・0926:学校における教育の情報化の実態等に関する調査結果(追加)
・0926:新文部科学大臣に伊吹文明氏。内閣総理大臣補佐官(教育再生担当)に山谷えり子氏。
・0927:新文部科学大臣記者会見:「美しい日本語が話せず書けないのに、外国語を教えてもだめ。必要は全くない」発言
文部科学大臣も交代へ。さわやか小坂氏から年季の伊吹氏へ。小坂氏はITへの理解が高かったけれど,伊吹氏はどうなのだろう。そして早速,小学校の英語必修化について持論展開。特定の主張内容はともかく,優先順位をつけて考えるという姿勢はありそうだ。
それと内閣総理大臣補佐官(教育再生担当)という閣僚ポストが出来て,山谷氏が就いた。官邸の指導力を強めようとする中で,文科相と補佐官が対立する場面も出てくるのだろうか。そうなると,議論は沸騰するだろうが,それで良い結果が出るのか心配。まあ,物事前向きに考えるとしよう。
ちなみに,文部科学大臣政務官として小渕優子氏。物議を醸した教育改革国民会議を設置した父,故小渕氏の意志を継いで地道に教育行政に携わり続けているご様子。
というわけで,安倍首相の目指す教育基本法改正(そして改憲)が今政権文部行政の最大焦点になることは必至。その問題に巻き込まれながら,その他個別政策は適切に処理されなくてはならないのだから,アクロバティックな技も飛び出すかも知れない。でもわかんない。やはり官僚組織って難しいらしいし…。
とにかく前向きに考えよう。
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教育の逆再生
安倍晋三官房長官が自民党の新総裁になったので,臨時国会で指名されれば晴れて(?)この国の総理大臣になる。そんなわけで,あちこちのメディアは安倍氏の言動や著作などについて様々に報じ論じている。
この頃の私は,これまでとは異なる方向性で学徒としての歩みを進めようとしている最中。メインではやってこなかった統計分析なんかをするためにしこしことパソコン操作していたりする。浮世離れしそうな日々だ。
ただ,今度の総理予定者は教育問題をメインに据えようとしているらしい。ご本人の著書『美しい国へ』でも最後の章は教育の再生問題に当てているし,政治記事にも教育問題に関する取り組みについて触れるものが多くなっている。
『美しい国へ』は,教育問題について,イギリスの教育改革の成果を紹介するところから始めて,教育バウチャー制度論等を見ながら,日本の義務教育も構造改革をしなければならないと述べる。そして,指導力不足教師を辞めさせることや私学も学力テストに参加することなどによる競争のもとで,学力向上を考える。かと思ったら,実は学力低下は心配してないと論を切り替え,低下したモラルを心配し,モラル回復には家庭教育が重要だと主張する。そこでジェンダーフリーは良くないとか,ボランティア活動は大切だと述べるのである。最後に,格差社会の問題にも目をやり,格差ゼロはあり得ないが再挑戦可能な社会を実現していくことは大事だと閉めている。
立ち読みのうろ覚えなので,細部は各自確認していただくとして,だいたいこんな感じの筋書きである。以前,これに週刊ダイヤモンド誌のコラムが,イギリスの教育改革の事実認識が間違っていると噛みついたりした。また,この著書にしても,安倍氏の発言にしても,問題を総花式に並べているに過ぎず,まだまだ詰めが甘いという記事を掲載しているのは,今週号の読売ウィークリー誌である。そこでは教育バウチャー制度について,教育関係者のコメントを扱っている。
私の感想を代弁してくれている気持ちの良い記事が,今週号(10/16号)のプレジデント誌に掲載されている。特集は食傷気味になっている「大学と出世2006」であるが,それはおいといて。
神戸大学の加護野忠男氏のコラム「経営時論」は「パロマ事件の根底にある「二つの逆説」」という題目。企業の製品不良問題に関して,なぜこうした問題が起こるのかを考察している。そして加護野氏はそこに二つの逆説が関係しているのではないかというのである。
一つ目は,製品の品質が向上したことによって不良問題が引き起こされるという逆説である。日本製といえば世界でもトップの製造品質を持つと言われてきた。それ故に出来た製品の使用年数はおのずと長くなっていく。このことが耐久年数を超えているにもかかわらず部品交換や買い換えもせず,そのまま使う風潮を生む。市場で大量に使われ続けている古くなった製品の故障件数が高まってしまうのは,当然の結果という理屈である。
日本のメーカーは,この情報時代に合わせて従来のアフターサービスの考え方や枠組みを変えなければならなかったにもかかわらず,その製造と製品の品質の高さゆえに必要性に迫られず,その努力を怠ったというわけだ。それが表面化したのが不良問題というわけである。
二つ目は,厳格なルールによる「現場力の低下」という逆説。様々な問題が起こり,社会の目が厳しくなる中,企業も様々な対応を迫られる。危機管理がしっかりしなければならないといわれれば,危機管理ルールをつくり徹底していく。この調子で,様々なルールができて現場を縛り始める。しかし本来,ルールが厳しすぎると現場は仕事がやりにくい。厳格なルールは,「何もそこまで」ということまでルール化してしまうからだ。実際,厳格なルールを守らなくても仕事が回ることも多いし,守らない方が効率的だったりする。
そこで,現場は日常的な仕事の中では厳格なルールを守らなくなる。ルールがさらに厳しくなればなるほど守らなくなる程度は高まる。ルールを守らなくなった現場では,仕事をする上で本来守らなければならない最低限のルールさえ守れなくなる。よってすなわち,現場力はどんどん低下してしまい,不良問題へ繋がるというわけだ。
いや,私の拙いうろ覚え要約よりも,是非プレジデント誌の加護野氏の「経営時論」をお読みいただきたい。そして,私が教育政策について抱いている問題意識が,これに重なるということを理解していただけると思う。
安倍氏の著書には,ダメ教師は辞めてもらうと鮮やかに述べる文はあれど,教師の専門性を高める環境を創造するとか,教員養成・教師教育の条件整備を手厚くするとか述べる文はない。
(ちなみにその辺に関しては,雑誌フォーサイト誌(10月号)に教育評論家・森口朗氏「真に意味ある教員免許制度更新制にするために」という記事,教育とコンピュータ誌(10月号)に兵庫教育大学・梶田叡一氏へのインタビュー「教職大学院は制度として定着するか?」などがある。)
教育問題を政治主題にすることはある一面で歓迎すべき事だが,一方で,行政と現場との距離をさらに引き離すことになりはしないのか。たくさんの通達や方針といったルールが上から示されても,現場は対応しきれていない。対応しきれないけれども,日常が何とか回っている事実が恒常化すると,結局上からのルールも対応しなくてよいようになる。そんな事態に対して国がルールをきつくすればするほど,現場の対応力は落ちるというわけである。
そして日本の学校教育も,それを支えてきた教師たちも,品質がよすぎたのである。もうとっくにオーバーホール,もしくはフルモデルチェンジしなければならなかった職場環境だったにもかかわらず,そのまま頑張ったのである。頑張ってしまえるくらい人々は教育に力を注いできたのである。考えてもみて欲しい。社会がこんなにも変化しているにもかかわらず,学校の風景はほとんど変わっていない。職員室はあなたが記憶しているそのまんまである。
こんな風にしたのは誰なのか。いざ学校教育の疲弊が表面化すると,短期間で改革しようだなんてことでうまくいくものだろうか。教育の再生のつもりが,逆再生して古い議論を掘り起こして何になるというのか(追記:もちろん古い問題にもいろいろあるから,掘り起こす必要だってある)。
もっと現場に近いところに向けて耳を澄ませてみたならば,聞こえる声はもっと違うはずである。私たちは再挑戦のことよりも,いま眼前にしている挑戦にこそ可能性を見ようとしているのであるから。
長月23日目
秋分の日。出歩くと街では秋祭りが行なわれていた。そこにある公園にはステージがあって,いろんな催しが行なわれる。今夜も屋台が軒を連ねて,踊りやコンサートが展開していた。そういえば,この前はJazzの演奏会もあった。秋らしさも増して,ゆったり過したくなるひととき。
夕食代わりに屋台の焼きそばと地鶏の串焼きをいただく。この地鶏串焼きはジャンボサイズ。食べ応えもあり,ここはビールが欲しいところなのだが,祝い事もないので,やはり一人きりだと酒に手が伸びないのは相変わらず。不思議なものである。でもおかげで余計な酒代もかからない。
NHKの番組見てたら,先日放送局にお邪魔したとき待ち時間を過した控え室が画面に映っていた。時は違えど,自分もそこにいたと思うと,不思議な感じがするものだ。きっとミーハー心理が表に出てきているのだと思う。けれども,それだけではなくて,画面の中に映る控え室だけでなく,そこから外側についてまで(見たばかりだから)詳しく思い描けるという体験も,不思議さの一因である。
つまり,同じ情報量のものを見ても,解釈する側に備わる既有知識によって活性化する記憶や情報の量が異なるという,まあ当たり前のことを明示的に実感できる体験というのは,あらためて不思議なものだと思うのである。
○最近の新聞記事メモ
・昨年度児童の校内暴力が最多
・昨年度指導力不足教員506人
・認可保育所待機児童2万人切る
・日の丸・君が代違憲判決に東京都控訴の構え
・中川昭一氏を文科相に起用?
NIMEに出かける
今日はNIME(メディア教育開発センター)に出かけた。これは初めて訪れた。JR京葉線の幕張海浜駅まで電車に乗り,トコトコ歩いて行くと,放送大学と併設したNIMEがある。
幕張というと「幕張メッセ」があり,今日もゲームショーが催されていた。そちらは人も多そうだったが,NIMEがあるのは反対方向。午前中ということもあって,人影少なく閑散とした雰囲気。そんなところにNIMEはある。(ちなみに,ゲームショーに行ったりなんか,絶対にしてないんだから…。ホントなんだから。)
今日は短期でいただいたお仕事の初打合せ。調査分析のお仕事である。仕事を通して勉強もできるし,いくらかの収入もいただけるのは有り難い。こうやって新しい領域で下積みさせてもらうことも,そう簡単にはやらせてもらえないから,お声掛けいただいたことは嬉しいことである。
お題は教員研修に関すること。書いてよいことと書いてまずいことの見極めがもう少しクリアになったら,いま自分が関わりつつある様々なお仕事にまつわることがらを書きたい。とにかくいまはたくさんの人と出会って,たくさんの出来事に触れて,少々まとめ切れていないのだ。
頑張らなきゃいけない。そういうシチュエーションだけれど,最近おしゃべりの中で,頑張らなくてもいいとも言われた。そう言われて,自分のやり方で普段通り当たればいいのかとも思う。もっとも,私の場合,それが頑張っちゃっていることなのかも知れず,まあ,なんというか,自分が嬉しかったり楽しかったりすれば,それはそれでいいのか,と開き直るしかなかったりするのであった。
NHK見学
今日,NHKへ社会見学に行った。お友達になったNHKの方に案内をお願いしたのである。NHK訪問が初めてというわけではないが,局の中をちゃんと案内してもらうのは初めて。とても興味深かった。
スタジオではいろんな番組の収録が実際に行なわれていたし,NHK少年少女合唱団とすれ違ったり,アーカイブズを覗かせてもらったりと,とても面白かった。華やかな表舞台を支える裏方世界の雰囲気をたっぷり味わった。
いまNHKは厳しい視線に晒されている。公共放送としての在り方とか,個々の職員さんたちの意識や倫理観など,あれこれ言われたりもする。けれども,もう一方で,放送事業を現場で支えることの大変さと,その中で真摯に頑張っている人たちのことをもっと理解すべきだと思う。改めてそう思った見学だった。
またお邪魔しようと思う。
政治の季節
積み残しの宿題に難儀しているこの頃,どうも自民党総裁選の論戦のせいで,いつにも増して教育が政治議論のまな板に乗っているらしい。教育基本法改正のため,外堀を埋める作業がせっせと進んでいるみたいだ。
・教員免許の更新制度導入 〜これはもう既定路線だ
・学校,教員の評価の仕組み構築 〜学力テスト問題という壁が待っている?
・教育バウチャー制度 〜どの学校段階や単位に,どう導入するの?
・大学9月入学 〜卒業は?年度の文化と折り合い付くかな?
決して目新しい項目群ではないけれど,それだけ難題で積み残されてきているということでもある。それにしても,そろそろ教育行政施策が政治議題として真剣に取り上げられるようになってきたのだろうか。それとも,教育基本法から日本国憲法へと続く,改憲のための通過点としてしか考えられていないのだろうか。
今一度,この国の教育問題を総ざらいして俯瞰出来るようにしないと,個別話題に目を奪われて訳が分からなくなりそうだ。その上で,正直なところ,何も言わずにお金を差し入れて,そっとしておいてくれれば,現場の底力を出せる機会が訪れると思うのに…。(追記:もっとも,こんな風に書くと誤解されるとは思う。今月号の『プレジデント ファミリー』の特集は,とうとう「担任教師の能力判定」というテーマである。何も言うな信用しろとは,言えなくなってきたご時世なのは承知している。)
学習科学研究会
昨日は,学習科学に関する文献を講読する研究会に参加した。やはり議論や対話のある場で勉強するのは面白いし楽しい。
学習科学に関する文献は『The Cambridge Handbook of Learning Science』というハンドブック。これを実質3日で読み終えたことになった。英語文献もみんなで読めば怖くないし大変勉強になる。内容豊富な文献で,正直なところ学習科学の様々な立場が入り乱れて語りかけてくるので,舞台裏についてガイドがないと俯瞰図を描くのはなかなか難しいが,それでも得るものは多いと思う。
なかはらさんのエントリーに「知識統合」と「知識構築」に関する大変興味深い議論が記録されている。私もこの件は,新聞記者のごとく,関心を持って大学ノートにメモを取っていた。
大雑把な構図の次元ということを断った上で,この「知識統合」と「知識構築」に関する概念の対比は,私を含めて日本の教育実践の世界に引き寄せて考えがちな人々には,「系統主義(系統学習)」と「経験主義(発見学習)」の対比を想起させるのではないだろうか。カリキュラム分野に造詣のある人は,「工学的接近」と「羅生門的接近」の対比を思い浮かべるかも知れない。
子細な部分についての差異はあれど,大きな問題構図は学習科学の場にも現れていたのだと分かる。そこから,この比較的新しい学問分野を受容する道筋もあるのではないかと思う。
けれども,日本の文脈から学習科学の知見を眺めると,「日本の教育実践ではすでに日常的にやっている」事柄を学術的に論じているだけではないかと感じるものも多い。現場の教師にとっては,受け継がれてきた教育実践のノウハウを,個別バラバラな子どもたちの現実にどう活かしていくのかということが最大の関心事。一歩手前にあるノウハウの言語化や体系化に関して,その重要性は表面的には理解できるとしても,そこへ戻ってどうこうすることまではしようと思っていない傾向にある。ラーニング・デザインやインストラクショナル・デザインを日本に導入していこうとする際の困難は,そんなところにあったりする。
しかも,一歩手前の事柄に関して,学習科学だろうとなんだろうと提案を通そうとすれば,おのずとトップダウンの形になる。そして日本の教育現場はトップダウンだと言うことを聞いてくれない場合も多い。(e-Japan戦略と教育の情報化のお話を思い出せば,「違う」とはいえないよね,ねっ。もっとも,この場合は地方自治体が言うこと聞かないのか…。)
学習科学を導入するメリットは,学習に関する共通言語によって実践を語れるようになるからである。日本の教師たちが受け継いできたものを世界に開くためにも,また世界の知見を日本の現場に持ち込むためにも,そのチャネルは確保することが大事になってくる。これまではともかく,これからは,現場にとっても世界は無視できない。
日本で学習科学に対する理解を得るためには,日本の教育実践を学習科学の知見で解説していく試みを増やしていく必要があると思う。以前も書いたが,長野県の伊那小学校には優れた総合学習の実践がある。これは学習科学における「知識構築」の立場に近いと思うし,興味深い題材になるはずだ。しかも,伊那小学校の実践は,教科の学習との関連性についても考えるため,「知識構築」と「知識統合」のハイブリッド実践ともいえる。
駄文の結論は前回と似たようなものだが,日本の教育研究はまだまだ盛り上がる余地があると思ったし,そういう研究の意欲をかき立てるようにしていくのも私たちの役目なのかなと思う。そうそう,教育フォルダの目指すところは本来それでした。初心忘れるべからず。
忘れられない事
あの事件が起こったとき,私はラジオを聴いていたのだろうか。記憶に自信がない。とはいえ,ラジオからそのニュースを得ようとしていたのは憶えているし,CNNのWebサイトを注視していたことはよく憶えている。
それから数ヶ月後に,個人的な失敗をしてしまい,それをきっかけにニューヨークへ行くことを決心する。事件からちょうど一年後,私は初めて訪れたニューヨークで黙とうをしていた。
それからは,少しでも世界的な視野というものを意識しなければならない,そう思ってきた。けれども,自分の能力の乏しさが足かせになって,どうもうまく出来ていない。世界のことを知っていくのは大事だけれども,世界の中のこの国を足場にやるべきことがたくさんある。そう思うと,いつもの悪い癖で丁寧さがどこかへ飛んでしまう。
あれから歳月が流れて,世界はますます混とんとしてしまったようにも思う。だというのに,日本の私たちの生活はどことなく変わらないようにも見える。緩衝材に守られ慣れたこの社会は,緩衝材が擦れて破れた事態に対応することが出来るのか。一日一日,その日がやって来ることを不安に思いながら生活をしている。
それでも,教育の世界は,現実の先に希望を折り込まなければならない世界。少なくとも子どもたちが現実を自ら感知して判断を下せるところまでは,可能性を語らなければならない世界。目をつむれというわけではない,幻想を見ろといっているつもりもない。どんな形にしろ,自分を語っていく努力を続けなければならないということだと,いまのところ思っている。
911。人々が空を見上げてから,5年である。
忘れっぽさの功罪
褒められたことではないとお叱りを受けそうだが,私は「忘れっぽい」。忘れっぽさにも程度が様々あるので,可愛げのあるものから罪作りなものまで,ひと括りには出来ないが,ちょっとマイナスなイメージはあると思う。なにしろ忘れちゃうんだから,記憶からのマイナス作用にも見えるし。
実際,忘れっぽいと,困る場面が多い。学校の勉強に関してはかなり参った。細かい知識が頭に留まらないのである。だから,暗記ものの代表格である歴史事象の年号記憶は,右から左。「鳴くよウグイス」が平安京だったか平城京だったかも,忘れちゃってるわけだ。
英単語に関してはポロッポロッ,ポロッポロッ忘れていく。いま調べたばかりの単語も「あれ?なんだっけ」である。Webの英文を読む時には,Google辞書や英辞郎サマサマである。辞書引きが,もうちょっと語形変化に柔軟に対応してくれると有り難いけど…。
これだと,わたくしバカちんになってしまうので(実際そうかも知れないが…),忘れない物事もあるのだと一応釘を刺しておきたい。けれども,大方忘れっぽいのは,そういう細かいことに関心が薄いということなのだと思う。たぶん大雑把でプラグマティックな人なんだ,私は。
一方で,忘れっぽいのは,悪いことばかりではない。私にとっては,繰り返し勉強しなければならないという必然を生み出したことで大いに意味がある。結局,記憶に定着させるには,本質から理解しなければならなくなったということだ。だから,習得にやたらと時間がかかる。「記憶」する場面で「理解」しようとしているのだから,そりゃそうだ。
ただ,そうなると今度は,表面的な具体事象が大したことに思えなくなってくる弊害もある。いくらか背景や構図,構造や仕組みが見えると,類推から落とし所も見えてきたりする。そうするとまどろっこしい部分を省きたくなるのだ。それやって,大失敗したことも数多いし,最近では歳もとってきたから,まどろっこしさも大事だなと思うけれど…。
とにかく,知識を得るという場合に,表層的な記号の獲得と状況依存した意味の理解という大きく2つにわける考え方があるが,私の場合,後者を迂回したい質なのだと思う(ちなみに迂回することと,達成することとは違う意味なので,私の場合,忘れっぽいのはどっちでも変わらないのだと思う,ははは)。
非効率この上ないのはさて置くとして,毎度新たに学び直すというのは,主に時間の経過のおかげで,新たな発見をもたらす良い側面もある。自分の書いた手紙や文章も少し時間を置いて読み直したりすると良いように,時間を置いてから知識に再訪するのは新たな解釈や深い理解を生む良い効果をもたらしてくれる。
あるいは間違った理解から,より妥当な理解に近づいた学び直しが出来る場合もある。そう思うと,一度,どばぁ〜と物事を忘れ去ってみるのも悪くない。俗にいう「リセット」である。
どっちにしても関心が薄かったり,向け忘れたりすると,物事忘れるらしい(関心を向け「忘れた」ってのは,単なる間抜けだというお話なのだが…)。それには功罪あるということなのだ。
で最近,久しぶりにプログラミングの勉強をし直しているのである。前からMacOS Xでプログラミングしてみたいと思って,ちょこちょこ文献を揃えたり,ドキュメントを参照していた。集めながら斜め読みしている時は,トンチンカンに思えたのだが,間を置いてから改めて読んでみると,なるほど分かりやすい。
これはプログラミングのことだけじゃなくて,学術文献読む時にも,先入観を持たないことがスムーズな理解につながることがある。それは表層をなでているだけなのかも知れないし,もしかしたらスッと理解に至っているのかも知れない。まあ,結局どっちでもいいのかも知れない,私って奴は。
時間を超え場所を越え
米Googleが,過去200年以上に遡る各種新聞雑誌記事を検索対象とするサービスを開始した。記事によっては,本文全文を閲覧するのに有料の場合もあるが,複数の新聞雑誌の過去記事を横断的に無料検索できる時代になった。10年前は,こんなことをするのに高い料金が必要だったのである。
Googleが世界中の情報を検索出来るように猛進している成果が,またここに日の目を見たわけだ。図書館の蔵書の本文を検索できるようにしたりする試みも物議を醸したのは記憶に新しい。著作者利権との衝突はあるだろうが,なるほど,あらゆる情報が端末から検索でき,有料だろうが無料だろうが,何らかの形で手に入ることは利用者には有り難い。そこまでの目処が立ったら,Googleが情報課金して著作者へと還元する仕組みも現実味を帯びるのだろうか。EPICか…。
もっともYouTubeに見られる動画投稿の氾濫ぶりを見ていると,すべてをネット上に持ってくることには限界もありそうだ。検索が前提とする平板化だけではビジネスは成り立たない。何らかの囲い込みが保証されないとうまくいかない。
それにしても,こういうニュースに触れるたび,日本の英語教育戦略をどう組み立てればいいのか,悩ましい。もしも小学校段階における教育現実がもっと信頼される程度に認識されていれば,小学校への英語科目導入はそんなに問題視されなかったのではないか。
ところが,現場の努力とは裏腹に義務教育への信頼は低減していたし,そもそも国は教育施策をないがしろにしつづけてきたわけだから,そこに新たな負担やコストをかけるような施策を打ち出しても,誰も安心してうなずくわけがない。要するに,日頃の行ないが悪い人の言うことは信用されないのと同じ理屈である。
先日,英国との国際交流学習に関する実践の報告をBEATセミナーで聞いた。Japan UK LIVEという名のプロジェクトである。そのプロジェクトを支えている組織では,Webとメーリングリストで日本とイギリスの学校交流を取り持っている。
このプロジェクトの素晴らしいところは,10数名もの翻訳チームを抱えて,日英の学校のやりとりを翻訳支援する点である。つまりWebもメールも二カ国語。自国語で海外の学校と思いきり交流できるのである。たまにビデオチャットでリアルタイムの交流をする際にも,オンラインで同席して通訳してくれるという手厚さ。
発表していた現場の先生の言葉に目からうろこが落ちた。曰く「国語科で国際交流学習ができる」。これまで国際交流といえば英語科の領域か,総合的な学習の時間とか全学的な取り組みみたいなものになりがちだった。ところが,このプロジェクトの手厚いサポートのおかげで,ごく普通の国語の授業で,海外の学校と交流できるのである。
もちろん英語を習得して直接やりとりできれば,また違った交流の展開もあり得るだろう。けれども,つたない言語能力で交流するよりも,まず言語の壁を乗り越える仕組みを確保して,思いきり交流させたなら,逆に外国語習得への意欲が増すのではないだろうか。
早期の言語習得は,子どものもつ好奇心と習得能力の高さを利用して,自然習得に近づけることを目指している。それも一つの方法だし,小学校への英語科目導入もその路線なのだろう。
けれども一方,国際交流によって外国語習得への意欲を十分に高める,能動的な習得を企図するやり方もあるだろう。その場合は,むしろ現在の中学高校の英語教育をより重点化していく路線もあり得る。
正直なところ,英語教育の議論において,こんな単純な二者択一の選択肢さえ国民には明確に提示されていないのである。日本の英語教育をどう舵取りすべきなのか。それは単に学問的な適否だけではなく,こんな世の中で日本という国をどうしたいのかという国家戦略の話でもある,つまり,困難が伴おうと必要だから「やるの?」,それとも問題多いから「やらないの?」ということを選択する話なのだ。(もちろん,どんな結論を出すにしても,学問的なり事実的なり実態把握や考察を踏まえなければならないことは言うまでもない)
とはいえ,英語に関していえば,こんなに必要性を感じるようになったのは,やはりインターネットの普及のせいである。10年以上前に英語教育を受け終わってしまった私のような人間は,日常にこんなに英語がなだれ込んでくるとは思わなかった。せいぜい,好奇心旺盛な子が,エアメール(郵便)で海外の子と文通するときに英語が必要になるだろうと思う程度だ。当時の英語の先生たちにしても,こんな大変化を予想だにしなかったに違いない。そして今日,現場で英語の先生をしている方々は,大変な立場に置かれているということになる。逆にいえば,それにも関わらずのんびりしている英語の先生は非難の対象に晒されるわけだ。
200年分の新聞雑誌を検索できることにどれだけの価値があるかは利用の仕方次第。さらに,そういう情報に不自由なくアクセスできるかどうかという点で大きなハンデがあることをどう考えるべきか。あるいは,自国の文化を集大成するようなアーカイブを作るということにエネルギーを注ぐつもりはあるのか。選択肢は他にもたくさんあるが,これ以上,選択を遅らせることは,どれも選べなくなる可能性を高める。