時間を超え場所を越え

 米Googleが,過去200年以上に遡る各種新聞雑誌記事を検索対象とするサービスを開始した。記事によっては,本文全文を閲覧するのに有料の場合もあるが,複数の新聞雑誌の過去記事を横断的に無料検索できる時代になった。10年前は,こんなことをするのに高い料金が必要だったのである。
 Googleが世界中の情報を検索出来るように猛進している成果が,またここに日の目を見たわけだ。図書館の蔵書の本文を検索できるようにしたりする試みも物議を醸したのは記憶に新しい。著作者利権との衝突はあるだろうが,なるほど,あらゆる情報が端末から検索でき,有料だろうが無料だろうが,何らかの形で手に入ることは利用者には有り難い。そこまでの目処が立ったら,Googleが情報課金して著作者へと還元する仕組みも現実味を帯びるのだろうか。EPICか…。
 もっともYouTubeに見られる動画投稿の氾濫ぶりを見ていると,すべてをネット上に持ってくることには限界もありそうだ。検索が前提とする平板化だけではビジネスは成り立たない。何らかの囲い込みが保証されないとうまくいかない。
 それにしても,こういうニュースに触れるたび,日本の英語教育戦略をどう組み立てればいいのか,悩ましい。もしも小学校段階における教育現実がもっと信頼される程度に認識されていれば,小学校への英語科目導入はそんなに問題視されなかったのではないか。
 ところが,現場の努力とは裏腹に義務教育への信頼は低減していたし,そもそも国は教育施策をないがしろにしつづけてきたわけだから,そこに新たな負担やコストをかけるような施策を打ち出しても,誰も安心してうなずくわけがない。要するに,日頃の行ないが悪い人の言うことは信用されないのと同じ理屈である。
 先日,英国との国際交流学習に関する実践の報告をBEATセミナーで聞いた。Japan UK LIVEという名のプロジェクトである。そのプロジェクトを支えている組織では,Webとメーリングリストで日本とイギリスの学校交流を取り持っている。
 このプロジェクトの素晴らしいところは,10数名もの翻訳チームを抱えて,日英の学校のやりとりを翻訳支援する点である。つまりWebもメールも二カ国語。自国語で海外の学校と思いきり交流できるのである。たまにビデオチャットでリアルタイムの交流をする際にも,オンラインで同席して通訳してくれるという手厚さ。
 発表していた現場の先生の言葉に目からうろこが落ちた。曰く「国語科で国際交流学習ができる」。これまで国際交流といえば英語科の領域か,総合的な学習の時間とか全学的な取り組みみたいなものになりがちだった。ところが,このプロジェクトの手厚いサポートのおかげで,ごく普通の国語の授業で,海外の学校と交流できるのである。
 もちろん英語を習得して直接やりとりできれば,また違った交流の展開もあり得るだろう。けれども,つたない言語能力で交流するよりも,まず言語の壁を乗り越える仕組みを確保して,思いきり交流させたなら,逆に外国語習得への意欲が増すのではないだろうか。
 早期の言語習得は,子どものもつ好奇心と習得能力の高さを利用して,自然習得に近づけることを目指している。それも一つの方法だし,小学校への英語科目導入もその路線なのだろう。
 けれども一方,国際交流によって外国語習得への意欲を十分に高める,能動的な習得を企図するやり方もあるだろう。その場合は,むしろ現在の中学高校の英語教育をより重点化していく路線もあり得る。
 正直なところ,英語教育の議論において,こんな単純な二者択一の選択肢さえ国民には明確に提示されていないのである。日本の英語教育をどう舵取りすべきなのか。それは単に学問的な適否だけではなく,こんな世の中で日本という国をどうしたいのかという国家戦略の話でもある,つまり,困難が伴おうと必要だから「やるの?」,それとも問題多いから「やらないの?」ということを選択する話なのだ。(もちろん,どんな結論を出すにしても,学問的なり事実的なり実態把握や考察を踏まえなければならないことは言うまでもない)
 とはいえ,英語に関していえば,こんなに必要性を感じるようになったのは,やはりインターネットの普及のせいである。10年以上前に英語教育を受け終わってしまった私のような人間は,日常にこんなに英語がなだれ込んでくるとは思わなかった。せいぜい,好奇心旺盛な子が,エアメール(郵便)で海外の子と文通するときに英語が必要になるだろうと思う程度だ。当時の英語の先生たちにしても,こんな大変化を予想だにしなかったに違いない。そして今日,現場で英語の先生をしている方々は,大変な立場に置かれているということになる。逆にいえば,それにも関わらずのんびりしている英語の先生は非難の対象に晒されるわけだ。
 200年分の新聞雑誌を検索できることにどれだけの価値があるかは利用の仕方次第。さらに,そういう情報に不自由なくアクセスできるかどうかという点で大きなハンデがあることをどう考えるべきか。あるいは,自国の文化を集大成するようなアーカイブを作るということにエネルギーを注ぐつもりはあるのか。選択肢は他にもたくさんあるが,これ以上,選択を遅らせることは,どれも選べなくなる可能性を高める。