼロからご紹介してみたい。
 日本の教育について大元締めは,ご存知「文部科学省」(前身は文部省)だ。しかし,文部科学省というお役所だけでは,実務的に動くには心許ないことも多いので,大概のお役所がそうであるように,特定分野に対して取り組んだり,実働するような取り巻き機関や団体,公益法人などがある。
 日本で情報教育を普及推進させることにも,関係組織が存在する。その代表とも言えるのが「日本教育工学振興会」(JAPET)と呼ばれる公益法人である。関係者は「ジャペット」と呼んでいる。英国で積極的に教育のICT活用を推進している「英国教育工学通信協会」(BECTA)呼称「ベクタ」という組織と同じ位置づけとも言えるだろう。
 こういう組織は,国から委託費や補助金をもらって目的に向けて実働するため存在する。このJAPETも「学校におけるIT活用等の推進に係る事業」という名目の委託費をもらい,さらに会員を募って資金を確保しながら運営されている公益法人の一つである。
 ちなみにJAPETには仲良し団体が2つある。「日本教育工学協会」(JAET)と「日本教育工学会」(JSET)で,3つ合わせて自分たちのことを「教育工学3団体」と称している。この「だんご3兄弟」みたいなグループは,研究活動を得意としているのが特徴だ。
 長いこと研究活動や研修活動を展開してきた教育工学3兄弟は,競争激しい世間で実務をするにはあまりにお上品すぎる性格であるということもあって,情報教育の普及推進をもっとバリバリに請け負ってくれる実働部隊が必要になってきたのが2004年頃。なにしろ2005年度末までに世界最先端のIT国家になるという計画を日本の政府がぶちあげたものだから,教育分野も情報環境の整備を約束してしまった手前,その目標を達成する必要があった。
 国はお金を用意したし,3兄弟もいろいろ働きかけた。それにもかかわらず,地方のお役所がちっとも動いてくれない。目標達成が危ぶまれた。そこで,研究熱心な3兄弟とは性格の異なる,売り込み熱心な子どもを儲けることにした。それが「教育情報化推進協議会」である。
 この他にも文部科学省の情報教育家族には,大学などの高等教育を主に担当する独立法人「メディア教育開発センター」というお兄さんがいて,たまに助けてくれたりする。
 家族はこれだけではない。国で情報分野を扱うのは文部科学省だけではなく,経済産業省も情報分野を扱っている(企業の情報化などでこっちの方が経験豊富だ)。そんなわけで,先ほど紹介した「教育情報化推進協議会」は文部科学省と経済産業省と総務省が共同で儲けた子どもだし,他にも文部科学省と経済産業省で儲けた財団法人「コンピュータ教育開発センター」(CEC)という兄弟がいる。
 親戚関係では,長い歴史を持つ視聴覚関係のおじさんや電子・情報処理関係のおばさん達がたくさんいるのだが,まあ,歳も歳だし,慌ただしく動き回るってことはない。

 というわけで,長い前振りであったが,そんな家系の中で,長男的な存在といってもいいJAPET(ジャペット)という組織が催したのが,今回の情報教育対応教員研修全国セミナーというわけである。だから,関係者にとっては,そこそこ重要な位置づけで捉えられている(はずの)セミナーなのだ。(ちなみに共催は売り込み熱心な教育情報化推進協議会。)
 その証拠に基調演説を行なったのは文部科学省初等中等教育局参事官付 情報教育係長。家長から直々に情報が伝えられる場面が用意されているという点でも,その重みみたいなものが確認できる。
 こういうセミナーにやってくるのは,教育委員会や学校現場などで情報教育に関わる関係者だ。だから,情報環境を整備するにあたって知りたい情報を得にやってくる。今回のテーマで言えば,今後国が2010年を目標として教員1人1台の校務用パソコンを配備するという施策が決定したことに伴って,それは具体的にどんな状況になるのか,どんな問題が待ち受けているのか,施策実現のために必要なアクションは何かを知ることが目的である。

 ここで日本の教育行政の姿をおさらいしておこう。古山明男『変えよう!日本の学校システム』(平凡社2006.6)などからも,この辺の話を得ることが出来るし,先日テレビでもやっていたので,そろそろ浸透しているとは思うが,ぜひ日本の教育を語る上で基礎知識として持っていただきたい。
 日本の教育行政における主要な登場人物は4者。「文部科学省」「都道府県教育委員会」「市町村教育委員会」そして「都道府県市町村の首長(知事とか市長とか)」である。そしてそれぞれのキャラが立つように,重要な権限が一個一個分け前の如く割り振られているのである。
・文部科学省には,政策や法令に基づいて「指導」する権限を…
・都道府県教育委員会には,人を雇うことが出来る「人事」権を…
・市町村教育委員会には,学校を設置して管理できる「実行管理」権を…
・都道府県市町村の首長には,教育に使うお金を決められる「予算」権を…
 そんなわけで,新しいことを始めたり,何かを変更しようとしたりするときには,それぞれの権限を持つ4者が力を合わせないと実現しないようになっているのである。ロケット発射の時に必要なロック解除キー(映画なんかで出てくる,数数えて一緒に回すアレ)が4つ必要みたいな感じである。
 ところが一人でも鍵回すタイミング間違えると,何も動きやしない。そして日本の教育を変えたいのに,なかなか変わらないのは,鍵回すタイミングがことごとくずれているせいだとも考えられている。
 それで,鍵の数が多すぎるのが問題だと考える人がいて,「じゃ教育委員会を無くして,鍵を減らしちゃえ」と論じているのが教育委員会廃止論である。でも,いざ鍵が減ったとき,容易にロック解除できるようになる怖さみたいなものもあって,必ずしも鍵を減らすことが最善の策ではないと考える人たちもいる。それに今でも,鍵回すタイミングさえ揃えれば,目的達成できるのだから…。
 問題は,コンセンサスを得て,力を合わせることが出来るかどうか。その手続きを丁寧に出来るかどうかということなのだ。そして,どうも昨今の社会では,このコンセンサスづくりが難しくなってきたということ。そして,目まぐるしく変化する時代について行くためには,手続きを簡略化することが求められているという現実があるということ。同じ丁寧にやるにしても,テキパキとしなければならない。
 残念ながら,今日の教育行政ではそれが出来ていない。考えてもみて欲しい。主要登場人物4者に関わる実際の人数に加えて,前振りでご紹介した情報教育に関わる関係団体や組織の広がり様。そのうえ,それぞれ自分たちの目的に照らして良かれと思って研究活動や啓蒙活動など,セミナーや研修会などを開いていくものだから,もはや何が何だか分からなくなってくる。
 シンプルじゃないのだ。こんな状況で物事を実現しようってんだから,日本人というのは本当に器用な民族である。

 斯様な教育行政の構図を念頭に,今回のセミナーの話に戻ってこよう。
 この手のセミナーでは,教育行政の構図における問題がくっきりと浮かび上がってくる。残念ながら日本の学校における情報機器整備は目標に対して遅れている。国が予算措置して,文部科学省が通達まで出しているにもかかわらず,予定までに目標達成できなかった。なぜなら,誰かが鍵を一緒に回さないからだ。
 でもどうして国や文部科学省が「鍵を回して!」と叫んでいるのに,同じタイミングで回そうとしないのか。それは,国が用意した予算や文部科学省の通達に強制力がないからだ。首長や教育委員会が言うことを聞かなくても済む事態が起こっているのである。鍵回さなくて済むなら,その方が面倒無くて楽なのである。
 そんなわけで,そもそも情報教育に関心がある地方自治体は積極的なところも出てくるが,そうでもない地方自治体は関心意欲が最初から無いので実現しないのである。
 関心意欲の無い地方自治体の中にある「やる気満々の学校」現場にとっては,困った事態である。情報教育を実践したいのに,教育委員会の無気力無関心で,自分の学校にパソコンが整備されないのだから。
 関心意欲の無い首長あるいは教育委員会を相手に,上からは国や文部科学省,下からは現場の学校の先生や教育センターの人々などが,情報教育の重要性と機器の整備の必要性を訴え,首長には予算を,教育委員会には実行を要請しなければならない。
−→ 国,文部科学省
|      ↓
|   関心意欲の無い首長,教育委員会
|      ↑
−→ 現場の学校,教育センター
 で,上と下の間をつないでいるのが今回のセミナーというわけである。ああ,もちろん関心意欲の有る教育委員会の人たちもセミナーには参加しているだろうし,あらゆるところでこんな滑稽な図式が展開しているわけじゃない。
 ちょっと今回の駄文は話がややこしくなってしまったか。
 こういう前提知識を踏まえて感想を書きたかったのだが,要するに今回のセミナーの難しいところは,現状の構図に対する不満が下敷きになっているため,「教員1人1台時代のICT活用」という部分の話が(有ったのに)ぼやけてしまっていたということだ。
 いろんな立場の人たちが,それぞれの立場に引き寄せて何か情報を得たのだとは思う。そして日本は地方分権が建前だから,具体的なアクションについても,それぞれが計画を作成して,実行することが共通認識になっている。だから,セミナーの場では,何かしら決定版のような見解や方策を示すことはせず,せいぜいセミナー開催を協力したSky株式会社の製品をデモすることで参考にしてもらうというスタンスであった。
 日本のJAPETが,英国のBECTAの様に出来ないのは,その構図のためだ。英国のBECTAが,条件整備に関わる業者を認定したり,チェックリストをつくって条件を満たす学校にICTマークを与えたり,Windows VistaやOffice2007の教育利用を評価したりと,ICTの普及促進に積極的に動けるのも,国がイニシアティブをとって推進しているためである。日本のJAPETが同じようなことをしようとすると,国が介入するのに等しくなって,地方自治体の権限領域対する越権行為になるおそれがあるからだ。
 だから,このようなセミナーの場で,一生懸命現場サイドから首長や教育委員会に働きかけ,情報機器整備の必要性に気づかせる努力が必要だと訴えるのである。
 もっとも,だとしたら,むしろワークショップ形式にして,もっとアクションを起こすのに必要なリソースと手順に関する情報を提供しながら,それぞれの立場でできることにフォーカスすべきだと思う。この調子では,参加者個人個人の温度差によって解釈にばらつきが起こっているにもかかわらず,そのばらついた解釈に基づいてアクションが起こることを期待していることになる。
 1人1台時代という言葉で指し示されているのは,公的なパソコンが配備され,支給されるという事態である。今回のセミナーでは,それに伴って発生する新たな業務,そのための工夫,そして問題点などが紹介された。
 仕様策定,導入,運用,保守,更新,廃棄という一連の流れを眺めた場合,それぞれのフェーズで考えておかなければならないことは多岐にわたる。しかし,一方で,こうした情報環境に対応するために発生する様々な労力を,全て教員が引き受けるべきかという疑問もある。それこそシステムに任せられるのであれば,教員に負担をかけないシステムを予め導入すべきだし,難しいとはいえ,ICTのための人員配置も検討すべきとの議論もあった。
 公的なパソコンが大量に導入されるということは,管理すべき物品や対象が増えるということである。管理するには普通人員が要る。だから企業や組織だと,そういう諸々の計画や要求書と見積もりが作成されて初めて,予算が認められて執行する。ところが,これから日本の学校に入ってくる公的パソコンは,そんな計画も準備もしていない場所に,まさに「降ってくる」形になってしまっている(もっとも降らせるかどうかは地方自治体次第だけど)。
 この見かけ本末転倒な状況もまた,日本の教育行政の滑稽な構図が生み出したものだ。だから,いっそのこと,教育委員会や首長は,各学校現場や教育センターに,計画や要求書を出させて,しかるべき体制を考えさせて準備させてからパソコン配備を承認するような形にすべきかも知れない。なんか,そういう「僕らも仕事したぁ」という役割を首長と教育委員会にさせることで,関心意欲が掻き立てられるかも知れない。それに現場にとっても,とりあえず導入して教員があたふたするより,ICT向けの人員配置も含めた計画書と要求書を作成することによって,まさに運用を見据えた準備ができるのではないだろうか。
 あと,問題は業者ね。良心的な業者も多いけれど,勉強不足な業者が多くて困る。自分たちが扱っている商品しか知らないという視野の狭さ。新しいソフトや機器が登場していても,何も情報を得られていないから,情報の提供すらできない。そういう業者が多い。
 だから,仕様策定する際には,かなり気をつけないといけない。業者との緊張関係を保たないと,お互いが損をしてしまうのである。もし,教育関係者が業者と緊張関係を保てるよう,距離感を調整できれば,彼らも勉強するだろうし,新しい情報を提供してくれるし,そしてサポートも迅速にしてくれるようになる。
 ただし,だからこそ,適正な報酬を支払うことも忘れずに。良いサービスをしてくれるようになると,今度はお客側がわがままになってしまう。業者はビジネスをしに来ているのであって,ボランティアをしに来ているわけではない。そりゃ,たまには無理をお願いしてしまうことも有るだろう。ちょっとパソコンを見てもらったことにわざわざお金を払うこともないかも知れない。
 けれども,図に乗って,時間外に来ることは当たり前,自己解決できることも頼りっぱなしという態度では,よい関係を保つことはできないし,サポートも雑になってくるかも知れない。
 そういう意味でも,本来はJAPETや情報教育推進協議会などが,学校現場に出入りする業者に対しても何かしらガイドラインや啓蒙活動を展開していくことも大事になってくる。なのに,そういう話は,こういうセミナーではすっぽり抜けてしまうのだ。

 というわけで,だいぶ長編駄文となってしまったが,いろいろな状況を踏まえてみると,実はそう簡単に割り切れるセミナーでなかったことが分かってくる。
 私より下の世代は,過去を知らない分,こういう複雑怪奇な現状について,だいぶフラストレーションを感じているはずだ。なぜ物事がストレートに進行しないのか,疑問に感じているはずなのだ。一度「ぶっ壊す」方がすっきりするのではないかと考えるのも無理はない。でも,歴史を紐解くと,そう簡単な話でないことも分かってくるはずである。そして,下の世代はある意味優しいから,理解を示してくれたりする。
 だからいつも思うのは,何かが変わるために必要なきっかけは何か?という問い。世代交代を待って,若い人たちに変えてもらう?それとも,いま物事を変えるほどの地位や権限を持っている人々が意識を変えて取り組み始める?あるいは,自分たちで種まきをして,じわじわと変わっていくよう努力する?とにかく,いろいろ考えを巡らしたりする。
 冒頭から繰り返し書いてきたように,JAPETを始めとした教育工学や情報教育を推進する団体・組織は,研究活動を得意としてきた流れがあるので,今日のセミナーもまた研究的スタンスのもと,自制的な発表だったと思う,それはそれで評価すべきこと。最終的に何を読み取るか,読み取ったものを生かすも殺すも,聴衆個々人の立場にあった選択をすべきである。
 けれども,私はもっと積極的な主張を示すことも大事なのではないかとも思ったのだ。結局,人を動かすのは人の熱い志によることが多い。何かを変えたいのだとしたら,熱く語るべきだし,それをたたき台に議論を展開することが必要なのではないか。ときには反発を生むことさえ,戦略として取り入れることが,物事を大きく変えるためには必要なのだと思う。

Webから日本の教育に出会うとしたら

 日本の教育,これをゼロから知ろうと思った立ち位置で情報を眺めたらどうなるのか。このご時世,有り難いことに手っ取り早くインターネットで情報収集が出来るので,Webサイトを手がかりとして考えてみた。
 教育を管轄する政府機関があることは,だいたいの国で共通している。日本なら「文部科学省」がそれだ。米国にも,英国にも,仏国にも,中国にも,韓国にもそれに相当するものがあるだろう。
 というわけで,それが分かっているなら,いきなりその機関のWebサイトに飛んでみるのもいいが,ここではまず2つの道筋を確認しておこう。(1)検索サービスで「教育」とか「学校」を調べる,(2)その国の政府のポータルサイトから探す,である。

(1)「教育」「学校」をググってみる。2007.1現在
教育」→asahi.comの教育ニュースサイトがトップで,続いて読売新聞,そしてウィキペディアの教育の項目と続く。そうなるとウィキペディアへとジャンプするルートが有力か。そこを経由して文部科学省へのリンクも発見できる。
学校」→i-learn.jpというところと,JSという代理店の2つの学校検索サイトに続き,ウィキペディアへのリンクとなる。ウィキペディアの学校という項目には文部科学省へのリンクはない。
(2)電子政府の総合窓口を利用する
 文部科学省のWebサイトを探すよりも見つけるのが難しいかも知れないが,「e-Gov」という行政ポータルサイトが日本にもあるので,それを利用してみよう。実情がどうあれ,位置づけとしては日本の行政の玄関サイトのはずである。
 ところが,このサイトの使いにくさや内容の乏しさといったらない。特に「教育」や「学校」について知りたいと思ったとき,どこをたどればいいのか全く見当がつかない。試しに「全府省ホームページ検索」という検索欄を使って,2つのキーワードを検索してみる。するとどうなったか?
「教育」→最初にあげられたのは農林水産省へのリンク。文部科学省のリンクが現れるのは146番目である。
「学校」→最初にあげられたのは気象庁へのリンク。文部科学省のリンクが現れるのは105番目である。
 検索欄ではなく「サービスを利用する」欄から教育に関する情報を得ようとすると,まずリンクの選択に迷う。関係するのは「生まれる」か「住む」か「資格」か,「その他全て」であろうか。しかし,ここでは何も得られない。文部科学省にも連れて行ってくれない。
 というわけで,文部科学省へのリンクは「各府省・独立行政法人等」というリンク一覧ページにジャンプしてから,文部科学省の名前を探すほかない。電子政府が泣いている…。(もっとも,このポータルは何かしらの手続きを伴う事柄に関する情報を提供するという趣旨でつくられた経緯が強い,ということも使えない理由の一つである。)

 まあ,文部科学省でなくてもいいが,いまのところ日本の教育について調べるのに頼りになるのは「ウィキペディア」という,お寒い状況であるらしい。
 ちなみに(最近マイブームになっている感のある)英国の場合だと,「Directgov」という公共サービスのワンストップ・サイトがある。アクセスしていただければ一目瞭然だが,一番最初のページの始めの方に「Education and Learning」(教育と学習)の項目があることに注目していただきたい。学校というキーワードさえ見える。この姿勢の違い!
 そしてクリックしてみれば,さらにその語りかけるような情報提供の在り方に感心することだろう。日本と明らかに違うのである。
 じゃあ日本に目を戻して,「文部科学省」のサイトはどうだろう。餅は餅屋だ。きっと教育と学校について英国の行政ポータルが提供するくらいのことはしているだろう。
 と思ってアクセスすると,眼に飛び込んでくるのはたくさんのリンク。さて,どれをクリックすべきかじろじろ見ると「教育から調べる」というボタンが見つけられるのでクリックしてみよう。ちなみに右上に「教育」という文字のリンクもあるが,同じリンク先である。
「よりよい教育を目指して」
「幼児教育・家庭教育に関すること」
「小・中・高校教育に関すること」
「大学・短大・専門教育に関すること」
「青少年の健全育成」…と続く。
これなら知りたいことが分かるかも知れない。
 たとえば,私が子を持つ親で,自分の子どもが通う学校教育について知りたいと思う人間だったら…。いろいろページを見て回ってみたが,残念ながら,分かりやすい情報はどのリンクからも得られなかった。
よりよい教育を目指して」→教育基本法に関する項目が出て,続いて義務教育の構造改革である。これは保護者向けじゃない。
幼児教育・家庭教育に関すること」→幼保連携の認定子ども園について,知りたいときもあるだろうけど…。子育てを応援しますページもお役所文書の一覧表で,ちっともやさしくないし応援してもらっている気がしない。
小・中・高校教育に関すること」→学習指導要領,確かな学力,教科書,中高一貫教育…。時事問題を調べるなら有用な情報提供をしているのかも知れないけれど,やっぱり保護者にとってはお役所文書にしか見えず,読んでられない。
 以下略…。
 というわけで,国レベルの教育関連サイトの入り口がこの有様である。けれども,どうしてこんなに国がぶっきらぼうなのかというと,実は理由がある。実際の学校教育が地方自治体に任されているというのが日本の教育制度だからだ。
 もしも保護者が具体的な教育の情報を知りたいなら,国レベルではなく,自治体レベルで調べた方が現実的なのである。ただし,各自治体の体力によって,どれほど教育に関する情報を提供しているかは異なってくる。充実しているところもあれば,国より酷いところもあるだろう。これがこの国の教育情報の提供具合なのだ。
 たとえ地域の学校教育は地方自治体が責任を持っているとはいえ,それを大元で支えるのは国の仕事である。そして文部科学省は国民に教育情報を提供する義務がある。お役所文書を公開することからもっと踏み込んで先へ進まないと,国民の信頼を得ながら行政をすることはできない。特にいまの文部科学省は,もっと国民を味方に付けるべきじゃないかな。

「確かな学力」の向上を図るICT活用

 2006年3月2日に文部科学省委託事業成果発表フォーラム「IT活用による学力向上の証し」開催。それから10ヶ月ほど経過した2007年1月26日には継続研究成果を発表する「「確かな学力」の向上を図るICT活用」というフォーラムが催された。
 昨年のフォーラムについてはブログ駄文で書いた。教育現場のIT環境の条件整備が進まない実情に対して整備の意義を実証研究成果として示すため,文部科学省から独立法人研究機関へ委託した研究事業の成果発表である。つまり,お金を出す根拠を学術的にも証明しましたと宣伝するイベントである。
 しかし,そのような目的にもかかわらず,研究成果自体は「お金を出させる根拠に足る説得」にはなっていなかった。学術研究成果として止まったままだった。行政当局や財務当局にお金を出させるには,言葉が足りないというか,翻訳する必要がある。その翻訳作業が全く手つかずだった。その発想自体がなかったとも言える。昨年の成果発表を聞いて,その点に酷く手抜かりを感じたし,だから辛口の感想を書いた。
 さて,今年のフォーラムである。継続事業の2年目の発表会ということもあり,実証研究自体はブラッシアップされた検証方法のもとで事例が積み上げられていた。事業を統括している清水康敬先生も,「ICT活用」の効果を継続して検証してきたというイントロダクションで今回のフォーラムの口火を切った。「ああ,割り切ったんだな」と思った。今回の登壇者に文部科学省以外の行政関係者が配されていなかったことも,事業の研究を学術的に追究していくことで責務を果たす割り切りの現われだと思ったのである。
 私自身も,昨年辛口過ぎたので,今年は出来るだけニュートラルな立場で受け止めようと思っていた。だから,逆に割り切り姿勢が見えたとき,思わずホッとしたのである。「お金を出させる根拠を提供する」なんて意識するような色気は出さず,学術研究というか,ICT活用の事例の蓄積と研究に徹することが一番いい。それを行政措置や財政措置に結びつけるかどうかは,文部科学省にやらせておけばいいのである。研究を委託しといて,その成果を活かさないのは,委託した側の問題なのだ。
 ところが,後半のパネルディスカッションで,昨年の悪夢が再来する。質問紙に対するコメントとして「この研究はアカデミックな研究を目指しているのではなくて,日本のICT活用を推進するために行なっている」と説明されたのである。つまり「学術研究が主ではなく,(ICT活用の)推進・普及が主である」と明言してしまった。
 あいたたた。委託事業としての経緯として「推進・普及が主」と言うのは理解できるとしても,ここでそれを「主」だと位置づけると「お金を出させる根拠の提供」という問題に再度ぶち当たってしまう。成果を語る範囲においては,学術研究として立派なエビデンス(証拠)を提供する事に徹して,普及・推進にはあえて触れない方が焦燥感を抱かず済む分健全だと思う。
 純粋な学術研究として展開させていくといっても,単に実証結果の確定と公開というだけでなく,登壇者の先生方が指摘していたように,教員研修プログラムへ吸収されるように持って行くことが,今後の妥当な展開ではないだろうか。つまり,地方自治体にIT環境の条件整備を推進させるうえで,「実証研究成果に基づいた教育研修プログラムのリソース提供も行なう」というインセンティブ(誘因)を準備できるように研究成果を発展させていくこと。今日の発表はそういう方向に行くことが示唆されていたのだと思う。(管理職向けのICT活用プログラムを作成しようという動きについては毎日インタラクティブのこの記事参照。)
 IT環境の条件整備を迫って「整備しても教員に使う能力がなければ意味がない…」と返されるのであれば,「IT環境の条件整備をしてくれれば,国としてこういう実証研究に基づいた教員研修プログラムを提供するから,ワンセットと思って整備してくれ」と提案できるようにするわけだ。これなら「普及・推進」にも貢献することになる。
 (ただ,一抹の不安は,事例データベースを公開しますっていう程度で終わってしまうと,巷で使われずに宙に浮いているコンテンツポータルの二の舞になりそうだということ。官製研修として提供しないとインパクトがない点が日本の困った実情である。もっとも,教員免許の国家資格化が叫ばれる流れの中で,教員養成や教員研修の位置づけも変わるのかも知れない。)
 もう一つ,蓄積された検証事例の中で,ICT活用がマイナス効果を生んだものをどう扱うかという問題が論じられた。昨年の実践報告の中で,現場の先生達から「失敗例もしっかり共有されるべき」という発表内容があって表面化した主題だ。成功事例ばっかりじゃダメ,失敗も見つめなきゃ,という現場の人間らしい発想である。
 その事の重要性については,この研究事業においても認識されているようだが,こうしたshould not(すべきでない)という扱い方のものは日本では少なく,馴染みがないという見解らしく,成功事例と同時に公開というわけにはいかないらしい。ICT活用がマイナス効果を生む場面について考えることは重要だが,少なくとも今回の研究の範疇を超えるというわけである。
 さて,改めて研究成果発表を捉え返してみるなら,学術研究として着実に前進しようとしているという点では,評価できると思う。この国における教育の情報化を語る上で,欠かすことの出来ない基幹研究成果として位置づけられるよう深化することを願う。その成果が教員研修プログラムなどに波及すれば望ましい。
 残る問題は,委託した研究を活かすかどうかということである。現時点でこの部分は,失望以外の何ものでもない。昨年同様,文部科学省から嶋貫和男・初等中等教育局参事官が出席し,文部科学省の取り組みをアピールしていた。けれども,文部科学省の後退振りは明らかで,いまは教育の情報化どころの話ではないことが雰囲気として伝わってくる。結局,2005年度末というゴールを通り過ぎたのは,かなり手痛い結果となってしまったようだ。「IT新改革戦略」や校務の情報化に触れる言葉もどこか余所余所しく聞こえた。
 誤解しないでいただきたいが,文部科学省(の情報化関係者の人々)は「教育の情報化」について積極姿勢を崩してしまったわけではない。実際,綿貫参事官は様々な案を披露して,推進・普及に努力していることを語った。むしろ,その語りの向こう側の奥歯に挟まっていた物は,文部科学省ひいては日本の教育が取り囲まれてしまった様々な「政治問題」だと思われる。
 もちろん情報教育分野も,今度の「教育3法」云々は無関係じゃない。むしろ情報化に向けた様々な動きを法律などによって明文化する好機となっている。だから,法律が可決されることを良くも悪くも待たなくてはならない。いわば足踏み状態なのである。可決されれば,ヨーイ・ドン!と勢いよく走り出せるかも知れない。
 日本の教育の情報化は足を取られ続けて遅れに遅れてきた。けれども,別の文脈から見るとこの「遅れ」は災い転じて福となるが如く,情報機器の進歩や激変の影響を最小限にしてきたともいえる。
 パソコンOSは,あと数日でWindows Vistaの時代に突入する。古いパソコンと新しいパソコンの互換性や連携の問題などいろいろあるが,少なくとも教員1人1台支給のパソコンはVista対応パソコンで統一されるという点ではタイミングがよい(リナックスになるのでは?という可能性も残るが…)。
 液晶プロジェクタの性能向上や価格低下もどんどん進み,本格導入するには十分な水準になってきた。もう少し待てば,さらに使い勝手の向上が期待できるだろう。そういうものが教室に入った方が楽である。
 インターネット周辺の(Web2.0に象徴されるような)リソースやソフトウェアなども充実してきた。ほんの数年前は,グーグルさえ日本人にとって馴染みがなかったのである。そう考えると,ここまで引っ張ってきた甲斐があったというものだ。
 日本の学校教育が,MS-DOS以前からパソコンの教育利用の可能性を気にし続けていたにもかかわらず,ずっーと禁欲的に対応し続けた末,気がつけばパソコン界隈は大変リッチになっていたのだから,これは一種のご褒美である。その分,教育現場が学ばなければならないこと,準備や配慮しなければならないことも膨大になってしまったのが厄介だけれども…。
 実際,いろいろな流れが寄り線になって教育の情報化が進められているので,パッと見がよく分からないのである。また近いうちに英国のICT施策の周知手法について概観してみたいと思うのだが,素人にも大黒柱の姿が分かるようになっているのね。日本は関係者じゃないと,何がどことどう繋がっていて,それぞれ何に向かって走っているのかがわからない…。
 結局,国民の眼とか国籍の違うの人々の眼を意識しているかどうかの違いなのである。だから,それぞれが好き勝手に研究会開いたり,プログラムつくったりしているようにしか見えないのである。繋がっているのは何かというと,誰それ先生が関わっているとかそういう人ベースの重複。その証拠に,日本の情報教育に関して交わされる会話のほとんどは「○○先生の情報教育プロジェクトで〜」とか「○○先生にご指導いただいている〜」とか「○○先生に声をかけられた〜」という風に人が主語なのだ。普通の国民は,誰それ先生を普通は知りません。
 一方,主語が組織や団体ベースになる場合,ほとんど「文部科学省」が主語になってしまって,個別の主題が曖昧化してしまい分からなくなってしまう。そして文部科学省集権体制のために,せっかく様々存在する公的機関や研究プロジェクトも国民からはほとんど見えなくなる。そのうえ,文部科学省絡みのルートには,教育委員会制度など問題が山積。こんな状態で何か一つのことを通そうと思っても,通らないのは当たり前かも知れない。
 話が拡散したが,研究成果を活かせるかどうかという問題は,情報教育の推進の仕方にも疑問を投げかけている。少なくとも関係者にだけ分かっていて,一般人には全体像がつかめないような現状で,教育の情報化が前進するとはとても思えないのである。注目を集めるのは,トンチンカンな七つの提案(24の小項目!)っていうのだから,コンセンサスが得られるわけがない。
 もっと周到な喧伝戦略を練るべきである。それは情報教育という領域に限らず,学校教育そのものについて(保護者マニュアルみたいな発想も含めて)様々な手段を使ってプレゼンされなくてはならないと思う。マスコミ任せではなく。
 フォーラムが終わって,アンケートを書いていたら,また一人会場に残されてしまった。知っている方々がいなかったわけでもないのに…,どうも皆さんと行動波長が合わないらしい。同じ波長の人間がたくさんいても意味はないと思うし,逆に違うから広がりがあると信じたいが,こういう場面に遭遇すると「疑問に思っている私の方が間違っているのか?」と戸惑ったりする。 たぶん,そうなのだろうけれど…。
 ああ,やっぱりわたくし,迷子かも知れません。

「浮きこぼれ」!?

 「月刊ascii」03月号の第2特集は「落ちこぼれより深刻,『吹きこぼれ』」。学力の高い生徒に対して学校の授業が応えられず,不満を抱かせたり,ドロップアウトさせたりしてしまう状況を指す言葉らしい。
 いやはや,今回もお恥ずかしい話だが,この「吹きこぼれ」もしくは「浮きこぼれ」と呼ばれてきたらしい言葉は初耳である。現象自体はお馴染みだったのだが,こんな名前がついて呼ばれていたとは,今回初めて意識した次第である。
 けれども,私だって可能な限りあちこちの教育文献・資料を渉猟しているつもりの人間である。なのに「浮きこぼれ」という言葉が活字として強く意識されたのが初めてとは,ちょっとどうなっているのだろうか。
 インターネット上の百科事典として有名なウィキペディア(→浮きこぼれ)によれば,学校用語だと解説されている。それ以外も「浮きこぼれ」という言葉で検索してみたが,どこもかしこもウィキペディアが引用もとになっている状態。ちらほらどこかの論考原稿に掲載されたような記録も見つかるが,大々的に文字になっている言葉ではないようにみえる。
 いったい「浮きこぼれ」という言葉の出所はどこだろうか。 「落ちこぼれ」の対語という説明を勘案すれば,誰でも言えそうな言葉なので,どこかの校長先生か,指導主事か,教育長なんかが使った言葉が歩き出してしまったのかも知れない。「ゆとり教育」という言葉も正直なところ,曖昧なまま歩いているし…。
 本日は文部科学省委託事業である「教育の情報化の推進に資する研究」の成果発表フォーラムがあった。昨年3月に行なわれたものの続きである。昨年の内容についてかなり辛口で厳しく駄文を書いたが,今年はそれもあってわりとニュートラルな気持ちで聞いていた。別駄文として詳しく書くことにしよう。

新・教育基本法ね

 そうそう,ついでっぽい感じで書くが,教育基本法案が15日の参院本会議で可決され,新・教育基本法が成立した。お疲れ様。さっそく財務省が動き出して教育政策予算の4%増額をアピールし始めた。
 これは全く異なる行動規範に基づくグループ同士が,ある共通したテーマを持って接触することになったときの,様々なジレンマを下手な芝居で演じて見せたという出来事である。その犠牲が,変えなくてもよかった教育基本法だったことは残念ではあるけれども,大人の世界として考えれば,こうなるより他なかったと理解するしかない。それが「政治」の世界。
 識者・研究者にとって政治は,題材や対象にはなり得ても,表立った手法にはなり得ない。だから声明を発するか,角材持つかしかない。角材持つ野蛮な季節は過ぎたというなら,情報の洪水の中に埋もれること承知で声明を打つしかない。苦々しいこと,この上ないが,政治が学問を尊重してくれない以上,そんな苦々しさはいつまでも続く。
 ところで,海外ではこのニュースがどのように扱われただろうか。反応が気になるだろう中国と,アメリカのニュースサイトを覗いてみた。すると,中国のsinaニュースセンターの記事でも,アメリカのニューヨークタイムズCNNにしても,海外メディアの扱いは,「防衛庁の省への格上げ」ニュースとセットで報じていることである。ワシントンポストは一緒のもあるし,別のものもある。
 まあ,同じ日に可決したからワンパックで記事化したというのもあるが,それにしたって,日本国内では教育基本法改正のニュースがトロトロ報道されて,気がつくと湧いて出てきた「防衛”省”化」ニュースという別個の扱いだったのに,世界ではこの記事の漫画にもあるように防衛省と教育基本法はワンセットで戦前回帰しようとしているような扱われ方なのである。
 とはいえ,どうやら世界は日本の教育基本法より6カ国協議と松坂大輔の方が大事みたいなので,どこの記事もこの話題を盛り上げようという感じがない。さらっと流している雰囲気もある。
 まぁね,松坂との交渉を入札するのに教育予算の1%分が動き,6年間契約でもう1%動くくらいだもんね。松坂1人で教育予算の2%もの規模のお金が動いているのである。高給な政治家達が泥仕合をして教育基本法が改正されも,財務省が動かしましょう,といってくれるお金は教育予算の4%規模。
 松坂が凄いのか,レッドソックスが凄いのか,それとも日本の政治家・官僚がしょぼいのか…。
 ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン。基本法改正したからといって,それで終わりじゃない。学校教育法,学習指導要領,そして教育振興基本計画が登場する番である。賛成するにしても,反対するにしても,しっかりと動向を把握しないといけない。

教育や研究の余白

 明日になれば師走。お坊さんに限らず,誰もが慌ただしく走り回る季節となった。そして誰もが承知しているはずなのだが,その走りの速さは時代とともに尋常ではなくなっている。勢い止まらず年末年始も休めている気がしない。
 ここ数週間は,仕事もそうだし,人と会ったりし,いろんな話を聞かせてもらう。実のところ,脳天気に喜べるニュースは少なく,身近な皆さんのプライベートで結婚や出産があったという話ぐらい。私が関わっている教育界隈の話題には,暗いトーンのものしか見あたらない。
 ただ,最大の幸運は,この状況をよく思っておらず,「何とかしよう」とそれぞれに頑張っている若手の人たちが,たくさんいるという事実である。そのスタンスもアプローチも様々で,活躍している場もバラバラだけれども。
 そういう人たちがつながれば,大きなムーブメントを起こせるのではないか。単純素朴に考えればそうなるし,インターネットがその媒介を果たすというのも,無くはないシナリオである。
 けれども,この数日人々に会い続けて思ったことは,「直接会わなければならない」ということだった。たとえ言葉交わした量が少なくとも,途中で眠たくて目を閉じていたとしても,全然関係ない話題で盛り上がったとしても,やはり時間と場を共有することには意味があると考える。
 そうして初めて,私たちは相手の発言の真意や自分の立ち位置の見定めが可能になるのではないだろうか。
 悲しいことに,いま人と時間と場を共有するための余白のようなものがどんどん失われたり,削られている。そのせいで,嫉妬の論理による他者攻撃は増しているし,世代間の格差や断絶によって社会のほとんどの部分で機能不全が生じてしまっているように思える。
 困窮していて一歩も動けないという現状は,今に始まった悩みではない。なるべく早いタイミングで事態が打開されることを願って努力している人たちの存在が,きっと救いになるはずである。そうやって休みもなく活躍されている先輩諸氏は確実にいるのだから。
 だとしても,そのような人たちが活躍しやすいように余白を認め,あえて見て見ぬふりをする曖昧さがもっと必要だ。そのことは逆に,何を達成すべきかという目標にフォーカス(焦点化)していく必要があることを意味している。
 私たちは「気に入らない」とか「腹が立つ」とかいう理由でクレームをつける前に,「目標に照らして…」という条件文を思考に加えられるよう努力が求められるし,時に沈黙も必要であるかも知れない。

先生は落ち着かない

 久しぶりに新聞社のWebサイト巡りをして教育関連記事をチェックしようとした。ところが,この頃,いじめ問題や未履修問題,そして教育基本法改正という異例のトピックスの多さに,過去記事があっという間に一覧リストから消え去っていることに驚いた。
 いままでは,ちょっと間が空いても,わりと先月の後半くらいの記事は残っているのが通常ペースだった。それが安倍内閣と教育再生云々が始まってからは,教育関係の話題も政治ジャンルで記事が流れ,そして枝葉の話題も取り上げていくことでどんどんペースが上がってきたのである。
 これが今後とも恒常的な事態になるというなら,それはそれで社会的関心が教育にも向けられるようになったと喜ぶべきことかも知れない。でもたぶん,竜巻みたいな一過性のような気がして仕方ない。
 読売新聞は,この数日「先生はなぜ忙しいのか」という連載を始めたようである。先生が忙しいということの実態がちゃんと伝わっていないことを考えると,少しでもこうした情報が出るのは大事なことだと思う。
 興味深いのは,最初の2回の記事がどちらもITの活用について触れていることだ。もはや仕事上必要不可欠だが,そのIT機器が入ってもなお多忙,という実態にもう少し多くの人たちが気づいてほしいと思う。そんな仕事なのに,各教員に1人1台のパソコン配備の保証が未だにないこと。もうちょっと深刻に考えてほしい。
 NHKのクローズアップ現代では「学校選択制の波紋」として地域の学校が消えていく事態を取り上げていた。一部の学校にはプラス面もあったのかもしれないが,むしろ多くの地域にとってマイナス面が現実化し,問題に直面しているということをレポートしていた。導入当時から懸念されていたことが現実化しているわけだ。ここでも先生達は大変。
 先生達は忙しいのか。よくご存じのように,「忙しい」というときの漢字は「心・亡」と書く。先生達は「心亡くしている」いるのだろうか。はっきり申し上げれば,心亡くさないようにもがいているのが学校の「先生」という人たちである。落ち着かない日々を慌ただしく頑張っているだけ。そのことをもっと理解しなければならないと思う。
 心亡くしているのは,ナンタラ法改正を急ぐどこぞの「センセイ」たちの方である。ああいうのを本当の「忙しい」という。

金は時なり

 缶詰め仕事が一段落したので,書店でぶらぶらしていたら,苅谷剛彦・増田ユリヤ『欲ばり過ぎるニッポンの教育』(講談社現代新書2006.11/740円+税)が平積みされていた。よせばいいのに買ってしまった。
 増田ユリヤ氏が上梓した『総合的な学習〜その可能性と限界〜』(オクムラ書店)という本に対して好感を抱いた記憶があるし,苅谷剛彦氏は教育社会学者として様々に活躍されているので,この2人の本なら読んでみるかと思った。
 ぱらぱらと斜め読みしかしてないが,対談部分はやっぱりあんまりシャープな内容ではない。それに対談部分の合間に差し込まれた補稿の字体を変えてしまっているのは,あんまり読みやすくない。どっちかというとそちらに大事なことがいろいろ書いてあるはずだし,両氏の本領も発揮されているはずなのに,読みにくい。
 最近思うのだが,このパソコン編集のご時世になって,書籍編集者というのは本当に手を抜くようになったと思う。レイアウトやフォントに凝れるようになったせいか,基本的な文字組レベルにおける努力をほとんどしなくなったといっていい。昔はもっと文章の区切れと頁の区切れを意識していたのではないか。それと図版の扱いも良い場合と悪い場合が極端になっている。
 たとえば,苅谷剛彦氏も「国家予算と義務教育費の伸び率」というグラフを掲げて,教育予算や条件整備に関する具体的な策を出さないままに教育改革が推進されている問題を指摘している。このグラフのレイアウト処理の仕方の中途半端さといったらない。こんなエクセル出力グラフからそのまんま描き起こして,ろくなデザイン編集もせずに掲載するなんて,商業出版としては恥ずかしい限りである(それが新書の限界だと言ってくれるな。そんなことは百も承知であえて事例として書いているのである)。
 グラフ自体は1955年を基準(1.00)として,そこからの予算伸び率を図にしていて大変興味深い。私がつくった減り続ける教育予算グラフ()()が1997年からだけしかないのに比べれば,昭和30年からの経過が見られて素晴らしい。そしてこのグラフからわかることは,恐ろしいことにあの臨時教育審議会が設置されてからというもの,日本の義務教育費の伸び率は停滞しているということ。教育の自由化というのは,教育予算の値切りだったということがはっきりわかる。
 (ちなみに子ども1人あたりの教育費の伸びが上昇しているのだけど,たぶんこれは子供の頭数が減っていったことによる上昇ではないかと思う。義務教育費が伸びてないのにそっちが伸びるとしたら,そう考えるほか無かろう。)
 とにかく,本作りにしても教育環境作りにしたも,大いなる手抜きが展開してしまった昨今。時間の長さは変わらないのに,仕事や勉強などしなければならないことは増えて,それぞれに使える時間が短くなってしまったのだから,合理化効率化という名の手抜きも起こるのは,容易に想像できる事態である。
 街を歩いていると,若い兄ちゃんたちが「カラオケしませんか」と声をかけまくっている。ナンパじゃなくて,カラオケ店の営業である。街ゆく人たちに「カラオケしませんか」「カラオケどうですか」と声をかけ続け,潜在的な客を獲得しようとする努力。なるほど,普通に歩いているカップルやグループも,そう声をかけられたら,自分では気づかなかった「唄いたいな」という欲求に気づいて,唄いたくなるかもしれない。でも,そうやって引っ張り出された欲求は,本当にそのときすべき欲求だったのだろうか。
 教育予算の伸び悩みや減少は,すなわち私たちが教育に費やす時間の減少であるかもしれない。子ども達は,国が整備した学校教育から逃れて,塾へ行くだろうし,習い事に行って時間を過ごすだろう。そういう意味で,子ども1人あたりの教育費が変わらない。けれども比喩的にはなるが,国全体として教育に捧げている時間というものが,量的な意味でも質的な意味でも,どんどん減っているのではないだろうか。そんな風に思えたりする。

減っていく日本の教育予算-2

Edubudget1997_2007
 グラフなどにして見える化すると分かりやすくなる一方で,「わかる」と思ったら思考が立ち止まってしまいがちな傾向と闘わなくてはならない(追記:いじめの統計が…という表現がお好みなら,そこを入り口にすればいい)。
 日本の文部一般会計(と教員人件費の代名詞「義務教育国庫負担金」)が減少しているグラフを前回の駄文で示した。しかし,それを見て「文部科学省はどうなっとるねん!予算削り続けて!」と感じて止まってしまったら,それは大いなる誤解である。
 文部科学省は,確かにいろいろ問題のある省庁の代表格であるが,同時に日本の教育についてそれなりに踏ん張っているところでもある。この10年近くに至っては,文部科学省に同情の念さえ抱くような状況になっている(だからといって甘やかしてはいけないけど…)。
 たとえば上のグラフをご覧いただきたい。役所仕事の賜物とはいえ,文部科学省は少しでも事業拡張や予算拡大をしようと概算要求している。そりゃ中央集権的な発想だと論難することもできる。けれども,地方分権にしたとき頼みの綱である地方財政事情が,重厚化しつつある昨今の教育要求を支えるほど,各市町村で等しく豊かで整っているとも考えにくい。国側に余裕のある教育予算が確保されていれば,少なくとも保険にはなるはずである。
 ただここで,皆さんは立ち止まってはいけない。このグラフから受ける印象を確定させる前に,考えたり問わなければならない疑問が山ほどある。「一体,文部一般会計というものの内訳はどうなってるのだろう?」「地方財政における全ての教育予算を合計した数値をグラフ化したらどうなるだろう?」「塾やお稽古事などの家庭における教育費の推移はどうなっているだろう?」そんな素朴な問いをたくさん持たないと誰かに欺かれてしまう。
 (追記:『データからみる日本の教育』を眺めるだけでも結構いろいろなことが見えてくる。各自でご覧いただければ,議論も深められると思う。っていうか,国の一般歳出における構成比上も文教関係費というのは右肩下がりなのね。とほほ…。)
 私たちの生活実態はどんどん変わっている。それに引きづられて価値観もどんどん変化している。鉄道に乗って通勤・出張したり,レジャーに出かけたりする。自動車に乗って営業に走り回ったり,ドライブを楽しむ。居酒屋で仕事を忘れるために酒を飲んで語り明かしたりする。化粧品で自分を素敵にめかし込み,友達とミュージカルに出かけて楽しい時間を過したりもする。帰宅後はスポーツ番組を見たり,エッセイを読みながら夜を過す。チャンネル変えたら,大学の先生か政治家みたいな人が難しいことしゃべってるのでテレビを消して眠りにつく。
 そんな日々を当たり前だと思っている人達が大多数だとしたら,教育の出来事みたいな耳の痛い話は,社会面の話題に押しとどめてしまう方が都合いいかも知れない。その方が都合のいい人たちばかりが,何かを何処かで話し合っている。