教育の逆再生

 安倍晋三官房長官が自民党の新総裁になったので,臨時国会で指名されれば晴れて(?)この国の総理大臣になる。そんなわけで,あちこちのメディアは安倍氏の言動や著作などについて様々に報じ論じている。
 この頃の私は,これまでとは異なる方向性で学徒としての歩みを進めようとしている最中。メインではやってこなかった統計分析なんかをするためにしこしことパソコン操作していたりする。浮世離れしそうな日々だ。
 ただ,今度の総理予定者は教育問題をメインに据えようとしているらしい。ご本人の著書『美しい国へ』でも最後の章は教育の再生問題に当てているし,政治記事にも教育問題に関する取り組みについて触れるものが多くなっている。
 『美しい国へ』は,教育問題について,イギリスの教育改革の成果を紹介するところから始めて,教育バウチャー制度論等を見ながら,日本の義務教育も構造改革をしなければならないと述べる。そして,指導力不足教師を辞めさせることや私学も学力テストに参加することなどによる競争のもとで,学力向上を考える。かと思ったら,実は学力低下は心配してないと論を切り替え,低下したモラルを心配し,モラル回復には家庭教育が重要だと主張する。そこでジェンダーフリーは良くないとか,ボランティア活動は大切だと述べるのである。最後に,格差社会の問題にも目をやり,格差ゼロはあり得ないが再挑戦可能な社会を実現していくことは大事だと閉めている。
 立ち読みのうろ覚えなので,細部は各自確認していただくとして,だいたいこんな感じの筋書きである。以前,これに週刊ダイヤモンド誌のコラムが,イギリスの教育改革の事実認識が間違っていると噛みついたりした。また,この著書にしても,安倍氏の発言にしても,問題を総花式に並べているに過ぎず,まだまだ詰めが甘いという記事を掲載しているのは,今週号の読売ウィークリー誌である。そこでは教育バウチャー制度について,教育関係者のコメントを扱っている。
 私の感想を代弁してくれている気持ちの良い記事が,今週号(10/16号)のプレジデント誌に掲載されている。特集は食傷気味になっている「大学と出世2006」であるが,それはおいといて。
 神戸大学の加護野忠男氏のコラム「経営時論」は「パロマ事件の根底にある「二つの逆説」」という題目。企業の製品不良問題に関して,なぜこうした問題が起こるのかを考察している。そして加護野氏はそこに二つの逆説が関係しているのではないかというのである。
 一つ目は,製品の品質が向上したことによって不良問題が引き起こされるという逆説である。日本製といえば世界でもトップの製造品質を持つと言われてきた。それ故に出来た製品の使用年数はおのずと長くなっていく。このことが耐久年数を超えているにもかかわらず部品交換や買い換えもせず,そのまま使う風潮を生む。市場で大量に使われ続けている古くなった製品の故障件数が高まってしまうのは,当然の結果という理屈である。
 日本のメーカーは,この情報時代に合わせて従来のアフターサービスの考え方や枠組みを変えなければならなかったにもかかわらず,その製造と製品の品質の高さゆえに必要性に迫られず,その努力を怠ったというわけだ。それが表面化したのが不良問題というわけである。
 二つ目は,厳格なルールによる「現場力の低下」という逆説。様々な問題が起こり,社会の目が厳しくなる中,企業も様々な対応を迫られる。危機管理がしっかりしなければならないといわれれば,危機管理ルールをつくり徹底していく。この調子で,様々なルールができて現場を縛り始める。しかし本来,ルールが厳しすぎると現場は仕事がやりにくい。厳格なルールは,「何もそこまで」ということまでルール化してしまうからだ。実際,厳格なルールを守らなくても仕事が回ることも多いし,守らない方が効率的だったりする。
 そこで,現場は日常的な仕事の中では厳格なルールを守らなくなる。ルールがさらに厳しくなればなるほど守らなくなる程度は高まる。ルールを守らなくなった現場では,仕事をする上で本来守らなければならない最低限のルールさえ守れなくなる。よってすなわち,現場力はどんどん低下してしまい,不良問題へ繋がるというわけだ。
 いや,私の拙いうろ覚え要約よりも,是非プレジデント誌の加護野氏の「経営時論」をお読みいただきたい。そして,私が教育政策について抱いている問題意識が,これに重なるということを理解していただけると思う。
 安倍氏の著書には,ダメ教師は辞めてもらうと鮮やかに述べる文はあれど,教師の専門性を高める環境を創造するとか,教員養成・教師教育の条件整備を手厚くするとか述べる文はない。
 (ちなみにその辺に関しては,雑誌フォーサイト誌(10月号)に教育評論家・森口朗氏「真に意味ある教員免許制度更新制にするために」という記事,教育とコンピュータ誌(10月号)に兵庫教育大学・梶田叡一氏へのインタビュー「教職大学院は制度として定着するか?」などがある。)
 教育問題を政治主題にすることはある一面で歓迎すべき事だが,一方で,行政と現場との距離をさらに引き離すことになりはしないのか。たくさんの通達や方針といったルールが上から示されても,現場は対応しきれていない。対応しきれないけれども,日常が何とか回っている事実が恒常化すると,結局上からのルールも対応しなくてよいようになる。そんな事態に対して国がルールをきつくすればするほど,現場の対応力は落ちるというわけである。
 そして日本の学校教育も,それを支えてきた教師たちも,品質がよすぎたのである。もうとっくにオーバーホール,もしくはフルモデルチェンジしなければならなかった職場環境だったにもかかわらず,そのまま頑張ったのである。頑張ってしまえるくらい人々は教育に力を注いできたのである。考えてもみて欲しい。社会がこんなにも変化しているにもかかわらず,学校の風景はほとんど変わっていない。職員室はあなたが記憶しているそのまんまである。
 こんな風にしたのは誰なのか。いざ学校教育の疲弊が表面化すると,短期間で改革しようだなんてことでうまくいくものだろうか。教育の再生のつもりが,逆再生して古い議論を掘り起こして何になるというのか(追記:もちろん古い問題にもいろいろあるから,掘り起こす必要だってある)。
 もっと現場に近いところに向けて耳を澄ませてみたならば,聞こえる声はもっと違うはずである。私たちは再挑戦のことよりも,いま眼前にしている挑戦にこそ可能性を見ようとしているのであるから。